第87話「答え」
第87話「答え」
澪さんは、僕の隣に来た。
屋上の手すりに、肘を乗せて。
王都の灯りを見下ろした。
しばらく二人とも、何も言わなかった。
夜風が吹いた。
澪さんの短い黒髪が揺れた。
「――……みんなに聞いて、回ってたでしょ」
澪さんが言った。
「――うん」
「――……私には聞かなかった」
僕は、答えに詰まった。
「――……ごめん」
「――……いい。
分かってる」
澪さんは、手すりの上で指を組んだ。
「――……私は帰る。
姫野さんに言われた。
向こうでちゃんとした、薬師になりたいって。
……私も、向こうで薬剤師になる。
こっちで覚えたこと。
向こうでも、使える気がする」
「――うん。
澪さんなら、なれるよ」
「――……知ってる」
澪さんは、少しだけ笑った。
それから。
笑みを消した。
「――……全部、終わった」
澪さんの声は。
とても静かだった。
「――……魔王もいない。
裁判も終わった。
みんな決めた。
……全部、終わった」
澪さんは。
僕を見た。
「――……返事、ちょうだい」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
僕は。
澪さんを見た。
半年前。
ゼミの初日。
窓際の一番、後ろの席で。
誰とも、話さずに、本を読んでいた女の子。
鑑定の儀で、自分の札を読み上げて。
「……薬師」とだけ呟いた。
城を出る僕に。
何も、言わずについてきた。
治療院で。
泥だらけに、なって、怪我人を手当てしていた。
「ばか」と何度も言われた。
何度も、何度も。
そのたびに。
本当は、心配してくれていたのだと。
僕は、いつも後から気づいた。
告白、された夜。
「返事はいらない。
全部、終わってから」と言って。
澪さんは、先に眠った。
あの夜から。
ずっと考えていた。
「――澪さん」
「――……うん」
「――ありがとう。
ずっと隣にいてくれて」
澪さんは、黙って聞いていた。
「――澪さんがいなかったら。
僕はたぶん、どこかで独りで背負って潰れてた。
治療院でも。
谷でも。
メフィラの幻の中でも。
……いつも一番、近くで、
『ばか』って、言ってくれたのは、澪さんだった」
僕は。
息を吸った。
「――でも」
澪さんの肩が。
ほんのわずかに震えた。
「――僕が好きなのは。
エレオノーラさん、なんだ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
夜風が吹いた。
澪さんは。
しばらく何も言わなかった。
王都の灯りを、見下ろしたまま。
瞬きもせずに。
それから。
「――……知ってた」
澪さんは言った。
「――……ずっと前から知ってた。
白峰くんが、あの人を見る目。
……私を見る目と違う」
澪さんの声は。
震えていなかった。
けれど。
手すりの上で、組んだ指が。
白くなるほど、強く握られていた。
「――……ごめん、澪さん」
「――……謝るな」
澪さんは。
僕の方を向いた。
その目は。
赤かった。
でも。
泣いてはいなかった。
「――……ちゃんと言ってくれてよかった。
はぐらかされたら一生、恨んでた」
澪さんは。
小さく笑った。
「――……振られた。
……すっきりした」
「――澪さん……」
「――……ばか」
澪さんは。
僕の胸を拳で一度だけ叩いた。
谷で目を覚ましたあの時と同じように。
痛くはなかった。
それから。
澪さんは。
僕の胸に額を押しつけた。
ほんの少しの間だけ。
「――……少しだけこうさせて」
僕は。
何も言わずに。
澪さんの頭に、そっと手を置いた。
澪さんの肩が。
小さく震えていた。
声は、出していなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
しばらくして。
澪さんは、顔を上げた。
もう、いつもの澪さんの顔だった。
「――……で」
「――……で?」
「――……門のこと」
澪さんは、腕を組んだ。
「――……白峰くん。
本当はどうしたいの」
僕は、言葉に詰まった。
「――……みんなが帰れるように――」
「――そうじゃなくて」
澪さんが遮った。
「――……ゼミ長の白峰くんじゃなくて。
勇者の白峰くんじゃなくて。
……白峰陽翔はどうしたいの」
僕は。
答えられなかった。
澪さんは。
ため息をついた。
「――……お母さん、いるでしょ」
僕の胸が。
きゅっと締まった。
「――……メフィラの幻で。
お母さんのハンバーグって、言ってた。
……谷でみんなで手を置いてた時。
白峰くんの灯から伝わってきた」
「――……」
「――……会いたいんでしょ」
僕は。
長い間黙っていた。
それから。
小さく頷いた。
「――……会いたい」
声に出したら。
それは、思っていたよりも、ずっと大きな気持ちだった。
「――……母さんに会いたい。
ちゃんとただいまって言いたい。
……でも、エレオノーラさんの隣にもいたい。
どっちも本当で。
……どっちかを選んだら、どっちかを失う」
澪さんは。
僕をじっと見ていた。
「――……それ」
「――……え」
「――……それをあの人に言いなさい」
澪さんは、扉の方を指さした。
「――……独りで決めるな。
……あの人と一緒に決めなさい」
澪さんは。
扉に向かって歩き出した。
それから。
扉の前で立ち止まった。
「――……白峰くん」
「――……うん」
「――……私のこと。
振ったこと、後悔するくらい。
……いい薬剤師になるから」
僕は。
少しだけ笑った。
「――うん。
楽しみにしてる」
「――……ばか」
澪さんは、扉の向こうに消えた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
エレオノーラさんは。
東の庭の樫の木の下にいた。
夜なのに。
木剣を振っていた。
一振り。
一振り。
月明かりの中で。
金色の髪が揺れていた。
僕が近づくと。
エレオノーラさんは、木剣を止めた。
「――……白峰様」
「――眠れないんですか」
「――……ええ。
少し身体を動かしたくて」
エレオノーラさんは。
木剣を樫の木に立てかけた。
「――兄上が亡くなった夜も。
こうして、ここで剣を振っていましたの。
……考えたくない、ことがある時は。
いつも」
「――考えたくないこと」
エレオノーラさんは。
答えなかった。
ただ。
樫の木の幹に、そっと手を触れた。
僕は。
エレオノーラさんの隣に立った。
「――エレオノーラさん」
「――はい」
「――好きです」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
樫の木の葉が。
夜風に鳴った。
エレオノーラさんは。
動かなかった。
幹に手を触れたまま。
僕を見ないまま。
それから。
ゆっくりと。
振り返った。
月明かりの中で。
その青い瞳が。
大きく揺れていた。
「――……今、なんと」
「――好きです。
エレオノーラさんのことが」
僕は言った。
もう、一度。
はっきりと。
「――最初に会った時から。
王城の訓練場で。
誰も、相手にしなかった僕に。
木剣を渡してくれた時から」
エレオノーラさんの唇が。
震えた。
「――あの時、エレオノーラさんは、言いました。
『剣は、守るために、振るうものですわ』って。
……その言葉を、ずっと胸に持って、旅をしてきました」
僕は。
エレオノーラさんの手を取った。
剣だこのある手。
王女の手とは、思えない硬い掌。
僕が一番、好きな手。
「――隣にいてくれて、ありがとうございました。
……これからも、隣にいたいです」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
エレオノーラさんの目から。
涙がこぼれた。
一粒。
二粒。
月明かりを受けて。
光りながら。
「――……ずるいですわ」
エレオノーラさんが言った。
「――……そんなことを言われたら。
わたくしもう、何も我慢、できなくなりますわ」
エレオノーラさんは。
僕の手を握り返した。
強く。
「――わたくしもです」
声が震えていた。
「――わたくしも、白峰様が好きです。
初めて会った時から。
誰にも、相手にされなくて。
それでも、毎朝、訓練場に来て。
一人で木剣を振っていたあなたが。
……ずっと」
エレオノーラさんは。
泣きながら。
笑った。
「――王女でなければ。
この国の跡継ぎでなければ。
今すぐ白峰様の世界へ、ついて行きたいくらい」
それから。
エレオノーラさんは。
笑みを消した。
「――だからこそ。
申し上げなければ、なりません」
エレオノーラさんは。
僕の目をまっすぐに見た。
「――帰ってください」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
僕は。
息を止めた。
「――……エレオノーラさん」
「――お母様に会いに帰ってください」
エレオノーラさんの声は。
震えていた。
けれど。
揺らいではいなかった。
「――わたくしは、兄上を失いました。
父上は、息子を失いました。
……大切な人を、失う痛みを、わたくしは知っています」
エレオノーラさんは。
僕の手を両手で包んだ。
「――白峰様のお母様は。
今も、待っておられるのでしょう。
息子が帰ってくるのを。
……わたくしは、その方から、息子を奪う者になりたくない」
「――でも、門を開けたら僕は――」
「――分かっています」
エレオノーラさんが言った。
「――門を開いた者は残る。
白峰様が開ければ白峰様は残る。
……それは、白峰様が選んだことではない。
門の決まりが、押しつけることです」
エレオノーラさんの目から。
また涙がこぼれた。
「――わたくしは。
白峰様に隣にいてほしい。
心の底から。
でも」
エレオノーラさんは。
僕の手を自分の胸に押し当てた。
「――犠牲として、残る、あなたの隣には立ちたくない。
決まりに縛られて残るあなたではなく。
……自分で選んで、ここにいる、あなたの隣に立ちたい」
エレオノーラさんは。
微笑んだ。
泣きながら。
「――遥様がそうでしたでしょう。
独りで背負って。
選べずに残って。
……わたくしは、あなたを二人目の遥様に、したくありません」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
僕は。
何も言えなかった。
エレオノーラさんの手の温かさだけが。
胸に伝わってきた。
帰りたい。
母さんに会いたい。
ここにいたい。
エレオノーラさんの隣に。
どちらも本当で。
どちらも選べなくて。
それでも。
門は、開けなければならない。
十三人を帰すために。
「――……どうすれば、いいんだろう」
僕は。
初めて。
誰かの前で。
そう、言った。
ゼミ長としてではなく。
勇者としてでもなく。
ただの白峰陽翔として。
エレオノーラさんは。
僕を抱きしめた。
「――……一緒に考えましょう」
耳元で。
小さく。
「――独りで決めないでくださいまし。
……わたくしも、まだ答えを、持っていません。
でも、一緒に探すことはできますわ」
僕は。
エレオノーラさんの背中に、腕を回した。
樫の木の下で。
月明かりの中で。
長い間。
そうしていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
足音がした。
庭の小道の向こうから。
誰かが歩いてくる。
僕たちは、慌てて離れた。
月明かりの中に。
肩までの黒い髪の青年が立っていた。
遥さんだった。
手に古びた、帳面を持っていた。
オルガさんが、持ってきた、蒼さんの日誌。
「――……ごめんね。
邪魔、しちゃった」
遥さんは。
少し気まずそうに笑った。
けれど。
その目は。
真剣だった。
「――白峰くん。
エレオノーラさん。
……見てほしいものがあるんだ」
遥さんは。
日誌の一頁を、開いて差し出した。
蒼さんの几帳面な字。
最後の数年の乱れた、字ではなく。
まだ目が見えていた頃の。
『門の条件について、考察。
「開きし灯の主は、此方に留まる」。
では、灯の主とは何か。
灯を持つ者か。
それとも、灯を誓約ごと背負う者か。
もし後者ならば。
灯の主は、移せるのではないか。
灯は奪えない。
けれど、分かつことはできる。
……誓約ごと分かつことができれば』
その下に。
一行。
『遥がもし、帰りたくないと言う日が来たら。
その時は、遥が灯の主になればいい』
遥さんは。
月明かりの中で。
僕を見た。
「――……蒼は知ってたんだ。
三百年前から。
僕がいつか、こっちを選ぶ日が来るって」
遥さんは言った。
「――白峰くん。
君の灯の主の役目。
……僕にちょうだい」




