27話 悪意の親玉②
ヴァルグレムは低く笑った。
「……なるほど。面白い」
その体から黒い霧が噴き出す。
傷が塞がる。
折れた鱗が再生する。
港の人々の顔が青ざめた。
再生。
ヴァルグレムは立ち上がり、空を見上げる。
「では、遊びは終わりだ」
雲が渦を巻く。
海が逆流する。
港の沖合いから、巨大な黒い柱が何本も立ち上がった。
水ではない。
闇そのもの。
レナが震える声で言う。
「……まだ本気じゃなかったの?」
ノヴァは低く唸る。
理解した。
ここからが本番だ。
小さな体の奥で、さらに深い白光が脈打ち始める。
黒い柱が海から立ち上がる。
港の沖合いを埋め尽くす、闇の巨塔。
空の渦雲と繋がり、夜そのものを引きずり出したような光景だった。
人々は言葉を失う。
衛兵の槍が震える。
漁師たちは後ずさる。
冒険者ですら青ざめていた。
レナがノヴァを見る。
「……止められる?」
ノヴァは答えない。
ただ静かに前へ出る。
港の騒音が、ふっと遠のいた。
波音。
風。
悲鳴。
すべてが薄れていく。
ノヴァの周囲だけ、世界が別の法則に置き換わったようだった。
小さな幼体の足元から、白い霜が広がる。
石畳。
瓦礫。
海水。
触れたものすべてが、音もなく凍っていく。
ヴァルグレムが目を細めた。
「……その力か」
ノヴァは空を見上げた。
次の瞬間。
咆哮。
それは獣の声ではなかった。
冬そのものの宣告。
白銀の衝撃が天へ走る。
渦巻く黒雲が途中で停止し、そこから一気に凍りつく。
雲が凍る。
空に浮かぶ巨大な氷塊へ変わり、月明かりを反射した。
続いて海。
沖合いから港まで、一面が白へ染まる。
荒れていた波が盛り上がった形のまま固まり、黒い柱ごと氷の山脈となった。
逃げ場はない。
闇も水も空気すら、凍結の領域に呑まれる。
ヴァルグレムが吠える。
黒炎を吐き、翼を打ち鳴らし、闇の魔力を爆発させる。
だが遅い。
炎は凍り、黒霧は雪となって砕ける。
翼の先から白く染まり、鱗の隙間へ霜が走る。
「ありえん……!」
巨竜が飛ぼうと跳ねる。
脚が地面へ縫い止められていた。
港の石畳ごと凍っている。
尾を振るう。
その尾も途中で止まり、巨大な氷像となる。
レナが息を呑む。
「……すごいなんてもんじゃない」
数秒後。
港町マリスの視界にあるものは、ほとんどすべて白かった。
海。
空。
黒い柱。
瓦礫。
黒竜ヴァルグレム。
巨大な竜は咆哮の姿勢のまま、完全に凍りついていた。
赤い瞳だけが、氷の奥でわずかに揺れている。
生きている。
だが動けない。
ノヴァはゆっくり近づく。
小さな足音だけが響く。
こつ。
こつ。
凍った世界の中心へ。
ヴァルグレムの目がノヴァを睨む。
憎悪。
驚愕。
そして、初めての恐怖。
ノヴァはその鼻先まで来ると、前足を上げた。
レナが思わず叫ぶ。
「またそれでいくの!?」
ノヴァは静かに振り下ろす。
ぺし。
小さな肉球が氷竜の鼻先に触れた。
次の瞬間。
全身に亀裂が走った。
巨大な黒竜像が、音を立てて崩れ始める。
ぱき。
小さな音だった。
だがそれは、山を割る最初のひびのように広がった。
ヴァルグレムの鼻先から走った亀裂は、額の角へ、首へ、翼へ、胴体へと一瞬で全身を巡る。
黒い鱗を閉じ込めた氷が、白くきしむ。
港中の人々が息を止めた。
ノヴァは前足を下ろし、二歩ほど下がる。
安全圏の確保である。
次の瞬間。
轟音。
巨大な黒竜の氷像が、内側から砕け散った。
翼は無数の氷片となって夜空へ舞い、胴体は山崩れのように崩落する。
角は砕け、尾は波のように割れ、港の石畳へ降り注いだ。
人々が悲鳴を上げ――すぐにそれが歓声へ変わる。
「倒したぞ!」
「竜が砕けた!」
「白いのが勝った!」
レナは両手を上げた。
「やったぁぁ!」
だが。
ノヴァは動かなかった。
視線は、崩れた氷塊の中心。
まだ終わっていない。
砕けた氷の山の奥。
赤い光が脈打っていた。
どくん。
どくん。
まるで心臓。
拳大の赤黒い結晶が、氷の中で鼓動している。
周囲の氷がじわじわ黒く染まり、砕けた鱗片が引き寄せられていく。
レナの顔色が変わる。
「再生する気!?」
黒い鱗。
骨。
肉。
竜の体が、結晶を中心に再構築され始める。
港の歓声が凍りついた。
結晶から声が響く。
「見事だ……白き核よ」
ヴァルグレムの声。
だが姿はまだない。
「その力、確信した」
「貴様こそ、我らが求めた器……」
ノヴァの耳が寝る。
またその話。
本当にしつこい。
レナが剣を構える。
「説明してもらうわよ!」
「”我ら”って誰!?」
結晶は笑うように明滅した。
「天蓋の向こうに座す者たち」
「そして、その末席たる我ら眷属」
意味が分からない。
だが、ろくでもないのだけは分かった。
ノヴァはゆっくり近づいた。
結晶はまだ喋る。
「貴様を回収し――」
ぺし。
前足が結晶を叩いた。
言葉が止まる。
レナが吹き出しそうになる。
「会話の途中でそれやる?」
ノヴァはもう一度前足を上げる。
結晶が慌てて叫ぶ。
「待て!」
ぺし。
ひび。
「やめろ!」
ぺし。
さらにひび。
「交渉を――」
ぺし。
粉砕。
赤黒い結晶は、三度目で耐えきれず砕け散った。
光が霧のように消える。
黒い再生体も、その場で崩れ落ちた。
完全沈黙。
空を覆っていた凍雲が晴れ始める。
月が戻り、星が見えた。
凍っていた海面は静かに溶け、白い霧となって流れていく。
人々はしばらく呆然とし、それから一斉に歓声を上げた。
「マリス万歳!」
「白き守護者万歳!」
「魚だ!祝いの魚を焼け!」
最後の掛け声が一番大きかった。
ノヴァの耳が立つ。
レナは笑った。
「やっと反応したわね。まったく、食い意地ばかり張ってるんだから」




