第76話「結城遥」
第76話「結城遥」
玉座の間は、空っぽだった。
螺旋の階段を、上りきったその先。
巨大な、両開きの扉を押し開けると。
そこにはただ広い、広い、石の空間が広がっていた。
天井は、見えないほど高く。
柱は、一本もなく。
床には、黒い石が敷き詰められて。
そのずっと奥に。
玉座が一つ。
黒い石を削り出した大きな椅子。
背もたれは、天井の闇に、溶けるほど高い。
けれど。
その玉座には、誰も座っていなかった。
座っていたのは。
玉座の足元。
段差の一番、下の石の上に。
一人の青年が。
膝を抱えて座っていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
痩せていた。
ひどく痩せていた。
黒い、ぼろぼろの外套の下から。
骨ばった手首が覗いている。
髪は長かった。
黒い髪が背中の半ばまで伸びて。
手入れも、されずに絡まっていた。
顔は、膝に埋められていて。
見えなかった。
ただ。
その痩せた背中が。
かすかに揺れていた。
歌っていた。
小さな、小さな声で。
掠れて途切れ途切れで。
それでも。
確かに。
ノルデの村の子守唄。
灯ノ里の墓の前で毎年、歌われていた歌。
日本の童謡。
僕たちは。
扉の前で動けなかった。
誰も。
一歩も。
その歌が。
あまりにも。
寂しかったから。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
歌が止んだ。
青年が。
ゆっくりと、顔を上げた。
志賀の言った通りだった。
普通の人だった。
目の下に深い隈。
頬はこけて。
唇は、乾いてひび割れて。
けれど、その顔立ちは。
どこにでも、いる。
大学の図書館の隅で、徹夜明けのレポートを、書いているような。
少し、気弱そうな優しそうな青年の顔。
三百年。
この顔は、年を取らなかったのだ。
二十歳か、二十一歳か。
僕たちと同じ。
「――……ああ」
青年が言った。
掠れた声。
何年も、誰とも話していない人の声。
「――……来ちゃったんだね」
その目が。
僕を見た。
僕の胸の灯を。
「――白峰、陽翔くん、だよね。
……志賀くんから聞いてた。
真面目で優しくて、ちょっとお人好しのゼミ長だって」
志賀が僕の隣で小さく身じろぎした。
「――はじめまして。
結城、遥です」
青年は。
遥さんは。
膝を抱えたまま。
小さく頭を下げた。
「――ごめんね。
こんなところまで、来させちゃって」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――……遥さん」
僕は一歩、前に出た。
「――迎えに来ました」
遥さんは。
僕の言葉を聞いて。
一瞬だけ。
とても、嬉しそうな顔をした。
ほんの一瞬だけ。
それから。
その顔が。
歪んだ。
「――……駄目だよ」
遥さんが自分の胸を掴んだ。
「――駄目だ。
来ちゃ、駄目だ。
……逃げて」
遥さんの背中から。
闇が。
滲み出した。
黒い煙のように。
外套の裂け目から。
袖口から。
襟元から。
そして。
その闇の中に。
白い仮面が浮かんだ。
メフィラの顔。
『――遅かったわね、灯の候補』
遥さんの口から。
遥さんの声では、ない声がした。
『――もう、ほとんど、一つになったわ。
外の私と内の私。
……この子の灯は、もう、蝋燭の芯ほども残っていない』
遥さんの目が。
片方だけ。
紅く染まっていた。
もう片方は。
まだ黒かった。
遥さん自身の目。
その黒い目から。
涙が流れていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
遥さんが立ち上がった。
いや。
立ち上がらされた。
糸で吊られた人形のように。
ぎこちなく。
膝が、がくがくと震えながら。
その右手に。
闇が集まって。
一振りの剣の形になった。
黒い剣。
刀身の内側で。
何かが蠢いている。
無数の顔。
門の扉と同じ。
『――さあ』
メフィラの声。
『――あなたの灯をちょうだい』
遥さんが。
踏み込んだ。
速い。
三百年前の勇者の身体。
【聖剣術】を、持っていた身体。
古き魔に操られて。
その技だけが、研ぎ澄まされて。
黒い剣が。
一直線に。
僕の胸を狙って。
金属音が響いた。
剛の盾が。
僕の前にあった。
「――ぐぅ……ッ!」
盾が軋む。
金色の灯が、黒い刃に削られて火花を散らす。
一撃で。
剛の足が一歩、退いた。
【不動】の剛が。
「――剛ッ!」
「――……難しいことは、分からんが」
剛が歯を食いしばった。
「――こいつとんでもなく、強えぞ……ッ!」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
遥さんの剣が閃く。
二撃目。
三撃目。
剛の盾の隙間を縫うように。
黒い刃が僕を狙う。
エレオノーラさんの剣が、それを弾く。
志賀の剣が、それを払う。
けれど。
弾いても、払っても。
遥さんの剣は、止まらない。
美しかった。
恐ろしいほどに。
一つ一つの動きに。
三百年前の少年が、必死に磨いた技の名残があった。
仲間を守るために。
魔物を斬るために。
誰かの隣で戦うために。
その技が。
今。
古き魔の命じるままに。
僕たちに向けられている。
「――白峰様ッ!」
エレオノーラさんが、叫んだ。
「――剣を抜いてくださいまし!
このままでは――」
「――抜かない」
僕は言った。
エレオノーラさんが、振り返った。
「――遥さんとは、戦わない」
「――白峰様……!」
「――遥さんは、敵じゃない」
黒い刃が。
エレオノーラさんの剣を弾いて。
僕の頬をかすめた。
熱い線が走った。
血が一筋、流れた。
それでも。
僕は、剣の柄に手をかけなかった。
「――遥さんの中に、いる古き魔を倒すために。
遥さんを斬ったら。
それは、三百年前と同じだ」
僕は、遥さんを見た。
紅い目と。
黒い目。
「――誰かが犠牲になって。
誰かが独りで背負って。
……そんな終わり方はもう、させない」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
遥さんの黒い目が。
揺れた。
剣の動きが。
ほんの一瞬。
鈍った。
「――……逃げてって言ってるのに」
遥さんの声だった。
遥さん自身の。
「――お願いだから逃げて。
僕はもう止められない。
……君を斬っちゃう」
「――逃げません」
「――どうして……ッ!」
遥さんが叫んだ。
黒い剣が。
僕の胸のすぐ手前で。
震えながら、止まった。
止めているのだ。
遥さんが。
自分の腕を。
古き魔に逆らって。
「――どうして、みんなそうなんだ……ッ!
誠も……ッ!
誠もそうだった……ッ!
何度、追い返しても何度、斬りかけても……ッ!
あいつ七十過ぎて、杖、ついて上ってきて……ッ!」
遥さんの黒い目から。
涙が溢れた。
「――『帰ろう遥』って……ッ!
最後の、最後まで……ッ!
……僕は、あいつを追い返した……ッ!
あいつの隣に戻れなかった……ッ!」
剣が。
震えていた。
僕の胸のすぐ前で。
刃先が外套に、触れるか、触れないかのところで。
『――無駄よ』
メフィラの声が、遥さんの口を奪った。
『――この子はもう、私のもの。
最後の灯も、もうすぐ尽きる。
……さあ、斬りなさい。
斬ってその灯を――』
刃が。
外套を裂いた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その時。
志賀が。
僕と遥さんの間に割って入った。
剣を抜かずに。
両腕を広げて。
僕がグラズの影の前で、そうしたように。
黒い刃が。
志賀の肩に食い込んだ。
「――志賀ッ!」
血が散った。
けれど。
志賀は、倒れなかった。
退かなかった。
肩に刃を食い込ませたまま。
遥さんの目の前に。
まっすぐに立っていた。
「――……遥さん」
志賀が言った。
痛みで声が震えていた。
それでも、はっきりと。
「――俺、あんたに言われたよな。
『君は、まだ間に合う』って」
遥さんの黒い目が。
見開かれた。
「――間に合ったよ。
あんたのおかげで」
志賀は。
笑った。
血の滲む唇で。
「――だから、今度は俺が聞く番だ」
志賀は。
遥さんの目を。
紅い目ではなく。
黒い目の方を。
まっすぐに覗き込んだ。
「――あんたは。
誰の隣に立ちたかったんだ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
玉座の間が。
静まり返った。
遥さんの剣が。
止まった。
志賀の肩に、食い込んだまま。
一寸も進まず。
一寸も退かず。
遥さんの唇が。
震えた。
紅い目の方が。
何かを言わせまいとするように。
ぎらぎらと光った。
けれど。
黒い目の方が。
それに逆らうように。
大きく、大きく見開かれて。
涙が。
ぼろぼろと。
こぼれ落ちた。
「――……みんなの」
遥さんが言った。
掠れた。
三百年分の。
押し殺してきた声で。
「――……みんなの隣に。
誠と蒼と詩織の隣に。
……四人で並んで。
帰りたかった。
カレー、作りたかった。
……コンビニの肉まん、みんなで食べたかった」
遥さんの膝が。
崩れた。
「――僕は、勇者だから。
みんなを守らなきゃって。
独りで背負わなきゃって。
……隣に立つんじゃなくて。
前に立たなきゃって。
ずっとそう、思ってた」
黒い剣が。
手から滑り落ちた。
床に落ちて。
闇に戻って。
溶けて消えた。
「――……隣に立ちたかった。
前じゃなくて。
……隣に」
遥さんは。
床に両手をついて。
声を上げて。
泣いた。
三百年分。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
志賀が。
膝をついた。
肩から血を流しながら。
遥さんの前に。
そして。
遥さんの背中に。
そっと手を置いた。
「――……知ってるよ」
志賀が言った。
「――俺も、そうだったから」
僕も。
膝をついた。
志賀の隣に。
遥さんの前に。
エレオノーラさんが。
剛が。
澪さんが。
古賀が。
三枝さんが。
桐生が。
シロガネが。
みんなが。
遥さんを囲むように。
膝をついた。
前ではなく。
隣に。
「――遥さん」
僕は言った。
「――詩織さんから、伝言があります」
遥さんの肩が。
びくりと震えた。
ゆっくりと。
顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃの顔。
三百年、年を取らなかった。
二十歳の青年の顔。
「――……しお、り」
「――星の神殿で会いました」
僕は、遥さんの黒い目を、まっすぐに見た。
「――『謝らなくて、いいよ』って。
『私は、ずっと遥くんの隣にいたよ』って」
遥さんの目が。
大きく見開かれた。
その瞬間。
遥さんの背中から。
闇が。
悲鳴を上げた。
『――黙れ……ッ!
黙れ、黙れ、黙れぇッ!』
メフィラの声。
いや。
古き魔の声。
何千もの声が、重なった叫び。
遥さんの身体から。
闇が噴き出した。
玉座の間の天井まで。
黒い柱のように。
『――この子は、私のもの……ッ!
三百年、喰らってきた……ッ!
今さら、灯など――』
遥さんの胸の奥に。
小さな。
小さな。
本当に蝋燭の芯ほどの光が。
ふっと。
揺れた。




