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【最終章突入】職業「勇者」って言われたのですが、一緒に転移した同級生いわく違うらしい ~正しい職業を知りたい今日この頃~  作者: 有馬 茶
第4部 ~星の神殿~ 開幕

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第69話「氷の回廊」

第69話「氷の回廊」



峠は、白い喉だった。


両側から切り立った氷の壁が迫っていた。

見上げると空は、細い青い帯になっていて。

その帯さえ、時おり吹きつける雪に掻き消された。


ガルドさんの言った通りだった。

人が二人、並んで通れるかどうか。

九人と一頭は、一列になって、その喉の奥へ、奥へと呑み込まれていった。


先頭は剛。

その後ろに、僕とシロガネ。

エレオノーラさん。

古賀。

澪さん。

三枝さん。

桐生。

最後尾に志賀。


足元の雪は、膝まであった。

一歩、踏み出すたびに身体が沈む。

抜く。

また沈む。


息が白い。

白い息がすぐに睫毛の上で凍った。


「――……音がしない」


澪さんが小さく言った。


本当だった。

風の音さえ、氷の壁に吸い込まれて。

聞こえるのは、自分の心臓の音と。

九人分の荒い呼吸と。

雪を踏む鈍い軋みだけだった。


「――論理的に言ってですな」


古賀が口を開きかけて。

それが宇佐美の口癖だと気づいて、慌てて閉じた。


「――……失敬。

宇佐美氏が、乗り移りましたぞ。

音がしないのは、雪が音を吸うからです。

新雪の層は、空気をたくさん含んでいてそれが――」


「――古賀」


剛が振り返らずに言った。


「――難しいことは分からんが。

大きな声は出すな」


「――は、はい」


剛の言う意味は、全員が分かっていた。


頭上の氷の壁のずっと上。

雪が庇のように、張り出していた。

重く。

分厚く。

今にも、こぼれ落ちそうに。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆


峠の中ほどに、差しかかった時だった。


シロガネが止まった。


銀色の毛が、一本残らず逆立っていた。

低い地を這うような唸り声。

その目は前ではなく。

足元の雪を見ていた。


「――下だ」


桐生が短く言った。


次の瞬間。


雪が盛り上がった。


僕たちの足元のずっと先。

十歩ほど前方の雪原が。

巨大な白い背中のように隆起して。


裂けた。


そこから現れたものを。

僕は最初、氷の柱だと思った。


違った。


それは口だった。


円く開いた氷の顎。

その縁に透き通った牙が、幾重にも、幾重にも並んでいる。

顎の奥は、青く暗くどこまでも深く。

まるで峠そのものが、口を開けたかのようだった。


蛇のような長い胴が、雪の下から、ずるりと引きずり出される。

鱗の一枚一枚が薄い氷の板で。

擦れ合うたびに、硝子を引っ掻くような甲高い音が鳴った。


「――氷喰らい……!」


エレオノーラさんが、剣を抜いた。


「――北の山脈の主ですわ。

雪の下を泳ぎ、熱を持つものを丸呑みにする――」


氷喰らいが、首をもたげた。

目はなかった。

けれど、その顎が真っ直ぐに僕たちの方を向いた。


熱を見ているのだ。


僕たちの体温を。

吐く息を。

そして。


僕の胸の灯を。


「――剛ッ!」


叫ぶより早く。

剛が前に出ていた。


盾を雪に突き立てる。

両足を開く。

腰を落とす。


「――【不動】」


氷喰らいが突っ込んできた。


それは、突進というより。

雪崩が意志を持って、横から襲いかかってきたようなものだった。


激突。


音が峠を割った。


剛の盾に氷の牙が食い込む。

火花ではなく、氷の粒が散った。

剛の両足が、雪の中に膝まで沈む。

沈んで。

それでも。

一歩も退かない。


「――ぐうぅ……ッ!」


剛の歯の間から、軋るような声が漏れた。


そして。


頭上で。


みしりと。

何かが鳴った。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆


見上げた。


氷の壁のずっと上。

あの、庇のように張り出していた雪の塊に。

一本の黒い亀裂が走っていた。


激突の衝撃が。

峠を揺らしたのだ。


亀裂が伸びる。

枝分かれする。

蜘蛛の巣のように広がって。


そして。


空が落ちてきた。


白い空が。


最初は、ゆっくりに見えた。

雪の庇が端から剥がれるように傾いて。

それから、急に速くなった。


轟音が遅れて届いた。

それは、音というより圧だった。

胸を内側から殴られるような。


「――三枝さんッ!」


「――は、はいッ!」


三枝さんが、両手を空に突き上げた。


光の膜が広がる。

僕たちの頭上に。

九人と一頭を、覆う薄く青白い半球。


けれど。

大きすぎる。


峠は細長い。

九人は、一列に並んでいる。

その全員を覆うには。

結界は、細く長く伸ばさなければならない。


伸ばせば薄くなる。


「――……っ、と届かない……!

後ろまでと届かない……!」


三枝さんの声が震えた。


結界の端が。

最後尾の志賀の手前で途切れていた。


志賀が。

頭上を見上げていた。


落ちてくる白い空を。

逃げようともせずに。


その顔が。

ほんの一瞬だけ。

――これでいいのかもしれないと。

そういう顔をした気がした。


「――志賀ッ!」


僕は叫んだ。


叫ぶと同時に。

桐生が動いていた。


影が走る。

雪の上を黒い水のように。

志賀の足元まで一瞬で。


「――……掴まれ」


桐生の手が、志賀の腕を掴んだ。


志賀がその手を見た。


「――桐生、お前――」


「――根性、見せろ」


桐生が志賀ごと影の中へ沈んだ。


そして。

二人の姿が、三枝さんの結界の内側に、浮かび上がったその瞬間。


雪が来た。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆


世界が白に塗り潰された。


結界の上を、雪が流れていく。

叩きつけるのではなく。

押し潰すように。

何万、何十万という白い手が、上からのしかかってくるように。


結界が軋む。

青白い膜が、内側へたわむ。


「――っ、うぅぅ……!」


三枝さんの膝が折れかけた。


その背中を。

桐生が支えた。

いつか、北の砦でそうしたように。


「――お前は倒れない」


桐生が低く言った。


「――俺が後ろにいる」


三枝さんの膝が伸びた。


それでも。

足りない。


一人分の結界では。

この山一つ分の雪の重さには。


僕は、三枝さんの肩に手を置いた。


「――三枝さん。

灯を分けるよ」


胸の奥で。

小さな火が、ふっと明るくなる。


それは、僕一人の火じゃない。

ここにいる九人の。

砦で待つ仲間たちの。

ノルデの村の老人の。

三百年、子守唄を、歌い継いできた名も知らない人たちの。


その全部が僕の掌を通って。

三枝さんの肩へ流れ込んでいく。


結界の色が変わった。


青白い膜が。

淡い金色を帯びた。


たわんでいた膜が。

ゆっくりと。

ゆっくりと。

押し返されていく。


「――あ……あったかい……」


三枝さんが呟いた。


「――みんなの灯……」


金色の結界の向こうで、雪が流れていく。

峠の底へ。

谷の方へ。

轟音を引きずりながら。


そして。


静かになった。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆


雪崩が収まった後。


結界の外は、一面の白だった。


僕たちは、雪の底にいた。

金色の結界が、九人と一頭の形に、雪の中に空洞を穿っていた。

まるで雪の中に閉じ込められた小さな泡のように。


「――……生きてる」


澪さんが呟いた。


「――生きてますぞ……!」


古賀が眼鏡を拭いた。

手が震えていた。


剛は。

盾を雪に突き立てたまま。

まだそこに立っていた。


その盾の向こう側に。

氷喰らいの顎があった。


雪崩に呑まれて。

それでも、まだ生きていた。

顎を盾に食い込ませたまま。

雪の中でゆっくりと身を捩っている。


「――……しつこい奴だな」


剛が呟いた。


氷喰らいの顎が再び、開いた。

その奥の青い暗がりのさらに奥に。

何かが光っていた。


小さな白い光。


「――核ですわ」


エレオノーラさんが言った。


「――氷喰らいは、体内に凍った心臓を持つと、聞いたことがあります。

それを砕けば――」


「――喉の奥か」


志賀が言った。


全員が振り返った。


志賀は、腰の剣に手をかけていた。

魔剣ではない。

砦の武器庫の隅にあった。

刃こぼれのあるただの鉄の剣。


「――お前スキル、ないだろ」


桐生が言った。


「――ああ」


志賀が剣を抜いた。


「――ねえよ。

魔剣士でも、勇者でもねえ。

けどな」


志賀の構えは。

霧の中で僕と打ち合った時と同じだった。


スキルがなくなっても。

身体に刻まれたものは残る。

半年間毎日、振り続けた剣は。

札が何と書いていようと、志賀の腕の中に残っている。


「――剣の振り方くらいは覚えてる」


僕は、志賀の隣に立った。


「――一緒に行こう」


志賀が僕を見た。


「――……白峰。

お前俺の隣、好きだよな」


「――うん。

好きだよ」


志賀は、舌打ちをした。

それから、少しだけ口の端を上げた。


「――剛。

顎、押さえとけ」


「――おう」


剛が盾を押し上げた。


氷喰らいの顎が、大きく開く。

牙が天井の雪を引っ掻く。


その開いた口の中へ。


僕と志賀は。

同時に飛び込んだ。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆


氷喰らいの喉の中は。

冷たいという言葉では足りなかった。


肺が凍る。

瞼が張りつく。

指先の感覚が、一瞬で消える。


青い暗い氷の洞窟。

その壁が蠢いている。

喉が僕たちを、呑み下そうと収縮する。


「――白峰ッ!

灯ッ!」


志賀の声。


僕は、胸の灯を掲げた。


金色の光が、喉の中を照らす。

青い氷の壁が、金色に染まる。

氷喰らいの全身が震えた。


熱だ。

こいつが最も求めて。

最も恐れるもの。


喉の奥。

白い光。

凍った心臓。


「――あれだ!」


志賀が駆けた。


収縮する喉の壁を蹴って。

刃こぼれのある鉄の剣を振りかぶって。


その刃に。

僕の灯が流れ込んだ。


志賀の手を通して。

志賀の中の分かたれた灯と重なって。


ただの鉄の剣が。

金色に燃えた。


「――おおおおおおッ!」


志賀の剣が、凍った心臓に突き刺さった。


ひび。

ひびが走る。

白い光の中を、金色の亀裂が無数に。


そして。


砕けた。


氷喰らいの全身が痙攣した。

喉の壁が内側から崩れていく。

氷の鱗が一枚、また一枚、剥がれ落ちて。

透き通った無数の欠片になって。


峠の雪の中に。

ゆっくりとほどけていった。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆


崩れた氷の中から、僕と志賀は這い出した。


全身、霜で真っ白だった。

髪も、睫毛も外套も。


「――白峰氏ッ!

志賀氏ッ!」


古賀が雪を、掻き分けて、駆け寄ってきた。


「――……うご、け、る……」


僕はそれだけ、言うのがやっとだった。


澪さんが黙って、僕の手を取った。

自分の両手で包んで。

はあっ、と息を吹きかけた。


「――……ばか」


それから、懐から小さな瓶を出した。

薬師の澪さんの薬。

凍傷に効く軟膏。


澪さんは、僕の指にそれを丁寧に塗った。

一本ずつ。

それから、黙って、瓶を志賀に差し出した。


志賀は、驚いたように澪さんを見た。


「――……いいのか」


「――……指、なくなったら剣、振れない」


澪さんは、それだけ言って顔を背けた。


志賀は、しばらく瓶を見つめていた。

それから、小さく言った。


「――……ありがとな柚木」


澪さんは答えなかった。

けれど、その耳が少しだけ赤かった。

寒さのせいかどうかは、分からなかった。


剛が盾を雪から引き抜いた。

盾の表面に、氷の牙の跡が、深々と刻まれていた。


「――難しいことは分からんが」


剛が志賀の背中を叩いた。

霜がばさりと落ちた。


「――いい一撃だった」


志賀は、何も言わなかった。

ただ、刃こぼれの増えた鉄の剣を、じっと見下ろしていた。


その剣には。

まだほんの少しだけ。

金色の温もりが残っていた。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆


峠の頂に着いたのは。

夕方だった。


氷の壁が途切れて。

視界が急に開けた。


そして。


僕たちは、言葉を失った。


眼下に。

谷があった。


いや。

谷、というより。

大地に穿たれた黒い穴だった。


峠のこちら側は、夕焼けに染まっているのに。

その谷だけが。

まるで夜を、そこに閉じ込めたかのように。

光を一切、受けつけずに。

真っ黒に沈んでいた。


その黒のずっと底に。

ほんのかすかに。

城の影が見えた。


「――あれが」


エレオノーラさんが囁いた。


「――永遠に夜の明けぬ谷」


誰も、何も言わなかった。


ただ、シロガネだけが。

赤い布を風になびかせながら。

谷の底に向かって、長く、長く遠吠えをした。

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