第70話「三百年前の焚き火」
第70話「三百年前の焚き火」
峠の頂から、少し下ったところに、岩の窪みがあった。
風を三方から遮ってくれる。
天井は、低いけれど、九人と一頭が、身を寄せ合うには、十分な広さだった。
そして。
その窪みの奥の壁に。
煤の跡があった。
古い、古い煤。
何度も、何度も焚き火を焚いた跡。
「――……ここで誰かが野営をしていた」
エレオノーラさんが、指先で壁の煤に触れた。
「――それもずいぶん、昔に」
古賀が眼鏡を、押し上げて、壁に顔を近づけた。
「――……鑑定、してみますぞ」
古賀の目が淡く光った。
しばらく黙って、壁を見つめて。
それから、息を呑んだ。
「――……三百年前ですな。
誤差は前後十年」
窪みの中が、しんと静まった。
「――それと。
煤の下に」
古賀が壁のある一点を指さした。
「――何か、刻んであります」
僕は、袖でそっと煤を拭った。
黒い粉が落ちて。
その下から、浅く削られた文字が現れた。
漢字と平仮名だった。
『ここで 四人で カレーが食べたいと 話した』
その横に少し違う筆跡で。
『材料がない by 蒼』
さらにその下に。
丸っこい字で。
『帰ったら みんなで 作ろうね しおり』
そして、一番下に。
小さく。
力のない震えるような線で。
『ごめん はるか』
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
誰も、しばらく口をきかなかった。
焚き火を熾した。
三百年前の煤の上に。
火がぱちぱちとはぜる。
岩の壁に九人の影が揺れる。
その影のすぐ横に。
三百年前の四人の言葉が刻まれている。
「――カレー」
剛がぽつりと言った。
「――……食いてえな」
その一言で。
張りつめていた何かが、ふっと緩んだ。
「――分かる」
三枝さんが、小さく笑った。
「――わ、私も時々、夢に出てきます。
学食のカツカレー」
「――大盛り四百二十円」
澪さんが言った。
「――福神漬け、取り放題」
「――柚木氏、詳しいですな」
「――……毎日、食べてた」
「――毎日!?」
古賀が本気で驚いた。
澪さんは、少しだけむっとした顔をした。
それを見て、エレオノーラさんが、首を傾げた。
「――かれー、とはどのような、料理なのですか?」
僕たちは、顔を見合わせた。
それから。
九人で一斉に説明を始めた。
茶色くて。
辛くて。
いや、甘いのもある。
肉とじゃがいもと、にんじんと玉ねぎが入っていて。
ご飯にかける。
いや、ナンでもいい。
次の日の方が美味い。
それは絶対。
「――……全然、分かりませんわ」
エレオノーラさんが、困ったように笑った。
「――でも。
皆さんがとても、帰りたい場所の味なのだということは分かりました」
焚き火がはぜた。
三百年前。
この場所で。
四人の日本の若者が。
同じ話をしていたのだ。
カレーが食べたいと。
材料がないと。
帰ったらみんなで作ろうと。
そして。
一人が帰らなかった。
いや。
一人も帰らなかった。
『ごめん はるか』
最後の一行を、刻んだのは、誰だったのだろう。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――遥さんだ」
志賀が言った。
窪みの一番、入口に近いところ。
外の闇を背にして座っていた。
「――あの、最後の字。
遥さんが書いたんだと思う」
全員が志賀を見た。
「――俺が魔王城にいた時。
一度だけ遥さんと話したことがある」
志賀は、焚き火を見つめたまま続けた。
「――玉座の足元で。
あの人、膝を抱えて座ってた。
メフィラが、俺を連れて行った時」
「――……どんな人だった」
僕が聞いた。
志賀は、少し考えた。
「――……普通の人だった」
「――普通の」
「――ああ。
魔王って聞いて俺、もっとこうでかくて、
黒くて、角とか生えてて、そういうの想像してた。
でも、違った。
痩せてて。
髪が長くて。
目の下に隈があって。
……大学の図書館の隅っこで徹夜明けで、
ぼーっとしてる院生みたいな人だった」
志賀は、少しだけ笑った。
「――俺が日本から来たって知って。
あの人、最初に何て聞いたと思う?」
「――……」
「――『コンビニの肉まんって、まだある?』」
焚き火の音だけがした。
「――あるって言ったら。
あの人、すげえ、嬉しそうに笑った。
『そっか。よかった』って。
……三百年、ずっとそれ、気になってたのかよって」
三枝さんが、膝を抱えた。
その目が潤んでいた。
「――それから。
メフィラがいない、ほんの少しの間に。
あの人、俺に言ったんだ」
志賀の声が、低くなった。
「――『君は、まだ間に合う』って。
『僕は、間に合わなかった。でも、君は、まだ間に合う』って。
……その時は、意味が分からなかった。
何が間に合うんだよって。
むしろ、むかついた」
志賀は、自分の掌を見下ろした。
「――今なら、分かる」
志賀の掌のずっと奥に。
小さな灯がある。
僕から分かたれた灯が。
「――あの人は。
誰かの隣に、戻ることができなかったんだ。
だから、俺に。
戻れって言ったんだ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
夜が更けた。
古賀が通信用の水晶を取り出した。
王立学院の宇佐美と繋がっている。
峠を越えると、届かなくなるかもしれない。
これが最後の交信になるかもしれなかった。
水晶が淡く光る。
その中に宇佐美の顔が浮かんだ。
目の下にくっきりと隈があった。
『――白峰。
無事か』
「――うん。
全員、無事だよ」
『――そうか』
宇佐美の肩から、力が抜けたのが分かった。
『――論理的に言って峠越えの生存率は、
楽観的に見積もっても七割だった。
……よかった』
「――宇佐美、寝てないでしょ」
『――寝ている場合じゃない』
宇佐美は、手元の紙の束を持ち上げた。
椎名蒼さんが、残した記録の写し。
『――椎名蒼の手記の解読が進んだ。
伝えておきたいことが二つある』
全員が水晶の周りに集まった。
『――一つ目。
三百年前の儀式のその後について』
宇佐美が紙をめくった。
『――これまで我々は、四人のうち、神楽坂詩織が儀式で命を落とし。
結城遥が魔王になった。
……そして、葛城誠と椎名蒼も、その時に死んだのだと思っていた』
宇佐美の声が、少し震えた。
『――違った。
二人は生きていた。
黄昏の山の儀式の後も。
遥を追って、北の谷に入って』
息を呑む音が重なった。
『――手記の後半は、谷の中で書かれている。
椎名蒼はこう書いている。
「誠と僕は生きている。
遥を置いては帰れない。
遥の中の灯が消えないうちに。
何か、方法を見つけなければ」』
志賀が顔を上げた。
『――二人は、谷に留まった。
遥を救うために。
何年も。
……おそらく何十年も』
焚き火がはぜた。
カレーの落書きの横で。
三百年前の二人の若者が。
友達を置いて帰れないと谷に入った。
『――二つ目』
宇佐美が続けた。
『――星の神殿の試練について。
椎名蒼はこう書いている。
「四つ目の誓約は、教えられるものではない。
三つの誓約を、刻んだ者が、闇の中で自分で見つけるものだ。
遥は見つけられなかった。
いや。
見つけたけれど、それを選べなかった」』
「――選べなかった……?」
『――それ以上は、まだ読めていない。
記録の最後の数頁は、ひどく傷んでいる。
特に最後の一行は』
宇佐美は、悔しそうに唇を噛んだ。
『――……すまない。
間に合わなかった』
「――宇佐美」
僕は、水晶に手を触れた。
「――十分だよ。
ありがとう。
……誠さんと蒼さんが遥さんを置いて帰らなかったって。
それが分かっただけで全然、違う」
宇佐美は、しばらく黙っていた。
それから、眼鏡を外して目元を拭った。
『――……白峰。
論理的に言ってだ』
「――うん」
『――お前は帰ってくる。
帰ってきて、最後の一行を一緒に読む。
……それが一番、合理的な結末だ』
「――うん。
約束する」
水晶の光が揺らいだ。
宇佐美の顔が薄れていく。
最後にその向こうから。
別の声が聞こえた。
『――白峰くん、聞こえる!?
ちゃんとご飯、食べてる!?』
美咲さんだった。
『――いいね、それ。
歌になる。
……帰ってきたら全部、聞かせてよ』
奏さんの声も。
そして、光が消えた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
皆が眠りについた後。
僕は、窪みの入口で火の番をしていた。
外は闇だった。
眼下の谷の方から。
冷たい重い風が吹き上がってくる。
星さえ、その谷の上だけ見えなかった。
「――眠れないのですか」
エレオノーラさんが、隣に座った。
外套を肩からかけ直しながら。
「――番です。
エレオノーラさんこそ」
「――わたくしも番ですわ。
……今、決めました」
少しだけ笑い合った。
それから、二人で黙って火を見ていた。
「――白峰様」
「――はい」
「――カレー、というものを。
いつか、わたくしにも、作っていただけますか」
僕は、エレオノーラさんを見た。
金色の髪が、焚き火の光を、受けて揺れていた。
「――材料があれば」
「――材料なら、探しますわ。
この国のすべての市場を回ってでも」
「――……なかったら?」
「――そのときは」
エレオノーラさんは、壁の落書きを見た。
『帰ったら みんなで 作ろうね』
「――そのときは、皆さんの世界まで探しに行きます」
僕は、何も言えなかった。
古代の門。
帰還の門。
その門をくぐったら。
僕たちは、元の世界に帰る。
エレオノーラさんは、この世界に残る。
それとも――。
「――今は、まだ答えなくて構いませんわ」
エレオノーラさんが、静かに言った。
「――全部、終わってから。
……柚木殿ともそう、約束しましたもの」
窪みの奥で。
澪さんが寝返りを打った音がした。
起きているのかもしれなかった。
いないのかもしれなかった。
僕は焚き火に薪を一本、足した。
火が少しだけ大きくなった。
三百年前の四人の落書きを照らすように。
『ごめん はるか』
その一行の隣に。
僕は、短剣の先でそっと文字を刻んだ。
『迎えに来ました しらみね』




