第6話「剣は、 守るために」
召喚からひと月が過ぎた。
その朝、訓練場に集められた見習い騎士たちの前で、
ガルドさんは一枚の地図を広げた。
「明日、実地訓練に出る。場所は王都の東、ミルスの森だ」
見習い騎士たちの間に緊張が走った。
「最近、森の外れの村で、家畜が襲われる被害が続いている。
斥候の報告では、灰色ゴブリンの小さな群れが住み着いたらしい。
数は十から十五。
これを掃討する」
灰色ゴブリン。
人の子どもほどの背丈で群れで狩りをする魔物。
一体一体は弱いけれど、狡猾で罠を使う。
この一か月、ヴェルダさんの研究室で読んだ魔物図鑑に、そう書いてあった。
「勇者、お前も来い」
ガルドさんが僕を見た。
「はい」
「それと重騎士の大河内。お前は盾役だ」
「おう任せてください」
剛が分厚い胸を叩いた。
「……わたくしも同行いたします」
訓練場の入り口から凛とした声が響いた。
濃紺の騎士服に身を包んだエレオノーラさんが、
腰の剣に手を添えて立っていた。
ガルドさんは、わずかに眉をひそめた。
「殿下。これは見習いの訓練です。殿下が出られるほどの――」
「勇者様の監視役はわたくしです。
城の外に出られるのなら、わたくしも同行するのが筋でしょう」
有無を言わせない口調だった。
ガルドさんは、しばらく王女を見つめてから、深くため息をついた。
「……陛下には、殿下からご説明ください」
「無論です」
それから、もう一人。
「……治療院からも一人、同行させてもらえることになった」
エレオノーラさんの後ろから、
薬草の詰まった鞄を肩にかけた澪さんが、ひょっこりと顔を出した。
「柚木さん?」
「……マルタさんが、現場を見ておきなさいって。
怪我人が出たら、その場で手当てできる人がいたほうがいいって」
澪さんは、僕の顔を見て、小さく付け足した。
「……それに、白峰くん、無茶しそうだから」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ミルスの森は、王都から馬で半日の距離にあった。
森の手前の小さな村で一晩を過ごし、翌朝、夜明けとともに森へ入った。
見習い騎士が八人。
ガルドさん。
エレオノーラさん。
剛。
澪さん。
そして、僕。
森の中は薄暗かった。
頭上を覆う枝葉の隙間から、細い光の筋が、いくつも斜めに差し込んでいる。
湿った土と腐った落ち葉の匂い。
鳥の声が妙に少なかった。
「……静かすぎるな」
先頭を歩くガルドさんが低くつぶやいた。
「全員、間隔を詰めろ。大河内、前へ。勇者、お前はトマスの隣だ」
「はい」
僕は、列の中ほどで、トマスくんの隣に並んだ。
トマスくんの顔は、紙のように白かった。
剣の柄を握る手が小刻みに震えている。
「……大丈夫?」
「は、はい……。だ大丈夫です」
大丈夫ではないのは明らかだった。
けれど、たぶん、僕も同じ顔をしていたと思う。
腰に下げた剣がやけに重かった。
訓練用の木剣ではない。
騎士団から借りた本物の剣。
刃の付いた人を、あるいは魔物を、本当に斬ることのできる剣だった。
一か月。
毎朝、夜明けとともにエレオノーラさんと打ち合い、
日が暮れるまで素振りを続けた。
手のひらのまめは、潰れて固まってまた潰れた。
それでも、僕は、まだ一度も、エレオノーラさんから一本を取れていない。
そんな剣で、本当に何かを守れるのだろうか。
「止まれ」
ガルドさんの声に全員が足を止めた。
前方の木々の間に、小さな空き地があった。
その中央に、何かの骨が、山のように積み上げられていた。
羊の頭蓋骨。
牛の肋骨。
そして、その骨の山の上に木の枝で組まれた、
歪な旗のようなものが突き立っていた。
「……巣だ」
ガルドさんが剣を抜いた。
「全員、抜剣。円陣を組め。大河内、正面を――」
その言葉が終わる前に、頭上から甲高い鳴き声が降ってきた。
「ギィッ! ギギィッ!」
木の上だった。
枝葉の陰から、灰色の小さな影が、次々と飛び降りてくる。
一体。
三体。
五体。
十体。
いや、もっと。
ねじくれた短剣や、尖った骨の槍を手にした灰色ゴブリンの群れが、
僕たちを取り囲むように降り立った。
「上だと……! 罠か!」
ガルドさんの剣が一閃した。
飛びかかってきた一体が地面に転がる。
「大河内!」
「おうっ! 【不動】!」
剛が盾を構え、正面から突っ込んできた三体を、まとめて受け止めた。
盾にぶつかったゴブリンたちが、
まるで岩壁にでも激突したかのように、弾き飛ばされる。
エレオノーラさんが剣を抜いた。
その動きは稽古のときと同じように、
速く正確で、一切の無駄がなかった。
彼女の剣が光を描くたびに、灰色の影が一つ地に伏した。
見習い騎士たちも、必死に剣を振るっていた。
悲鳴と怒号と金属のぶつかる音。
森の静寂は、一瞬で戦場の喧騒に変わった。
僕は剣を抜いた。
抜いたはずだった。
けれど、足が動かなかった。
目の前で一体のゴブリンが、見習い騎士の一人に飛びかかっていた。
見習い騎士の剣がゴブリンの肩を裂く。
緑がかった血が飛び散った。
ゴブリンが、甲高い悲鳴を上げて、地面をのたうち回る。
――生きている。
当たり前のことが、頭の中で鐘のように鳴り響いた。
あれは生きている。
図鑑の挿絵ではない。
痛みを感じ血を流し、悲鳴を上げる生き物だ。
僕は今から、それをこの剣で――。
「勇者様っ!」
トマスくんの悲鳴で我に返った。
振り向いた先で、トマスくんが、地面に尻餅をついていた。
足元の木の根に、足を取られたのだろう。
手から離れた剣が、少し離れた落ち葉の上に転がっている。
そして、その目の前に。
骨の槍を振りかぶった、一体のゴブリンがいた。
考えるより先に体が動いていた。
あの日と同じだった。
合宿所で床が光ったあの瞬間。
三枝さんの腕をつかんで、扉のほうへ引いたあの瞬間と。
僕は、トマスくんとゴブリンの間に、体ごと飛び込んでいた。
骨の槍の先端が、僕の左腕を浅く裂いた。
焼けつくような痛み。
けれど、それよりも先に。
胸のポケットが熱くなった。
職業札。
その中の小さな炎の紋様が、燃え上がるような熱を放っていた。
熱は、胸から肩へ、肩から腕へ、腕から指先へと、一瞬で駆け抜けていく。
剣が軽くなった。
いや、違う。
体が剣の重さを正しく知った。
親指はここ。
小指で締める。
打ち込む直前に一度、息を吐く。
肩の力が抜ける。
――剣は守るために振れ。
振り下ろした剣は、自分でも驚くほど、まっすぐに、静かに空気を裂いた。
手応えはほとんどなかった。
骨の槍が二つに割れて地面に落ちた。
その向こうで、ゴブリンが、ゆっくりと、膝から崩れ落ちていった。
森の音が遠くなった。
自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえた。
「……勇者、様……」
背後でトマスくんが、震える声で僕を呼んだ。
僕は振り返らずに言った。
「トマスくん、剣を拾って。まだ終わってない」
「は、はいっ!」
その後のことは、あまりよく覚えていない。
気がつくと森は、再び静寂を取り戻していた。
地面には、灰色の小さな体が、いくつも横たわっていた。
見習い騎士たちは、肩で息をしながら、互いの無事を確かめ合っていた。
重傷を負った者は、一人もいなかった。
ガルドさんが、剣についた血を払いながら、僕のほうを見ていた。
エレオノーラさんも、同じように僕を見ていた。
二人とも何も言わなかった。
僕は自分の手を見た。
剣を握ったままの右手。
その手が小刻みに止まらないほど震えていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「……動かないで」
森の入り口の倒木の上。
澪さんが僕の左腕に、薬草をすり潰した軟膏を塗っていた。
傷は、思ったよりも浅かった。
それでも、軟膏が染みるたびに、じんとした痛みが走る。
「……無理は、しないでって言ったのに」
澪さんの声は、いつもより少しだけ硬かった。
「ごめん」
「……謝ってほしいわけじゃない」
澪さんは、包帯を巻きながら、うつむいたまま言った。
「白峰くんはいつもそう。
自分より先に誰かを守ろうとする。
合宿所のときも。
リゼさんのときも。
今日も」
「……うん」
「それが白峰くんだって知ってる。
だから、止めない。
止めても聞かないから」
包帯の端をきゅっと結ぶ。
「……でも、その代わり。怪我をしたら、ちゃんと私のところに来て」
澪さんは、ようやく顔を上げた。
その目は、少しだけ赤かった。
「私は、薬師だから。白峰くんが傷ついたら、何度でも治すから」
「……ありがとう、柚木さん」
僕がそう言うと、澪さんは、ふいっと顔をそらした。
それから、鞄を抱えて、怪我をした見習い騎士たちのほうへ歩いていった。
その背中を見送っていると、隣に大きな影が腰を下ろした。
「……震え、止まらんか」
ガルドさんだった。
僕は、膝の上で握りしめた自分の右手を見た。
澪さんに手当てをしてもらっている間も、ずっと震えは止まらなかった。
「……すみません」
「なぜ謝る」
「勇者なのに、情けないなって」
僕は、震える手を左手で押さえつけた。
「あのゴブリン、悲鳴を上げていました。
生きていたんです。
僕は、それをこの手で斬りました。
トマスくんを守るためだった。
それは分かっています。
でも……」
言葉が続かなかった。
ガルドさんは、しばらく黙っていた。
森の上を鳥が一羽、鳴きながら飛んでいった。
ようやく森に鳥の声が戻ってきたのだと、そのとき気づいた。
「……坊主。俺の戒律を覚えているか」
「剣は守るために振れ」
「そうだ」
ガルドさんは、自分の剣の柄にそっと手を置いた。
「俺はなこの戒律を四十年守ってきた。
その間に数え切れんほどのものを斬った。
魔物も人もだ」
傷だらけの顔が、森の奥を見つめていた。
「それでも、今でも、斬った後は手が震える」
僕は思わず顔を上げた。
「ガルドさんもですか」
「ああ。
震えが止まった奴はな、戒律を忘れた奴だ。
斬ることに慣れちまった剣は、もう、守るための剣じゃない。
ただの暴力だ」
ガルドさんは、大きな手で、僕の頭を乱暴にかき回した。
「だから、震えていい。
怖がっていい。
その怖さを抱えたまま、それでも守るべきものの前に立てる奴を、
俺たちは騎士と呼ぶんだ」
その手は、ごつごつしていて、重くて温かかった。
「……はい」
声が少しだけかすれた。
「ありがとうございます、ガルドさん」
「礼なんぞいらん」
ガルドさんは、立ち上がって背を向けた。
「それよりあの一振り。あれはなんだ」
「え?」
「トマスを庇った後のあの一振りだ。
一か月前のお前には、逆立ちしたって振れん剣だった」
僕は、胸のポケットから職業札を取り出した。
小さな炎の紋様は、もう、熱を放ってはいなかった。
けれど、あの日、防具磨きの最中に灯った針の先ほどの光は、
今は、指先ほどの大きさの確かな炎になっていた。
ガルドさんは、札を覗き込んで低く唸った。
「……灯が大きくなっている」
「はい。
トマスくんを庇った瞬間に、急に熱くなって。
体の中に、何かが流れ込んできたような感じがしました」
「流れ込んできたか」
ガルドさんは、しばらく考え込んでいた。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「俺には分からん。だが一つだけ言える」
「なんですか」
「あの剣は、守るための剣だった。それだけは、確かだ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
王都への帰り道。
夕暮れの街道を、馬に揺られながら進んでいた。
「……勇者様」
隣にエレオノーラさんの馬が並んだ。
夕日がその金の髪を、燃えるような茜色に染めていた。
「はい」
「左腕の傷は」
「大丈夫です。柚木さんに、手当てしてもらいました」
「……そうですか」
エレオノーラさんは、しばらく前を向いたまま黙っていた。
蹄の音が規則正しく響いている。
「トマスは、わたくしの乳母の遠縁の子です」
不意にエレオノーラさんが言った。
「三年前、北の村が魔物に襲われたとき、妹と二人だけ生き残りました。
騎士になりたいと言い出したときは、
わたくしも、ガルドも反対したのです。
あの子は優しすぎるから」
「……そうだったんですか」
「今日、あの子が転んだとき。わたくしは、間に合わない位置にいました」
エレオノーラさんの手綱を握る手に、わずかに力がこもった。
「……あなたがいてくれてよかった」
それは、ほとんど聞き取れないほど、小さな声だった。
「エレオノーラさん」
「……今のは、監視役としての客観的な評価です。他意はありません」
エレオノーラさんは、そう言って、馬の腹を軽く蹴った。
栗毛の馬が僕の前へと出ていく。
その耳が夕日のせいだけではないくらい、赤く見えた。
後ろから剛のわざとらしい咳払いが聞こえた。
振り返ると剛が、にやにやと笑っていた。
その隣で澪さんがじっと前を見つめていた。
表情はよく分からなかった。
胸のポケットの中で、職業札がほんのりと温かかった。




