第7話「治療院の灯と、 候補の歌」
※今回は、 前半を柚木澪の視点でお届けします。
治療院の朝は、 包帯を煮る匂いから始まる。
大きな鉄鍋に湯を沸かし、 昨日使った包帯を放り込む。
木の棒でかき混ぜながら、 煮沸する。
干す。
乾いたら、 巻き直す。
一日に、 百本。
多い日は、 二百本。
「澪さん、 東の三番の寝台、 熱が上がっています」
「……はい。 すぐ行きます」
修道女のマルタさんに呼ばれて、 私は鍋の前を離れた。
王城の東にある治療院は、 もともとは古い修道院だったらしい。
高い天井の大広間に、 木の寝台が、 三列にずらりと並んでいる。
その寝台の、 ほとんどが埋まっていた。
国境の砦から運ばれてきた、 負傷兵たちだった。
東の三番の寝台には、 まだ二十歳にもならないような若い兵士が横たわっていた。
右脚の付け根に、 魔物の爪で裂かれた深い傷。
巻いた包帯に、 じわりと黄色い膿がにじんでいる。
額に手を当てると、 火のように熱かった。
「……少し、 痛いですよ」
包帯を解き、 傷口を洗う。
兵士が、 歯を食いしばって呻いた。
私は、 薬師のスキル【薬草知識】を意識の奥で働かせる。
鞄の中の、 いくつもの薬草。
その一つひとつが、 頭の中で、 淡い光の文字になって浮かび上がる。
熱を下げる草。
膿を止める草。
痛みを和らげる草。
それを、 【調合】のスキルで、 必要な分だけ、 必要な割合で、 すり潰して混ぜ合わせる。
「……楽になりますから」
軟膏を塗り、 新しい包帯を巻く。
兵士の荒い呼吸が、 少しずつ、 落ち着いていった。
「……ありがとう、 薬師様」
兵士が、 かすれた声で言った。
「……どういたしまして」
私は、 それだけを返して、 次の寝台へ向かった。
この世界に来て、 ひと月と少し。
私は、 自分が思っていたよりもずっと、 この仕事に向いていたらしい。
人と話すのは、 昔から得意じゃなかった。
何を言えばいいのか分からなくて、 いつも、 言葉が短くなる。
ゼミでも、 たぶん、 とっつきにくい人だと思われていた。
でも、 ここでは、 言葉はあまりいらない。
熱を測り、 傷を洗い、 薬を塗り、 包帯を巻く。
手を動かせば、 それが、 そのまま言葉になる。
「澪さんは、 手が優しいですね」
マルタさんは、 よくそう言ってくれる。
「……手が、 ですか」
「ええ。 手の優しい人は、 心も優しいものです。 口よりも、 ずっと正直ですから」
心が優しいかどうかは、 自分では分からない。
ただ、 この手で誰かの痛みが少しでも和らぐのなら、 それでいいと思った。
人を治せるなら、 それでいい。
鑑定の儀で口にしたあの言葉は、 今も、 変わらない。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
昼過ぎ。
治療院の裏手の井戸で、 水汲みをしていたときだった。
「柚木さん、 それ、 持つよ」
振り返ると、 白峰くんが立っていた。
朝の稽古と素振りを終えたばかりなのだろう。
額に汗を浮かべて、 シャツの袖を肘までまくり上げている。
左腕には、 三日前に私が巻いた包帯が、 まだ白く残っていた。
「……白峰くん。 腕、 まだ治ってない」
「もう、 ほとんど痛くないよ。 柚木さんの軟膏、 よく効くから」
白峰くんは、 そう言って、 私の手から水桶を取り上げた。
両手に一つずつ、 なみなみと水の入った桶を提げて、 治療院のほうへ歩いていく。
ミルスの森から帰ってきてから、 白峰くんは、 毎日、 治療院に来るようになった。
稽古と素振りの後の、 ほんの一、 二時間。
水を汲み、 薪を割り、 重い寝台を動かし、 汚れた敷布を洗い場まで運ぶ。
誰に頼まれたわけでもない。
「勇者様、 今日も来てくださったんですか」
大広間に入ると、 寝台の上の兵士たちが、 次々と白峰くんに声をかけた。
「こんにちは。 皆さん、 調子はどうですか」
「おかげさまで。 薬師様の薬が効いて、 今朝は飯が食えました」
「それはよかった」
白峰くんは、 一人ひとりの寝台を回って、 声をかけていく。
足の悪い兵士には肩を貸し、 字の書けない兵士には家族への手紙を代筆し、 眠れない兵士の話を、 ただ黙って聞いている。
「聞きましたよ、 勇者様。 ミルスの森の話」
窓際の寝台の、 片腕を吊った中年の兵士が、 にやりと笑った。
「見習いの坊主を、 ゴブリンの槍から、 身を挺して庇ったんでしょう」
「え、 どうして、 それを」
「トマスって坊主が、 あっちこっちで言いふらしてますよ。 勇者様が、 自分の命の恩人だって」
大広間に、 笑い声が広がった。
白峰くんは、 困ったように頭をかいていた。
その横顔を見ながら、 私は、 少しだけ、 胸の奥が苦しくなった。
三日前の、 ミルスの森。
トマスくんの前に飛び込んでいった白峰くんの背中を、 私は、 少し離れた場所から見ていた。
骨の槍が、 白峰くんの腕を裂いた瞬間。
心臓が、 止まるかと思った。
白峰くんは、 いつもそうだ。
自分のことを、 一番後回しにする。
ゼミ長に立候補したときも、 そうだった。
誰もやりたがらない役を、 当たり前みたいに引き受けた。
志賀くんに「点数稼ぎ」と笑われても、 一度も言い返さなかった。
合宿のしおりを、 徹夜で作っていたことも、 私は知っている。
それを、 誰にも言わなかったことも。
――私は、 白峰くんのそういうところが。
そこまで考えて、 私は、 首を横に振った。
包帯を巻く手に、 意識を戻す。
今は、 考えなくていい。
考えても、 言葉にならない。
言葉にならないものは、 手で伝えればいい。
白峰くんが傷ついたら、 何度でも治す。
それが、 今の私にできる、 精一杯だから。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
夕方。
王城の厨房は、 戦場のような忙しさだった。
「澪ちゃん、 来てくれたのね。 ちょうど、 今できたところ」
大鍋の前で、 美咲さんが、 額の汗を拭いながら笑った。
鍋の中では、 細かく刻んだ野菜と、 柔らかく煮込んだ鶏肉が、 黄金色のスープの中で揺れている。
「治療院の皆さん用の、 消化にいいスープ。 ボルグさんと二人で考えたの。
ちゃんと、 塩分も控えめにしてあるからね」
「……ありがとうございます、 美咲さん。 マルタさんも、 喜びます」
美咲さんは、 この一か月で、 すっかり厨房の顔になっていた。
熊のような料理長のボルグさんも、 今では美咲さんの意見を、 黙って聞くようになっている。
「料理人の娘っこの言うことは、 だいたい正しい」
それが、 ボルグさんの口癖になりつつあった。
スープを鍋ごと荷車に載せる準備をしながら、 美咲さんが、 ふと、 私の顔を覗き込んだ。
「……ねえ、 澪ちゃん。 最近、 白峰くん、 毎日治療院に行ってるんでしょ」
「……はい。 お手伝いに」
「ふうん」
美咲さんは、 含み笑いを浮かべた。
「お手伝い、 ねえ」
「……何ですか」
「ううん。 なんでも。 ただね、 ちゃんと言わないと、 伝わらないこともあるわよって、 それだけ」
「……何の話ですか」
「さあ、 何の話かしら」
美咲さんは、 楽しそうに笑いながら、 鍋の蓋を閉めた。
「でも、 気をつけないとね。 王女様も、 最近、 白峰くんを見る目が、 ちょっと変わってきてるみたいだし」
「……」
「あら、 図星?」
「……スープ、 冷めますから」
私は、 荷車の取っ手を握りしめて、 足早に厨房を出た。
背後で、 美咲さんの笑い声が、 ころころと響いていた。
頬が熱いのは、 たぶん、 厨房の火のせいだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
――ここからは、 陽翔の視点に戻ります。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜、 僕は、 剛に誘われて、 城下の酒場に来ていた。
『銀の竪琴亭』。
大通りから一本入った路地にある、 小さな酒場だった。
煤けた梁。
油で黒光りする卓。
暖炉の火が、 ぱちぱちと爆ぜている。
店の中は、 仕事を終えた職人や、 非番の兵士たちで、 ほとんど満席だった。
「奏が、 今夜は新しい歌を披露するんだとよ。 俺たちにも聞きに来いってさ」
「新しい歌?」
「難しいことは分からんが、 あいつ、 えらく張り切ってたぞ」
店の奥の、 一段高くなった小さな舞台に、 奏さんが座っていた。
膝の上に、 小さな竪琴を抱えている。
奏さんは、 僕たちに気づくと、 ひらひらと手を振った。
それから、 竪琴の弦に、 そっと指を置いた。
ぽろん、 と澄んだ音が、 酒場の喧騒の中に落ちた。
不思議なことに、 その一音で、 店の中が、 すっと静かになった。
吟遊詩人のスキル【旋律】
奏さんの音には、 人の耳を、 自然と引き寄せる力があるのだという。
「――今宵、 歌いますは、 異界より来たる、 一人の若者の物語」
奏さんの声は、 いつもの、 少しふわふわした話し方とは、 まるで違っていた。
澄んでいて、 よく通って、 酒場の隅々にまで、 静かに染み渡っていく。
そして、 歌が始まった。
それは、 勇者の歌だった。
けれど、 竜を倒す勇者でも、 魔王を討つ勇者でもなかった。
割れたカップを、 メイドの少女と一緒に拾い集めた勇者。
怯えた魔狼の檻の前で、 夜通し座り続けた勇者。
見習い騎士たちと並んで、 黙々と防具を磨いた勇者。
転んだ子どもの膝を洗い、 果物売りの荷車を押して坂を上った勇者。
そして、 ミルスの森で、 震える手で、 見習いの少年の前に立った勇者。
神様に「候補」と書かれた、 まだ何者でもない勇者の歌だった。
僕は、 卓の上で、 両手を握りしめていた。
顔が、 燃えるように熱かった。
隣で、 剛が、 声を殺して肩を震わせていた。
笑っているのかと思ったら、 違った。
剛は、 目元を、 太い指でごしごしと拭っていた。
歌が終わった。
一瞬の静寂。
それから、 酒場の奥から、 野太い笑い声が上がった。
「なんだそりゃあ! 候補の勇者だあ?」
「カップ拾って、 荷車押して、 ゴブリン一匹斬って震えてる勇者なんざ、 聞いたこともねえや!」
酔った男たちが、 げらげらと卓を叩いて笑う。
けれど。
「……あたしは、 好きだよ、 今の歌」
店の隅の卓で、 年配の女性が、 静かに言った。
「うちの坊やが、 この前、 大通りで転んだときにね。
膝を洗ってくれた、 若いお兄さんがいたんだよ。 たぶん、 その人のことだろうね」
「わしも、 好きじゃな」
カウンターの端で、 白髪の老人が、 杯を掲げた。
「竜を倒す勇者の歌は、 聞き飽きた。 だが、 カップを拾う勇者の歌は、 初めて聞いた。
そういう勇者がおるなら、 この国も、 まだ捨てたもんじゃない」
「もう一回、 歌ってー!」
母親の膝の上で、 小さな女の子が、 手を叩いていた。
笑い声と、 拍手と、 アンコールの声が、 酒場の中で、 ごちゃまぜになっていた。
舞台の上で、 奏さんが、 僕のほうを見て、 ふわりと笑った。
いつもの、 少しふわふわした笑顔だった。
「――いいね、 それ。 歌になる」
唇の動きだけで、 そう言ったのが分かった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その帰り道。
城門の前で、 一人の男性が、 僕を待っていた。
黒衣に、 痩せた体。
宰相のバルトロさんだった。
「夜分に失礼いたします、 白峰様。 少々、 お時間をいただけますでしょうか」
案内されたのは、 王城の北側にある、 宰相の執務室だった。
壁一面の書棚と、 書類が山と積まれた大きな机。
蝋燭の火が、 静かに揺れていた。
「先日のミルスの森での一件、 騎士団長より報告を受けております」
バルトロさんは、 机の上で指を組んだ。
「見習い騎士の命を救い、 灰色ゴブリンの掃討に貢献された。
陛下は、 白峰様に、 何か褒美を取らせたいとお考えです。
何なりと、 お望みのものをお申し付けください」
「褒美、 ですか」
僕は、 少し考えてから、 首を横に振った。
「僕は、 何も特別なことはしていません。
ガルドさんや、 エレオノーラさんや、 騎士の皆さんのほうが、 よほど――」
「白峰様」
バルトロさんが、 静かに僕の言葉を遮った。
「褒美を受け取ることも、 また、 務めでございます。
功に報いぬ国は、 やがて誰からも功を得られなくなりますので」
僕は、 もう一度、 考えた。
それから、 顔を上げた。
「……では、 二つ、 お願いしてもいいでしょうか」
「承りましょう」
「一つは、 王城の書庫に、 自由に入る許可をいただきたいです。
勇者のことや、 戒律のことを、 自分で調べたくて」
「容易いことでございます。 もう一つは」
「治療院に、 薬草をもっと回していただけませんか」
バルトロさんの指が、 ぴくりと動いた。
「柚木さん……仲間の薬師から聞いたんです。
国境からの負傷兵が増えて、 薬草の備蓄が、 もう半月分もないって。
マルタさんは、 誰にも言わずに、 自分のお給金で薬草を買い足しているそうです」
僕は、 頭を下げた。
「僕への褒美の分を、 そちらに回していただけたら、 嬉しいです」
執務室に、 沈黙が落ちた。
蝋燭の火が、 小さく揺れた。
やがて、 バルトロさんは、 机の引き出しから一冊の帳面を取り出した。
革の表紙の、 使い込まれた帳面だった。
その最後のページを開き、 羽ペンで、 何かを書き留めた。
初めて会議室で会ったあの日、 羊皮紙の端に書き留めていたのと、 同じ仕草だった。
「……承知いたしました。 治療院への薬草の補充は、 明日より、 宰相府の予算から手配いたします。
マルタ殿には、 これまでの立て替え分も、 お返しいたしましょう」
「ありがとうございます!」
「礼には及びません」
バルトロさんは、 帳面を閉じた。
「申し上げましたでしょう。 私は、 見るべきものを見ているだけでございます」
そう言った宰相の口元が、 ほんのわずかに、 緩んだように見えた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
翌日の午後。
許可をもらったばかりの王城の書庫で、 僕は、 ヴェルダさんと向かい合っていた。
「あんたが書庫の許可をもらったって聞いてね。 あたしも、 見せておきたいもんがあったのさ」
ヴェルダさんは、 埃をかぶった木箱の中から、 一冊の古びた手記を取り出した。
擦り切れた革の表紙。
ところどころ、 虫に食われた羊皮紙。
「三百年前の勇者に仕えた、 名もなき従者の手記だよ。 長いこと、 誰にも読まれずに眠ってた」
ヴェルダさんは、 皺だらけの指で、 あるページを開いた。
「ここを、 読んでごらん」
滲んだインクの文字。
読めないはずの、 異世界の文字。
けれど、 鑑定板のときと同じように、 意味だけが、 するりと頭の中に流れ込んでくる。
――勇者を選ぶは、 天にあらず。
――灯を分かつ者たちの、 その手にあり。
「……灯を、 分かつ者たち」
僕は、 胸のポケットに手を当てた。
職業札。
誓約の灯。
「ヴェルダさん、 これは、 どういう意味なんですか」
「さあねぇ」
ヴェルダさんは、 いつものように、 ふぇっふぇっと喉の奥で笑った。
「分からないことは、 分からないって言うよ。 ただね、 あんたの札のその火。
あたしは、 毎晩、 気になって、 眠れやしないんだよ」
ヴェルダさんの目が、 いつになく真剣だった。
「――昨夜、 あんた、 どこにいた?」
「昨夜ですか? 城下の酒場で、 奏さんの歌を聞いていましたけど」
「……そうかい」
ヴェルダさんは、 しばらく黙っていた。
それから、 手記を、 そっと僕の手に預けた。
「これは、 あんたが持っておいき。 あたしよりも、 あんたが読むべきもんだ」
その夜、 自室で職業札を取り出すと。
小さな炎の紋様は、 ミルスの森の帰り道よりも、 また少しだけ、 大きくなっていた。
何が、 この火を灯しているのか。
僕には、 まだ、 分からなかった。
ただ、 窓の外の、 遠い城下の路地から。
誰かが口ずさむ、 聞き覚えのある旋律が、 夜風に乗って、 かすかに届いていた。
第7話をお読みいただき、 ありがとうございます。
今回は、 澪の視点と陽翔の視点の二本立てでした。
ここだけの話をすると、 澪というキャラクターは、 「言葉より先に手が動く人」として作りました。
口下手で、 感情を表に出すのが苦手。
でも、 誰よりも周りを見ていて、 誰よりも先に動いている。
陽翔とは、 実はすごく似ている二人なんです。




