第66話「なしの札」
第66話「なしの札」
翌朝の北の砦は、静かだった。
二万の魔王軍が退いた平原には、雪が降っていた。
戦いの跡を、覆い隠すように。
踏み荒らされた土を。
黒く枯れた草を。
魔物の亡骸を。
そして、平原の真ん中に残された、小さな灰の山を。
白く。
静かに。
降り積もっていった。
砦の仮設の治療所は。
負傷兵で溢れていた。
澪さんが寝台の間を、休みなく行き来していた。
リンドールから届いた薬の最後の何十本かを。
一本ずつ大切に使いながら。
その治療所の一番奥の寝台に。
志賀が座っていた。
大学の私服の上から、毛布を被って。
膝の上に真っ白な職業札を乗せて。
【職業:なし】
【灯:分かたれし者】
志賀は。
その札を。
朝からずっと。
見つめていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――志賀拓真」
治療所の入り口から。
低い声が響いた。
ガルドさんだった。
その隣に。
エレオノーラさん。
二人の後ろに。
ローデリヒさんと、トマスくん。
治療所の中の空気が。
張り詰めた。
志賀が。
顔を上げた。
ガルドさんが。
志賀の寝台の前に、立った。
傷だらけの顔が。
志賀を見下ろしていた。
「――お前の罪を確かめに来た」
志賀の肩が。
わずかに強張った。
けれど。
目は、逸らさなかった。
「……ああ」
志賀は。
うなずいた。
「……分かってる」
「――ドルマン侯爵の手先として、動いた。
満月の夜会で、王女殿下を、魔女だと偽りの証言をした。
魔王軍の先陣として、この砦に刃を向けた」
ガルドさんの声は。
静かだった。
けれど、その一言一言が。
重かった。
「――この国の法に照らせば。
どれ一つとっても、重罪だ」
「……ああ」
志賀は。
またうなずいた。
「……全部、本当のことだ。
……言い訳は、しねえ」
治療所の中が。
静まり返った。
寝台の上の負傷兵たちが。
息を殺して。
その光景を、見つめていた。
志賀は。
寝台から降りた。
毛布が肩から滑り落ちた。
それから。
エレオノーラさんの前に。
膝をついた。
額を。
治療所の冷たい石の床に。
擦りつけた。
「――王女様」
志賀の声が。
震えていた。
「――夜会であんたのことを、魔女だって言った。
……みんなの前で。
……あんたは、何も悪くなかったのに」
エレオノーラさんは。
何も、言わなかった。
ただ。
床に額を擦りつける志賀を。
静かに。
見下ろしていた。
「――ごめん、なさい」
志賀の声が。
掠れた。
「――……本当にごめんなさい」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
長い沈黙だった。
それから。
エレオノーラさんが。
志賀の前に。
膝をついた。
王女が。
罪人の前に。
「――顔を上げなさい、志賀殿」
志賀が。
ゆっくりと。
顔を上げた。
その目が。
赤く腫れていた。
エレオノーラさんの青い瞳が。
志賀をまっすぐに見つめていた。
「――あなたの罪は、消えません」
静かな声だった。
「――あなたの言葉で、わたくしは、大勢の前で、魔女と罵られました。
……あの夜の、あの瞬間の恐ろしさを。
わたくしは、きっと一生、忘れないでしょう」
志賀の肩が。
震えた。
「――けれど」
エレオノーラさんは。
志賀の膝の上の真っ白な職業札を。
見下ろした。
【職業:なし】
【灯:分かたれし者】
「――昨夜、わたくしは見ていました。
黒い巨人の全身から、金色の華が咲くのを。
……あなたが古き魔を自分の中から追い出すのを」
エレオノーラさんの声が。
わずかに柔らかくなった。
「――『偽物でいい。二番目で、いい。こいつの隣に、立てるなら』。
……あなたは、そう言ったそうですね。
白峰殿から、聞きました」
志賀の顔が。
真っ赤になった。
「……っ、あいつ……ッ」
「――わたくしにも、同じ想いがあります」
エレオノーラさんの言葉に。
志賀が息を呑んだ。
「――あの人の隣に立ちたい。
……ただ、それだけを願って。
わたくしは、剣を振ってきました」
エレオノーラさんは。
小さく。
微笑んだ。
「――同じ人の隣に立ちたいと願う者を。
わたくしは、憎むことができません」
エレオノーラさんは。
立ち上がった。
ガルドさんを、振り返った。
「――ガルド。
志賀殿の裁きは、この戦が終わるまで、預かります。
王都に戻ってから、父上と宰相と正式に定めましょう」
「――殿下」
「――それまでは」
エレオノーラさんの青い瞳が。
志賀を見下ろした。
「――あなたが自分の罪に、どう向き合うのか。
わたくしは、この目で見せていただきます」
志賀は。
床に膝をついたまま。
エレオノーラさんを、見上げていた。
それから。
もう一度。
深く。
頭を下げた。
「――……はい」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――それと」
ガルドさんが。
低い声で言った。
「――一つ確かめておきたい。
お前は、魔王城を知っているな」
志賀が。
顔を上げた。
「……ああ。
……メフィラに、連れていかれた。
夜の明けぬ谷の底の黒い城だ」
「――道は」
「……覚えてる」
志賀は。
立ち上がった。
膝が震えていた。
けれど。
立った。
「――俺に案内させてくれ」
治療所の中が。
ざわめいた。
「――北の山脈を越えて。
夜の明けぬ谷を下って。
魔王城まで。
……俺が知ってる限りの道を全部、教える」
志賀は。
僕を。
見た。
それから。
ガルドさんを見た。
「――職業は、なしだ。
剣も魔法も、もう、使えねえ。
……戦いの役には、立たないかもしれない。
でも、道案内くらいはできる」
志賀の声が。
少しだけ震えた。
「――それに。
遥さんに言われたんだ。
『君は、まだ間に合う』って。
……あの人に返事をしなきゃいけない」
ガルドさんは。
長い間。
志賀を見下ろしていた。
それから。
僕を見た。
僕は。
うなずいた。
ガルドさんは。
深く。
息を吐いた。
「――……坊主がそう言うなら。
……好きにしろ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その日の昼過ぎ。
砦の城壁の上で。
志賀は。
一人ずつ。
頭を下げて回っていた。
「――三枝」
櫓の上で。
結界の疲れで、毛布にくるまって座り込んでいた三枝さんの前に。
志賀が立った。
三枝さんが。
びくりと肩を震わせた。
半年前。
ヴェルンで。
三枝さんに、荷物を背負わせ続けた男。
「お前の結界なんか、誰も当てにしてねえよ」と、言い放った男。
志賀は。
三枝さんの前に。
膝をついた。
「――……荷物持ちなんかじゃ、なかったなお前」
三枝さんの目が。
見開かれた。
「――昨夜、城壁の上からずっと見てた。
……巨人の中に入る前も、出た後も。
お前の結界が、ずっと砦を守ってた。
……ルーカスまで救って」
志賀は。
頭を下げた。
「――ヴェルンで、ひどいこと言った。
……ごめん」
三枝さんは。
しばらく。
何も、言えなかった。
それから。
毛布の中から。
小さな手を出して。
「……う、うん」
小さくうなずいた。
「……い今の志賀くんの顔。
……最初のゼミの飲み会のときの、顔と同じだね」
志賀が。
顔を上げた。
三枝さんの後ろの影の中で。
桐生が。
腕を組んで。
小さく。
笑っていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――大河内」
城壁の正門の上で。
剛が包帯だらけの体で、座り込んでいた。
その隣に。
堂島が。
志賀は。
二人の前に立った。
「――……堂島のこと。
ありがとな」
剛は。
しばらく志賀を見上げていた。
それから。
にっと笑った。
「――難しいことは、分からんが。
……礼なら、堂島に言え。
帰ってきたのは、こいつ自身だ」
志賀は。
堂島を見た。
堂島は。
真っ赤な顔で。
うつむいていた。
「……し、志賀さん……。
お、俺……もう、志賀さんの子分じゃ、なくていいんすか……?」
志賀が。
目を丸くした。
それから。
吹き出した。
「――……ばか。
最初から子分なんかじゃ、ねえよ」
志賀は。
堂島の大きな肩を、拳で軽く叩いた。
「――……ダチだろ」
堂島の目から。
涙が溢れた。
「――ウッス……ッ!」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
砦の裏手の、兵糧の荷馬車の脇で。
吉岡が。
厨房の前掛けを、着けたまま。
握り飯を兵たちに配っていた。
その手が。
志賀の姿を、見た瞬間に。
止まった。
「――……あ」
吉岡の顔が。
真っ青になった。
ブラウエンの宿屋で。
夜明け前に。
何も言わずに。
志賀を置いて逃げた男。
志賀が。
吉岡の前に立った。
長い。
長い。
沈黙だった。
吉岡の握り飯を持つ手が。
震えていた。
「……ま、まあまあ……。
ひ、久しぶりだな志賀……。
い、いや、そのブラウエンのことは……その……」
「――吉岡」
志賀が。
吉岡の言葉を遮った。
吉岡が。
びくりと肩を震わせた。
志賀は。
吉岡の手から。
握り飯を一つ。
取った。
かぶりついた。
もぐもぐと。
噛んで。
飲み込んだ。
「――……うまいなこれ」
吉岡が。
ぽかんと口を開けた。
「……え」
「――お前が握ったのか?」
「……い、いや……。
芹沢と料理長が……。
お、俺は運んできただけで……」
「――運んできたんだろ。
……王都から北の砦まで。
厨房の前掛け、着けたまま」
志賀は。
もう一口、握り飯をかじった。
「――……逃げたことは、怒ってねえよ。
あのとき逃げなかったら。
お前も、メフィラに喰われてた」
志賀は。
吉岡をまっすぐに見た。
「――でもさ。
……今度は、逃げずに来たんだな」
吉岡の顔が。
くしゃくしゃに、歪んだ。
「……ま、まあまあ……。
な長いものには、巻かれろって、言うだろ……。
お、王様が北に援軍出すって言うから……。
ついでにっていうか……」
吉岡の声が。
震えていた。
「……ご、ごめんな志賀。
……ブラウエンで、一言も言わずに逃げて」
志賀は。
握り飯の最後の一口を、飲み込んだ。
それから。
笑った。
「――……ああ。
お互い様だ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
砦の仮設の治療所の片隅で。
一人の金髪の青年が。
寝台の上で、目を覚ました。
ルーカス。
灰色だった肌は。
すっかり人の色に戻っていた。
赤く濁っていた目は。
澄んだ青い色を、取り戻していた。
「……ここは……」
ルーカスが。
掠れた声で、つぶやいた。
寝台の脇に。
澪さんと三枝さんが座っていた。
「……アルセリアの北の砦です」
澪さんが静かに言った。
「……もう、大丈夫。
古き魔の霧は全部、抜けました」
ルーカスは。
しばらく天井を見上げていた。
それから。
その目から。
涙がこぼれた。
「……覚えています。
……全部」
ルーカスの声が。
震えていた。
「……父上が灰になったのも。
……莉愛が夜会で泣いていたのも。
……莉愛の魅了にかかったのも。
……メフィラに、操られたのも」
ルーカスは。
両手で顔を覆った。
「……莉愛は……今、どこに……」
三枝さんが。
おずおずと、口を開いた。
「……み、ミレアに……。
こ、国外追放になって……。
で、でも、元気に旅立ちました……。
さ、最後に笑ってたって……」
ルーカスは。
しばらく。
何も、言わなかった。
それから。
小さく。
つぶやいた。
「……莉愛の魅了は。
……最初は、確かに魅了だった。
……でも」
ルーカスの青い目が。
窓の外の星空を見上げた。
「……侯爵家の屋敷の庭で。
二人で薔薇を見ていたとき。
……莉愛が、『ルーカス様、薔薇の名前全部、
覚えてるの、すごいね』って、言ってくれたんです。
……誰も、そんなこと、気にしたことがなかったのに」
ルーカスは。
涙を拭った。
「……あれは魅了じゃ、なかった。
……あの言葉だけは、きっと本物でした」
澪さんと三枝さんが。
顔を見合わせた。
「……手紙を書いてもいいでしょうか」
ルーカスが言った。
「……ミレアの莉愛に。
……あなたの言葉は、ちゃんと届いていたと」
三枝さんが。
目を潤ませて。
大きくうなずいた。
「……う、うん……!
き、きっと届けます……!」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その頃。
砦の北の城壁の上で。
志賀が。
一人。
北の夜空を見上げていた。
僕は。
その隣に並んだ。
「……ここにいたんだ」
「……ああ」
志賀は。
北の闇の向こうを、見つめていた。
北の山脈。
そのさらに向こうの。
夜の明けぬ谷。
「……遥さん、今もあそこで歌ってんのかな」
志賀が。
ぽつりと言った。
「……玉座の足元で。
膝、抱えて。
……日本の古い童謡」
「……うん」
僕は。
うなずいた。
「……王都の城壁の上で。
僕たちも、同じ歌を歌ったよ。
王都大侵攻の前の夜に」
志賀が。
僕を見た。
「……そっか」
志賀は。
また北の空を見上げた。
「……メフィラが、言ってたな。
古き魔の本体は、まだ、遥さんの中にあるって。
……お前の灯を、遥さんの手で、喰わせるって」
「……うん」
「……どうすんだよ」
志賀の声が。
少しだけ低くなった。
「……遥さん、本気でお前を、喰いに来るかもしれねえぞ。
……三百年分の古き魔の全部の力で」
僕は。
胸のポケットから。
職業札を取り出した。
金色の炎が。
札の表面を。
端から端まで。
覆い尽くしていた。
その中に。
淡く。
透き通るように。
「候補」の二文字が。
まだ残っていた。
「……分ける」
僕は。
言った。
「……遥さんにも。
……灯を分ける。
志賀に分けたみたいに」
志賀は。
長い間。
僕を見ていた。
それから。
小さく。
笑った。
「……お前ほんと変な奴だな」
「……最近、よく言われる」
「……知ってるよ」
志賀は。
真っ白な自分の職業札を。
ポケットから、取り出した。
【職業:なし】
【灯:分かたれし者】
その金色の二行目を。
星明かりにかざした。
「……なあ、白峰」
「……うん」
「……俺も、分けていいか。
……遥さんに。
……俺の灯」
僕は。
志賀を見た。
志賀の黒い澄んだ目が。
まっすぐに。
僕を見ていた。
「……あの人に聞かれたんだよ。
『誰の隣に立ちたかったの』って。
……答えは、出た。
……だから、今度は俺があの人に聞きたい」
志賀は。
北の空を見上げた。
「――『あんたは、誰の隣に立ちたかったんだ』って」
胸のポケットが。
ふわりと。
温かくなった。
「……うん」
僕は。
うなずいた。
「……一緒に行こう。
……隣で」
志賀は。
照れくさそうに。
鼻を鳴らした。
「……ああ。
……隣でな」




