第71話「光を喰う闇」
第71話「光を喰う闇」
谷へ下る道は一本しか、なかった。
岩壁を削って作られた細いつづら折りの道。
誰がいつ作ったのかは分からない。
ただ、その道は、ところどころで崩れかけながらも。
確かに谷の底へと続いていた。
先頭は志賀だった。
「――ここから先は、俺が行く」
峠の窪みを出る時。
志賀は、そう言って剛の前に出た。
「――メフィラに連れて来られた時。
この道を通った。
目隠しは、されてなかった。
……あいつ俺が、逃げるなんて、思ってもなかったんだろうな」
志賀の横顔は硬かった。
「――あの時、俺はこの道を下りながら。
自分は、選ばれたんだって思ってた。
魔王の右腕になるんだって」
志賀は、闇の底を見下ろした。
「――今度は、迎えに行くために下りる。
……同じ道でも全然、違うな」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
谷の縁を越えた瞬間。
光が消えた。
背後には、まだ峠の向こうの灰色の空が、あるはずだった。
振り返ると、確かにそこに淡い光が見えた。
けれど、その光は谷の縁で、ぴたりと止まっていて。
一歩も、こちら側へは、入ってこなかった。
まるで見えない壁があるかのように。
「――松明を」
エレオノーラさんが言った。
古賀が松明に火を移した。
炎が上がる。
そして。
縮んだ。
炎が見る間に小さくなっていく。
油が尽きたわけでもない。
風が吹いたわけでもない。
ただ、周りの闇が炎を、じわじわと、呑み込んでいくように。
三つ数える間に。
松明は、赤い点になって。
そして、消えた。
「――……光を喰う闇……」
古賀の声が震えた。
完全な闇だった。
目を開けているのか、閉じているのか、分からない。
自分の手が、どこにあるのかさえ分からない。
隣にいるはずの仲間の気配だけが。
息遣いだけが。
かろうじて、ここに誰かがいると教えてくれる。
「――白峰」
志賀の声が、闇の中からした。
「――灯を」
僕は、胸に手を当てた。
小さな火が灯る。
金色の光が。
僕の掌からこぼれた。
闇は、それを呑み込もうとした。
僕には分かった。
冷たい重い何かが。
光の縁にじわりと触れてくるのを。
けれど。
灯は消えなかった。
小さく。
弱く。
けれど、確かに。
僕の掌の上で、燃え続けていた。
「――……消えない」
三枝さんが呟いた。
「――白峰くんの灯だけ消えない……」
「――奪えないから」
澪さんが言った。
「――黄昏の印。
灯は奪えず。
……この闇にも奪えない」
僕は、掌の灯を掲げた。
金色の光の輪が。
半径、二歩ほどの狭い範囲を照らした。
九人と一頭の顔が。
闇の中に浮かび上がった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
谷を下った。
一歩ずつ。
足元を確かめながら。
灯の光は狭い。
僕のすぐ周りしか照らせない。
だから、九人は自然と、身を寄せ合って歩いた。
誰かの肩が、誰かの肩に触れるくらいに。
志賀が先頭で、岩壁を手探りしながら道を示す。
剛がそのすぐ後ろで盾を構える。
最後尾は桐生。
桐生は、この闇の中で一番、楽そうだった。
「――影が濃い」
桐生が低く言った。
「――ここは全部、影だ。
……どこへでも行ける」
「――桐生、無理はしないで」
「――ああ」
桐生は、短く答えた。
けれど、その声に。
ほんのわずかな違和感があった。
どこか、遠い。
まるで闇の向こう側から、聞こえてくるような。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
どれくらい下っただろう。
時間の感覚がなかった。
昼なのか、夜なのか。
一刻なのか、半日なのか。
闇の中では、すべてが同じ黒だった。
ただ、足の疲れだけが。
ずいぶん、長く歩いたと教えてくれた。
その時。
シロガネが止まった。
赤い布が灯の光の縁で揺れる。
銀色の毛が逆立つ。
けれど、唸り声は上げなかった。
上げられなかったのだと。
後になって分かった。
声を出せば。
居場所が知られる。
それほどのものが。
闇の中にいた。
「――……囲まれてる」
桐生が囁いた。
「――数は」
エレオノーラさんが、剣の柄に手をかけた。
「――……分からない。
影の中に溶けてる。
多い」
僕は、灯の光の縁を見た。
金色の輪のすぐ外側。
闇が。
揺れていた。
いや。
闇が揺れているのではない。
闇の中に闇よりも、さらに黒い何かが蠢いているのだ。
ゆっくりと。
輪の周りを巡っている。
こちらを窺うように。
光の縁を嗅ぐように。
一つの輪郭が。
ほんの一瞬だけ、灯の光に触れた。
獣だった。
狼に似ていた。
けれど、毛はなく肉もなく。
ただ、影を獣の形に切り抜いたような。
平らで奥行きのない黒い輪郭だけの獣。
目のあるべき場所に。
光がなかった。
穴だけがあった。
光を呑み込む穴。
「――影の獣……」
古賀が掠れた声で言った。
「――……光を喰らうものですな」
一頭が輪の縁に鼻先を突っ込んだ。
じゅ、と。
焼けるような音がした。
影の獣がのけぞった。
鼻先が灯の光に、焼かれて、霧のように散っていた。
けれど。
散った分だけ。
灯の光が。
ほんのわずかに。
小さくなった。
「――……喰ってる」
志賀が言った。
「――焼かれながら、光を喰ってやがる」
二頭目が来た。
三頭目。
四頭目。
輪の縁に次々と黒い鼻先が突っ込んでくる。
焼かれる。
散る。
そのたびに、灯が削られる。
一頭、一頭は弱い。
けれど。
数が終わらない。
闇の奥から。
次から次へと。
黒い輪郭が、湧き出してくる。
灯の輪が縮んでいく。
二歩から。
一歩半へ。
一歩へ。
九人の身体が、押しつけ合うように、輪の中心へ、寄せられていく。
「――白峰様ッ!」
エレオノーラさんの剣が閃いた。
輪の縁を越えようとした一頭の首を断つ。
けれど、剣は影をすり抜けた。
手応えがない。
斬れない。
「――剛ッ!」
「――【不動】ッ!」
剛の盾が輪の縁に立ちはだかる。
影の獣が盾にぶつかる。
けれど、盾は影を止められない。
獣は盾を水のようにすり抜けて。
その先の灯に喰らいつく。
「――く……ッ!」
僕の掌の上で。
灯が揺らいだ。
冷たい。
冷たい何かが。
灯の芯に直接、牙を立ててくる。
熱が奪われていく。
いや。
奪えないはずだ。
灯は奪えない。
けれど。
削られることはある。
奪えなくても。
少しずつ、少しずつ。
擦り減らされていくことは、ある。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その時だった。
最後尾で。
桐生の身体が。
半分、闇の中に沈んでいた。
「――桐生くんッ!」
三枝さんが叫んだ。
桐生は、影の獣を追っていた。
影から影へ。
獣の背後に回り込んで。
自分の影の刃で、獣を裂こうとして。
けれど。
この谷では。
影が濃すぎた。
桐生の身体の輪郭が。
闇に溶けかけていた。
右腕がもう、見えない。
肩も。
胸の半分も。
「――……あ」
桐生の声がした。
ひどく遠くから。
「――……戻り方が……」
影は、桐生の力だ。
けれど、この谷の影は。
桐生の影よりも、ずっと深くずっと古い。
呑み込まれる。
「――桐生くんッ!」
三枝さんが、輪の外へ飛び出そうとした。
「――駄目だ三枝さんッ!」
僕は、三枝さんの腕を掴んだ。
輪の外は闇だ。
光のない場所に出れば。
影の獣に一瞬で――。
「――で、でも……ッ!」
三枝さんが振り返った。
その顔は。
泣いていなかった。
まっすぐに。
僕を見ていた。
「――桐生くんはわ、私の背中を、
ずっと守ってくれました……ッ!
北の砦でも。
峠でも。
……今度は、私が行きます……ッ!」
僕は。
三枝さんの腕を離さなかった。
離さずに。
その腕に。
灯を分けた。
「――行って」
三枝さんの目が見開かれた。
「――灯を持って。
三枝さんの結界で包んで。
……そうすれば、闇の中でも光は消えない」
三枝さんの掌に。
小さな金色の火が灯った。
三枝さんは、それを両手で包んだ。
包んだ両手の周りに。
青白い結界が張られる。
小さな、小さなランタンのように。
「――……は、はいッ!」
三枝さんが、輪の外へ駆け出した。
闇の中を。
小さな金色のランタンを掲げて。
影の獣が三枝さんに殺到した。
けれど、結界がそれを弾く。
弾かれた獣が、灯の光に焼かれて散る。
三枝さんは走った。
躓きそうになりながら。
吃りながら。
桐生の名前を呼びながら。
「――き、桐生くんッ!
桐生くんッ!
こっちですッ!
わ、私はここですッ!」
闇の中に。
桐生の輪郭が、かすかに浮かんだ。
三枝さんの小さな光に照らされて。
「――……三枝」
「――掴まってくださいッ!」
三枝さんが、手を伸ばした。
あの日。
雪崩の中で、桐生が志賀に手を伸ばしたように。
ずっと前。
「荷物持ちくらいしろよ」と、言われていた女の子が。
今。
闇の中で誰かの手を掴みに行く。
桐生の消えかけた手が。
三枝さんの手に触れた。
その瞬間。
灯が桐生の中に流れ込んだ。
溶けかけていた輪郭が。
光に縁取られて。
ゆっくりと。
こちら側へ戻ってくる。
右腕。
肩。
胸。
そして、顔。
「――……戻れた」
桐生が呟いた。
「――ああ。
三枝の光が見えたから」
三枝さんが泣き出した。
今度こそ本当に。
桐生の手を握りしめたまま。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
それを見て。
僕は気づいた。
一つの灯で、九人を守ろうとするから削られるのだ。
一つの輪で、全員を包もうとするから。
輪の縁が長くなって。
そこを喰われる。
なら。
「――みんな」
僕は、灯を掲げた。
「――手を出して」
一人ずつ。
差し出された掌に。
灯を分けていく。
エレオノーラさん。
剛。
澪さん。
古賀。
志賀。
戻ってきた三枝さんと桐生。
シロガネの額にも。
九つの小さな金色の火が。
闇の中に灯った。
一つ、一つは小さい。
僕の灯の九分の一にも満たない。
けれど。
九つの灯が、互いを照らし合う。
エレオノーラさんの灯が、剛の背中を照らす。
剛の灯が澪さんの足元を照らす。
澪さんの灯が、古賀の顔を照らす。
輪ではなかった。
網だった。
光の網。
九つの点が、互いに光を投げ合って。
その間の闇を、縫い止めていく。
影の獣が飛び込んできた。
どこから来ても。
誰かの灯が、そこを照らしていた。
獣が焼かれる。
散る。
けれど、今度は。
灯は、削られなかった。
一つの灯が、喰われかけても。
隣の灯がそれを照らし直す。
削られた分を、互いに分け合って埋めていく。
「――灯は、独りでは燃えず」
エレオノーラさんが、剣を構えた。
その刃に。
エレオノーラさん自身の灯が宿っていた。
斬った。
今度は、手応えがあった。
影の獣が真っ二つに裂けて。
金色の火の粉になって散った。
「――……斬れますわ!」
「――難しいことは分からんが」
剛の盾が金色に輝いた。
「――俺の灯なら、止められるってことだな」
盾が影の獣を受け止めた。
すり抜けない。
獣は、盾にぶつかって、弾かれて焼かれた。
志賀の刃こぼれの剣が閃く。
澪さんが薬瓶を投げる。
中の薬液が、灯の光を受けて燃え上がる。
古賀が叫ぶ。
「――右、三頭!
左の岩陰に、群れの核になってる大きいのが一頭!
鑑定、間違いありませんぞッ!」
「――……行く」
桐生が影に沈んだ。
けれど、今度は。
その手に灯を握っていた。
闇の中を金色の点が走る。
左の岩陰へ。
そこにいた一際、大きな影の獣の背後へ。
「――……光のある影は迷わない」
桐生の影の刃が。
灯を纏って。
獣の首を刈った。
群れの核が崩れた。
それを境に。
影の獣たちの動きが乱れた。
統率を失って。
一頭、また一頭と闇の奥へ退いていく。
そして。
静かになった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
九つの灯の網の中で。
僕たちは、息を整えた。
誰も、倒れていなかった。
誰も、欠けていなかった。
三枝さんは、まだ桐生の手を握っていた。
桐生は、それを振りほどこうとはしなかった。
「――……三枝」
「――は、はい」
「――……ありがとう」
三枝さんは、首を横に振った。
「――お、お互い様、です。
……ずっと守ってもらってましたから」
志賀が自分の掌の灯を見下ろしていた。
その灯は。
他の誰の灯とも、少し違っていた。
僕から分けた灯と。
志賀自身の中で、霧の中の教室で、分かたれた灯と。
二つが重なって。
ほんの少しだけ、色が濃かった。
「――……遥さんにも」
志賀が呟いた。
「――これ、分けてやれるかな」
僕は答えなかった。
答えの代わりに、闇の底を見た。
九つの灯の網のずっと向こう。
谷の底の底に。
ぼんやりと。
建物の影が浮かんでいた。
城ではなかった。
城よりも手前に。
崩れかけた石の家並み。
街だ。
この光のない谷の底に。
誰かが街を作っていた。




