第63話「黒き巨影」
第63話「黒き巨影」
志賀の体が、闇に喰われていった。
胸の真ん中に、流れ込んだ黒い霧が。
内側から。
志賀のすべてを。
塗り潰していった。
黒い甲冑の、継ぎ目という継ぎ目から。
黒い霧が噴き出した。
噴き出した霧が。
志賀の体の周りで、渦を巻き。
膨れ上がり。
形を成していった。
腕が伸びた。
人の腕の長さを越えて。
丸太のように、太く。
その先に黒い、鉤爪のような指が生えた。
脚が伸びた。
背が伸びた。
二倍。
三倍。
五倍。
志賀の体を、核として。
黒い霧が。
巨大な人の形を、作り上げていった。
城壁と同じ高さの。
いや、城壁よりもさらに高い。
黒い巨人。
その胸の真ん中に。
黒い霧に半ば呑み込まれて。
志賀の上半身が。
埋め込まれていた。
黒い甲冑の腕が。
巨人の胸から、突き出して。
もがいていた。
志賀の顔が。
黒い霧の中から、半分だけ覗いていた。
目を固く閉じていた。
唇が苦しげに歪んでいた。
そして。
巨人の頭の部分に。
顔は、なかった。
ただ。
二つの。
巨大な。
赤い目が。
新月の闇の中で。
燃えていた。
「――ああ」
メフィラの甘い声が。
巨人の足元で、響いた。
「――美しいわ」
メフィラは。
巨人を見上げていた。
ヴェールの奥の赤い瞳が。
恍惚と輝いていた。
「――三百年、魔王様が拒み続けてきた古き魔の器。
……ようやく形になった」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
巨人が。
吠えた。
声では、なかった。
空気が裂けた。
大地が震えた。
平原の凍りついた草が。
一斉に。
黒く枯れて崩れ落ちた。
その咆哮に、応えるように。
二万の魔王軍が。
動いた。
左右に割れて、道を空けていた黒い波が。
一斉に。
砦へと。
押し寄せていった。
「――全軍、迎え撃てッ!」
砦の城壁の上から。
ガルドさんの声が、響いた。
けれど、その声は。
魔物の咆哮の嵐の中に。
かき消されそうに、なっていた。
僕は。
平原の凍りついた土の上に。
縫い止められていた。
足元の影から伸びた黒い霧の手が。
足に。
腕に。
胴に。
絡みついていた。
冷たい。
重い。
灯が。
押し潰されていく。
隣で。
エレオノーラさんも。
シロガネも。
同じように。
影の手に縫い止められていた。
巨人が。
ゆっくりと。
その巨大な黒い足を。
持ち上げた。
僕の真上に。
――踏み潰される。
胸のポケットが。
燃えようとした。
けれど。
影の手が。
その灯を押し潰していた。
黒い足が。
落ちてきた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――【影歩き】」
僕の足元の影の中から。
黒い外套の細身の影が。
滲み出した。
桐生。
その手の黒い短剣が。
僕の体に絡みついた影の手を。
一本。
また一本。
断ち切っていった。
「――影の技なら」
桐生の低い声。
「――俺のほうが、詳しい」
最後の一本が。
断たれた。
体が軽くなった。
跳んだ。
背後で。
黒い足が。
平原の土を、踏み抜いた。
轟音。
土が爆ぜた。
大地が巨人の足の形に陥没した。
桐生が。
エレオノーラさんの、影の中に滲み出していた。
影の手を断ち切っていた。
それから、シロガネの影の中に。
三人とも。
影の手から。
解き放たれた。
「――桐生ッ!」
「――礼は、後だ」
桐生は。
巨人を見上げた。
その胸に埋め込まれた。
志賀の苦しげな顔を。
桐生の短く切った前髪の奥の目が。
揺れていた。
「……志賀」
掠れた声。
「……お前、何になっちまったんだよ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
砦の正門が。
開いていた。
剛の青い壁が。
門の外へと。
押し出されていた。
剛が。
盾を構えて。
平原へと駆け出してきていた。
「――陽翔ッ!」
剛が叫んだ。
「――門を空けるぞッ!
外に出てきた奴らを、壁の内側に入れるッ!」
けれど。
剛の後ろの。
砦の城壁を。
二万の魔王軍が。
黒い波となって。
呑み込もうとしていた。
城壁の上の結界が。
軋んでいた。
櫓の上で。
三枝さんが、膝をついていた。
両手をそれでも、掲げたまま。
その腕が震えていた。
――持たない。
二万は。
多すぎた。
巨人が。
僕たちを見下ろしていた。
赤い二つの目が。
新月の闇の中で。
燃えていた。
巨人の黒い腕が。
振り上げられた。
その腕の先の。
黒い鉤爪が。
僕とエレオノーラさんと、桐生とシロガネと。
駆け寄ってくる剛を。
まとめて。
薙ぎ払おうと。
「――【城壁】ッ!」
剛が。
僕たちの前に、滑り込んで。
盾を掲げた。
青い光の壁が。
立ち上がった。
黒い鉤爪が。
青い壁に。
叩きつけられた。
――砕けた。
一撃で。
王都の東門を守った壁が。
海喰らいの頭を受け止めた壁が。
堂島の拳を受け止めた壁が。
一撃で。
剛の体が。
宙を舞った。
平原の土の上に。
叩きつけられた。
「――剛ッ!」
剛は。
起き上がろうとした。
盾を杖にして。
けれど。
膝が。
崩れた。
巨人の黒い腕が。
再び。
振り上げられた。
今度は。
倒れた剛の真上に。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
そのとき。
平原の南の果てから。
角笛が。
鳴り響いた。
一つではなかった。
二つ。
五つ。
十。
高く。
澄んだ。
アルセリアの角笛。
砦のさらに南の。
灰色の平原の地平線から。
松明の炎が。
何十も。
何百も。
こちらへと。
迫ってきていた。
蹄の音が。
雷鳴のように。
平原を揺らしていた。
騎兵、だった。
銀色の甲冑の。
アルセリアの騎士たち。
その先頭に。
そばかすの顔の正騎士が。
剣を掲げて。
「――アルセリア王国騎士団、第二陣ッ!
王都よりただいま、到着ッ!」
トマスくん、だった。
「――勇者様ああああッ!」
トマスくんの声が。
平原に響き渡った。
そして。
トマスくんのすぐ後ろに。
巨大な影が。
馬に乗って。
駆けてきていた。
膨れ上がっていた筋肉は。
元の大きさに、戻っていた。
赤く濁っていた目は。
黒く澄んでいた。
その手に。
巨大な斧を握りしめて。
堂島、だった。
「――大河内いいいいッ!」
堂島の声が。
平原を揺らした。
「――志賀さああああんッ!」
堂島の後ろに。
さらに二つの影が続いていた。
厩番の作業着の上に、粗末な革鎧を、着込んで。
髪に藁くずを付けたまま。
馬を何十頭も引き連れて。
小田切。
「――委員長ッ!
王都の厩舎の馬、全部、連れてきたっしょッ!
ピートと二人で夜通し、走らせてきたッ!」
その隣に。
厨房の前掛けを、鎧の上から、まだ着けたまま。
荷馬車の御者台に座って。
顔を真っ青にして。
吉岡。
「――ま、まあまあ……!
な長いものには、巻かれろってね……!
お、王様が北に、援軍を出すって言うから……!
こ、厨房から兵糧、運んできただけだからな……!」
吉岡の荷馬車の荷台には。
美咲さんと、ボルグさんが、夜通し握り続けた。
握り飯が。
山のように、積まれていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――堂島ッ!」
剛が。
平原の土の上で。
顔を上げた。
堂島が。
馬から飛び降りた。
斧を構えて。
倒れた剛の前に。
立ちはだかった。
巨人の黒い腕が。
振り下ろされてきた。
「――【狂化】ッ!」
堂島の全身から。
赤い光が。
炎のように。
噴き出した。
けれど。
その赤い光の中に。
黒い霧は。
なかった。
赤いただ、赤い。
純粋な狂戦士の炎。
その炎を纏った斧が。
巨人の黒い鉤爪と。
真正面から。
ぶつかり合った。
――轟音。
堂島の足が。
平原の土に。
めり込んだ。
けれど。
退かなかった。
巨人の黒い腕が。
弾き返された。
「――大河内ッ!」
堂島が。
振り返らずに、叫んだ。
赤い炎を纏ったまま。
けれど、その声は。
はっきりと。
堂島自身の声だった。
「――俺、帰ってきたっすよッ!
今度は、狂化しても、ちゃんと帰ってこられるっすッ!
……帰る場所があるからッ!」
剛の顔が。
くしゃくしゃに、歪んだ。
「――……おう」
剛が。
盾を杖にして。
立ち上がった。
膝が震えていた。
けれど。
立った。
「――おう堂島。
……お前の帰る場所は、ここだ」
剛が。
堂島の隣に、並んだ。
盾を構えた。
「――【城壁】」
青い光が。
二人の前に。
立ち上がった。
その青い光の中に。
堂島の赤い炎が。
混じり合っていった。
青と赤の。
二色の光の壁。
狂戦士の戒律。
――狂化には、帰るべき場所を持て。
重騎士の戒律。
――守るべきものの前に立て。
二人の戒律が。
一枚の壁に。
なっていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
王都からの第二陣は。
千騎だった。
その千騎が。
二万の魔王軍の側面へと。
雪崩のように、突っ込んでいった。
砦の城壁を、呑み込もうとしていた黒い波が。
乱れた。
城壁の上で。
三枝さんが。
もう一度。
立ち上がった。
「――け、結界……ッ!」
青い光が。
再び。
城壁を覆い尽くした。
ガルドさんの声が。
響き渡った。
「――第二陣と呼応しろッ!
挟み撃ちにしろッ!」
戦いの流れが。
変わり始めていた。
けれど。
巨人は。
まだ。
そこにいた。
剛と堂島の、青と赤の壁の前に。
城壁よりも、高く。
黒く。
そびえ立っていた。
その胸に埋め込まれた。
志賀の苦しげな顔。
「――志賀さんッ!」
堂島が。
巨人を見上げて叫んだ。
「――志賀さん、俺っすッ!
堂島っすッ!
分かりますかッ!」
巨人の胸の志賀の顔が。
ぴくりと。
動いた。
固く閉じていた目が。
ほんのわずかに。
開きかけた。
けれど。
巨人の足元で。
メフィラが。
白い指先を、鳴らした。
巨人の全身の黒い霧が。
渦を巻いた。
志賀の目が。
また。
固く閉じられた。
巨人が。
吠えた。
黒い腕が。
剛と堂島の二色の壁へと。
叩きつけられた。
壁が。
軋んだ。
「――ぐうッ……!」
「――持つっすよッ……!
大河内と二人なら……!」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
僕は。
巨人を見上げていた。
その胸に埋め込まれた。
志賀の顔を。
――外からいくら、呼びかけても。
――届かない。
夜会の夜。
黒い剣を素手で掴んで。
灯を分けたとき。
一瞬だけ届いた。
けれど。
今の志賀は。
古き魔の霧の奥の奥に。
沈められていた。
外からの声では。
届かない。
――なら。
「――桐生」
僕は、桐生を呼んだ。
桐生が。
振り返った。
「――影の中から、あの巨人の胸まで。
……行けるかな」
桐生の目が。
見開かれた。
「……お前まさか」
「――中に入る」
僕は。
巨人の胸の志賀を。
見上げた。
「――外からじゃ、届かない。
なら、中に入って。
志賀のすぐ隣で。
……灯を分ける」
「――正気かよ」
桐生の声が。
掠れた。
「――あの霧の中に、入ったら。
お前まで喰われるかもしれないんだぞ」
「……うん」
僕は。
うなずいた。
「……でも、志賀は最後に、『たすけて』って言った」
胸のポケットに。
手を当てた。
大陸じゅうの灯が。
そこで。
燃えていた。
「……桐生も、言ってたよね。
『志賀を止めてやってくれ』って」
桐生は。
長い間。
何も、言わなかった。
それから。
「……くそ」
桐生は。
前髪を乱暴にかき上げた。
「……お前ほんと変な奴だな」
「……最近、よく言われる」
「――……分かったよ」
桐生が。
黒い短剣を、構えた。
「――巨人の影を伝って、胸まで運んでやる。
……でも、そこから先はお前一人だ。
俺は、霧の中までは入れない」
「――一人じゃ、ありません」
エレオノーラさんが。
僕の右手を、握った。
「――わたくしの灯を、持っていってください」
エレオノーラさんの手から。
金色の光が。
僕の手へと。
流れ込んできた。
シロガネが。
僕の左手に。
鼻先を押しつけた。
――独りで進むな。
剛と堂島が。
壁を支えたまま。
振り返った。
「――陽翔ッ!
俺たちの分も持ってけッ!」
「――志賀さんを頼むっすッ!」
城壁の上から。
三枝さんの声。
古賀の声。
治療所の入り口から。
澪さんが。
僕を見ていた。
その唇が。
動いた。
――必ず帰ってきて。
胸のポケットが。
燃え上がった。
「――行くぞ、白峰」
桐生が。
僕の影の中に。
手を伸ばした。
「――【影歩き】」
視界が。
黒く。
沈んだ。




