第62話「三度目の剣」
第62話「三度目の剣」
門の外は、冷たかった。
青い壁をくぐり抜けたその瞬間。
北からの風が、刃のように、頬を切りつけた。
砦の城壁が遮っていた平原の風。
二万の魔物の獣の匂いと血の匂いと、
腐った土の匂いを、すべて運んでくる風。
背後で。
剛の青い壁が。
閉じた。
僕とエレオノーラさんとシロガネは。
砦の外の平原に。
立っていた。
目の前に。
黒い甲冑の、志賀がいた。
その背後に。
二万の魔王軍が。
左右に割れて、道を空けたまま。
黒い壁のように。
蠢いていた。
無数の赤い目が。
僕たちを。
見ていた。
けれど。
魔物たちは。
動かなかった。
まるで。
観客のように。
これから始まるものを。
見物しているかのように。
「――来たか」
志賀の声が。
黒い霧の中から、響いた。
「――王女様と犬まで連れて。
……相変わらず、一人じゃ、何もできねえんだな委員長」
「……うん」
僕は、うなずいた。
「一人じゃ、何もできない。
だから、みんなに隣に立ってもらってる」
志賀の黒い霧が。
わずかに揺らいだ。
「……ふざけんな」
志賀が。
黒い剣を。
構えた。
「――今度こそ、決着だ。
……一対一でやれよ。
王女様と犬は下がらせろ」
エレオノーラさんが、僕の隣で剣を握る手に、力を込めた。
「――白峰殿」
「……大丈夫です」
僕は、エレオノーラさんを見た。
「……少しだけ下がっていてください。
でも、隣にいてください。
声が届くところに」
エレオノーラさんの青い瞳が。
揺れた。
それから。
小さくうなずいた。
「――……声が届くところに」
エレオノーラさんが。
三歩、下がった。
シロガネが。
その隣に並んだ。
僕は。
アルベルトさんの鋼の剣を、抜いた。
焼け爛れた痕の残る左手と。
右手で。
柄を握った。
親指は、ここ。
小指で締める。
志賀と。
向かい合った。
半年前の王都の訓練場。
満月の夜の燃える舞踏会。
そして、今。
新月の夜の北の平原。
三度目の。
剣。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
志賀が消えた。
――いや。
今度は、見えた。
黒い霧の尾が。
新月の闇の中に。
一筋のより濃い闇の線を、描いた。
その線が。
僕の右へと。
回り込んでいた。
剣を立てた。
黒い剣が。
右から。
横薙ぎに。
金属が噛み合った。
――重い。
夜会の夜よりも。
ずっと。
黒い炎が。
刃と刃の接点から。
僕の剣へと。
燃え移ろうとした。
けれど。
燃え移らなかった。
僕の剣に。
金色の光が、灯っていた。
大陸じゅうの灯。
リンドールの。
セイレンの。
オルド村の。
ルーメリアの。
ハルン村の。
王都の。
半月前の夜会の夜には、針の先ほどにまで、しぼんでいた灯が。
今は。
剣の刃の端から端まで。
金色に。
燃えていた。
黒い炎が。
金色の光に、触れて。
退いた。
「――ッ!」
志賀の黒い霧の奥で。
赤い目が。
見開かれた。
「……なんだその光は」
志賀が三歩、下がった。
「……夜会のときより、ずっとでかい」
「……みんながくれたんだ」
僕は。
剣を構え直した。
「……旅の途中で、出会った人たちが。
手紙をくれて。
麦をくれて。
船を出してくれて。
……灯を分けてくれた」
志賀の黒い霧が。
渦を巻いた。
「――……そうかよ」
志賀の声が。
低く。
冷たく。
なった。
「――俺には、誰もくれなかったぞ」
志賀が。
跳んだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
二合目。
三合目。
四合目。
黒い剣と金色の剣が。
新月の闇の中で。
交わり。
離れ。
また交わった。
黒い炎と金色の光が。
ぶつかり合うたびに。
火花ではなく。
光と闇の破片が。
平原の上に。
雪のように。
降り注いだ。
志賀の剣は。
速かった。
重かった。
半年前の訓練場の決闘のときの荒々しさは。
そのままに。
その上に。
黒い霧の冷たい、底知れない力が。
重なっていた。
けれど。
僕の剣も。
半年前とは、違った。
ガルドさんの四十年の剣。
エレオノーラさんの三年の剣。
旅の途中で、戦った大蜘蛛の海喰らいの魔将たちの。
そのすべてが。
今、僕の手の中にあった。
――十合。
志賀の剣が。
上から。
振り下ろされた。
受けなかった。
流した。
黒い剣が。
金色の刃の上を、滑っていった。
その流した勢いのまま。
志賀の懐へ。
剣の柄を。
志賀の鳩尾に。
――打ち込まなかった。
寸前で。
止めた。
志賀の黒い霧の奥の赤い目が。
すぐ目の前にあった。
「……なんで止める」
志賀の声が。
掠れていた。
「……今の入ってただろ」
「……志賀を倒しに来たんじゃない」
僕は。
剣の柄を志賀の鳩尾の、わずか一寸前で、止めたまま。
言った。
「……迎えに来たんだ」
志賀の赤い目の奥で。
金色の針の先ほどの光が。
揺れた。
「――ふざけんなッ!」
志賀が。
僕を突き飛ばした。
僕の体が。
平原の土の上を。
転がった。
「――迎えにだと?
何様だよ、お前はッ!」
志賀の声が。
平原に響き渡った。
「――いつも、そうだ。
いつも、上から。
手を差し伸べて。
助けてやるって、顔をして」
志賀の黒い霧が。
激しく渦を巻いていた。
「――俺はお前に、助けられたくなんか、ねえんだよッ!
お前に勝ちたいんだよッ!
お前の隣じゃなくて。
お前の前に、立ちたいんだよッ!」
――前に。
隣、では、なく。
立ち上がった。
剣を構えた。
「……志賀」
声が。
平原に響いた。
「……前に立ちたいなら。
立てばいい」
志賀の黒い霧が。
止まった。
「……僕は、志賀に負けたことがある。
王都の訓練場で。
完璧に負けた。
……志賀は、強かった。
本当に」
僕は。
まっすぐに。
志賀を見た。
「……でも、志賀が本当に欲しかったのは。
僕の前に立つことだったのかな」
「――……っ」
「……遥さんに聞かれたんじゃないの。
『誰の隣に立ちたかったの』って」
志賀の体が。
硬直した。
黒い霧の奥の赤い目が。
大きく。
見開かれていた。
「……なんで……それを……」
「……分からない」
僕は、正直に言った。
「……でも、遥さんなら、そう聞く気がした。
三百年、一人でずっと、自分に問い続けてきた人だから」
志賀の黒い剣を握る手が。
震えていた。
その赤い目の、奥の金色の針の先ほどの光が。
ほんのわずかに。
大きくなった。
「……俺は」
志賀の唇が。
動いた。
黒い霧の中から。
もう一つの誰かの声が、剥がれ落ちて。
志賀自身の声だけが。
「……俺は……白峰の……」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――あら、あら」
甘い声が。
平原の闇の中に。
響いた。
志賀の声が。
途切れた。
二万の魔王軍が空けた道の。
その奥から。
黒いヴェールの女が。
ゆっくりと。
歩いてきた。
漆黒のドレスの裾が。
平原の凍りついた草の上を。
音もなく。
滑っていた。
その足が触れた場所の草が。
黒く。
枯れていった。
メフィラ。
その背後に。
二つの影が、従っていた。
ドルマン侯爵と。
ルーカス。
二人とも。
もう。
人の形をしていなかった。
肌が。
灰色に変色していた。
目が。
赤く濁っていた。
その体から。
黒い霧が。
湯気のように、立ち上っていた。
人形。
いや。
古き魔の抜け殻。
「――まったく。
困った器ね」
メフィラの赤い唇が。
ヴェールの奥で。
苛立たしげに、歪んだ。
「――ここまで熟れさせたのに。
また、灯の候補の甘い言葉に、ほだされかけて」
メフィラは。
志賀の隣に。
立った。
白い指先が。
志賀の頬に。
触れた。
志賀の体が。
びくりと震えた。
「――魔王様は、相変わらず、灯を喰らうことを、拒んでいらっしゃるわ。
三百年経っても。
……もう、待てないの」
メフィラの赤い瞳が。
ヴェールの奥で。
僕を見た。
それから。
志賀を見た。
「――だから。
今、ここで。
あなたを器にするわ」
メフィラの白い指先から。
黒い霧が。
滲み出した。
その霧が。
志賀の頬から。
首へ。
胸へ。
「――や、め……ッ!」
志賀が。
叫んだ。
「――志賀ッ!」
走った。
メフィラと、志賀の間へ。
けれど。
メフィラのもう片方の手が。
宙で。
小さく。
弧を描いた。
僕の足元の影が。
蠢いた。
黒い霧の手が。
影の中から。
何本も。
何十本も。
伸びてきた。
僕の足に。
腕に。
胴に。
絡みついた。
「――ッ!」
動けなかった。
「――白峰殿ッ!」
エレオノーラさんが。
剣を抜いて駆けてきた。
その足元の影からも。
黒い霧の手が、伸びて。
エレオノーラさんの足を、掴んだ。
シロガネが。
跳んだ。
けれど。
シロガネの影からも。
黒い霧の手が。
三人とも。
平原の凍りついた土の上に。
縫い止められた。
「――見ていなさい灯の候補」
メフィラの声が。
甘く。
冷たく。
響いた。
「――あなたが迎えに来た可愛い器が。
今から何になるのかを」
メフィラの白い指先が。
志賀の胸に。
触れた。
その胸の真ん中に。
黒い霧が。
渦を巻いて。
流れ込んでいった。
「――ア、ア、アアアアアアアアアアアッ!」
志賀の絶叫が。
新月の平原に。
響き渡った。




