26話 悪意の親玉①
黒い影が高度を下げる。
巨大な翼が夜空を覆い、ひと振りごとに海が波立つ。
長い尾。
漆黒の鱗。
山のような体躯。
そして額には、赤い宝石のような角。
黒竜だった。
しかも、ただの竜ではない。
見ているだけで空気が重い。
呼吸しづらい。
本能が警鐘を鳴らす。
港の人々が悲鳴を上げて逃げ始める。
黒竜はゆっくり港の上空で停止した。
赤い瞳が、防波堤のノヴァを見下ろす。
そして口を開く。
「見つけたぞ」
低く響く、人語。
レナが目を見開く。
「しゃべった……!」
ノヴァは思った。
最近、しゃべる敵ばかりで疲れる。
黒竜は翼を広げたまま告げる。
「我が名はヴァルグレム。セレス、ミレア、ネヴィア……そしてラズの主たる者」
レナの顔色が変わる。
「やっぱり親……!」
ヴァルグレムは鼻で笑う。
「そうだ。親だ」
意味の分からないことを言いながら、その視線はノヴァから外れない。
「白き核。ようやく見つけた」
ノヴァの耳が寝た。
また変な呼び方である。
レナが叫ぶ。
「避難を急いで!」
港の鐘が鳴らされ、人々が街へ走る。
その瞬間。
ヴァルグレムの口元に黒い光が集まった。
レナの背筋が凍る。
「ノヴァ!」
黒竜が吐き出したのは、炎ではなかった。
闇の奔流。
黒い熱線が防波堤を薙ぎ払う。
石壁が蒸発し、海が割れる。
ノヴァはレナを突き飛ばし、自分も跳ぶ。
直後、いた場所が消えた。
爆音。
港の端が丸ごと抉られる。
人々が絶叫した。
衛兵隊。漁師。冒険者。
街中から武器を持った者たちが集まり始める。
弓兵が矢を放つ。
魔術師が火球を撃つ。
漁師が銛を投げる。
だが。
矢は鱗に弾かれ、火球は霧散し、銛は刺さりもしない。
ヴァルグレムは退屈そうに見下ろした。
「塵が」
翼を一振り。
暴風で全員が吹き飛ぶ。
レナが歯を食いしばる。
「格が違う……!」
ノヴァも理解していた。
今までの敵とは別次元。
黒竜が高度を下げ、防波堤跡へ降り立つ。
地面が沈む。
その前にいるのは、小さな白い幼体フェンリル。
体格差は家と石ころほど。
レナが叫ぶ。
「戻って!」
ノヴァは動かない。
ヴァルグレムは顔を近づけ、巨大な瞳で見つめる。
「未熟なままか」
「ならば今ここで喰らう」
巨大な顎が開く。
闇より深い口内。
ノヴァは静かに前足を踏み出した。
逃げない。
その体の奥で、白い光が灯り始める。
レナが息を呑む。
「……またやる気?」
ノヴァの瞳が冴える。
相手が竜だろうと。
世界級の化け物だろうと。
ご飯の邪魔をするなら同じことだった。
次の瞬間、港町マリス全体を白光が包み込んだ。
白光が港町マリスを包んだ。
家々の窓。
港の帆柱。
海面。
逃げ惑う人々の影。
すべてが一瞬、昼のように照らされる。
レナは腕で顔を庇いながら叫んだ。
「ノヴァ!」
ヴァルグレムは巨大な顎を止め、目を細める。
「……ほう」
その白光は、攻撃ではなかった。
ノヴァの体から溢れた純粋な魔力。
限界まで圧縮され、周囲へ漏れ出しただけの前兆。
まだ本命はこれからだった。
ノヴァの足元に霜が広がる。
防波堤跡の石が凍り、海面に白い筋が走る。
空気が震え、潮風が止まる。
小さな幼体の輪郭が揺らぎ始めた。
レナが息を呑む。
「……え?」
毛並みが逆立ち、白銀の光が体表を走る。
背中から氷の粒子が噴き上がり、尾は長く鋭くしなる。
大きくなっているわけではない。
それでも、存在感だけが何倍にも膨れ上がっていく。
幼体のまま。
だが“格”だけが覚醒していた。
ヴァルグレムの赤い瞳が初めて揺れる。
「その姿……!」
ノヴァは一歩進んだ。
その一歩で、防波堤跡から海まで一直線に凍る。
二歩目。
海上に氷の道が生まれる。
三歩目。
もうヴァルグレムの眼前だった。
速い。
巨竜の瞳が追いつかない。
ノヴァの前足が、鼻先へ叩き込まれる。
ぱぁん!
乾いた音。
ヴァルグレムの巨体が横へぶれ、港の倉庫へ激突した。
建物が三棟まとめて吹き飛ぶ。
街中が静まり返った。
レナが呟く。
「……ぺし、で竜が飛んだ」
瓦礫を押しのけ、ヴァルグレムが立ち上がる。
額の角から黒い火花が散る。
「貴様……!」
怒声だけで空気が震えた。
翼を広げ、上空へ跳ぶ。
そのまま急降下。
山が落ちてくるような質量。
ノヴァは動かない。
ぎりぎりまで引きつける。
そして横へ半歩。
ヴァルグレムは地面へ激突し、港の石畳が陥没した。
ノヴァはすれ違いざま、首筋へ牙を突き立てる。
黒い血が飛ぶ。
巨竜が絶叫した。
逃げていた人々が振り返る。
衛兵たちが立ち上がる。
漁師たちが拳を握る。
冒険者たちが武器を構え直す。
「やれるぞ!」
「白いのが押してる!」
「援護しろ!」
弓矢。魔法。銛。
今度は意味があった。
ノヴァが作った隙へ、一斉に攻撃が集中する。
ヴァルグレムの鱗に細かな傷が増えていく。
レナも走った。
「私も混ぜなさい!」
彼女の剣が、竜の前脚の関節へ深く刺さる。
ヴァルグレムが膝をついた。




