第68話「北の山脈へ」
第4部 ~星の神殿~ 開幕
第4部「星の神殿」
第68話「北の山脈へ」
出発の朝は薄曇りだった。
北の砦の門の前。
九人分の荷が並んでいた。
僕。
エレオノーラさん。
剛。
澪さん。
古賀。
シロガネ。
三枝さん。
桐生。
志賀。
荷を一つずつ確かめていく。
干し肉。
固く焼いた黒パン。
油紙で包んだ火口。
毛皮の外套が九枚。
シロガネの分は、要らないと言ったのに、ヴェルダさんが、
どうしてもと言って、首に巻く赤い布を一枚、くれた。
「――似合ってるねぇ」
ヴェルダさんが目を細めた。
シロガネは、少しだけ不満そうに鼻を鳴らした。
けれど、布を外そうとはしなかった。
「――坊主」
ガルドさんが、僕の前に立った。
太い腕が僕の肩を掴む。
三年前、アルベルトさんを、この門から、送り出した腕だ。
「――帰ってこい。
それだけだ」
「――はい」
「――全員でだぞ」
「――はい。
全員でです」
ガルドさんはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、僕の肩を一度、強く叩いた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
門の内側では。
堂島が剛と向き合っていた。
「――剛さん」
「――おう」
「――砦は俺が守るっす。
だから、剛さんは、白峰さんの前に立っててください」
「――難しいことは分からんが」
剛が堂島の胸を拳で軽く突いた。
「――お前の背中もう、ちゃんと盾だ」
堂島の目が一瞬、潤んだ。
それから、くしゃっと笑った。
「――ウッス」
少し離れたところで吉岡が、
大きな包みを、三枝さんに押しつけていた。
「――まあまあ、受け取ってよ。
おにぎり。
三日はもつように、塩、強めにしといたから」
「――あ、あの、こんなに、たくさん……」
「――いいのいいの。
俺、皿洗いしかできないけどさ。
皿洗いの奴が握った飯で、勇者が魔王んとこまで行けたら、
それ、ちょっといい話じゃない?」
三枝さんが包みを胸に抱きしめた。
「――は、はい。
ちゃんと届けます。
吉岡くんのおにぎり」
小田切は、馬の手綱を引いてきていた。
峠の麓までは馬で行ける。
そこから先は歩きだ。
「――こいつら、峠の手前の村に預けといてくれっす。
迎えに行くんで。
帰りに乗って帰ってくれりゃ、いいっしょ」
「――ありがとう、小田切」
「――礼とか、いいっしょ」
小田切はそっぽを向いた。
それから、シロガネの方を、ちらりと見た。
「――……お前も気をつけろよ」
シロガネが、ゆっくりと小田切に近づいた。
そして、その手に鼻先をそっと押しつけた。
小田切は、しばらく動かなかった。
それから、震える手で、シロガネの銀色の頭を撫でた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
門が開く。
灰色の平原が北へどこまでも続いていた。
草はまばらで。
空は低くて。
地平線のずっと向こうに白い山脈の影が霞んでいる。
あの向こうに。
夜の明けぬ谷がある。
「――行こう」
僕が言った。
誰も返事をしなかった。
ただ、八つの足音と、四つ足の静かな足音が、僕の後ろに続いた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
平原の旅は三日、続いた。
一日目は、誰もあまり喋らなかった。
砦での戦いの疲れが、まだ身体のどこかに、残っていたのだと思う。
二日目に古賀が沈黙に耐えきれなくなった。
「――いやあ、しかし、ですな」
馬の上で眼鏡を押し上げる。
「――九人パーティで魔王城へ。
これ、完全に最終章の構図ですぞ。
お約束でしょ」
「――古賀」
澪さんが短く言った。
「――うるさい」
「――は、はい」
けれど、澪さんの口元は、ほんの少し緩んでいた。
古賀も、それに気づいたらしい。
にやりと笑って、それきり黙った。
その夜。
焚き火の少し外側に志賀が一人で座っていた。
砦を出てから志賀は、ずっと列の最後尾を歩いていた。
誰かにそうしろと言われたわけではない。
自分でそこを選んでいた。
僕は、干し肉を二切れ持って、志賀の隣に腰を下ろした。
「――食べる?」
志賀は、僕の手の干し肉を見た。
それから、黙って一切れ、受け取った。
しばらく二人で噛んでいた。
固い肉だった。
顎が疲れるくらいに。
「――白峰」
「――うん」
「――俺、ここにいていいのか」
焚き火のぱちりという音がした。
「――門を通るのに、俺の灯が要る。
それは分かってる。
けど、それだけだろ。
俺がここにいる理由は」
僕は、すぐには答えなかった。
志賀が欲しいのは慰めじゃない。
それは分かっていた。
六十何日、一緒に霧の中で、殴り合ってきたような相手だ。
「――志賀」
「――……」
「――最後尾、歩いてくれてありがとう」
志賀が顔を上げた。
「――後ろを誰かが、見ててくれると、前だけ見ていられるんだ。
桐生が三枝さんの背中を守ってたみたいに。
……今日一日、僕、一度も振り返らなかった」
志賀は何か、言いかけて。
口を閉じた。
そして、残りの干し肉を全部、口に放り込んだ。
「――……固えなこれ」
「――うん。
固い」
「――吉岡の飯の方がうめえ」
「――あれは、峠を越えてから食べよう」
志賀は、鼻で笑った。
ほんの少しだけ。
けれど、それは、霧の中の教室で、見た笑い方と同じだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
三日目の夕方。
僕たちは、山脈の麓の小さな村に着いた。
村の名はノルデ。
石を積んだ家が二十軒ほど。
山からの風が強くて、屋根には、どの家も、大きな石が載せてあった。
村長は、白い髭の背の曲がった老人だった。
僕たちの外套と荷とシロガネを順番に見て。
そして、僕の胸元の札を見た。
「――峠を越えなさるのか」
「――はい」
「――その先の谷へ」
「――はい」
老人は長い間黙っていた。
それから、ゆっくりと、皺だらけの手を胸に当てた。
「――わしの曾祖父のそのまた曾祖父が子供の頃。
この村に四人の若い旅人が泊まったそうな。
黒い髪の変わった言葉を話す、若者たちだったと」
息が止まった。
「――その中の一人の娘さんが。
村の子供らに歌を教えたそうな。
意味の分からん、不思議な歌でな。
けれど、なぜか、この村では今でも、子守唄として歌われておる」
老人がかすれた声で口ずさんだ。
その節を。
僕は知っていた。
日本の童謡だった。
魔王城の玉座の足元で。
結城遥が歌っていたというあの歌。
三枝さんが両手で口を覆った。
古賀の眼鏡の奥で、何かが光った。
澪さんが僕の袖をそっと掴んだ。
「――その娘さんは」
僕は声が震えないように、気をつけながら言った。
「――神楽坂詩織さん、という名前では、ありませんでしたか」
「――名は伝わっておらん。
ただ」
老人は、窓の外の白い山脈を見上げた。
「――『帰ってきたら、続きを教えてあげるね』と。
そう言って、峠のほうを見に行ったそうな。
戻ってきた四人は、村には、寄らずに南へ去っていった。
……それきりあの娘さんが、来ることはなかった」
風が屋根の石を鳴らした。
三百年前。
この村で一人の女の子が、子供たちに歌を教えた。
続きを教える約束をして。
そして、帰らなかった。
その歌が。
三百年、この村で子守唄として生きていた。
「――続き」
三枝さんが小さく呟いた。
「――わ、私、その歌の続き、知ってます。
……帰りに教えに来てもいいですか」
老人は、三枝さんを見た。
そして、深い皺の中で、ゆっくりと笑った。
「――それはありがたい。
三百年、待った甲斐があるというもんじゃ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
村の小さな宿の屋根裏で。
僕は札を取り出した。
【職業:勇者(候補)】
「候補」の二文字は、ずいぶん、薄くなっていた。
ランプの灯りに、透かさないと読めないくらいに。
その下に並ぶ印。
【誓約:銀牙狼シロガネ】
【暁の印:灯は、独りでは燃えず】
【潮の印:真実を分かち合え】
【黄昏の印:灯は奪えず、ただ分かつのみ】
そして、その下に。
まだ何も、刻まれていない空白が一行分。
四つ目の誓約。
星の神殿で、刻まれるはずの言葉。
三百年前、遥さんは、ここまで来たのだろうか。
この空白を、埋めることができたのだろうか。
それとも。
埋めることが、できないまま谷の底で――。
「――まだ起きてる」
梯子の下から、澪さんの声がした。
「――ごめん、うるさかった?」
「――ううん」
澪さんが梯子を半分だけ上ってきて。
屋根裏の床の縁に顎を乗せた。
「――……歌」
「――うん」
「――続き、教えに来るんでしょ」
「――うん」
「――じゃあ」
澪さんの黒い瞳が、ランプの灯りを映した。
「――帰ってくる理由。
一個、増えた」
僕は、少しだけ笑った。
「――そうだね」
「――……おやすみ」
「――おやすみ、澪さん」
澪さんは、梯子を下りていった。
僕は、札を胸にしまった。
そして、窓の外の白い山をもう一度、見上げた。
明日、あの峠を越える。




