第69話「氷の回廊」
第69話「氷の回廊」
峠は、白い喉だった。
両側から切り立った氷の壁が迫っていた。
見上げると空は、細い青い帯になっていて。
その帯さえ、時おり吹きつける雪に掻き消された。
ガルドさんの言った通りだった。
人が二人、並んで通れるかどうか。
九人と一頭は、一列になって、その喉の奥へ、奥へと呑み込まれていった。
先頭は剛。
その後ろに、僕とシロガネ。
エレオノーラさん。
古賀。
澪さん。
三枝さん。
桐生。
最後尾に志賀。
足元の雪は、膝まであった。
一歩、踏み出すたびに身体が沈む。
抜く。
また沈む。
息が白い。
白い息がすぐに睫毛の上で凍った。
「――……音がしない」
澪さんが小さく言った。
本当だった。
風の音さえ、氷の壁に吸い込まれて。
聞こえるのは、自分の心臓の音と。
九人分の荒い呼吸と。
雪を踏む鈍い軋みだけだった。
「――論理的に言ってですな」
古賀が口を開きかけて。
それが宇佐美の口癖だと気づいて、慌てて閉じた。
「――……失敬。
宇佐美氏が、乗り移りましたぞ。
音がしないのは、雪が音を吸うからです。
新雪の層は、空気をたくさん含んでいてそれが――」
「――古賀」
剛が振り返らずに言った。
「――難しいことは分からんが。
大きな声は出すな」
「――は、はい」
剛の言う意味は、全員が分かっていた。
頭上の氷の壁のずっと上。
雪が庇のように、張り出していた。
重く。
分厚く。
今にも、こぼれ落ちそうに。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
峠の中ほどに、差しかかった時だった。
シロガネが止まった。
銀色の毛が、一本残らず逆立っていた。
低い地を這うような唸り声。
その目は前ではなく。
足元の雪を見ていた。
「――下だ」
桐生が短く言った。
次の瞬間。
雪が盛り上がった。
僕たちの足元のずっと先。
十歩ほど前方の雪原が。
巨大な白い背中のように隆起して。
裂けた。
そこから現れたものを。
僕は最初、氷の柱だと思った。
違った。
それは口だった。
円く開いた氷の顎。
その縁に透き通った牙が、幾重にも、幾重にも並んでいる。
顎の奥は、青く暗くどこまでも深く。
まるで峠そのものが、口を開けたかのようだった。
蛇のような長い胴が、雪の下から、ずるりと引きずり出される。
鱗の一枚一枚が薄い氷の板で。
擦れ合うたびに、硝子を引っ掻くような甲高い音が鳴った。
「――氷喰らい……!」
エレオノーラさんが、剣を抜いた。
「――北の山脈の主ですわ。
雪の下を泳ぎ、熱を持つものを丸呑みにする――」
氷喰らいが、首をもたげた。
目はなかった。
けれど、その顎が真っ直ぐに僕たちの方を向いた。
熱を見ているのだ。
僕たちの体温を。
吐く息を。
そして。
僕の胸の灯を。
「――剛ッ!」
叫ぶより早く。
剛が前に出ていた。
盾を雪に突き立てる。
両足を開く。
腰を落とす。
「――【不動】」
氷喰らいが突っ込んできた。
それは、突進というより。
雪崩が意志を持って、横から襲いかかってきたようなものだった。
激突。
音が峠を割った。
剛の盾に氷の牙が食い込む。
火花ではなく、氷の粒が散った。
剛の両足が、雪の中に膝まで沈む。
沈んで。
それでも。
一歩も退かない。
「――ぐうぅ……ッ!」
剛の歯の間から、軋るような声が漏れた。
そして。
頭上で。
みしりと。
何かが鳴った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
見上げた。
氷の壁のずっと上。
あの、庇のように張り出していた雪の塊に。
一本の黒い亀裂が走っていた。
激突の衝撃が。
峠を揺らしたのだ。
亀裂が伸びる。
枝分かれする。
蜘蛛の巣のように広がって。
そして。
空が落ちてきた。
白い空が。
最初は、ゆっくりに見えた。
雪の庇が端から剥がれるように傾いて。
それから、急に速くなった。
轟音が遅れて届いた。
それは、音というより圧だった。
胸を内側から殴られるような。
「――三枝さんッ!」
「――は、はいッ!」
三枝さんが、両手を空に突き上げた。
光の膜が広がる。
僕たちの頭上に。
九人と一頭を、覆う薄く青白い半球。
けれど。
大きすぎる。
峠は細長い。
九人は、一列に並んでいる。
その全員を覆うには。
結界は、細く長く伸ばさなければならない。
伸ばせば薄くなる。
「――……っ、と届かない……!
後ろまでと届かない……!」
三枝さんの声が震えた。
結界の端が。
最後尾の志賀の手前で途切れていた。
志賀が。
頭上を見上げていた。
落ちてくる白い空を。
逃げようともせずに。
その顔が。
ほんの一瞬だけ。
――これでいいのかもしれないと。
そういう顔をした気がした。
「――志賀ッ!」
僕は叫んだ。
叫ぶと同時に。
桐生が動いていた。
影が走る。
雪の上を黒い水のように。
志賀の足元まで一瞬で。
「――……掴まれ」
桐生の手が、志賀の腕を掴んだ。
志賀がその手を見た。
「――桐生、お前――」
「――根性、見せろ」
桐生が志賀ごと影の中へ沈んだ。
そして。
二人の姿が、三枝さんの結界の内側に、浮かび上がったその瞬間。
雪が来た。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
世界が白に塗り潰された。
結界の上を、雪が流れていく。
叩きつけるのではなく。
押し潰すように。
何万、何十万という白い手が、上からのしかかってくるように。
結界が軋む。
青白い膜が、内側へたわむ。
「――っ、うぅぅ……!」
三枝さんの膝が折れかけた。
その背中を。
桐生が支えた。
いつか、北の砦でそうしたように。
「――お前は倒れない」
桐生が低く言った。
「――俺が後ろにいる」
三枝さんの膝が伸びた。
それでも。
足りない。
一人分の結界では。
この山一つ分の雪の重さには。
僕は、三枝さんの肩に手を置いた。
「――三枝さん。
灯を分けるよ」
胸の奥で。
小さな火が、ふっと明るくなる。
それは、僕一人の火じゃない。
ここにいる九人の。
砦で待つ仲間たちの。
ノルデの村の老人の。
三百年、子守唄を、歌い継いできた名も知らない人たちの。
その全部が僕の掌を通って。
三枝さんの肩へ流れ込んでいく。
結界の色が変わった。
青白い膜が。
淡い金色を帯びた。
たわんでいた膜が。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
押し返されていく。
「――あ……あったかい……」
三枝さんが呟いた。
「――みんなの灯……」
金色の結界の向こうで、雪が流れていく。
峠の底へ。
谷の方へ。
轟音を引きずりながら。
そして。
静かになった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
雪崩が収まった後。
結界の外は、一面の白だった。
僕たちは、雪の底にいた。
金色の結界が、九人と一頭の形に、雪の中に空洞を穿っていた。
まるで雪の中に閉じ込められた小さな泡のように。
「――……生きてる」
澪さんが呟いた。
「――生きてますぞ……!」
古賀が眼鏡を拭いた。
手が震えていた。
剛は。
盾を雪に突き立てたまま。
まだそこに立っていた。
その盾の向こう側に。
氷喰らいの顎があった。
雪崩に呑まれて。
それでも、まだ生きていた。
顎を盾に食い込ませたまま。
雪の中でゆっくりと身を捩っている。
「――……しつこい奴だな」
剛が呟いた。
氷喰らいの顎が再び、開いた。
その奥の青い暗がりのさらに奥に。
何かが光っていた。
小さな白い光。
「――核ですわ」
エレオノーラさんが言った。
「――氷喰らいは、体内に凍った心臓を持つと、聞いたことがあります。
それを砕けば――」
「――喉の奥か」
志賀が言った。
全員が振り返った。
志賀は、腰の剣に手をかけていた。
魔剣ではない。
砦の武器庫の隅にあった。
刃こぼれのあるただの鉄の剣。
「――お前スキル、ないだろ」
桐生が言った。
「――ああ」
志賀が剣を抜いた。
「――ねえよ。
魔剣士でも、勇者でもねえ。
けどな」
志賀の構えは。
霧の中で僕と打ち合った時と同じだった。
スキルがなくなっても。
身体に刻まれたものは残る。
半年間毎日、振り続けた剣は。
札が何と書いていようと、志賀の腕の中に残っている。
「――剣の振り方くらいは覚えてる」
僕は、志賀の隣に立った。
「――一緒に行こう」
志賀が僕を見た。
「――……白峰。
お前俺の隣、好きだよな」
「――うん。
好きだよ」
志賀は、舌打ちをした。
それから、少しだけ口の端を上げた。
「――剛。
顎、押さえとけ」
「――おう」
剛が盾を押し上げた。
氷喰らいの顎が、大きく開く。
牙が天井の雪を引っ掻く。
その開いた口の中へ。
僕と志賀は。
同時に飛び込んだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
氷喰らいの喉の中は。
冷たいという言葉では足りなかった。
肺が凍る。
瞼が張りつく。
指先の感覚が、一瞬で消える。
青い暗い氷の洞窟。
その壁が蠢いている。
喉が僕たちを、呑み下そうと収縮する。
「――白峰ッ!
灯ッ!」
志賀の声。
僕は、胸の灯を掲げた。
金色の光が、喉の中を照らす。
青い氷の壁が、金色に染まる。
氷喰らいの全身が震えた。
熱だ。
こいつが最も求めて。
最も恐れるもの。
喉の奥。
白い光。
凍った心臓。
「――あれだ!」
志賀が駆けた。
収縮する喉の壁を蹴って。
刃こぼれのある鉄の剣を振りかぶって。
その刃に。
僕の灯が流れ込んだ。
志賀の手を通して。
志賀の中の分かたれた灯と重なって。
ただの鉄の剣が。
金色に燃えた。
「――おおおおおおッ!」
志賀の剣が、凍った心臓に突き刺さった。
ひび。
ひびが走る。
白い光の中を、金色の亀裂が無数に。
そして。
砕けた。
氷喰らいの全身が痙攣した。
喉の壁が内側から崩れていく。
氷の鱗が一枚、また一枚、剥がれ落ちて。
透き通った無数の欠片になって。
峠の雪の中に。
ゆっくりとほどけていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
崩れた氷の中から、僕と志賀は這い出した。
全身、霜で真っ白だった。
髪も、睫毛も外套も。
「――白峰氏ッ!
志賀氏ッ!」
古賀が雪を、掻き分けて、駆け寄ってきた。
「――……うご、け、る……」
僕はそれだけ、言うのがやっとだった。
澪さんが黙って、僕の手を取った。
自分の両手で包んで。
はあっ、と息を吹きかけた。
「――……ばか」
それから、懐から小さな瓶を出した。
薬師の澪さんの薬。
凍傷に効く軟膏。
澪さんは、僕の指にそれを丁寧に塗った。
一本ずつ。
それから、黙って、瓶を志賀に差し出した。
志賀は、驚いたように澪さんを見た。
「――……いいのか」
「――……指、なくなったら剣、振れない」
澪さんは、それだけ言って顔を背けた。
志賀は、しばらく瓶を見つめていた。
それから、小さく言った。
「――……ありがとな柚木」
澪さんは答えなかった。
けれど、その耳が少しだけ赤かった。
寒さのせいかどうかは、分からなかった。
剛が盾を雪から引き抜いた。
盾の表面に、氷の牙の跡が、深々と刻まれていた。
「――難しいことは分からんが」
剛が志賀の背中を叩いた。
霜がばさりと落ちた。
「――いい一撃だった」
志賀は、何も言わなかった。
ただ、刃こぼれの増えた鉄の剣を、じっと見下ろしていた。
その剣には。
まだほんの少しだけ。
金色の温もりが残っていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
峠の頂に着いたのは。
夕方だった。
氷の壁が途切れて。
視界が急に開けた。
そして。
僕たちは、言葉を失った。
眼下に。
谷があった。
いや。
谷、というより。
大地に穿たれた黒い穴だった。
峠のこちら側は、夕焼けに染まっているのに。
その谷だけが。
まるで夜を、そこに閉じ込めたかのように。
光を一切、受けつけずに。
真っ黒に沈んでいた。
その黒のずっと底に。
ほんのかすかに。
城の影が見えた。
「――あれが」
エレオノーラさんが囁いた。
「――永遠に夜の明けぬ谷」
誰も、何も言わなかった。
ただ、シロガネだけが。
赤い布を風になびかせながら。
谷の底に向かって、長く、長く遠吠えをした。




