第78話「古き魔」
第78話「古き魔」
夜が谷から溢れようとしていた。
崩れ落ちた、魔王城の最上階。
屋根も、壁も吹き飛んで。
残ったのは、黒い石の床と。
半ばから折れた玉座と。
そして。
頭上を覆い尽くす空洞。
それは、空を喰っていた。
谷の縁のさらに向こう。
峠の上に見えていた灰色の空が。
じわり、じわりと。
黒に侵されていく。
谷の闇が。
三百年、この谷に閉じ込められていた夜が。
谷の外へ。
世界へ。
流れ出そうとしていた。
『――寒い』
空洞が言った。
『――寒い。
寒い。
寒い。
……灯を。
灯を寄越せ』
空洞の縁から。
黒い触手が伸びた。
何百本も。
何千本も。
それは、谷の四方へ散って。
岩を這い。
峠を越えて。
その一本が。
谷の底の灯ノ里へ、向かうのが見えた。
四十の家の入口に灯した。
小さな金色の灯りへ。
「――オルガさんッ!」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
僕たちは駆けた。
崩れかけた、城の壁を伝って。
螺旋の階段の残骸を飛び降りて。
けれど。
空洞は大きすぎた。
一本の触手を斬っても。
十本が別の方角へ伸びていく。
エレオノーラさんの剣が閃く。
志賀の剣が閃く。
剛の盾が触手を受け止める。
三枝さんの結界が、灯ノ里の上に広がる。
それでも。
足りない。
空洞は谷、全体だった。
谷のすべての闇が、それの身体だった。
僕たちは。
その身体の中にいるのだ。
「――……斬っても無駄ですわ……ッ!」
エレオノーラさんが、息を切らせた。
「――斬ったそばから闇が埋めてしまう……ッ!」
剛の盾が。
触手の一撃を受けて。
石の床にひびを走らせた。
「――難しいことは分からんが……ッ!
これ、終わりがねえぞ……ッ!」
桐生が影から影へ跳ぶ。
けれど、この谷の影は、すべて空洞の一部だ。
影に沈むたびに。
桐生の灯が削られる。
「――……ッ、影が喰いに来る……ッ!」
古賀が叫んだ。
「――鑑定、しましたッ!
あれには、核がありませんッ!
心臓も、急所も何も……ッ!
……ただの空洞ですッ!」
空洞。
倒すべき、核もない。
斬るべき、首もない。
ただ。
寒くて。
飢えていて。
満たされたいだけの。
巨大な穴。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
触手の一本が。
三枝さんの結界を貫いた。
「――きゃっ……ッ!」
三枝さんの身体が吹き飛ぶ。
桐生が影から、飛び出して、それを受け止める。
二人で石の床を転がる。
その上に。
次の触手が降ってくる。
「――三枝さんッ!」
間に合わない。
その時。
触手が。
斬られた。
金色の光が。
一閃。
触手がほどけて霧散した。
三枝さんと、桐生の前に。
一人の青年が立っていた。
痩せた背中。
長い黒い髪。
遥さんだった。
その右手に。
剣はなかった。
ただ。
掌に灯を灯して。
その灯を刃のように、細く長く伸ばしていた。
「――……三百年ぶりに振ったけど」
遥さんが呟いた。
「――意外と覚えてるもんだね」
志賀が。
遥さんの隣に駆け寄った。
そして。
腰の誠さんの剣を、鞘ごと外して。
遥さんに差し出した。
「――遥さん。
これ」
遥さんは。
その剣を見た。
飾り気のない、片刃の剣。
何度も、巻き直された柄の布。
遥さんの目が。
大きく揺れた。
「――……誠の」
「――オルガさんから預かりました。
誠さんが遺したって」
遥さんは。
長い間。
その剣を見つめていた。
それから。
そっと手を伸ばして。
柄に触れて。
そして。
押し返した。
「――……君が持ってて」
「――でも――」
「――誠はね」
遥さんは笑った。
「――僕の隣で剣を振りたかったんだ。
僕に剣を渡したかったんじゃない。
……だから、君が持ってて。
そして」
遥さんは。
志賀の隣に立った。
「――僕の隣で振って」
志賀は。
唇を噛んだ。
それから。
剣を抜いた。
「――……はい」
二人が。
並んだ。
三百年前の勇者と。
勇者になれなかった男が。
同じ、【職業:なし】の札を、胸に下げて。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
けれど。
それでも。
空洞は、止まらなかった。
斬っても、斬っても。
触手は生えてくる。
谷の縁の空が。
半分、黒に染まっていた。
「――……このままでは、谷の外まで――」
エレオノーラさんが、言いかけた。
僕は。
空洞を見上げていた。
斬っても無駄だ。
倒すべき、核もない。
なら。
「――……分ける」
僕は呟いた。
全員が振り返った。
「――星の印。
灯は、闇の中にこそ灯せ。
……あれに灯を分けるんだ」
「――あ、あれに……ですか……ッ!?」
三枝さんが叫んだ。
「――で、でも、あんなに大きいのに……ッ!
わ、私たちの灯なんて全部、合わせても……ッ!」
その通りだった。
空洞は谷、全体だ。
三百年分の夜だ。
九人と一頭と一人の灯を全部、合わせても。
そのほんの一角も、満たせないかもしれない。
満たせなければ。
僕たちは全員、空っぽになって。
消える。
遥さんが三百年前に恐れたように。
「――……それでも」
僕は言った。
「――やらなきゃ、また三百年前と同じだ」
誰かが独りで背負って。
誰かが犠牲になって。
闇を閉じ込めて。
蓋をして。
それでは、何も終わらない。
「――倒すんじゃない。
閉じ込めるんじゃない。
……満たして終わらせる」
沈黙があった。
それから。
剛が盾を下ろした。
「――難しいことは分からんが」
剛は、僕の隣に立った。
「――お前がそう言うなら、そうなんだろ」
エレオノーラさんが、剣を収めた。
「――わたくしの灯も、お使いくださいまし」
澪さんが僕の手を握った。
「――……一緒に消えるなら、いい」
「――澪さん」
「――……消えないけど。
……たぶん」
古賀が眼鏡を押し上げた。
「――最終決戦で、敵に愛を注ぐ。
……お約束、ですな」
三枝さんと、桐生が手を繋いで並んだ。
シロガネが、僕の足元に座った。
志賀と遥さんが。
僕の左右に立った。
十一の灯が。
一つの輪になった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
僕たちは。
空洞に向かって。
両手を掲げた。
灯を。
差し出した。
奪われるのでは、なく。
こちらから。
分け与えるために。
十一の灯が。
一つの光の柱になって。
空洞の中心へ。
まっすぐに昇っていった。
空洞が。
震えた。
『――……何を』
何千もの声が戸惑った。
『――何をしている。
差し出すのか。
自ら。
……灯を』
光が。
空洞の中に、吸い込まれていく。
吸い込まれて。
消える。
まるで底のない井戸に、一滴の水を、垂らしたように。
何も起きない。
いや。
僕たちの灯が。
削られていく。
一気に。
猛烈な勢いで。
空洞が。
差し出された灯を。
貪るように、呑み込んでいく。
「――ぐぅ……ッ!」
膝が折れかけた。
胸の奥の火が。
小さくなっていく。
剛の盾から、金色の光が消えていく。
エレオノーラさんの髪の輝きが褪せていく。
澪さんの手が、冷たくなっていく。
足りない。
やっぱり。
足りない。
空洞は大きすぎる。
『――もっと』
空洞が言った。
『――もっと。
もっと。
足りない。
寒い。
……まだ寒い』
僕の視界が。
暗くなっていく。
遥さんが三百年前に見た光景。
独りで分ければ消える。
いや。
独りじゃ、ない。
十一人、いる。
それでも。
足りないのか。
――灯は、独りでは燃えず。
最初の誓約が。
胸の奥で響いた。
独りでは燃えない。
十一人は。
独りではない。
でも。
十一人だけでも、ない。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その時。
谷の底から。
光が昇ってきた。
灯ノ里の。
四十の家の入口の。
小さな金色の灯りが。
一つ。
また一つ。
宙に浮かび上がって。
僕たちの光の柱へ。
流れ込んできた。
丘の上に。
オルガさんが立っていた。
杖を両手で掲げて。
皺だらけの顔で。
叫んでいた。
「――持っておいき……ッ!
あたしたちの灯も……ッ!
遥様にもらった灯だよ……ッ!
今度は、あたしたちが返す番さ……ッ!」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
地の底から。
光が昇ってきた。
星の神殿の。
何千、何万の灯の欠片が。
城の地下から。
岩盤を透かして。
床のひびから。
星屑のように、噴き上がって。
その無数の星の中に。
一つだけ。
他のどの星よりも、明るい光があった。
『――遥くん』
声がした。
『――今度は独りじゃ、ないね』
遥さんが。
その光を見上げた。
涙が頬を伝った。
「――……詩織」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
谷の外から。
光が来た。
峠を越えて。
灰色の平原を越えて。
北の砦から。
堂島の灯。
ガルドさんの灯。
ローデリヒさんの灯。
ヴェルダさんの灯。
砦の兵士たちの灯。
王都から。
宇佐美の灯。
小田切の灯。
吉岡の灯。
美咲さんの灯。
奏さんの灯。
トマスさんの灯。
ルーカスさんの灯。
もっと遠くから。
ミレアの花菱さんの灯。
リンドールの姫野さんの灯。
これまで旅をしてきた街の。
村の。
治療院の。
冒険者ギルドの。
僕が出会ってきた、すべての人たちの。
灯。
【誓約の灯】。
他者の信頼と、自分の誓いを、力に変えるスキル。
僕の灯は。
最初から。
僕だけのものでは、なかった。
そして。
ノルデの村から。
歌が聞こえた。
あの、子守唄。
村の子供たちが。
大人たちが。
白い髭の村長が。
声を合わせて。
峠の向こうから。
三百年、歌い継いできた歌を。
その歌に乗って。
光が来た。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
光の柱が。
膨れ上がった。
十一の灯ではなく。
数えきれない灯の。
数えきれない人たちの。
谷を満たすほどの。
光。
それが。
空洞の中心へ。
流れ込んでいく。
空洞が。
震えた。
さっきまでの貪るような、震えでは、なかった。
戸惑うように。
怯えるように。
……そして。
何かに気づいたように。
『――……これ、は』
何千もの声が。
揺らいだ。
『――これは。
何だ。
……奪っていない。
喰らっていない。
なのに』
空洞の闇が。
内側から。
淡く光り始めていた。
黒が。
灰色に。
灰色が。
薄い金色に。
『――……あたたかい』
声が言った。
何千もの声が。
一つまた一つと。
消えていく。
重なり合っていた声が。
ほどけて。
最後に。
小さな。
一つの声だけが残った。
メフィラの声だった。
いや。
メフィラでも、古き魔でもない。
ただの。
寒くて。
寂しくて。
ずっと満たされたかった何か。
『――……あったかい』
声が言った。
『――……奪わなくても。
……あたたかくなれるのね』
空洞が。
ほどけていく。
光の中で。
夜が。
溶けていく。
『――……知らなかった。
……ずっと。
……誰も、くれなかったから』
僕は。
最後の灯を、差し出しながら。
言った。
「――これからは、もらえるよ。
誰かが分けてくれる。
……あなたも、誰かに分ければいい」
声は。
しばらく黙っていた。
それから。
とても小さく。
『――……ありがとう』
そう、言って。
光の中に。
消えた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
空洞は、なくなっていた。
頭上には。
何もなかった。
闇も。
触手も。
夜も。
ただ。
薄い灰色の空が。
どこまでも、広がっていた。
谷の天井を、覆っていた闇が。
三百年ぶりに。
晴れていた。
僕は。
石の床に膝をついていた。
灯は。
ほとんど、残っていなかった。
胸の奥に。
ほんの小さな火が、揺れているだけ。
けれど。
消えては、いなかった。
周りを見た。
全員が。
同じように、膝をついて。
あるいは倒れて。
荒い息をしていた。
けれど。
誰も。
消えては、いなかった。
一人も。
剛が仰向けに、倒れたまま笑っていた。
エレオノーラさんが、髪を乱したまま、空を見上げていた。
澪さんが僕の手を、握ったまま、目を閉じていた。
古賀が割れた眼鏡をかけ直していた。
三枝さんと、桐生が背中合わせに座り込んでいた。
シロガネが、赤い布をなびかせて、空を見つめていた。
志賀と遥さんが。
並んで座っていた。
肩を寄せ合って。
同じ空を見ていた。
「――……白峰」
志賀が言った。
「――……うん」
「――……空、見えるな」
「――……うん」
第65話の、夜。
志賀は、「星、見えるな」と言った。
今は。
星も、見えなかった。
ただ。
谷の東の縁の向こうに。
ほんのかすかに。
白い光の線が。
滲み始めていた。




