第67話「砦の夜明け」
第67話「砦の夜明け」
夜の明けぬ谷へ向かう者を、決める日が来た。
砦の作戦室。
三年前アルベルトさんが、
最後の夜を過ごしたという、石造りの小さな部屋。
その粗末な木の卓を囲んで。
ガルドさん。
ローデリヒさん。
ヴェルダさん。
エレオノーラさん。
そして、僕。
卓の上に。
一枚の古い地図が、広げられていた。
ルーメリアの、ディートリヒさんが、送ってくれた。
三百年前の、四人の若者が、最後の旅で、使おうとしていた道。
北の砦から、灰色の平原を北へ。
北の山脈の氷の峠を越えて。
その向こうの、黒く塗り潰された谷へ。
「――大軍では、行けん」
ガルドさんが、地図の上の氷の峠を、太い指で叩いた。
「――この峠は、人が二人、並んで通れるかどうかの細さだ。
五千の兵を、通すには何日もかかる。
その間に魔物どもに、狙い撃ちにされる」
「――それに」
ヴェルダさんが、しわがれた声で、続けた。
「――谷の底の魔王城に、たどり着けたとしても。
そこで待っているのは軍勢じゃない。
古き魔とその化身のメフィラと。
……そして、三百年、一人で泣き続けてるあの男さ」
ヴェルダさんの皺だらけの目が。
僕を見た。
「――剣で片付く話じゃない。
……灯で片付ける話だよ」
作戦室が静まり返った。
「……少人数で行きます」
僕は、言った。
「……灯を分かち合える人たちで」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
名前を挙げていった。
「――エレオノーラさん」
「――はい。隣に、立つと約束しました」
エレオノーラさんは。
迷わずに答えた。
「――剛」
城壁の上で、包帯の取れたばかりの剛は。
話を聞くなり笑ったという。
「――難しいことは分からんが、壁がいないと、
お前すぐ、自分が壁になろうとするだろ」
「――柚木さん」
治療所で薬草の木箱を整えていた澪さんは。
顔を上げずに、言ったという。
「……白峰くんが怪我したとき、誰が治すの」
「――古賀」
古賀は。
眼鏡を押し上げて、言ったという。
「……三百年前の蒼さんの最後の願いだからね。
解説役じゃなくて、見届け役として、行くよ」
「――シロガネ」
シロガネは。
名前を呼ばれる前から、僕の足元に、座っていた。
「――三枝さんと桐生」
古き魔の霧の中を進むなら。
三枝さんの結界が、要る。
影の中を進むなら。
桐生の影が要る。
三枝さんは。
真っ青な顔で、それでも、うなずいたという。
「……わ、私の結界でみ、みんなを守れるなら」
桐生は。
腕を組んで、短く言ったという。
「……三枝の背中は、俺が守る」
「――それから、志賀」
作戦室の空気が。
わずかに張り詰めた。
ガルドさんが。
腕を組んだ。
「――……案内役、か」
「……はい。
それに遥さんと一番最近、話したのは志賀です」
ガルドさんは。
しばらく黙っていた。
それから。
深く息を吐いた。
「――……昨日のあの小僧の顔を見たよ。
……桐生とかいう奴の手を、握ったときの顔をな」
ガルドさんの傷だらけの顔が。
くしゃりと歪んだ。
「――あれは、もう、黒き勇者の顔じゃなかった。
……連れていけ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――大河内殿は、行くとして」
ローデリヒさんが、言った。
「――堂島殿は」
「……砦に残ってもらいます」
僕は、答えた。
「……魔王軍は、退いた。
でも、統率を失った魔物が、また南に下ってくるかもしれない。
砦を守る壁が要る」
ローデリヒさんが。
にやりと笑った。
「――堂島殿の赤い炎の壁か。
……大河内殿の青い壁と、並んだときは、見事だった」
「――それに」
僕は、少しだけ言葉を探した。
「……堂島は、やっと帰ってきたばかりだから。
帰る場所を、守っていてほしいんです。
剛が帰ってくる場所を」
ローデリヒさんが。
目を細めた。
「――……そうか」
ローデリヒさんは。
大剣の柄を、握りしめた。
「――砦は俺と堂島殿とガルドで守る。
……殿下が命を懸けて守ったこの砦を。
今度こそ、最後まで」
ガルドさんが。
低くうなずいた。
「――坊主。
……三年前、俺は殿下を一人で、砦の門の前に立たせた。
……今度は、お前を一人で、魔王城に行かせはしない。
……だが、俺がついていくこともできん」
ガルドさんは。
大きな手で。
僕の頭を。
乱暴にかき回した。
一年前と同じように。
「――だから、お前の剣の、隣に立つ奴らを信じる。
……そいつらと一緒に、必ず帰ってこい」
「……はい」
声が掠れた。
「……必ず帰ってきます。
……みんなで」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
ヴェルダさんの、水晶の欠片が、淡く光った。
『――……繋がってるかい白峰』
水晶の向こうから、聞こえてきたのは。
ヴェルダさんの声では、なかった。
少しだけ角張った。
理屈っぽい。
「――宇佐美?」
『――ああ。
ヴェルダ様が、北の砦に行ってる間、王都の水晶は、俺が預かってる』
宇佐美の声が。
少しだけ照れくさそうに聞こえた。
『――志賀のこと。
……聞いた』
宇佐美の声が。
わずかに揺れた。
『――職業、なしか。
……俺は、物知りだ。
……あいつよりマシだな』
「……宇佐美」
『――……冗談だよ』
宇佐美が。
小さく笑った。
『――あいつに伝えてくれ。
……オルド村で俺も全部、失いかけた。
でも、土の重さを知った。
……一から学び直すのも悪くないって』
「……うん。伝える」
『――それと本題だ』
宇佐美の声が。
真剣になった。
『――ルーメリアの、ディートリヒって爺さんが、
送ってきた、古い記録の、最後の束を解読した。
……星の神殿と、古代の門についてだ』
僕の隣で。
古賀が身を乗り出した。
『――古代の門は、星の神殿のさらに、奥にある。
魔王城の地下のそのまた地下だ。
……門を開く条件は、四つ。
四神殿の四つの誓約をすべて、身に刻んだ、
灯を持つ者が、門の前に立つこと』
「……四つの誓約」
僕は。
職業札を見下ろした。
【暁の印:灯は、独りでは燃えず】
【潮の印:真実を分かち合え】
【黄昏の印:灯は奪えず、ただ分かつのみ】
三つ。
あと一つ。
『――それから』
宇佐美の声が。
少しだけ震えた。
『――門を通れる者の条件。
記録には、こう書いてあった。
「灯を持つ者、および、その灯を分かたれし者」』
古賀が。
息を呑んだ。
『――……俺の仮説は、正しかった。
灯を分かち合った者は、門を通れる』
宇佐美の声が。
掠れていた。
『――みんなで帰れるんだ白峰。
……三百年前の四人が、できなかったことが。
今度は、できる』
胸のポケットが。
熱くなった。
『――ただ』
宇佐美の声が。
また硬くなった。
『――記録の最後の一行が。
……まだ読めない。
古い文字が擦り切れてて。
……ヴェルダ様が戻ったら、一緒に解読する』
「……うん」
『――……気をつけろよ、白峰』
宇佐美の声が。
少しだけ。
柔らかくなった。
『――論理的に言って。
……お前が帰ってこなかったら。
俺の仮説を、検証できる奴が、いなくなる』
僕は。
少しだけ笑った。
「……うん。必ず、帰る。
……検証、しないとね」
水晶の光が。
消えた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
夜明け前。
砦の北の城壁の上に。
九つの影と、一頭の影が並んでいた。
僕。
エレオノーラさん。
剛。
澪さん。
古賀。
三枝さん。
桐生。
志賀。
そして、シロガネ。
北の平原は。
まだ闇の中に沈んでいた。
その闇の遥か向こうに。
北の山脈が。
黒い影となって。
連なっていた。
城壁の下に。
見送りの人々が、集まっていた。
ガルドさん。
ローデリヒさん。
ヴェルダさん。
トマスくん。
堂島。
小田切。
吉岡。
それから。
五千の兵と、千騎の第二陣と。
セイレンの船乗りたちと。
ハルン村の、オルド村の若者たちと。
誰も。
何も、言わなかった。
ただ。
城壁の上の僕たちを。
見上げていた。
「――……陽翔」
剛が。
僕の隣で。
低く言った。
「――……難しいことは、分からんが。
……なんか、すげえ、静かだな」
「……うん」
東の空が。
白み始めていた。
灰色の。
薄い。
冬の。
三年ぶりに。
アルセリアの手に戻った北の砦の。
最初の。
本当の夜明け。
その白み始めた空の光が。
城壁の上の九人の顔を。
一人ずつ。
照らしていった。
エレオノーラさんの金の髪。
剛の銀の鎧。
澪さんの黒い髪。
古賀の眼鏡。
三枝さんの淡い青のローブ。
桐生の短く切った前髪。
シロガネの銀色の毛並み。
そして。
志賀の明るい茶色の髪。
志賀は。
東の空を。
見ていた。
白み始めた空を。
目を細めて。
「……夜明け、か」
志賀が。
ぽつりと言った。
「……魔王城には、なかったんだよな。
……夜明け。
……三百年、一度も」
志賀の黒い澄んだ目に。
夜明けの光が。
映っていた。
「……遥さんにも、見せてやりてえな。
……これ」
僕は。
うなずいた。
「……うん。
……見せよう。
……みんなで」
東の空の地平線の縁に。
一筋の金色の線が。
引かれた。
太陽が。
顔を出した。
北の砦の城壁の上を。
金色の光が。
走っていった。
城壁の下の、何千もの人々の顔を。
金色に照らしていった。
ガルドさんが。
大剣を。
天に掲げた。
「――アルセリアの灯に栄光あれッ!」
その声に。
応えて。
城壁の下の何千もの人々が。
一斉に。
叫んだ。
「――候補の勇者様ッ!」
「――王女殿下ッ!」
「――城壁の騎士様ッ!」
「――薬師様ッ!」
「――鑑定士様ッ!」
「――結界師様ッ!」
「――影の騎士様ッ!」
「――シロガネーッ!」
そして。
その声の中に。
「――志賀さああああんッ!」
堂島の。
野太い声。
「――志賀あああああッ!
ちゃんと帰ってこいよおおおおッ!」
小田切の。
掠れた声。
「――ま、まあまあ……!
し、志賀ああッ!
お、お前の分の握り飯も、取っとくからなああッ!」
吉岡の。
震える声。
志賀の顔が。
くしゃくしゃに、歪んだ。
「……っ、あいつら……」
志賀は。
城壁の縁に、手をついて。
身を乗り出した。
それから。
大きく。
大きく。
手を振った。
「――行ってくるッ!」
志賀の声が。
夜明けの北の砦に。
響き渡った。
「――必ず帰ってくるッ!
……みんなの隣にッ!」
胸のポケットが。
燃え上がった。
職業札の金色の炎が。
夜明けの光と、重なり合って。
城壁の上を。
金色に。
染め上げていった。
その金色の炎の中で。
「候補」の二文字が。
夜明けの光に溶けるように。
淡く。
淡く。
透き通っていた。
――あと一つ。
四つ目の誓約。
そして。
三百年、一人で泣き続けているあの人の。
灯。
僕は。
北を向いた。
夜の明けぬ谷が。
待っていた。
〈第3部 ~裏切りの華~・完〉
物語は、最終局面です。
第4部も、どうぞ、よろしくお願いいたします。




