蝶カッコいいパリス様が出てこない代わりに仮面の話
パリスが人間であった頃の世界で古代ギリシャでは仮面とは仮面の主そのものであった。
神の仮面を被ればそれはもう神の仮面をつけた役者ではなく神そのものなのだ。
人が仮面を付けて演じること以上に、仮面の持ち主の為に役者が動くのだ。
仮面はデフォルメされた象徴ではなく存在定義そのものであった。
ギリシャだけではない。日本でもそうであった。
流石に中学生以上なら『能』という言葉ぐらいは効いたことがあるはずだ。
役者の中には役になりきる者もいれば役を演じながら自分の味を出すというものもいるであろう。
その特性上仮面は演劇用だけてなく呪術的な側面も強い。
節分や般若の面を祭った社などがその典型的な例の一つである。
それでも、今ではもっぱら純粋な演劇や遊戯の色が強くなってしまっている。
話は変わるが人は誰しも仮面を被っている。教師の前で被る仮面。友達の前で被る仮面。
先輩の前で被る仮面、部下の前で被る仮面。家族の中で被る仮面。実に様々な仮面を人は使い分けている。
別にそのこと自体を非難するわけではない。特に日本においては状況に合わせた対応が迫られる。
例えば息子に対するような態度をお客さんに向けたりするようでは営業はできない。
誰しも心にいくつもの仮面を抱えているのだ。
ある意味女性が化粧をするのも外行きの自分を作るという意味では2重の意味で仮面を被っていると言える。
その意味では整形も同様の意味で仮面と言えるだろう。
本来の自分ではない見た目とそれに伴う精神性を持てるのだから。
綺麗になって自信ができればそれまではみっともなくてできなかったことが急にできたり、
周りの対応が変わることにより自身の立ち位置も必然的に変わる。
ただ気を付けたほうがいい。その仮面は外すことができるのか?
仮面を被っているのではなく仮面に被られていないのか?
ミクロな世界でいえばいい人を演じているうちに周りのイメージに縛られていい人から抜け出せなくなった。
もしく悪いふりをしているうちに感覚がマヒして本物の悪人になってしまった。
簡単な気持ちで始めた習慣や趣味がもう自分の中で大きな立ち位置を占めてしまった。
中には誰かから譲り受けた正義や信念が呪いのように定着してしまったなんてのもある。
仮面をつけたとたんにまるで別人のように変わってしまう映画があった。
欲望という属性を前面に押し出した性格と強靭かつ出鱈目な肉体を持つ緑色の怪人に変貌する映画だった。
仮面をつけた自分もまた自分だと言えるが、
付けた仮面とその下にある皮膚の隙間が無くなってしまったとき、
もはやその仮面と装着者の間に距離は無い。
仮面をつけるものよ常に心せよ、
付けた仮面にとってかわられぬように。
仮面をつけたものよ常に自問せよ、
汝の意思は汝自身の意思なのかを。
強力なモンスターが跋扈するこの世界において脆弱な生命体である人々はいくつかの道を選ぶこととなった。
1つは鍛え強くなりモンスター達に対抗すること。
1つは諦めて自身の脆弱さを嘆くこと。
1つは非力並でも化け物を倒せる何かしらの方法を見つけること。
1つは考えを放棄して陽気に生きること。
1つは自分以外の強き何かにすがるようにして生きること。
他にも幾つかあるがこの森林帯の近くで生きる人々が選んだのは最後の方法だった。
人々に都合のいいモンスター達よりも圧倒的な存在、即ち『神』に自分たちの救済を委ねたのだ。
勿論そんな都合の良い存在などいない。例え『神』に近い存在がいても人々の為に存在する優しい神ではない。
精々この世界の害虫どもを駆除したいという一点で思惑が一致するだけの超越存在位だ。
だから人々は人々なりに『神』を造り出した。
それは現実逃避であったり、死への恐怖を誤魔化すものであったり、
儚き願いなどであったりした。
そして集まった強き願いは力を持つ。
深夜、あるヒト族の集落にある、幾つもの神をまつった仮面が並んだ神殿において奇跡は発現した。
そのうちの一つ、人々が幸福の象徴として願った喜びの神を象った面がふわふわと浮遊し動いたことに気が付いたものは誰もいなかった。
だから揺らめく松明によってその仮面の影が手と足を持った人型の姿をしていたことに、
人々の信仰する神の形をしていたことに気が付いたものは誰もいなかったのだ。
喜びの面
喜びの神の面に思念が宿ったもの。
幸福を求める人が多ければ多いほどに発生しやすく強くなる。
つまり人々が不幸であれば不幸であるほどに力を増す実に皮肉な仮面。
その本来の行動原理は『人々』を幸福にすること。




