第64話「霧の中の教室」
第64話「霧の中の教室」
沈んでいく。
影の中を。
桐生に手を引かれて。
冷たくはなかった。
桐生の影はただ静かで暗くて、どこか、優しかった。
誰にも見つからないように、ずっと息を殺してきた者の影。
その影が。
平原の土の上を、滑るように、走っていった。
剛と堂島の、二色の壁の下を、くぐり抜け。
巨人の黒い足の影へと。
足の影から、脚の影へ。
脚の影から、胴の影へ。
そして。
「――ここまでだ」
桐生の声が。
暗闇の中で、響いた。
「――この先は、霧だ。俺の影じゃない。
……古き魔の霧の中だ」
桐生の手が。
僕の手を離しかけた。
それから。
もう一度。
強く握った。
「――……白峰」
「……うん」
「――……あいつ高校のとき。
俺を校舎の裏から、連れ出してくれたとき。
笑ってたんだ。
……すげえ、楽しそうに」
桐生の声が。
少しだけ震えた。
「――……あの顔、もう一回、見たいんだよ」
「……うん。約束する」
桐生の手が。
離れた。
僕は。
一人で。
黒い霧の中へと。
落ちていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
最初に聞こえたのは。
チャイムの音だった。
キーン、コーン、カーン、コーン。
懐かしい。
元の世界の。
学校の。
目を開けた。
廊下に立っていた。
リノリウムの床。
白い壁。
窓の外に夕焼け。
その夕焼けの色が。
どこか、くすんでいた。
古い写真のように。
色褪せていた。
高校の廊下だった。
僕が通っていた高校ではない。
けれど、どこにでもある。
日本の高校の廊下。
その廊下の窓の外に。
校舎の裏が、見えた。
錆びた焼却炉。
雑草の生えた空き地。
そこに。
四つの影が、あった。
三人の男子生徒が。
一人の小柄な男子生徒を、囲んでいた。
小柄な男子生徒は。
前髪が長かった。
目元を隠すほど。
壁に背中を押しつけられて。
殴られていた。
けれど。
泣いていなかった。
――桐生。
そこへ。
もう一つの影が。
走ってきた。
サッカー部のユニフォーム。
明るい茶色の髪。
「――おい、何やってんだよ」
声が。
窓硝子越しに、聞こえてきた。
三人の男子生徒が。
振り返った。
茶色の髪の、男子生徒を見て。
顔色を変えた。
逃げていった。
茶色の髪の男子生徒が。
壁際に座り込んだ、前髪の長い男子生徒の前に。
しゃがみ込んだ。
手を。
差し伸べた。
「――お前根性あるな。
三人相手に、一回も泣かなかった」
前髪の長い男子生徒が。
その手を見上げた。
茶色の髪の男子生徒が。
笑った。
楽しそうに。
本当に楽しそうに。
――志賀。
窓硝子の向こうのその光景が。
ゆっくりと。
色褪せて。
霧の中に溶けていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
廊下を歩いた。
廊下は、どこまでも続いていた。
窓の外の光景が。
歩くたびに、変わっていった。
サッカー部のグラウンド。
ゴールを決めて。
仲間たちに、囲まれて。
笑っている、茶色の髪の少年。
教室。
クラスの中心で。
みんなに話しかけられて。
笑っている、茶色の髪の少年。
けれど。
その笑顔の輪の中で。
茶色の髪の少年が。
ふと。
一人だけ。
窓の外を見ている瞬間があった。
誰も、気づかない。
ほんの一瞬。
その一瞬の目が。
ひどく。
寂しそうだった。
廊下が。
変わった。
リノリウムの床が。
古い木の床になった。
白い壁が。
煤けた石の壁になった。
大学の研究棟の廊下だった。
窓の外に。
居酒屋の座敷が見えた。
ゼミの飲み会。
十五人が長い座卓を囲んでいた。
その座卓の隅っこに。
一人で座っている巻き髪の女の子。
みんなが笑い合っている中で。
一人だけグラスを両手で握りしめて。
そこへ。
茶色の髪の青年が。
自分のグラスを、持って近づいていった。
「――お前こっち来いよ」
巻き髪の女の子が。
顔を上げた。
――花菱さん。
茶色の髪の青年が。
花菱さんの手を、引いて。
座卓の真ん中の輪の中に。
連れていった。
その輪の中で。
茶色の髪の青年の隣で。
ビールを注いでいる大柄な青年。
自分は、酒が弱いくせに。
無理をして、飲んでいる。
――堂島。
その少し離れた席で。
一人だけ冷めた目で、その光景を、眺めている自分がいた。
いや。
違う。
僕は、その飲み会で。
幹事として、店員さんに、追加の注文を頼んでいた。
座卓の輪の中には、いなかった。
窓の外の光景が。
色褪せて。
霧の中に溶けていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
廊下の突き当たりに。
扉があった。
古い木の扉。
その上に札が掛かっていた。
『篠原ゼミ 研究室』
扉を開けた。
研究室だった。
長い机。
壁一面の本棚。
窓際の教授の机。
窓の外は。
夕焼けでも、夜でもなかった。
ただ。
黒かった。
墨を流し込んだような。
古き魔の霧の色。
その黒い窓の前に。
一つの机があった。
長い机の端の。
一つだけ。
その机の上に。
一枚の紙が、置かれていた。
小さな投票用紙。
『ゼミ長選挙』
その下に。
二つの名前。
『白峰 陽翔』
『志賀 拓真』
そして。
『白峰 陽翔』の名前の横に。
小さな丸が。
一つ。
書き込まれていた。
その机の前の椅子に。
一人の青年が。
座っていた。
明るい茶色の髪。
大学のときの私服。
黒い甲冑では、なかった。
志賀、だった。
机に突っ伏していた。
顔を腕に埋めて。
肩が。
小刻みに震えていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「……志賀」
声をかけた。
志賀の肩が。
びくりと跳ねた。
「……来るなよ」
くぐもった声。
腕に顔を埋めたまま。
「……来るなって、言っただろ」
「……うん。でも、来た」
僕は。
志賀の隣の椅子を引いた。
座った。
志賀は。
顔を上げなかった。
研究室の黒い窓の外で。
何かが。
蠢いていた。
黒い霧の中の、無数の赤い目。
こちらを覗き込んでいた。
――器。
――器。
――お前は器。
囁く声。
メフィラの声。
いや。
メフィラよりも、ずっと古く深い。
古き魔、そのものの声。
その声が。
研究室の窓硝子を、震わせていた。
「……この投票用紙」
僕は。
机の上の小さな紙を見た。
「……ゼミ長選挙のだよね」
志賀は。
答えなかった。
「……白峰陽翔、に丸がついてる」
志賀の肩が。
また震えた。
「……これ、志賀が書いたの?」
長い。
長い。
沈黙だった。
それから。
「……ああ」
掠れた声。
「……俺が書いた。
……自分の票だよ」
僕は。
息を呑んだ。
半年前。
いや。
元の世界での一年前。
ゼミ長選挙。
十五人の投票。
結果は。
八票と七票。
一票差で僕が選ばれた。
その一票が。
「……なんで」
声が掠れた。
「……なんで僕に」
志賀が。
ゆっくりと。
顔を上げた。
目が。
赤く腫れていた。
頬が。
涙で濡れていた。
その顔は。
黒い甲冑の、黒き勇者の顔では、なかった。
ただの。
二十一歳の。
大学三年生の。
志賀拓真の顔だった。
「……お前が合宿のしおり、徹夜で作ってたの知ってたから」
志賀の声が。
震えていた。
「……ゼミの誰も、やりたがらない面倒なこと。
……教授との連絡も。
飲み会の幹事も。
お前全部、黙ってやってた。
……文句一つ言わずに」
志賀は。
投票用紙を、見下ろした。
「……俺には、できなかった。
……俺は、いつも、みんなの真ん中にいたかった。
……拍手される側に、いたかった。
……お前みたいに、誰にも見られないところで、誰かのために、動くなんて。
……できなかった」
志賀の拳が。
机の上で握りしめられた。
「……だから、お前に入れた。
……お前のほうが、ゼミ長にふさわしいって。
……本当は、分かってたから」
志賀の目から。
また涙が溢れた。
「……でも、選挙が終わって。
お前が選ばれて。
……悔しかった。
……自分でお前に入れたくせに。
……一票差で負けたのが。
……自分の一票で、負けたのが」
志賀は。
両手で顔を覆った。
「……それから、ずっと。
お前の顔を、見るたびに思ってた。
……俺は、こいつに負けたんだって。
……こいつの隣に立ったら。
俺は、ずっと二番目なんだって」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
研究室の黒い窓の外で。
赤い目が。
ざわめいていた。
――器。
――お前は二番目。
――お前は偽物。
――だから、器になれ。
――我の器に。
窓硝子が。
軋んでいた。
ひびが入り始めていた。
黒い霧が。
窓の隙間から。
研究室の中へと。
滲み込んでき始めていた。
床を這って。
机の脚を這い上がって。
志賀の足元へと。
「……志賀」
僕は。
志賀の震える肩に。
手を置いた。
焼け爛れた痕の、残る左手で。
「……隣に一番も二番もないよ」
志賀の肩が。
止まった。
「……隣は、隣だよ。
並んで立つだけ。
どっちが前とか、後ろとか、上とか、下とか。
……そういうのないんだ」
志賀が。
顔を覆っていた手を。
ゆっくりと。
下ろした。
「……僕だって一人じゃ、何もできない。
剛がいて。
柚木さんがいて。
古賀がいて。
エレオノーラさんがいて。
シロガネがいて。
……みんなが隣にいてくれるから、立っていられる」
僕は。
志賀を。
まっすぐに見た。
「……そこに志賀もいてほしい」
志賀の目が。
大きく。
見開かれた。
「……ゼミの企画を、一番たくさん、出してくれたのは、志賀だった。
合宿の場所を、見つけてくれたのも、志賀だった。
桐生を校舎の裏から連れ出したのも。
花菱さんを、飲み会の輪の中に、入れたのも。
……全部、志賀だった」
黒い霧が。
志賀の足元から。
膝へと。
這い上がってきていた。
「……僕には、できなかったことだよ。
僕は、誰にも見られないところで、誰かのために、動くことはできた。
……でも、誰かの手を引いて輪の真ん中に、
連れていくことは、できなかった。
……それができるのは、志賀だけだった」
黒い霧が。
志賀の腰へと。
志賀は。
その霧に気づいていないかのように。
ただ。
僕を見ていた。
「……遥さんに聞かれたんだよね」
僕は。
言った。
「……『誰の隣に立ちたかったの』って」
志賀の唇が。
震えた。
「……答え、聞かせてほしい」
研究室の窓硝子が。
砕けた。
黒い霧が。
雪崩のように。
研究室の中へと。
なだれ込んできた。
赤い目が。
何百も。
何千も。
研究室の壁を、天井を床を。
埋め尽くしていった。
――器。
――器。
――器になれ。
黒い霧が。
志賀の胸へと。
這い上がってきた。
志賀の唇が。
動いた。
「……俺、は……」
黒い霧が。
志賀の喉へと。
「……白峰の……」
黒い霧が。
志賀の口元へと。
志賀は。
その霧を。
振り払うように。
叫んだ。
「――白峰の隣に、立ちたかったんだよッ!」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その声が。
研究室を。
震わせた。
黒い霧が。
一瞬。
止まった。
志賀の胸の奥から。
光が。
溢れ出した。
金色の。
針の先ほどでは、なかった。
夜会の夜に、僕が分けた、あの小さな種火が。
志賀の胸の中で。
ずっと燃え残っていたあの灯が。
今。
志賀自身の、叫びに応えて。
燃え上がっていた。
「――……ッ!」
志賀が。
自分の胸を、見下ろした。
金色の光が。
志賀の胸から。
溢れていた。
黒い霧が。
その光に触れて。
退いていった。
「……これ……」
志賀の声が。
震えていた。
「……俺の……灯……?」
「……うん」
僕は。
志賀に。
手を。
差し伸べた。
右手を。
「……志賀の灯だよ。
……僕が分けた灯は、ほんの種火だった。
でも、それをここまで燃やしたのは。
……志賀自身だよ」
志賀は。
僕の差し伸べた手を。
見つめていた。
その目に。
涙が。
溢れていた。
「……お前は……」
志賀の唇が。
歪んだ。
泣いているような。
笑っているような。
「……お前は、ほんといつもそうだな。
……上から手を、差し伸べてきやがって」
「……上からじゃないよ」
僕は。
椅子から立ち上がった。
志賀の隣に。
並んで。
立った。
それから。
もう一度。
手を差し伸べた。
上からでも、下からでもなく。
横から。
隣から。
「……隣からだよ」
志賀は。
長い間。
その手を。
見つめていた。
それから。
震える手で。
僕の手を。
握った。
――灯を分かつ。
金色の光が。
僕の手から、志賀の手へ。
志賀の手から、僕の手へ。
巡って。
巡って。
研究室の中を。
金色に。
染め上げていった。
黒い霧が。
悲鳴を上げた。
赤い目が。
一つまた一つと。
金色の光の中で。
潰れて消えていった。
志賀が。
立ち上がった。
僕の隣に。
並んで。
その顔に。
涙が流れていた。
けれど。
その唇が。
笑っていた。
楽しそうに。
本当に楽しそうに。
高校の校舎の裏で。
前髪の長い、小柄な少年に、手を差し伸べたあのときと。
同じ顔で。
「……桐生に見せてやりてえなこの顔」
志賀が。
照れくさそうに、言った。
「……うん」
僕は、笑った。
「……桐生、外で待ってるよ」




