悪意で満たされた兄妹
市場の方角。
人々が逃げてくる。
「化け物だ!」
「井戸から手が!」
「誰か引きずり込まれた!」
レナとノヴァは同時に駆け出した。
市場広場。
中央の井戸が割れ、黒い泥が溢れている。
そこから何本もの腕が伸び、人々を捕まえようとしていた。
ミレアの時と同じ。
だが今回は規模が違う。
井戸だけではない。
路地の排水溝。噴水。地下水路。
街中の水場から、同時に黒い手が湧き出している。
「街全体が召喚陣……!?」レナが叫ぶ。
ノヴァの毛が逆立つ。
三日後ではなかった。
今日だ。
騙された。
レナが剣を抜く。
「ノヴァ! 人を助けるわよ!」
ノヴァはすでに走っていた。
露店の屋根を跳び、黒い腕へ飛びかかる。
噛み砕く。
別の場所で子どもが泣いている。
屋台から屋台へ跳び、腕を爪で裂く。
老夫婦が転んだ。
冷気を吐き、地面ごと黒泥を凍らせる。
次々に助ける。
だが追いつかない。
街が広すぎる。
敵が多すぎる。
その時、鐘が鳴った。
塔の上から衛兵隊が叫ぶ。
「全市民、中央広場へ避難しろ!」
指揮は早い。
まだ終わっていない。
レナがノヴァへ叫ぶ。
「私は南区画へ行く! あなたは北をお願い!」
ノヴァは一瞬だけ頷き、石畳を蹴った。
北区画。
人気のない裏通り。
黒い腕の出現が、ぴたりと止んだ場所があった。
中央に立つ影。
丸眼鏡のギルド長。
先ほどの痩せた男だった。
だが今は姿勢が違う。
背筋は伸び、口元には笑み。
眼鏡を外し、捨てる。
その瞳は、赤かった。
「ようこそ、白い神獣」
男の皮膚がひび割れ、仮面のように剥がれ落ちる。
中から現れたのは、黒衣の青年。
整った顔。
冷たい笑み。
そして、ミレアと同じ赤い瞳。
「妹が世話になったね」
ノヴァは低く唸る。
ノヴァは心の底から思った。
――帰ってほしい。
青年セレスは笑みを深めた。
北区画の裏通りは、不自然なほど静かだった。
さっきまで響いていた悲鳴も、黒い腕のうねる音も、ここには届かない。
まるでこの一角だけ、街から切り離されているようだった。
ノヴァは低く唸る。
目の前の青年――セレスは、穏やかな笑みを崩さない。
黒衣を整え、舞台役者のように一礼する。
「僕はセレス。君を迎えに来た」
そして続けた。
「君の“中身”ごとね」
ノヴァの耳がぴくりと動く。
またその話か。
正直、しつこい。
ノヴァは前足で地面を叩いた。
ばし。
興味なし。帰れ。
セレスは一瞬きょとんとし、それから肩を揺らして笑った。
「噂以上に面白いな、君」
ノヴァは走った。
会話終了である。
白い影が一直線に迫る。
石畳を砕く踏み込み。
小さな体からは想像もつかない速度。
セレスの喉元へ、牙が伸びる。
――だが届かない。
ノヴァの前に、黒い壁が生えた。
影。
地面から立ち上がった闇が盾となり、牙を受け止める。
ぎり、と火花のような音が鳴る。
ノヴァはすぐ離脱。
右へ回る。
横腹へ爪。
また影。
今度は槍のように突き出される。
ノヴァは身をひねってかわし、壁へ着地した。
壁蹴り。
天井代わりの屋根へ跳び、上から急襲。
セレスは手を一振りした。
屋根そのものが黒く染まり、ノヴァの足場が崩れる。
落下。
だが着地前に身を丸め、転がって衝撃を逃がす。
セレスが感心したように拍手した。
「素晴らしい反応速度だ」
ノヴァは思った。
うるさい。
セレスはゆっくり歩きながら言う。
「君は気にならないのかい?」
影が蛇のように周囲を這う。
「どうして人の記憶を持っているのか。
どうしてフェンリルなのか。
どうして幼体のままなのか」
ノヴァの瞳が細くなる。
たしかに、分からないことは多い。
だが。
今それを聞いて、何になる。
腹はふくれない。
誰も助からない。
ノヴァは鼻を鳴らした。
セレスは少しだけ残念そうな顔をした。
「君は本当に変わってる
普通なら、自分を知りたがるのに」
ノヴァは地面を蹴った。
二度目の会話終了である。
今度は正面からではない。
左へ走ると見せて、右へ。
右へ跳ぶと見せて、真下へ。
小さな体だからできる急制動。
セレスの影槍が空を裂く。
その隙に懐へ。
胸元へ爪。
布が裂け、薄く血が走る。
初めてセレスの笑みが消えた。
ノヴァはさらに追撃。
前足で顔面を狙う。
セレスは後退しつつ、指を鳴らした。
裏通り全体の影が膨れ上がる。
壁、屋根、樽、窓枠。
ありとあらゆる影から黒い腕が伸びた。
数十本。
ノヴァは囲まれる。
腕が一斉に掴みかかる。
ノヴァは深く息を吸った。
肺が冷える。
血が冷える。
魔力が巡る。
そして、咆哮。
白銀の衝撃が放たれた。
音ではない。
冬そのもの。
黒い腕が凍り、砕け、裏通りの石畳まで霜に覆われる。
窓ガラスが白く曇り、空気がきしむ。
セレスが初めて目を見開いた。
「……なるほど」
「本物か」
ノヴァは低く構える。
毛並みの一本一本が逆立ち、蒼い瞳が冴える。
小さくても。
幼くても。
この名は伊達ではない。
セレスの周囲に黒い輪が浮かぶ。
影が足元から立ち上がり、彼の背後で巨大な獣の形を取った。
狼にも竜にも見える異形。
「なら、こちらも礼を尽くそう」
黒獣が咆哮し、建物の壁が弾け飛ぶ。
ノヴァは即座に跳ぶ。
直後、いた場所が闇に呑まれた。
石畳ごと消えている。
危険。
今までの相手とは格が違う。
その時、遠くから爆音が響いた。
南区画。
レナのいる方角だった。
ノヴァの耳が立つ。
セレスはその変化を見逃さない。
「心配かい?」
「大丈夫。彼女の相手は、妹がしている」
赤い瞳が愉快そうに細められる。
「君がここで負ければ、街も彼女も終わる」
ノヴァの中で、何かが静かに冷えた。
怒りだった。
小さな前足が石畳を掴む。
次の瞬間、白い稲妻が走る。
セレスの視界から、ノヴァが消えた。
そして彼の頬に、鋭い痛みが走った。
血が散る。
ノヴァは背後に着地し、振り向きざまに牙を剥く。
――私を煽ってるの? なら煽る相手を間違えたね。




