第65話「裏切りの華」
第65話「裏切りの華」
巨人の胸に、ひびが入った。
外で待っていた者たちは。
後に口を揃えてそう語った。
剛と堂島の二色の壁の向こうで。
エレオノーラさんと、シロガネと、桐生の目の前で。
城壁の上の、三枝さんと、古賀とヴェルダさんの見下ろす先で。
治療所の入り口で、両手を胸の前で握りしめた、澪さんの見つめる先で。
城壁よりも高い黒い巨人の。
その胸の真ん中に。
埋め込まれた、志賀の上半身の周りに。
金色のひびが。
一筋。
走った。
「……光った」
桐生が。
掠れた声で、つぶやいた。
ひびは。
一筋では、終わらなかった。
二筋。
四筋。
八筋。
巨人の黒い胸の上を。
金色のひびが。
蜘蛛の巣のように。
いや。
植物の根のように。
枝分かれしながら。
広がっていった。
胸から。
肩へ。
腕へ。
脚へ。
黒い巨人の全身に。
金色の根が。
張り巡らされていった。
巨人が。
吠えた。
けれど。
その咆哮は。
さっきまでの、大地を震わせる、恐ろしい咆哮では、なかった。
苦しげな。
悶えるような。
悲鳴、だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
――巨人の内側で。
研究室が崩れていた。
黒い霧で作られた、篠原ゼミの研究室が。
金色の光に、内側から照らされて。
壁が。
天井が。
床が。
ひび割れ、砕け、光の破片となって散っていった。
その崩れていく研究室の真ん中で。
僕と志賀は。
並んで立っていた。
手を繋いだまま。
金色の灯が。
二人の繋いだ手の間を。
巡り続けていた。
――器。
――器。
――お前は、我の器。
黒い霧の声が。
四方から押し寄せてきた。
研究室の崩れた壁の向こうに。
黒い霧の海が。
広がっていた。
その海の中に。
無数の赤い目。
そして。
その赤い目の、群れの中心に。
一つの巨大な影が。
浮かんでいた。
形のない。
ただ、黒い。
けれど、その黒の中に。
すべての光を、呑み込もうとする、底なしの飢え。
――古き魔。
三百年前に、遥さんを呑み込んだ。
北の山脈の向こうから、魔物の群れを率いて現れる、古い名もなき、災い。
その巨大な影の隣に。
もう一つの影が。
浮かんでいた。
黒いヴェール。
漆黒のドレス。
赤い唇。
メフィラ。
けれど。
その姿は。
平原で見たあの女の姿とは、どこか、違っていた。
輪郭が。
揺らいでいた。
黒い霧と溶け合うように。
古き魔の巨大な影と、繋がるように。
「――……驚いたわ」
メフィラの声が。
崩れていく研究室に、響いた。
甘く。
けれど、その奥に。
初めて。
苛立ちと焦りが滲んでいた。
「――器の内側にまで、入り込むなんて。
……灯の候補。
あなたは、本当に厄介な子ね」
メフィラの赤い瞳が。
僕を見て。
それから。
僕の隣の志賀を見た。
「――志賀様」
メフィラの声が。
甘く蕩けるように変わった。
「――惑わされては、いけませんわ。
その子は、あなたを二番目にしようとしているの。
隣に立てなんて。
綺麗な言葉で、あなたを自分の引き立て役にしようと」
メフィラの白い指先が。
宙で。
志賀へと伸びた。
「――あなたは、本物の勇者よ。
誰よりも、強い。
誰よりも、輝いている。
……わたくしが、それを証明してあげる。
古き魔の力で。
誰もがあなたを見るように。
誰もがあなたの名を呼ぶように」
黒い霧の触手が。
メフィラの指先から。
志賀へと。
伸びてきた。
志賀は。
動かなかった。
ただ。
メフィラを。
まっすぐに。
見ていた。
僕の手を。
握ったまま。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――……なあ、メフィラ」
志賀が。
口を開いた。
その声は。
もう。
誰の声とも、重なっていなかった。
志賀拓真の。
志賀拓真だけの声。
「――お前、俺のこと何回、『本物の勇者様』って呼んだ?」
メフィラの触手が。
止まった。
「――侯爵の城で。
王都の侯爵邸で。
魔王城で。
……数え切れねえくらい、呼んでくれたよな」
志賀は。
自分の胸の金色の光を。
見下ろした。
「――でもさ。
お前、一回も俺の名前、呼ばなかったよな」
メフィラの赤い瞳が。
揺れた。
「――『志賀様』とは、呼んだ。
でも、それ、苗字だろ。
……俺の下の名前。
知ってるか?」
メフィラは。
答えなかった。
「――知らねえだろ。
興味、なかったんだろ。
……お前にとって、俺は、ただの器だったから」
志賀は。
笑った。
寂しそうに。
けれど、どこか。
吹っ切れたように。
「――こいつはさ」
志賀は。
繋いだ手を。
少しだけ持ち上げた。
僕の手を。
「――こいつはさっき、俺のこと、『志賀』って呼んだ。
……でも、それだけじゃねえ。
俺が合宿の場所を見つけたこと。
桐生を校舎の裏から連れ出したこと。
花菱を飲み会の輪に入れたこと。
……全部、覚えてた」
志賀の声が。
震えた。
「――俺が何をしたかを見てくれてた。
……肩書きじゃなくて。
俺を」
金色の光が。
志賀の胸から。
さらに。
大きく。
燃え上がった。
「――だから」
志賀が。
メフィラを。
睨みつけた。
その目に。
もう。
赤い光は、なかった。
黒い。
澄んだ。
志賀自身の瞳。
その奥に。
金色の灯が。
燃えていた。
「――俺は、お前の器じゃねえ」
志賀の声が。
崩れていく研究室に。
響き渡った。
「――本物の勇者でも、黒き勇者でもねえ。
……偽物でいい。
二番目でいい。
……こいつの隣に、立てるなら」
志賀は。
繋いでいない、もう片方の手を。
自分の胸に。
当てた。
「――出ていけよ、古き魔。
……ここは、俺の場所だ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その瞬間。
――巨人の外側で。
金色の根が。
花開いた。
巨人の全身に、張り巡らされた、金色のひびのその一つ一つから。
光が。
溢れ出した。
まるで。
蕾が一斉に開くように。
黒い巨人の胸から。
肩から。
腕から。
脚から。
金色の花が。
咲いた。
何百も。
何千も。
光でできた花。
花弁の一枚一枚が、金色に透き通って。
新月の闇の中で。
燃えるように。
輝いていた。
「――……華、だ」
城壁の上で。
古賀が。
眼鏡を外して、呆然とつぶやいた。
「……巨人の体から。
……金色の華が咲いてる」
黒い巨人の全身が。
金色の華に、覆われていった。
黒い霧が。
華に押しのけられて。
剥がれ落ちていった。
巨人の輪郭が。
崩れていった。
腕が。
黒い霧となって、ほどけた。
脚が。
黒い霧となって、ほどけた。
そして。
巨人の胸の真ん中から。
金色の華に、包まれて。
一人の青年が。
落ちてきた。
黒い甲冑は。
もう、なかった。
ボロボロの大学の私服。
明るい茶色の髪。
志賀、だった。
その隣に。
もう一人。
志賀の手を、握ったまま。
僕がいた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――白峰ッ!」
「――志賀さんッ!」
二つの声が重なった。
桐生と堂島。
二人が。
落ちてくる、僕と志賀の真下へと。
駆け込んできた。
桐生が。
僕を受け止めた。
堂島が。
志賀を受け止めた。
二人とも。
平原の土の上に、尻餅をついた。
「――……っ、志賀さん……ッ!」
堂島が。
腕の中の志賀を、見下ろしていた。
志賀は。
目を閉じていた。
けれど。
その胸が。
ゆっくりと。
上下していた。
生きていた。
「……志賀さん……っ、志賀さん……っ」
堂島の大きな体が。
震えていた。
声を上げて、泣いていた。
志賀の瞼が。
震えた。
薄く。
開いた。
黒い澄んだ瞳が。
堂島を見上げた。
「……堂島……」
掠れた声。
「……お前……帰って、きたのか……」
「――ウッス……ッ!」
堂島が。
泣きながら、うなずいた。
「――帰ってきたっすよ……ッ!
大河内が待っててくれたから……ッ!」
志賀の唇が。
歪んだ。
「……そっか……」
志賀の目から。
涙がこぼれた。
「……悪かったな堂島。
……お前のこと、ずっと子分扱いして」
「――そ、そんなこと……ッ!」
志賀の黒い瞳が。
堂島の肩越しに。
もう一人の、影を捉えた。
僕を受け止めた桐生を。
短く切った前髪の。
その奥の目が。
志賀を見ていた。
志賀の顔が。
くしゃりと、歪んだ。
「……桐生」
桐生は。
何も、言わなかった。
ただ。
志賀を見ていた。
「……『使えねえ奴は、いらねえ』って、書いたよな。
……手紙に」
志賀の声が。
震えていた。
「……ごめん。
……本当にごめん」
桐生の肩が。
びくりと震えた。
長い。
長い。
沈黙だった。
それから。
桐生は。
僕をそっと土の上に下ろして。
志賀の前に。
しゃがみ込んだ。
そして。
手を。
差し伸べた。
高校の校舎の裏で。
志賀が桐生にそうしたように。
「――……お前根性あるな」
桐生の声が。
震えていた。
「――古き魔、相手に。
……一回も、負けなかった」
志賀の目が。
大きく。
見開かれた。
それから。
志賀は。
笑った。
泣きながら。
楽しそうに。
本当に楽しそうに。
高校の校舎の裏で。
前髪の長い、小柄な少年に、手を差し伸べたあのときと。
同じ顔で。
志賀が。
桐生の手を。
握った。
僕は。
平原の土の上に、仰向けに倒れたまま。
その光景を。
見ていた。
――あの顔、もう一回、見たいんだよ。
桐生の願いが。
叶っていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――よくも」
冷たい声が。
平原に響いた。
振り返った。
崩れ落ちた、巨人の黒い霧の残骸の中に。
メフィラが、立っていた。
その姿は。
もう。
人の形を保っていなかった。
黒いヴェールが。
千切れていた。
漆黒のドレスが。
黒い霧と溶け合っていた。
そして。
ヴェールの下の。
その顔は。
顔では、なかった。
黒い霧の渦。
その渦の中に。
赤い目が二つ。
いや。
二つでは、なかった。
四つ。
八つ。
十六。
無数の赤い目が。
渦の中で。
蠢いていた。
――古き魔の化身。
メフィラは。
人では、なかった。
最初から。
「――三百年」
メフィラの声が。
もう、甘くはなかった。
何十も。
何百も。
重なり合った。
古く濁った声。
「――三百年、待った。
あの男の中で、目覚める日を。
あの男が拒み続けるから。
代わりの器を、探して。
探して。
ようやく見つけた器を」
赤い目が。
一斉に。
志賀を睨みつけた。
「――裏切ったな器」
志賀が。
桐生の手を、握ったまま。
メフィラを、見上げた。
「――……ああ」
志賀は。
笑った。
「――裏切ったよ。
……お前をな」
メフィラの、黒い霧の渦が。
激しく。
蠢いた。
崩れ落ちた巨人の黒い霧の残骸が。
メフィラの体へと。
吸い寄せられていった。
古き魔の欠片が。
メフィラの中に。
戻っていった。
メフィラの背後に。
二つの影が、従っていた。
ドルマン侯爵と。
ルーカス。
灰色の肌の。
赤い目の。
古き魔の抜け殻。
メフィラが。
その二つの影を。
振り返った。
「――……もう、いいわ」
メフィラの黒い霧の手が。
ドルマン侯爵の胸に。
触れた。
ドルマン侯爵の体から。
黒い霧が。
すべて。
メフィラの中へと。
吸い取られていった。
侯爵の灰色の体が。
ひび割れた。
乾いた粘土のように。
ひびが全身に走って。
「……あ……」
ドルマン侯爵の唇が。
最後に。
かすかに動いた。
「……わし……は……王に……」
侯爵の体が。
崩れ落ちた。
灰になって。
平原の凍りついた土の上に。
小さな灰の山だけが。
残された。
双頭の鷲の侯爵の。
それが。
最期だった。
王位を望み。
魔王と手を結び。
古き魔に魂を明け渡した男の。
誰も。
その灰の山を。
振り返らなかった。
メフィラの黒い霧の手が。
次に。
ルーカスの胸に。
伸びた。
けれど。
その手が触れる直前に。
「――け、【結界】……ッ!」
青い光が。
ルーカスの体を。
包み込んだ。
三枝さんだった。
城壁の上から。
ありったけの力で。
青い結界が。
メフィラの手を。
弾き返した。
ルーカスの灰色の体から。
黒い霧が。
剥がれ落ちていった。
古き魔の欠片が。
メフィラの中に、戻っていったその瞬間に。
ルーカスを、縛っていた霧も。
緩んでいたのだ。
ルーカスの灰色の肌が。
少しずつ。
人の色に戻っていった。
赤く濁った目が。
少しずつ。
澄んでいった。
ルーカスが。
平原の土の上に。
崩れ落ちた。
息をしていた。
「――……は花菱さんの婚約者、だから……ッ」
三枝さんの震える声が。
城壁の上から、降ってきた。
「――……し、死なせたら、花菱さんが悲しむから……ッ!」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
メフィラの無数の赤い目が。
三枝さんを。
睨みつけた。
それから。
僕を。
志賀を。
桐生を。
堂島を。
剛を。
エレオノーラさんを。
シロガネを。
平原に立つすべての者を。
「――……覚えておきなさい」
メフィラの、古く濁った声が。
平原に響いた。
「――器は、失った。
……でも、古き魔の本体はまだ、あの男の中にある。
三百年、あの男の中で眠り続けてきた」
メフィラの体が。
黒い霧に。
溶け始めた。
「――灯の候補。
あなたは、来るのでしょう?
北の果ての夜の明けぬ谷へ。
あの男を救いに」
メフィラの黒い霧が。
渦を巻いた。
「――来なさい。
そこであなたの灯をいただくわ。
……あの男の手で」
黒い霧が。
北の空へと。
舞い上がっていった。
新月の闇の中へ。
その霧が去っていくと同時に。
平原を埋め尽くしていた、二万の魔王軍が。
一斉に。
動きを止めた。
赤い目が。
揺らいだ。
まるで。
糸を断たれた、操り人形のように。
それから。
魔物たちは。
一体、また一体と。
北へ。
北の山脈へと。
潮が引くように。
退いていった。
統率を失って。
ばらばらに。
怯えるように。
城壁の上から。
歓声が。
上がった。
五千の兵の。
千騎の第二陣の。
船乗りたちの村の若者たちの。
その歓声の中で。
僕は。
平原の土の上に、仰向けに倒れていた。
新月の空が。
見えていた。
雲が。
少しずつ。
晴れていった。
その雲の切れ間から。
星が。
一つ。
また一つ。
瞬き始めていた。
隣に。
志賀が倒れていた。
桐生と堂島に挟まれて。
志賀が。
首だけをこちらに向けた。
「……おい、白峰」
「……うん」
「……星、見えるな」
「……うん」
志賀は。
しばらく。
黙って。
星を見上げていた。
それから。
ぽつりと言った。
「……俺の札。
……どうなってる?」
僕は。
志賀の腰に、手を伸ばした。
黒い甲冑と、一緒に職業札も、失われているかと思った。
けれど。
志賀の大学の私服のポケットの中に。
一枚の札が、入っていた。
黒くは、なかった。
ただの。
何も刻まれていない。
真っ白な札。
その真っ白な札の表面に。
文字が。
ゆっくりと。
浮かび上がっていった。
【職業:なし】
志賀が。
その文字を。
見つめていた。
長い間。
それから。
その下に。
もう一行。
淡い金色の文字が。
浮かび上がった。
【灯:分かたれし者】
志賀の目が。
大きく。
見開かれた。
「……なしか」
志賀の唇が。
震えた。
「……魔剣士も。
勇者も。
……全部、なくなっちまった」
それから。
志賀は。
金色の二行目を。
指先で。
そっと。
なぞった。
「……でも」
志賀の目から。
涙がこぼれた。
「……これだけは、残ったんだな」
志賀は。
札を。
胸に。
抱きしめた。
「……悪くねえ」
その声が。
星空の下で。
小さく。
けれど、確かに。
響いた。
「……悪くねえよ、白峰」




