第74話「メフィラ」
第74話「メフィラ」
闇が立ち上がった。
裂けた黒いドレスの中から。
溢れ出した闇が。
門の上で渦を巻いて。
膨れ上がって。
城壁を越えて。
谷の天井に届くほどに。
それは、形を持たなかった。
いや。
形を持ちすぎていた。
腕があった。
何十本もの腕。
人の腕。
獣の前肢。
鳥の翼。
それが闇の中から、生えては、溶け、溶けてはまた生えてくる。
顔があった。
門の扉に刻まれていた顔たちと同じ。
苦悶の顔。
嘆きの顔。
飢えた顔。
それが闇の表面に、浮かんでは、沈み、沈んではまた浮かんでくる。
そして。
その渦の中心に。
メフィラの顔があった。
美しい白い顔。
銀の髪。
紅い唇。
それだけが、闇の中心に、仮面のように、貼りついていた。
『――これが私よ』
声が谷を満たした。
『――古き魔。
あなたたちがそう呼ぶもの。
その手。
その指先。
……あの子の檻から、零れ落ちたひとかけら』
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――……檻」
僕は呟いた。
『――そう、檻よ』
メフィラの顔が笑った。
けれど、その笑みは。
もう、女の笑みではなかった。
『――三百年前。
四人の子供たちが、黄昏の山で、灯を移そうとした。
砕けた灯の欠片は甘かったわ。
聖女の娘が、命を捧げて、私を押し返した。
押し返された、私が落ちたのは。
勇者の少年の胸に、開いた空洞。
……あの子は、残った灯の欠片で、そこに蓋をした』
闇の腕が。
魔王城の上を指した。
『――私は、あの子の中にいる。
三百年、ずっと。
あの子の灯に焼かれながら。
あの子の灯を喰らいながら』
「――……でも、あなたは外にいる」
エレオノーラさんが言った。
『――聖女の娘が死ぬ間際に。
ほんの少しだけ、押し返しきれなかったのよ』
メフィラの声が、愉しげに揺れた。
『――私の全部は、空洞に入りきらなかった。
指先がひとかけら、零れた。
それが私。
メフィラ。
……檻の外の私』
闇の腕が蠢く。
『――外の私は、ずっと探していた。
檻を壊す方法を。
あの子の灯を、上回る灯を。
灯を持つ器を。
……灯で灯を塗り潰せば。
檻は壊れる』
メフィラの目が。
志賀を見た。
『――そこの出来損ないには、期待したのだけれど』
志賀が剣を握り直した。
『――灯を分けられた器。
あの子と同じ世界から来た器。
条件は揃っていた。
……なのに最後の、最後で裏切った』
紅い瞳が。
僕に移った。
『――だから。
もう、遠回りはやめるわ』
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闇が。
襲いかかってきた。
何十本もの腕が。
一斉に。
九人の上に降り注ぐ。
剛の盾が受ける。
エレオノーラさんの剣が斬る。
志賀の剣が払う。
三枝さんの結界が弾く。
けれど。
腕は斬っても、斬っても生えてくる。
弾いても、弾いてもまた伸びてくる。
そして。
腕の一本が。
僕の胸に触れた。
その瞬間。
世界が消えた。
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蛍光灯の音がした。
じじじという。
古い蛍光灯のかすかな唸り。
僕は、ゼミ室にいた。
大学の三号館、四階。
窓から銀杏並木が見える。
黄色い葉が、風に揺れている。
長机の上には。
読みかけの論文のコピー。
誰かが置き忘れた、ペットボトルのお茶。
ホワイトボードには、次の発表の順番が書いてあった。
「――白峰ー、まだいたの?」
声がした。
振り返ると。
美咲さんが、扉から顔を出していた。
「――ちゃんと帰りなよ。
もう、八時だよ」
「――……あ、うん」
僕は、自分の手を見た。
札がなかった。
外套もなかった。
剣もなかった。
着ているのは。
大学の生協で買った、紺色のパーカー。
「――白峰」
別の声がした。
窓際の席に。
志賀が座っていた。
金髪で。
ピアスをして。
スマホをいじりながら。
異世界に行く前の。
あの頃の志賀。
「――お前また残って資料、作ってんの?
真面目かよ」
志賀が笑った。
悪意のない。
ただ、少し呆れたような笑い。
「――……志賀」
「――あ?」
「――……ここ、は」
「――ゼミ室だろ。
何、寝ぼけてんだよ」
志賀は立ち上がって、鞄を肩にかけた。
「――飯、行くぞ。
剛たちも、下で待ってる。
学食、閉まってるから、駅前のカレー屋な」
カレー。
僕の胸が。
きゅうと締めつけられた。
「――……ああ、そうだ」
志賀が扉の前で振り返った。
「――お前の母ちゃんから電話、あったぞ。
スマホ、出ねえからって俺に。
『今日は、陽翔の好きな、ハンバーグだから、早く帰ってきて』だってさ」
母さん。
もう、何か月、声を聞いていないだろう。
「――帰ろうぜ、白峰」
志賀が手を差し出した。
「――全部、夢だったんだよ。
異世界も。
魔王も。
……全部」
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その手を。
取りたかった。
本当に。
心の底から。
取って。
ゼミ室を出て。
銀杏並木を歩いて。
駅前のカレー屋で、みんなで大盛りを食べて。
家に帰って。
母さんのハンバーグを食べて。
自分のベッドで眠りたかった。
それは。
嘘じゃなかった。
僕の胸のどこかに。
ずっと、ずっとあった願い。
「――……」
僕は、手を伸ばしかけた。
その時。
ゼミ室の窓の外に。
金色の光が見えた。
小さな。
小さな光。
銀杏並木の向こう。
夕闇の中に。
ぽつりと。
一つ。
二つ。
三つ。
八つ。
八つの小さな金色の灯が。
窓の外で。
揺れていた。
僕を呼ぶように。
『――白峰様』
エレオノーラさんの声。
『――白峰ッ!』
剛の声。
『――白峰氏ッ!』
『――し、白峰くんッ!』
『――……白峰くん』
『――おい、白峰ッ!』
そして。
『――……ばか』
澪さんの声が。
一番、近くでした。
『――……帰る理由。
一個、増えたって言ったでしょ。
……あの村の歌の続き。
教えに行くんでしょ。
……一人で帰るなばか』
僕は。
伸ばしかけた手を。
止めた。
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目の前の志賀を見た。
金髪の。
ピアスの。
あの頃の志賀。
「――……ごめん、志賀」
僕は言った。
「――君は、本物の志賀じゃない」
「――は?
何、言って――」
「――本物の志賀は」
僕は、窓の外の灯を見た。
八つの灯の中に。
一つだけ。
少し色の濃い灯があった。
「――今、あそこで僕の隣に立とうとしてる」
目の前の志賀の顔が。
歪んだ。
笑顔が溶けて。
その下から。
白い仮面のような、メフィラの顔が覗いた。
『――……帰りたくないの?』
メフィラの声。
もう、志賀の声ではなかった。
『――あなたの一番、深い願いよ。
私は、それを叶えてあげられる。
ここで灯を手放せば。
あなたは、元の世界に帰れる。
何も、なかったことになる。
誰も傷つかずに。
……悪い取引じゃ、ないでしょう?』
「――帰りたいよ」
僕は言った。
「――すごく帰りたい。
母さんのハンバーグも食べたい。
駅前のカレーも食べたい。
……それは本当だ」
『――なら――』
「――でも」
僕は、胸に手を当てた。
灯があった。
僕一人の灯じゃない。
窓の外の八つの灯と。
繋がっている灯。
「――帰るなら、みんなで帰る。
宇佐美と最後の一行を読んで。
ノルデの村に、歌の続きを教えに行って。
オルガさんに、遥さんを会わせて。
……それから、門の前でみんなで決める」
僕は、メフィラの仮面を、まっすぐに見た。
「――あなたが差し出すのは、『独りで帰る』道だ。
僕は、その道は選ばない。
遥さんが独りで神殿に入ったみたいに。
僕は、独りで帰ったりしない」
ゼミ室の壁に。
ひびが入った。
蛍光灯がちらついて。
銀杏並木が、色を失って。
ホワイトボードの文字が滲んで。
『――……どうして』
メフィラの仮面が。
震えた。
『――どうしてあなたたちは。
独りにならないの。
……三百年前のあの子は、独りになったのに』
僕は答えた。
「――独りにならないように。
隣にいてくれる人がいるから」
ゼミ室が。
砕けた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
目を開けると。
僕は、石畳の上に倒れていた。
その周りを。
八人と一頭が。
囲んでいた。
全員が。
僕の身体のどこかに、手を置いていた。
剛は肩に。
エレオノーラさんは手に。
志賀は背中に。
古賀は足に。
三枝さんと、桐生は腕に。
シロガネは、額を僕の頬に押しつけていた。
そして、澪さんは。
僕の胸の上に。
両手を重ねて置いていた。
灯の上に。
「――……おかえり」
澪さんが言った。
その目は。
赤かった。
「――……ただいま」
僕は言った。
澪さんは、何も言わずに。
僕の胸を拳で一度だけ叩いた。
痛くはなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
立ち上がった。
門の上に。
メフィラがいた。
闇の渦は、半分ほどに縮んでいた。
何十本も、あった腕が、数本に減っていた。
白い仮面の顔に。
蜘蛛の巣のような、ひびが走っていた。
僕の心の中に、入り込んだ闇の腕が。
八つの灯に焼かれたのだ。
『――……忌々しい』
メフィラの声が軋んだ。
『――独りで来ればよかったのに。
三百年前のあの子のように。
そうすれば、簡単に喰らえたのに』
「――メフィラ」
僕は言った。
「――あなたは、何が欲しいんですか」
メフィラの仮面が。
止まった。
「――灯を塗り潰して。
檻を壊して。
谷の外に出て。
……それであなたは、何が欲しいんですか」
長い沈黙があった。
闇が。
揺れた。
『――……温かいものよ』
メフィラが言った。
その声は。
ほんの一瞬だけ。
何千もの声が、重なった声ではなく。
小さな一つの声に聞こえた。
『――私には、何もない。
光も、熱も形も。
私は、ただの空洞。
空洞は満たされたい。
……だから、奪う。
灯を奪えば、温かくなれると思った。
三百年、あの子の灯を喰らい続けた』
メフィラの仮面のひびが。
広がっていく。
『――でも。
少しも、温かくならない。
喰らっても、喰らっても。
……少しも』
僕は。
その言葉を聞いて。
胸のどこかが痛んだ。
灯は奪えない。
奪っても。
温かくはならない。
「――それは」
僕は言いかけた。
けれど。
メフィラの仮面が。
再び、冷たく凍った。
『――……戯言はここまでよ』
闇が渦を巻いた。
メフィラの身体が。
門の内側へ、沈み込んでいく。
『――器はもう一つあるわ』
紅い瞳が。
魔王城の最上階を見上げた。
『――最初の器。
三百年、私を閉じ込めてきた檻。
……外の私と内の私が一つになれば。
あの子の灯などもう、もたない』
「――待てッ!」
志賀が叫んだ。
『――玉座で待っているわ、灯の候補』
メフィラの声が遠ざかる。
『――あの子と一緒に。
……あの子だった、ものと一緒に』
闇が。
門の内側へ吸い込まれて。
消えた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
門が。
軋みながら、開いた。
顔のなくなった、ただの黒い鉄の扉が。
ゆっくりと。
内側へ。
その向こうに。
魔王城の中庭が見えた。
石の廊下。
崩れかけた柱。
そして、その奥に。
上へ、上へと続く螺旋の階段。
玉座へ。
「――急ぎましょう」
エレオノーラさんが言った。
「――メフィラが、遥様と一つになる前に」
「――待って」
僕は言った。
全員が振り返った。
僕は、胸の札を取り出した。
【職業:勇者(候補)】
その下の空白の一行。
「――蒼さんの手紙」
僕は言った。
「――四つ目の誓約は。
闇の中で見つけるものだって。
遥さんは、見つけたけれど、選べなかった。
……それが何なのか、分からないまま、玉座に行っても」
「――遥さんを救えないか」
志賀が言った。
僕は頷いた。
オルガさんは言っていた。
星の神殿は、魔王城の真下にあると。
城の地下のずっと奥に。
上へ続く螺旋の階段の隣に。
下へ続くもう一つの階段があった。
暗い。
城のどこよりも暗い。
けれど。
その階段の奥から。
かすかに。
星のような光が。
瞬いているのが見えた。
「――……行こう」
僕は言った。
「――みんなで」




