第75話「星の神殿」
第75話「星の神殿」
階段は、どこまでも下へ続いていた。
螺旋を描いて。
石の壁に沿って。
城の土台を抜けて。
谷の岩盤のさらに奥へ。
九つの灯が。
狭い階段を照らしていた。
上の方から。
かすかに。
何かの音が聞こえた。
地鳴りのような。
心臓の鼓動のような。
低く重い脈動。
「――……玉座の方ですな」
古賀が上を見上げた。
「――メフィラが、遥氏と融合を始めているのかもしれません」
「――時間は」
エレオノーラさんが聞いた。
「――分かりません。
けれど、そう、長くは――」
「――急ごう」
僕は言った。
けれど、足は速めなかった。
速めれば灯の網が乱れる。
誰かが遅れる。
急ぐ。
けれど、誰も置いていかない。
それがたぶん、この階段の下で、問われることなのだと。
なぜか、そう、思った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
階段が終わった。
そこは。
夜空だった。
最初はそう、思った。
頭の上にも。
足の下にも。
右にも左にも。
無数の星が瞬いていた。
いや。
違う。
そこは、巨大な球形の広間だった。
壁も、天井も床も。
すべてが黒い石でできていて。
その黒い石の表面に。
無数の小さな光が埋め込まれていた。
星のように。
一つ一つが。
小さく淡くけれど、確かに瞬いている。
僕たちは、その星の海の真ん中に浮かぶ、
細い石の橋の上に立っていた。
橋は、まっすぐに、広間の中心へ続いていた。
その先に。
小さな円い祭壇があった。
「――……星の、神殿」
三枝さんが囁いた。
「――き、きれい……」
古賀が壁の星の一つを鑑定した。
そして。
眼鏡の奥で目を見開いた。
「――……これ、は」
「――古賀?」
「――灯、ですぞ」
古賀の声が震えた。
「――この星、一つ一つが。
誰かの灯の欠片です。
何千年も前から。
この神殿を、訪れた者たちが残していった――」
僕は、星の海を見渡した。
何千。
何万。
数えきれない灯の欠片。
この神殿に。
これだけの人が来たのだ。
灯を持って。
闇の中へ。
そして。
その灯をここに残していった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
橋を渡った。
一列になって。
狭い石の橋。
両側は、星の海。
落ちたら、どこまで落ちるのか、分からない。
橋の半ばまで来た時。
声がした。
『――止まりなさい』
全員が足を止めた。
声は、どこから聞こえたのか、分からなかった。
星の海、全体から。
響いてくるようだった。
澄んだ。
柔らかい。
若い女の人の声。
『――ここから先は。
灯を持つ者、ただ、一人だけが進みなさい』
僕は、前を見た。
橋の先の祭壇。
その上に。
ぼんやりと。
人の形をした光が立っていた。
白い光。
長い髪の。
小柄な少女の輪郭。
『――勇者は、独りで祭壇に立つもの。
仲間は、ここで待ちなさい』
声が続けた。
『――独りで来たる者に。
四つ目の誓約を授けましょう』
僕の隣で。
澪さんが息を呑んだ。
独りで。
蒼さんの手紙が、胸の中で熱くなった。
『どうか、独りで神殿に入らないで』
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――……三百年前」
僕は、祭壇の光に向かって言った。
「――遥さんにもそう、言ったんですか」
光が。
わずかに揺れた。
『――……ええ』
声が答えた。
『――あの子は従ったわ。
誠くんと蒼くんを谷の上に残して。
独りでここへ来た。
……もう、誰も、巻き込みたくないって言って』
「――それは試練、ですか」
光は答えなかった。
僕は。
後ろを振り返った。
八人と一頭が。
橋の上に並んでいた。
エレオノーラさん。
剛。
澪さん。
古賀。
三枝さん。
桐生。
志賀。
シロガネ。
全員が。
僕を見ていた。
誰も。
「行け」とも。
「行くな」とも。
言わなかった。
ただ。
僕が決めるのを待っていた。
僕は。
祭壇に向き直った。
「――独りでは行きません」
星の海が。
静まり返った。
「――僕の灯は、僕だけのものじゃない。
ここにいるみんなの灯と繋がってる。
砦で待ってるみんなの灯とも。
王都の学院の宇佐美の灯とも。
……独りで祭壇に立ったら。
それは僕の灯じゃ、なくなる」
僕は、手を後ろに伸ばした。
エレオノーラさんが、その手を取った。
エレオノーラさんのもう片方の手を剛が。
剛の手を澪さんが。
澪さんの手を古賀が。
古賀の手を三枝さんが。
三枝さんの手を桐生が。
桐生の手を志賀が。
そして、志賀のもう片方の手が。
シロガネの首の赤い布を、そっと掴んだ。
九人と一頭が。
一本の鎖のように繋がった。
「――みんなで行きます。
それで誓約がもらえないなら。
……それでも、構いません」
僕は一歩、踏み出した。
みんなが続いた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
祭壇の光が。
揺れた。
激しく。
まるで。
泣いているかのように。
『――……ああ』
声がした。
さっきまでの澄んだ威厳のある声ではなかった。
もっと近い。
もっと普通の。
女の子の声。
『――……ああ、よかった。
……やっと。
やっと来てくれた』
光が形を変えた。
輪郭がはっきりとしていく。
長い黒い髪。
大きな丸い目。
少し垂れた眉。
白いブラウスに。
紺色のカーディガン。
この世界の服ではなかった。
日本の。
大学生の。
女の子の服。
「――……詩織、さん」
三枝さんが呟いた。
光の少女は。
ゆっくりと。
頷いた。
『――はじめまして。
神楽坂、詩織です』
少女は、ぺこりと頭を下げた。
その仕草が。
あまりに普通で。
僕はなぜか、泣きそうになった。
『――ごめんね。
試すようなこと言って。
……でも、確かめなきゃ、いけなかったの』
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
詩織さんは、祭壇の縁に腰を下ろした。
光でできた身体。
その向こう側が、うっすらと、透けて見えた。
『――私ね。
黄昏の山で死んだの。
灯移しの儀式が失敗して。
古き魔が遥くんの砕けた灯を、喰らいに来た時に』
詩織さんは、星の海を見上げた。
『――でも、全部は消えなかった。
ほんの少しだけ。
灯の欠片が残っちゃった。
灯の欠片は、最後には、この神殿に還るの。
……あの星たちと同じように』
詩織さんは、壁の星の一つを指さした。
『――あそこにあるのが私の灯。
三百年、ずっとあそこから見てた。
次に来る誰かを。
……遥くんと同じ間違いをしない誰かを』
「――間違い」
志賀が言った。
詩織さんは、志賀を見た。
『――うん。
遥くんは、独りで来た。
誠くんも、蒼くんも、谷の上で待たされた。
「すぐ戻るから」って。
……私はもうここの星になってた。
……あの子、そういう子だったの。
全部、自分で背負っちゃう子』
詩織さんは、膝を抱えた。
『――祭壇で遥くんは、四つ目の誓約を見つけた。
見つけたの。
ちゃんと。
……でも、選べなかった』
「――どうしてですか」
僕は聞いた。
詩織さんは。
しばらく黙っていた。
それから。
僕の目をまっすぐに見た。
『――四つ目の誓約はね。
「灯は、闇の中にこそ灯せ」』
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
星の海が。
かすかに瞬いた。
『――灯は、独りでは燃えず。
真実を分かち合え。
灯は奪えず、ただ分かつのみ。
……そして。
灯は、闇の中にこそ灯せ』
詩織さんは、指を折りながら言った。
『――三つ目までは、仲間のための誓約。
隣にいる誰かと、灯を分け合うための。
でも、四つ目は違う』
詩織さんの目が。
上を見た。
天井のずっと上。
魔王城の玉座の方を。
『――四つ目は。
闇に灯を分けるための誓約』
僕は、息を止めた。
『――古き魔は空洞なの。
光も、熱もない。
だから、奪おうとする。
奪っても、奪っても満たされない。
……灯は奪えないから』
メフィラの言葉が蘇った。
少しも、温かくならない。
『――でも。
分ければ』
詩織さんが言った。
『――奪うんじゃなくて。
こっちから、分けてあげれば。
空洞は、初めて温かくなれる。
……古き魔を倒すんじゃない。
満たしてあげるの。
それが本当の封印。
ううん。
封印じゃない。
……救い』
誰も、何も言えなかった。
敵を。
倒すのではなく。
満たす。
『――遥くんは、それを見つけた』
詩織さんの声が震えた。
『――でも、選べなかった。
古き魔に灯を分けるには。
自分の灯を全部、差し出すくらいの覚悟が要る。
空洞は、大きすぎるから。
……独りの灯じゃ、足りない。
独りで分けたら、自分が空っぽになって消えちゃう』
詩織さんは、両手で顔を覆った。
『――遥くんは、それが怖かったんじゃない。
……私たちを置いて、消えるのが怖かったの。
自分が消えたら、誠くんと蒼くんと私が悲しむって。
だから、選べなかった。
代わりに檻になる方を選んだ。
古き魔を自分の空洞に閉じ込めて。
……残った灯の欠片で、蓋をする方を』
詩織さんは、顔を上げた。
光の頬を光の涙が伝っていた。
『――遥くんは、ずっと私が、死んだのを、自分のせいだと思ってる。
灯移しを受け入れたのは、自分だからって。
三百年、ずっと。
……違うのに。
遥くんを台座に縛ったのは私たちなのに。
最後に前に、出たのは、私が自分で選んだのに』
『ごめん はるか』
峠の窪みのあの、震えるような字。
あれは。
遥さんが詩織さんに、宛てた言葉だったのだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――……独りじゃ、足りない」
僕は言った。
「――でも、みんなでなら」
詩織さんが、僕を見た。
『――うん』
詩織さんは、涙を拭って笑った。
『――蒼くんが最後に気づいたことと同じ。
四つ目の誓約は、一人では選べない。
……独りの灯で、空洞を満たそうとしたら消えちゃう。
でも、みんなで分ければ。
誰も、空っぽにならない。
互いに照らし合えば。
削られた分を埋め合える』
谷の影の獣たちとの戦い。
九つの灯の網。
あの時、僕たちはもう、それを知っていたのだ。
『――だから、確かめたかったの』
詩織さんが立ち上がった。
『――独りで祭壇に来る人には。
この誓約は渡せない。
渡したら、遥くんと同じになっちゃうから。
……みんなで来てくれる人を三百年、待ってた』
詩織さんが、僕に手を伸ばした。
『――札を』
僕は、札を取り出した。
詩織さんの光の指先が。
札の空白の一行に触れた。
熱かった。
温かかった。
光が札の表面を走って。
文字を刻んでいく。
【星の印:灯は、闇の中にこそ灯せ】
四つ目の誓約が。
刻まれた。
その瞬間。
星の海が。
一斉に輝いた。
何千。
何万。
数えきれない灯の欠片が。
まるで祝福するように。
瞬いて。
揺れて。
歌うように光った。
僕の札の。
「候補」の二文字が。
ほとんど、見えないほどに薄れた。
けれど。
まだ。
ほんのかすかに残っていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
『――最後に一つだけお願いがあるの』
詩織さんが言った。
光の身体が。
少しずつ薄れ始めていた。
『――遥くんに伝えて。
「謝らなくていいよ」って。
「私は、ずっと遥くんの隣にいたよ」って。
……この神殿の星の一つとして。
三百年、ずっと真下から見てたよって』
「――……はい」
僕は頷いた。
「――必ず」
詩織さんは、三枝さんの方を見た。
『――あなたあの歌の続き、知ってるでしょう?』
三枝さんの目が見開かれた。
『――ノルデの子供たちに約束したの。
帰ったら、続きを教えてあげるって。
……守れなかった。
代わりにお願いできる?』
「――……は、はいッ!」
三枝さんが何度も、何度も頷いた。
「――お、教えます。
ちゃんと。
し、詩織さんの代わりに」
詩織さんは、嬉しそうに笑った。
それから。
最後に。
志賀を見た。
『――君。
誠くんの剣、持ってるね』
志賀が剣の柄に手を置いた。
『――誠くん、遥くんの隣に、立てなかったって、ずっと言ってた。
……君は立ってあげてね。
白峰くんの隣に。
それから』
詩織さんは、天井を見上げた。
『――遥くんの隣にも』
志賀は。
唇を噛んで。
深く頷いた。
「――……はい」
詩織さんの光が。
ほどけていく。
星の海の一つの星へ。
還っていく。
『――いってらっしゃい。
……遥くんをよろしくね』
光が。
消えた。
祭壇の上には。
何も、残っていなかった。
けれど。
壁の星の一つが。
他のどの星よりも、少しだけ明るく瞬いていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
上から。
地鳴りが響いた。
さっきよりも、ずっと強く。
ずっと近く。
神殿の天井から。
細かい石の粉が降ってくる。
「――融合が進んでいますぞッ!」
古賀が叫んだ。
僕は、札を胸にしまった。
四つの誓約。
暁。
潮。
黄昏。
そして、星。
「――行こう」
僕は言った。
「――玉座へ。
遥さんを迎えに」
九人と一頭が。
星の海を背に。
上へ続く階段を駆け上がった。




