第59話「北の砦奪還」
第59話「北の砦奪還」
北の砦は、雪の中に沈んでいた。
王都を発って、十日。
北の大河を、セイレンの船乗りたちの平底船で、遡り。
最後の三日は、雪の降り始めた、灰色の平原を、歩き続けた。
そして。
新月の二日前の夜明け。
平原の北の果てに。
それは、現れた。
黒い石の砦。
切り立った、二つの丘の間の、狭い谷を塞ぐように。
高い、高い城壁が。
左右の丘の斜面に、しがみつくように、伸びていた。
その中央に。
巨大な正門。
三年前。
王太子アルベルトが、最後までその前に立ち続けた門。
その正門が。
砕けていた。
三年前のあの日。
鉄角のグラズが、素手で叩き割ったその跡が。
修復も、されずに。
黒い巨大な口のように。
雪の中に。
開いていた。
城壁の上に。
魔物の旗が、翻っていた。
黒い布に赤く描かれた。
目の、紋様。
「……三年ぶりだ」
僕の隣で。
ローデリヒさんが、掠れた声で、つぶやいた。
片腕はもう、吊っていなかった。
灰色峡谷で負った傷は、澪さんの薬で、ほとんど、癒えていた。
けれど、その手が。
大剣の柄を握るその手が。
小刻みに震えていた。
「……殿下は」
ローデリヒさんの声が。
雪の中に。
白く。
溶けていった。
「……あの門の前に。最後まで、立っておられた」
僕の反対側の隣で。
エレオノーラさんが。
砕けた正門を。
じっと見つめていた。
その青い瞳が。
揺れていた。
けれど。
涙は、流れていなかった。
「……兄上」
エレオノーラさんの唇が。
小さく動いた。
「……迎えに参りました」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
砦の城壁の上に。
影が動いた。
魔物の守備隊だった。
灰色ゴブリン。
ホブゴブリン。
オーガ。
黒い狼。
そして。
城壁の中央の一番高い櫓の上に。
巨大な白い影が立っていた。
雪のように、白い。
いや。
雪よりも、さらに白い。
氷のような。
人の背丈の三倍はある。
全身を白い、長い毛で覆われていた。
その毛の一本一本が。
氷柱のように。
凍りついて。
朝の薄い光を受けて。
青白く光っていた。
両手の指の先に。
鋭い氷の爪。
そして、その顔に。
青い目が一つだけ。
「――氷爪のヴォルグ」
古賀が。
掠れた声で、言った。
鑑定士の目が、淡い光を帯びていた。
「……魔王軍の第三の魔将。
……ヴェルダ様の、記録にあった。
北の山脈の、氷の巨人の末裔。
……あいつの周りでは、何もかもが、凍りつく」
ヴォルグの、一つだけの青い目が。
平原の南の果てから、迫ってくる、僕たちの軍勢を。
見下ろしていた。
五千の兵。
王都の騎士団、二千。
東の諸侯の兵、三千。
そして、その周りを。
リンドールの、商人ギルドの荷馬車の列。
セイレンの船乗りたち。
ハルン村の男たち。
オルド村の若者たち。
ヴォルグが。
その巨大な口を。
開いた。
――ゴオオオオオオオオッ!
咆哮が。
平原を渡ってきた。
その咆哮に、乗って。
白い吹雪が。
砦の城壁から。
平原へと。
雪崩のように。
押し寄せてきた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
吹雪が。
軍勢を呑み込んだ。
冷たい、という言葉では足りなかった。
風が。
刃だった。
一粒一粒の雪が。
氷の針となって。
顔を。
手を。
甲冑の継ぎ目を。
容赦なく。
刺していった。
息を吸うと。
肺の奥まで、凍りつくようだった。
睫毛に霜が降りた。
視界が。
白く。
白く。
塗り潰されていった。
「――盾を上げろッ!」
ガルドさんの声が。
吹雪の唸りを、突き抜けた。
「――前へ進めッ! 立ち止まれば、凍るぞッ!」
騎士たちが。
盾を掲げて。
吹雪の中を。
一歩。
また一歩。
進み始めた。
けれど。
その足が。
少しずつ。
重くなっていった。
甲冑の継ぎ目が。
凍りついていた。
関節が。
動かなくなっていた。
一人の騎士が。
雪の上に膝をついた。
その鎧が。
みるみるうちに。
白い霜に覆われていった。
「――け、【結界】……ッ!」
青い光が。
吹雪の中に。
灯った。
三枝さんだった。
宮廷結界師団の、淡い青色のローブを、吹雪に煽られながら。
両手を天に掲げていた。
青い光の膜が。
軍勢の頭上に。
広がっていった。
吹雪が。
膜に叩きつけられた。
氷の針が。
膜の上で。
砕け散った。
「――け、結界師団、展開ッ!」
三枝さんの声が。
震えていた。
けれど。
その声に応えて。
十人の宮廷魔術師たちが。
一斉に両手を掲げた。
青い光の膜が。
次々と。
重なり合って。
軍勢の頭上を。
一枚の巨大な、青い天蓋となって。
覆い尽くしていった。
吹雪が。
天蓋の外で。
唸っていた。
天蓋の内側は。
冷たかった。
けれど。
もう、刃ではなかった。
「――よくやった結界師殿ッ!」
ガルドさんが、叫んだ。
三枝さんの背後の。
影の中に。
黒い外套の細身の影が。
立っていた。
桐生。
三枝さんの背中を。
影から。
守っていた。
「――前だけ見てろ、三枝」
桐生の低い声。
「――背中は、俺が守る」
三枝さんの結界が。
一回り。
厚くなった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
青い天蓋に、守られて。
軍勢は。
砦の城壁の真下まで。
たどり着いた。
砕けた正門の前。
三年前。
アルベルトさんが、最後まで立ち続けたその場所。
その砕けた門の黒い口の奥から。
魔物の群れが。
溢れ出してきた。
「――【城壁】ッ!」
剛の青い光が。
爆ぜた。
砕けた正門のその前に。
青い光の壁が。
立ち上がった。
剛は。
王都で澪さんに安静を言い渡されていた体で。
それでも。
軍勢の先頭に、立っていた。
出陣の前夜。
治療院の奥の部屋で。
目を覚ましたばかりの堂島が。
掠れた声で、剛に言ったのだという。
――お、大河内……。
――し、志賀さんを……。
――と止めて……やって……ください……っす……。
「――任せとけ、堂島ッ!」
剛が。
吠えた。
青い壁に叩きつけられる魔物の群れを。
一歩も、退かずに。
受け止めながら。
「――難しいことは分からんがッ!
お前の分まで、俺が壁になってやるッ!」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
城壁の上から。
白い影が。
降ってきた。
ヴォルグ。
氷の巨人の巨体が。
城壁の高さを。
一跳びで越えて。
正門の前の雪原に。
着地した。
大地が。
揺れた。
着地したヴォルグの足元から。
白い霜が。
放射状に。
雪原の上を、走っていった。
霜に触れた騎士たちの足が。
一瞬で。
凍りついた。
雪原に。
縫い止められた。
「――ッ!」
剛の青い壁が。
霜に触れた。
青い光の表面が。
白く。
凍りついていった。
壁が。
軋んだ。
「――ぐ……ッ! こいつ……壁ごと、凍らせる気かッ……!」
ヴォルグの、一つだけの青い目が。
剛を見下ろしていた。
その氷の爪が。
ゆっくりと。
振り上げられた。
「――剛ッ!」
走った。
凍りついた雪原の上を。
足の裏が霜に触れた瞬間。
冷たさが。
骨まで這い上がってきた。
胸のポケットが。
燃えた。
大陸じゅうの灯。
マルガさんの、姫野さんのニコくんの。
カイルさんのオーダさんの。
ベンさんのトーマくんの。
ディートリヒさんの、あの小さな女の子の。
王都の十万の。
――灯を分かつ。
足の裏から。
金色の光が。
迸った。
霜が。
溶けた。
金色の光が。
僕の足元から。
雪原の上を。
放射状に。
走っていった。
ヴォルグの白い霜と。
金色の光が。
雪原の上で。
ぶつかり合った。
霜が。
溶けていった。
凍りついていた、騎士たちの足が。
雪原から。
解き放たれた。
剛の青い壁を、覆っていた白い霜が。
金色の光に、触れて。
蒸気となって。
立ち昇っていった。
ヴォルグの、一つだけの青い目が。
大きく。
見開かれた。
「――灯の……候補……ッ!」
氷の巨人の口から。
掠れた、唸るような声が漏れた。
人の言葉だった。
「――グラズと……ザハルを……屠った……灯……ッ!」
ヴォルグの氷の爪が。
剛ではなく。
僕へと。
振り下ろされた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
氷の爪が。
空気を凍らせながら落ちてきた。
爪の軌跡に沿って。
空気中の水分が。
一瞬で。
氷の結晶に、変わって。
きらきらと。
青白く。
光の粉のように。
舞い散った。
美しかった。
死の美しさだった。
――受けるな。
体が叫んだ。
跳んだ。
氷の爪が。
雪原に叩きつけられた。
雪原が。
凍りついた。
いや。
砕けた。
爪が触れた場所から。
雪原の地面そのものが。
氷の柱となって。
天に向かって。
何本も。
何本も。
突き上げられた。
氷の柱の森。
その森の只中に。
僕は、着地した。
左右から。
前後から。
氷の柱が。
次々と。
地面を割って。
突き上げられてきた。
跳ぶ。
かわす。
跳ぶ。
氷の柱の鋭い先端が。
外套の裾を、裂いた。
頬をかすめた。
左手は、まだ包帯の下だった。
澪さんに半月と言われたその半月は。
まだ三日、足りなかった。
右手だけで。
アルベルトさんの鋼の剣を、握っていた。
「――白峰殿ッ!」
エレオノーラさんが。
氷の柱の森の縁から。
駆け込んできた。
細身の剣が。
金色の光を、帯びて。
氷の柱を。
次々と。
断ち切っていった。
「――ヴォルグの胸ですッ!」
古賀の声が。
城壁の下の天蓋の中から。
響いてきた。
「――胸の真ん中に一つだけ毛の生えてない場所があるッ!
そこが冷気の源だッ!
あそこを突けばッ!」
ヴォルグの胸。
白い氷柱のような毛に、覆われたその巨体の。
真ん中に。
青く。
脈打つように。
光っている、場所があった。
氷の心臓。
けれど。
それは、人の背丈の、三倍の高さにあった。
「――シロガネッ!」
叫んだ瞬間には。
銀色の影が。
僕の足元に。
滑り込んでいた。
その背に。
飛び乗った。
シロガネが。
氷の柱を。
蹴った。
一本目。
二本目。
三本目。
氷の柱の森を。
階段のように。
駆け上がっていく。
ヴォルグが。
気づいた。
一つだけの青い目が。
氷の柱を駆け上がってくる、銀色の狼と、その背の僕を。
捉えた。
ヴォルグの口が。
開いた。
その喉の奥から。
白い冷気の奔流が。
迸ってきた。
吹雪よりも、さらに冷たい。
触れたものを、一瞬で凍りつかせる死の息吹。
――間に合わない。
その瞬間。
「――【結界】ッ!」
青い光の膜が。
僕とシロガネの目の前に。
広がった。
三枝さんの結界だった。
天蓋の中から。
一枚だけ。
僕たちのために。
冷気の奔流が。
膜に叩きつけられた。
膜が。
白く凍りついていった。
ひびが走った。
けれど。
一瞬。
持った。
その一瞬の間に。
「――【影歩き】」
ヴォルグの、巨大な影の中から。
黒い外套の細身の影が。
滲み出した。
桐生。
その手の黒い短剣が。
ヴォルグの、たった一つの青い目に。
突き刺さった。
ヴォルグが。
絶叫した。
――ギィアアアアアアアアアッ!
冷気の奔流が。
止まった。
三枝さんの、凍りついた結界が。
砕け散った。
その青い破片の中を。
シロガネが。
最後の氷の柱を。
蹴った。
宙に。
舞った。
眼下に。
ヴォルグの胸の。
青く脈打つ氷の心臓が。
見えた。
――剣は、守るために振れ。
息を吐く。
肩の力を抜く。
親指は、ここ。
小指で締める。
力を入れるのは、振り下ろす最後の一瞬だけ。
大陸じゅうの灯が。
アルベルトさんの鋼の剣に。
金色の炎となって。
燃え上がった。
金色の剣が。
氷の心臓に。
吸い込まれていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
音がなかった。
それから。
ヴォルグの、胸の氷の心臓が。
金色の光の中で。
ゆっくりと。
溶けていった。
青い光が。
金色に塗り替えられていった。
ヴォルグの、全身を覆う、氷柱のような白い毛が。
一本、また一本と。
溶けて。
雫となって。
雪原の上に。
雨のように。
降り注いだ。
氷の巨人の巨体が。
ゆっくりと。
膝をついた。
その潰れた目から。
涙のような雫が。
流れ落ちていた。
「……あた……たかい……」
ヴォルグの唇から。
掠れた声が、漏れた。
「……三百年……ぶりだ……。
……あの方に……拾われた……あの日……以来だ……」
ヴォルグの巨体が。
雪原の上に。
倒れ伏した。
その白い体が。
雪の中に。
溶けるように。
消えていった。
最後に。
その唇が。
動いた。
「……灯の……候補……。……あの方を……温めて……やって……くれ……」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
魔将が倒れると、砦の魔物たちは。
蜘蛛の子を散らすように。
北の平原の向こうへと。
逃げ去っていった。
吹雪が。
止んだ。
灰色の空の、雲の切れ間から。
冬の薄い陽光が。
砦の上に。
差し込んできた。
城壁の上の魔物の旗が。
騎士たちの手で。
引き下ろされた。
代わりに。
アルセリアの青い旗が。
掲げられた。
三年ぶりに。
歓声が。
上がった。
五千の兵の。
そして、荷馬車の列の、船乗りたちの村の男たちの。
その歓声の中で。
砕けた正門の前に。
ローデリヒさんが。
膝をついていた。
大剣を。
雪の上に置いて。
両手で。
雪を。
すくい上げていた。
三年前。
アルベルトさんが、最後まで立ち続けた、その場所の雪を。
「……殿下」
ローデリヒさんの声が。
震えていた。
「……砦を……取り戻しました……」
ローデリヒさんの肩が。
激しく。
震えていた。
その隣に。
エレオノーラさんが、膝をついた。
「……ローデリヒ」
「……殿下……」
「……兄上は、きっと喜んでおられます」
エレオノーラさんは。
腰の細身の剣を。
抜いた。
その剣を。
砕けた正門の前の雪の中に。
そっと。
突き立てた。
三年前にアルベルトさんの、折れた剣が、帰ってきたその日から。
王城の霊廟の前に、突き立てられていたあの剣と。
同じように。
「――兄上」
エレオノーラさんの声が。
雪の中に。
静かに。
響いた。
「――砦は、取り戻しました。……一人では、ありません。皆で」
エレオノーラさんの青い瞳から。
初めて。
涙が。
こぼれた。
雪の上に。
ぽたりと。
落ちた。
「――兄上が、守ろうとしたものを。わたくしたちが、今、守っています」
僕は。
少し離れた場所で。
その二人の背中を。
見ていた。
胸のポケットの職業札が。
静かに。
温かかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その日の夕暮れ。
砦の北の城壁の上。
僕とエレオノーラさんと、剛と澪さんと古賀とシロガネが。
並んで立っていた。
少し離れた櫓の上には。
三枝さんと、桐生が。
城壁の北の向こうに。
灰色の平原が。
どこまでも。
広がっていた。
その平原の遥か、北の果てに。
北の山脈が。
黒い影となって。
連なっていた。
夕日が。
西の地平線に。
沈もうとしていた。
――新月まであと一日。
「……静かだな」
剛が低くつぶやいた。
「……難しいことは、分からんが。静かすぎる」
その瞬間。
シロガネが。
唸った。
鼻を。
北の平原の果てへと。
向けて。
銀色の毛並みが。
一斉に。
逆立った。
僕は。
北の平原を。
見つめた。
夕日が沈んでいく。
灰色の平原が。
少しずつ。
暗くなっていく。
その平原の遥か、北の果てに。
地平線が。
黒く。
染まり始めていた。
最初は。
夕闇かと思った。
違った。
黒い染みが。
地平線の端から端まで。
広がっていった。
王都大侵攻の、あの朝と同じ。
いや。
その倍。
二万の。
魔王軍。
「――……来た」
古賀が。
掠れた声で、つぶやいた。
黒い波が。
灰色の平原を。
ゆっくりと。
南へと。
押し寄せてきていた。
そして。
その黒い波の。
先頭に。
一つの影が。
浮かんでいた。
宙に。
黒い巨大な飛竜の背に。
黒い甲冑。
その甲冑の隙間から。
黒い炎が。
揺らめいていた。
ザハルの飛竜だった。
主を失った、夜の闇を切り取ったような、黒い皮膜の翼。
その背に。
新しい主が乗っていた。
距離は、遠かった。
けれど。
僕には、分かった。
明るい茶色の髪。
――志賀。
黒い飛竜が。
魔王軍の黒い波の先頭で。
宙に静止した。
その背の黒い甲冑の影が。
こちらを。
北の砦の城壁の上の。
僕を。
見ていた。
夕日が。
最後の一筋の光を。
残して。
沈んでいった。
灰色の平原が。
闇に包まれた。
その闇の中で。
黒い飛竜の、背の影の。
その顔のあたりに。
二つの。
赤い光が。
灯った。




