第79話「夜明け」
第79話「夜明け」
光の線は、ゆっくりと、太くなっていった。
谷の東の縁。
切り立った、岩壁のぎざぎざの稜線の向こうで。
白い細い線が。
少しずつ。
少しずつ。
色を帯びていく。
白から。
薄い桃色へ。
桃色から。
淡い橙へ。
誰も喋らなかった。
崩れた魔王城の最上階。
屋根も壁も、ない黒い石の床の上で。
十一の影が。
並んで東を見ていた。
風が吹いた。
谷の底から。
冷たいけれどどこか、柔らかい風。
三百年、この谷に閉じ込められていた夜の匂いが。
ゆっくりと。
押し流されていく。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
稜線の一点が。
燃えた。
金色に。
最初は、針の先ほどの光。
それが膨らんで。
弧を描いて。
岩壁の縁から。
ゆっくりと。
せり上がってくる。
太陽だった。
光が。
谷に射し込んだ。
最初に照らされたのは。
魔王城の尖塔の先端だった。
黒い石が。
三百年ぶりに。
朝の光を受けて。
鈍い灰色に輝いた。
光が下りていく。
尖塔から。
城壁へ。
城門へ。
あの、白い坂道へ。
骨のように、白かった石畳が。
朝日を浴びて。
ただの白い石になった。
光がさらに下りていく。
谷の底へ。
灯ノ里へ。
四十の石の家の屋根を。
井戸を。
竈を。
丘の上の三つの墓を。
金色の光が。
一つずつ。
撫でていく。
丘の上に。
小さな影が立っていた。
オルガさん。
杖にすがって。
両腕を広げて。
朝日を全身で受け止めていた。
遠くて表情は見えなかった。
けれど。
その小さな背中が。
震えているのは、分かった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――……朝、だ」
遥さんが言った。
朝日を浴びて。
その痩せた顔が。
金色に染まっていた。
目を細めて。
眩しそうに。
けれど、目を逸らさずに。
「――……三百年、ぶりの」
遥さんの頬を。
涙が伝った。
「――……忘れてた。
朝ってこんなに眩しいんだ」
僕の隣で。
澪さんが小さく鼻をすすった。
エレオノーラさんが、両手を胸の前で組んで。
朝日に向かって目を閉じた。
剛が。
仰向けに倒れたまま。
片腕で目元を覆った。
「――……難しいことは、分からんが」
剛の声が震えていた。
「――……朝日っていいもんだな」
古賀が割れた眼鏡を外して。
袖で目を拭った。
「――……眼鏡が曇って見えませんぞ。
……割れているせいでは、ありませんぞ」
三枝さんが泣いていた。
桐生が黙って、その背中に手を置いていた。
シロガネが。
立ち上がって。
朝日に向かって。
長く。
長く。
遠吠えをした。
峠の上でしたあの遠吠えとは。
まるで違う。
澄んだ。
高い。
歌のような声だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その時。
胸元が。
熱くなった。
僕は。
札を取り出した。
朝日の光の中で。
札の表面が。
淡く光っていた。
【職業:勇者(候補)】
その括弧の中の。
「候補」の二文字が。
ほとんど、見えないほどに、薄れていた、その二文字が。
朝日に溶けるように。
ゆっくりと。
消えていった。
括弧も。
一緒に。
残ったのは。
【職業:勇者】
ただ、それだけ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
僕は。
長い間。
その文字を見つめていた。
召喚されたあの日。
王城の謁見の間で。
初めて札を見た時。
【勇者(候補)】。
候補。
まだ勇者ではない。
勇者になれるかどうかも分からない。
志賀に笑われた。
「エセ勇者が仕切んなよ」と。
クラスメイトたちに、背を向けられた。
王都の神殿で、再鑑定を頼んだ。
「勇者の再鑑定など、この神殿の三百年の歴史で、初めて」と言われた。
それから。
ずっとこの二文字と、一緒に旅をしてきた。
ヴェルンで。
リンドールで。
ミレアで。
北の砦で。
峠で。
谷で。
少しずつ薄れていく二文字を。
時々、ランプの灯りに透かして。
まだあると確かめて。
なぜか。
少しだけ。
寂しかった。
「――……白峰氏」
古賀が言った。
割れた眼鏡の奥で。
目が淡く光っていた。
「――……鑑定、してもよろしいですかな」
僕は頷いた。
古賀が僕の札を見つめた。
長い沈黙。
それから。
古賀は。
眼鏡を押し上げて。
震える声で言った。
「――……【職業:勇者】。
スキル、【誓約の灯】。
誓約、五つ。
……間違いありませんぞ」
古賀は。
笑った。
泣きながら。
「――……お約束、でしょ。
最後に本物になるのは」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
志賀が。
僕の前に立った。
朝日を背にして。
その顔は、逆光でよく見えなかった。
けれど。
声は、はっきりと聞こえた。
「――白峰」
「――……うん」
「――俺、最初に言ったよな。
お前は、勇者じゃねえって。
エセ勇者だって。
踏み台だって」
「――……うん」
志賀は。
一度、空を見上げた。
それから。
僕をまっすぐに見た。
「――間違ってた」
志賀は言った。
「――お前が勇者だよ。
……最初からずっと」
僕は。
何も言えなかった。
言葉が出てこなかった。
ただ。
目の奥が熱くて。
視界が滲んで。
志賀が。
拳を突き出した。
僕は。
その拳に。
自分の拳を合わせた。
こつん、と。
小さな音がした。
「――……ありがとう、志賀」
「――礼とか、いい」
志賀は、そっぽを向いた。
その耳が。
朝日のせいではなく。
赤かった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
エレオノーラさんが。
僕の前に進み出た。
そして。
片膝をついた。
王女が。
騎士のように。
「――エ、エレオノーラさん……!?」
「――勇者、白峰陽翔様」
エレオノーラさんは。
顔を上げて。
微笑んだ。
朝日に金色の髪が輝いていた。
「――この国の王女として。
そして、あなたの隣で、剣を振るった、一人の剣士として。
……心からの感謝と敬意を」
「――立ってください。
お願いですから」
僕は、慌てて、エレオノーラさんの手を取った。
エレオノーラさんは、くすりと笑って。
その手に引かれて立ち上がった。
そして。
手を離さなかった。
「――……勇者様になっても」
エレオノーラさんは、小さく言った。
「――白峰様は、白峰様ですわね」
澪さんが。
反対側の僕の袖を掴んだ。
何も言わずに。
ただ。
ぎゅっと。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その日の昼。
僕たちは、灯ノ里へ下りた。
遥さんは。
自分の足で歩いた。
ふらつきながら。
何度も、立ち止まりながら。
志賀に肩を借りながら。
それでも。
自分の足で。
白い坂道を下って。
崩れた城門をくぐって。
谷の底の里へ。
明るい谷だった。
光の下で見る谷は。
思っていたよりも、ずっと小さくて。
岩肌は灰色で。
ところどころに。
小さな緑が芽吹いていた。
三百年、光を知らなかった土から。
朝日を浴びて。
半日で。
苔だろうか。
草だろうか。
名前も、分からない小さな緑が。
遥さんは。
その一つ一つの前で、足を止めた。
しゃがみ込んで。
指先でそっと触れて。
「――……生えてる」
何度もそう、呟いた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
丘の上で。
オルガさんが待っていた。
遥さんを見て。
オルガさんの皺だらけの顔が。
くしゃくしゃに歪んだ。
「――……遥様」
「――……オルガ」
遥さんが言った。
「――大きくなったね」
「――……三百年、経ってますからね」
オルガさんは笑った。
泣きながら。
「――角の生えかけの子供だったあたしが。
今じゃ、こんな婆ですよ」
「――……ごめん。
ずっとここを任せきりで」
「――謝らないで、くださいまし」
オルガさんは、杖を放り出して。
遥さんの痩せた、身体に抱きついた。
「――お帰りなさいまし。
……お帰りなさいまし、遥様」
遥さんは。
オルガさんを、抱きしめ返した。
細い腕で。
しっかりと。
「――……ただいま」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
三つの墓の前に。
遥さんは、膝をついた。
葛城誠。
椎名蒼。
そして、名前のない花の石。
朝日を浴びて。
磨かれた墓標が、白く光っていた。
遥さんは。
しばらく黙って、墓を見つめていた。
それから。
誠さんの墓標に、手を置いた。
「――……誠。
帰ってきたよ。
今度は、這ってじゃなくて。
……自分の足で」
志賀が。
遥さんの隣に、膝をついた。
誠さんの剣を、鞘ごと墓標の前に置いて。
深く頭を下げた。
遥さんは。
蒼さんの墓標に、手を置いた。
「――……蒼。
君の手紙、届いたよ。
白峰くんが読んでくれた。
……独りで神殿に入っちゃ、駄目だったね。
君の言う通りだった」
それから。
花の石に。
両手を置いた。
長い間。
何も言わなかった。
肩が震えていた。
「――……詩織」
やっと声が出た。
「――……謝らなくて、いいって、言ってくれたんだってね。
……ずっと隣に、いてくれたんだってね」
遥さんは。
花の石に額を押しつけた。
「――……ありがとう。
……ごめんね。
……ううん。
ありがとう」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
三枝さんが。
遥さんの隣に来た。
「――あ、あの、遥さん」
遥さんが顔を上げた。
「――う歌、歌ってもいいですか。
……あの、子守唄。
し、詩織さんに続きを頼まれたんです。
ノルデの子供たちに、教えてあげてって。
……その前に。
ここで一度」
遥さんは。
目を見開いて。
それから。
ゆっくりと頷いた。
「――……一緒に歌ってもいい?」
三枝さんは。
泣き笑いの顔で頷いた。
二人が歌い始めた。
最初は、遥さんの掠れた声と。
三枝さんの震える声だけ。
途中から。
澪さんが加わった。
古賀が加わった。
剛が調子外れの声で加わった。
志賀がぶっきらぼうに加わった。
桐生が小さく口を動かした。
僕も歌った。
子供の頃、母さんが歌ってくれた歌。
エレオノーラさんと、オルガさんは。
言葉は、分からないまま。
目を閉じて聴いていた。
三百年前、ノルデで途切れた歌の続きが。
朝日の下の灯ノ里に。
初めて響いた。
一番の終わりまで。
そして。
二番の終わりまで。
最後まで。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
谷に星が出た。
三百年ぶりの星空。
灯ノ里の丘の上で。
僕は、一人で空を見上げていた。
いや。
一人ではなかった。
「――……眠れない?」
遥さんが隣に座った。
「――遥さんこそ」
「――三百年、まともに寝てないからね。
寝方を忘れちゃったみたい」
遥さんは笑った。
昼間よりも、ずっと自然な笑顔だった。
しばらく二人で星を見ていた。
「――白峰くん」
「――はい」
「――門のこと。
知ってる?」
僕は頷いた。
古代の門。
星の神殿のさらに、奥にあるという。
元の世界へ、帰るための門。
「――僕たちも、探してたんだ。
三百年前。
……見つける前に全部、終わっちゃったけど」
遥さんは、自分の札を取り出した。
【職業:なし】
【灯:分かたれし者】
「――門は。
灯を持つ者と。
その灯を分かたれし者が通れる。
……志賀くんから聞いた」
遥さんは。
星を見上げた。
「――僕も。
通れるのかな」
その声は。
期待しているようにも。
怯えているようにも。
聞こえた。
三百年。
遥さんの家族も。
友達も。
あの、ゼミ室も。
元の世界ではとっくに。
「――……一緒に行きましょう」
僕は言った。
「――門の前まで。
みんなで。
……それから、決めましょう」
遥さんは。
僕を見た。
それから。
小さく頷いた。
「――……うん。
隣でね」
「――はい。
隣で」
星が。
一つ流れた。
ついに、「候補」が、消えました。
ここだけの話を、させてください。
第1話の、最初の、札の、描写から。
この、瞬間を、書く日を、ずっと、ずっと、待っていました。
【勇者(候補)】。
候補の、二文字は、
陽翔の、「まだ、足りない」という、自己認識の、象徴でした。
同時に、「勇者とは、何か」という、問いでもありました。
聖剣を、振るう者が、勇者なのか。
魔王を、倒す者が、勇者なのか。
この物語の、答えは。
「誰かの、隣に、立ち続けた者」です。
陽翔は、聖剣を、持っていません。
魔王を、倒しても、いません。
ただ、ずっと、誰かの、隣に、立ち続けた。
だから、勇者に、なった。
そして、志賀の、「間違ってた」。
タイトルの、「一緒に転移した同級生いわく違うらしい」。
その、同級生が、最後に、認める。
七十九話、かけて、やっと、ここまで、来ました。
次回、第80話「門の前で」。
第4部、完結です。
そして、物語は、最終部へ。




