第81話「帰還の道」
最終部 ~灯の帰る場所~
最終部「灯の帰る場所」
第81話「帰還の道」
谷を出る朝。
オルガさんは、里の門の前で手を振っていた。
『灯ノ里』と、刻まれた平たい石の下で。
杖を脇に挟んで。
皺だらけの両手を大きく。
「――遥様を頼んだよ」
「――はい」
「――それから、あんたたちも。
ちゃんと帰るんだよ。
……どっちに帰るにしてもね」
オルガさんは、そう言って笑った。
遥さんは何度も、何度も振り返った。
里の門が岩陰に隠れて、見えなくなるまで。
「――すぐ戻るよ、オルガ」
遥さんが小さく言った。
聞こえたかどうかは分からない。
けれど、谷の底から。
朝日の中を。
しゃがれた子守唄が追いかけてきた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
峠は静かだった。
雪崩の跡は、まだ残っていた。
氷喰らいの砕けた鱗が。
ところどころで、陽の光を弾いていた。
けれど、峠の頂から振り返ると。
もう、谷は黒くはなかった。
灰色の岩肌。
薄く芽吹いた緑。
その底に小さな石の家並み。
そして、半ば崩れた魔王城。
ただの谷だった。
光の届く谷。
「――……三百年、あそこにいたんだね、僕」
遥さんが言った。
風に長い髪をなびかせて。
「――外から見ると。
思ってたより、ずっと小さいや」
志賀が遥さんの隣に立った。
「――遥さん。
髪、切った方がいいっすよ」
「――え」
「――このまま山、下りたらたぶん、魔王だってばれます」
遥さんは、自分の髪をつまんで見た。
それから、困ったように笑った。
「――……三百年、切ってないからね。
誰か、切れる人、いる?」
全員が顔を見合わせた。
それから、なぜか、全員が澪さんを見た。
「――……なんで私」
「――柚木氏は、薬師ですからな。
手先が器用でしょ」
古賀が言った。
「――……薬師と床屋は違う」
澪さんは、そう言いながら。
腰の小刀を抜いた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
峠の岩の上に、遥さんを座らせて。
澪さんが髪を切った。
ざく、ざくと。
三百年分の黒い髪が。
風にさらわれて、峠の向こうへ飛んでいく。
遥さんは、目を閉じていた。
「――……昔ね」
遥さんが言った。
「――詩織が誠の髪を、切ってたことがあるんだ。
旅の途中で。
誠、すごい虎刈りにされて。
蒼が笑いすぎて木から落ちて」
澪さんの手が一瞬、止まった。
「――……虎刈りにした方がいい?」
「――……ううん。
普通でお願いします」
澪さんは、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
切り終わった遥さんは。
肩までの黒い髪になっていた。
それだけで。
ずいぶん、若く見えた。
僕たちと同じ。
二十歳の大学生に。
「――……どう?」
遥さんが聞いた。
「――……悪くない」
澪さんが答えた。
「――おお、これは文系院生の雰囲気ですぞ」
古賀が眼鏡を押し上げた。
「――難しいことは分からんが。
魔王には見えんな」
剛が頷いた。
遥さんは。
自分の頭に手をやって。
少し、照れくさそうに笑った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ノルデの村に着いたのは。
その二日後の夕方だった。
村の入口に。
人だかりができていた。
白い髭の村長を先頭に。
村人たちが全員、出てきていた。
子供も。
大人も。
腰の曲がった老人も。
「――……ご無事で」
村長が言った。
声が震えていた。
「――四日前の昼。
北の空が光りましてな。
それから、谷の上の黒い雲が晴れて。
……三百年、ずっとあの山の向こうは、
黒いもんじゃと思っておりました」
村長は。
僕たちの顔を、一人ずつ見た。
九人と一頭。
そして。
もう、一人。
肩までの黒い髪の。
痩せた青年。
村長の目が。
遥さんの上で止まった。
「――……そちらの方は」
遥さんが一歩、前に出た。
そして。
深く頭を下げた。
「――……三百年前。
この村に泊めて、いただきました。
四人で。
……その節は、お世話になりました」
村がしんと静まった。
村長の皺だらけの目が。
大きく見開かれた。
「――……では。
では、あなたが」
「――はい」
遥さんは、顔を上げた。
「――詩織の仲間です。
……詩織は帰って、こられませんでした。
約束を守れなくてすみません」
村長は。
長い間、遥さんを見つめていた。
それから。
ゆっくりと、首を横に振った。
「――約束なら」
村長は、三枝さんの方を見た。
「――このお嬢さんが、守ってくださると聞いております」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
村の広場で。
三枝さんが歌った。
焚き火を囲んで。
村の子供たちが、三枝さんの前に並んで座った。
最初に。
村に伝わる一番を。
子供たちと一緒に。
それから。
三枝さんは一度、深く息を吸った。
「――こ、ここから続きです。
……し、詩織さんが教えたかったところ」
三枝さんが歌い出した。
二番を。
吃りはなかった。
歌の間だけは。
三枝さんの声は、一度もつかえなかった。
澄んだ細い声が。
焚き火の上を渡って。
夜の山へ昇っていく。
子供たちが、口をぽかんと開けて聴いていた。
大人たちが。
目元を押さえていた。
遥さんは。
焚き火の外側の暗がりで。
膝を抱えて座っていた。
玉座の足元でそうしていたように。
けれど。
その顔は。
もう、寂しそうではなかった。
目を閉じて。
唇を小さく動かして。
三枝さんの歌に合わせていた。
志賀がその隣に座っていた。
何も言わずに。
二番が終わった。
一瞬の静けさの後。
子供たちが、一斉に叫んだ。
「――もう、一回!」
三枝さんは、目を丸くして。
それから、泣き笑いの顔で頷いた。
「――は、はい。
何回でも」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
宿の屋根裏で。
僕は、札を取り出した。
【職業:勇者】
その下に五つの誓約。
候補の二文字は、もう、どこにもなかった。
ランプの灯りに透かしても。
「――……寂しい?」
梯子の下から。
澪さんの声がした。
前と同じように。
梯子を半分だけ上ってきて。
床の縁に顎を乗せていた。
「――……少しだけ」
僕は、正直に言った。
「――ずっと一緒だったから」
「――……変なの」
澪さんはそう言って。
少しだけ笑った。
それから。
笑みを消した。
「――……門のこと」
「――うん」
「――……考えてる?」
「――考えてる」
僕は、札を胸にしまった。
開いた者は、此方に留まる。
「――……まだ答えは出てない。
でも、一つだけ決めてることがあるんだ」
「――……なに」
「――みんなが揃ってから決める。
十五人、全員が。
……それまでは、誰にも何も背負わせない。
僕自身にも」
澪さんは、しばらく僕を見ていた。
「――……ゼミ長っぽい」
「――……そうかな」
「――……うん。
半年前から、ずっとそう」
澪さんは、梯子を下りかけて。
止まった。
「――……全部、終わったら」
「――うん」
「――……返事、ちょうだいね」
僕は。
すぐには、答えられなかった。
澪さんは、それを知っていたように。
答えを待たずに。
梯子を下りていった。
「――……おやすみ」
「――……おやすみ、澪さん」
窓の外で。
子供たちの歌声が、まだ続いていた。
一番と。
二番と。
三百年、ぶりに。
最後まで。




