第61話「新月の攻防」
第61話「新月の攻防」
新月の夜は、星さえも、息をひそめていた。
月のない空。
雲が低く垂れ込めて。
その雲の底を、北からの風が、唸りを上げて、走り抜けていく。
砦の城壁の上に並んだ篝火が、その風に煽られて、
横に長く千切れそうになびいていた。
城壁の向こうの灰色の平原は。
もう、灰色ではなかった。
黒かった。
地平線の端から端まで。
平原のすべてを。
二万の魔物が、埋め尽くしていた。
篝火の光が届くその縁だけが。
蠢く影の輪郭を、ぼんやりと、浮かび上がらせていた。
灰色ゴブリンの尖った耳。
オーガの岩のような肩。
黒い狼の濡れた鼻先。
そして、その奥の光の届かない闇の中で。
無数の赤い目が。
星の代わりに、瞬いていた。
「……数えるのは、やめた」
僕の隣で古賀が掠れた声で言った。
眼鏡の奥の、鑑定士の目が、疲れ切っていた。
「……途中で怖くなって。
……二万は、たぶん、少なく見積もりすぎてる」
城壁の上に、五千の兵が並んでいた。
王都の騎士団。
東の諸侯の兵。
ハルン村のオルド村の若者たち。
セイレンの船乗りたち。
誰もが。
黙って。
北の闇を見つめていた。
槍を握る手が、震えている者がいた。
唇を噛みしめている者がいた。
祈るように、目を閉じている者がいた。
そして。
二万の魔王軍の、その最前列のさらに前に。
一つの影が。
宙に浮かんでいた。
黒い飛竜。
その背の黒い甲冑。
志賀。
昨日の夕暮れから、ずっと。
志賀は、そこにいた。
動かずに。
何も言わずに。
ただ。
城壁の上の僕を。
見ていた。
その目の赤い光が。
新月の闇の中で。
二つ。
灯っていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
角笛が鳴った。
魔王軍の陣の奥から。
低く。
重く。
腹の底を震わせるような。
王都大侵攻の、あの朝と同じ音。
けれど。
今度の角笛は。
一つでは、なかった。
右から。
左から。
正面から。
十。
二十。
角笛の音が、重なり合って。
平原全体が。
一つの巨大な獣の咆哮のように。
鳴り響いた。
そして。
黒い波が。
動いた。
「――来るぞッ!」
ガルドさんの声が、城壁の上を走った。
「――弓兵、構えッ!
魔術師団、詠唱開始ッ!
結界師団、展開準備ッ!」
城壁の上。
五千の兵が、一斉に動いた。
弓が引き絞られた。
魔術師たちの杖の先に、光が灯った。
そして、城壁の中央の櫓の上で。
淡い青色のローブの小柄な影が。
両手を天に掲げた。
「――け、結界師団、展開ッ!」
三枝さんの声。
その声に応えて。
城壁の上の十人の魔術師たちが。
一斉に両手を掲げた。
青い光の膜が。
城壁の上に。
次々と広がっていった。
重なり合って。
繋がり合って。
一枚の巨大な、青い盾となって。
砦の城壁の、端から端までを、覆い尽くしていった。
その青い光の真ん中で。
三枝さんの背後の影の中に。
黒い外套の細身の影が、立っていた。
桐生。
「――前だけ見てろ」
桐生の低い声が。
三枝さんの耳元で、響いた。
三枝さんが。
小さくうなずいた。
黒い波が。
平原を駆けてきた。
地響きが。
城壁の石を。
震わせていた。
「――放てッ!」
ガルドさんの号令と、同時に。
千の矢が。
新月の闇の中へと。
放たれた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
戦いは、夜通し続いた。
魔王軍は、王都大侵攻のときよりも、ずっと統率がとれていた。
まず、灰色ゴブリンの群れが、城壁の下へと、殺到した。
空堀は、なかった。
三年前に魔王軍が埋めたまま、修復する時間は、なかった。
ゴブリンたちが、城壁の石に、爪を立てて、よじ登ってきた。
城壁の上から、石が油が矢が降り注いだ。
ゴブリンたちが、悲鳴を上げて、落ちていった。
その死骸を、踏み台にして、次のゴブリンたちが、よじ登ってきた。
その後ろから。
ゴブリンの呪術師たちが、杖を掲げた。
火の玉が。
何百も。
新月の闇を、赤く照らし出しながら。
城壁へと降り注いできた。
青い結界が。
それを受け止めた。
轟音。
閃光。
熱風。
青い盾の表面で、赤い炎が嵐のように弾け散った。
結界の中心で。
三枝さんが、歯を食いしばっていた。
額に汗が浮かんでいた。
膝が、がくがくと震えていた。
それでも。
両手は。
一度も、下がらなかった。
「――吐く息で広げるんだよ、嬢ちゃん」
三枝さんのすぐ隣で。
ヴェルダさんが、杖を掲げていた。
王都から老骨に鞭打って、北の砦まで、ついてきてくれた。
「――あんたはもう、立派な結界師団の柱だよ」
「――は、はいッ……!」
三枝さんの結界が。
一回り。
厚くなった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
正門は、砕けたままだった。
三年前にグラズが叩き割った黒い口。
修復する時間は、なかった。
代わりにその黒い口の前に。
一枚の青い壁が立っていた。
「――【城壁】ッ!」
剛だった。
砕けた正門のその真ん中に。
盾を突き立てて。
青い光の壁を、門の代わりに、立てていた。
その隣に。
ローデリヒさんが、立っていた。
大剣を両手で構えて。
三年前。
アルベルトさんが、最後まで立ち続けた場所。
三年前。
ローデリヒさんが、アルベルトさんの命令で、背を向けた場所。
今。
ローデリヒさんは。
その場所に。
剛と並んで立っていた。
「――大河内ッ!」
ローデリヒさんが、叫んだ。
「――今度は、一人じゃないぞッ!
殿下が一人で立った場所に、今は二人だッ!」
「――難しいことは、分かりませんがッ!」
剛が叫び返した。
「――二人なら、壁は倍だッ!」
オーガの群れが。
破城槌を抱えて。
正門の青い壁へと、突進してきた。
壁に激突した。
轟音。
剛の足が石畳にめり込んだ。
けれど。
壁は、揺らがなかった。
壁の脇から、回り込もうとしたオーガのその膝を。
ローデリヒさんの大剣が、薙いだ。
オーガが崩れ落ちた。
「――おおおおおッ!」
ローデリヒさんの雄叫びが。
正門の前に、響き渡った。
三年分の。
悔恨と。
誓いを込めて。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
僕は、城壁の上を走っていた。
東の城壁から。
西の城壁へ。
綻びが生まれた場所へ。
左手の包帯は。
今朝、ようやく外れた。
澪さんが言った半月。
その半月が、昨日で終わった。
手のひらに、焼け爛れた痕が、まだ赤く残っていた。
けれど、もう。
剣は、握れた。
城壁の縁に、オーガの腕がかかった。
剣を振るった。
オーガが落ちていった。
城壁の上に、黒い狼が跳び乗ってきた。
シロガネが、その喉に牙を立てた。
城壁の向こうから、火の玉が結界の綻びを、すり抜けてきた。
エレオノーラさんの剣が、閃いた。
火の玉が二つに裂けて消えた。
城壁の内側の仮設の治療所で。
澪さんが、運び込まれてくる負傷兵の手当てを、続けていた。
リンドールから届いた、三千本の薬。
姫野さんが寝ずに、錬成してくれた。
その一本一本が。
兵たちの命を繋いでいた。
夜が。
少しずつ。
更けていった。
城壁は。
持ちこたえていた。
結界は。
火の雨を防ぎ続けていた。
正門は。
一度も、破られなかった。
けれど。
志賀は。
まだ。
動いていなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
夜明けまで、あと二刻。
魔王軍の攻勢が。
ふっと。
止んだ。
城壁の下から、ゴブリンたちが、退いていった。
呪術師たちの、火の雨が止んだ。
オーガたちが、破城槌を置いて。
平原の闇の中へと、下がっていった。
城壁の上の兵たちが。
息をついた。
「……退いたのか?」
誰かが掠れた声でつぶやいた。
「――違う」
ガルドさんの声が、低く響いた。
「――あれは、退いたんじゃない。……道を、空けたんだ」
平原の黒い波が。
左右に。
割れていた。
モーセの海のように。
二万の魔王軍の真ん中に。
一本の道が。
砦の正門へと、まっすぐに開いていた。
その道の上を。
黒い飛竜が。
ゆっくりと。
降りてきた。
宙から。
平原の土の上へと。
飛竜の背から。
黒い甲冑が。
降り立った。
志賀。
一人で。
黒い剣を抜いて。
二万の魔王軍が空けた道のその真ん中を。
砦の正門へと。
歩いてきた。
一歩。
また一歩。
その足が土を踏むたびに。
足元の凍りついた草が。
黒く枯れていった。
志賀の体から。
黒い霧が。
滲み出していた。
夜会の夜よりも。
ずっと濃く。
ずっと深く。
その黒い霧の中から。
志賀の声が、響いてきた。
もう一つの誰かの声と。
完全に重なって。
「――白峰陽翔」
僕の名前を。
「――出てこい」
志賀は。
砕けた正門の前に。
剛の青い壁の前に。
立ち止まった。
黒い剣の切っ先を。
青い壁に向けた。
「――お前が出てこないなら」
黒い剣に。
黒い炎が。
燃え上がった。
「――この壁ごと。
……この砦の全部を。
焼き尽くす」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
城壁の上が。
静まり返った。
五千の兵の視線が。
一斉に。
僕に集まった。
「――行くな坊主」
ガルドさんが、僕の腕を掴んだ。
「――罠だ。分かりきっている。
お前を城壁の外に誘い出して。
二万で囲む気だ」
「……分かってます」
僕は。
城壁の縁から。
砕けた正門の前に立つ黒い甲冑を。
見下ろした。
志賀の顔は。
黒い霧に覆われて。
よく見えなかった。
けれど。
その黒い霧の奥の。
赤い目のさらに奥で。
何かが。
揺れていた。
針の先ほどの。
金色の。
――燃え残っている。
夜会の夜。
黒い剣を素手で掴んで。
小さな灯を、分けたとき。
志賀の目の奥に、灯ったあの光。
メフィラの黒い霧に。
押し潰されても。
まだ。
消えていなかった。
「……ガルドさん」
僕は。
ガルドさんの手を。
そっと外した。
「……志賀は、僕を呼んでるんです」
「――罠だと言っている」
「……はい。たぶん、罠です」
僕は。
ガルドさんを、まっすぐに見た。
「……でも、志賀の目の奥に。
まだ灯が残ってる。
……今、行かなかったら。
その灯が消えてしまうかもしれない」
ガルドさんの傷だらけの顔が。
歪んだ。
「――……一人で行く気か」
「――一人じゃ、ありません」
声がした。
エレオノーラさんだった。
僕の右隣に。
立っていた。
細身の剣を抜いて。
「――隣に立つと約束しました」
「――おう」
城壁の下から。
剛の声が響いた。
青い壁の内側から。
「――壁はここにいるぞ、陽翔。
お前が門を出るなら。
俺が門になってやる」
シロガネが。
僕の左隣に。
寄り添った。
澪さんが。
治療所の入り口から。
僕を見上げていた。
何も、言わなかった。
ただ、小さくうなずいた。
古賀が。
城壁の上で。
眼鏡を押し上げた。
「……お約束、でしょ」
櫓の上から。
三枝さんの震える声が、降ってきた。
「――し、白峰くんッ……!
け、結界、一枚だけ張るからッ……!」
その背後の影の中で。
桐生が腕を組んでいた。
「――……志賀を頼む」
桐生の低い声。
「――……止めてやってくれ」
胸のポケットが。
燃え上がった。
僕は。
城壁の石段を。
降りていった。
砕けた正門の内側へ。
剛の青い壁の前へ。
剛が。
壁の真ん中を。
人一人が通れるほどの幅だけ。
開いた。
その隙間の向こうに。
黒い甲冑の志賀が。
待っていた。




