第56話「灰の朝」
第56話「灰の朝」
夜明けの王都に、灰が降っていた。
丘の上のドルマン侯爵の館は。
一晩じゅう燃え続けて。
夜明けとともに、ようやくその炎を鎮めていた。
灰色の石の壁だけが。
黒く焼け焦げて。
骨のように。
丘の上に残っていた。
その焼け跡から。
風が吹くたびに。
灰が。
舞い上がって。
王都の石畳の上に。
雪のように。
降り積もっていた。
治療院の窓辺で。
僕は、その灰を見つめていた。
左手に。
白い包帯が巻かれていた。
手のひらから手首まで。
何重にも。
「……焼けた皮膚が、再生するまで半月。
……その間は剣を握っちゃ、駄目」
澪さんは、そう言って、包帯を巻き終えた。
それから、背中の硝子の破片の傷に、軟膏を塗った。
七つの傷。
そのどれもが、深くはなかった。
けれど、澪さんの手は、最後まで震えていた。
「……半月で済むの運がいい」
澪さんが小さく言った。
「……黒い炎に素手で、触って。普通なら、指が何本か、なくなってる」
「……柚木さんの薬のおかげだよ」
「……ばか」
澪さんは、薬草の木箱を閉じた。
それから。
窓辺の僕の隣に立った。
二人で灰の降る、王都を見下ろした。
「……志賀くん」
澪さんがぽつりと言った。
「……今、どこにいるのかな」
「……北の果て。たぶん」
僕は、包帯を巻いた左手を握りしめた。
痛かった。
「……魔王城に」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
王城の大広間。
半年前、鑑定の儀の翌日に、志賀たちが、王に要求を突きつけた場所。
今、その大広間に。
貴族たちが、集められていた。
昨夜、ドルマン侯爵の館の夜会に、出席していた者たち。
煤の跡をまだ顔に残した者もいた。
包帯を巻いた者もいた。
玉座に。
国王レオンハルトが、座っていた。
その隣に。
宰相バルトロさん。
騎士団長ガルドさん。
宮廷魔術師長ヴェルダさん。
そして。
エレオノーラさん。
昨夜の白いドレスではなかった。
濃紺の騎士服。
その胸に王家の紋章。
腰に細身の剣。
大広間の隅に。
僕は立っていた。
剛と古賀と澪さんと一緒に。
「――昨夜のことについて」
国王の声が。
大広間に響いた。
静かな声だった。
けれど、その声は。
昨夜の侯爵邸の夜会で、聞いたときよりも。
ずっと。
重かった。
「――ドルマン侯爵は、魔王軍と内通し。
王家の転覆を謀った。
その証は宰相が昨夜、皆の前で示したとおりだ」
貴族たちの何人かが。
うつむいた。
「――そして、侯爵は。
黒いヴェールの女――魔王軍の手の者と共に。
闇の中へと、姿を消した。
……異界の若者、志賀拓真と、侯爵の次男、ルーカスを連れて」
大広間が静まり返った。
「――侯爵の寄子であった、ヴァイス男爵は、昨夜のうちに、捕らえた。
……男爵は、すべてを白状した。
侯爵の命で、東の諸侯の領地から、軍資金を集めたこと。
私兵隊長ガスパルに、王女を襲わせたこと。
……そして、昨夜の夜会で、偽りの証言をしたこと」
貴族たちの間から。
低いどよめきが漏れた。
国王は。
玉座から立ち上がった。
ゆっくりと。
大広間の貴族たちを。
一人、一人。
見渡した。
「――昨夜。そなたたちの、多くは。我が娘を、魔女と罵った」
その声に。
怒りはなかった。
ただ。
深い。
深い。
悲しみだけがあった。
「――侯爵の偽りの言葉を信じて。
異界の娘の操られた言葉を信じて。
……我が娘の言葉を、誰一人として、信じようとは、しなかった」
貴族たちの頭が。
一人、また一人と。
垂れていった。
「――それは、そなたたちだけの罪ではない」
国王の声が。
わずかに。
揺れた。
「――余の罪でもある。
三年前にアルベルトを失ってから。
余は、そなたたちに、王家を信じさせることができなかった。
……弱い王だった」
大広間が。
静まり返った。
「――だが」
国王は。
隣に立つエレオノーラさんを。
見た。
「――昨夜。
魔女と罵られた我が娘は。
剣を抜かなかった。
誰一人、自分を信じてくれないその只中で。
……ただ、一言。
『わたくしの言葉を、信じてくださる方は、
いらっしゃいますか』と、問うた」
エレオノーラさんの肩が。
わずかに。
震えた。
「――そして、魔物が地下から溢れ出したとき。
我が娘は。
自分を魔女と罵ったそなたたちを、守るために、剣を抜いた」
国王の目が。
潤んでいた。
「――異界の騎士、大河内剛は。
さっきまで、我が娘を罵っていた者たちを、その身を盾にして、守った。
『壁の後ろにいる奴は全員、守る』と」
剛が。
大広間の隅で。
真っ赤になって。
うつむいた。
「――そして、灯の候補、白峰陽翔は。
我が娘を罵った異界の娘を。
燃え落ちる燭台の下から、その身を盾にして救い出した」
貴族たちの何百もの視線が。
大広間の隅の。
僕へと。
集まった。
「――そなたたちに問う」
国王の声が。
大広間に響き渡った。
「――昨夜。そなたたちの命を、救ったのは。誰であったか」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
長い沈黙だった。
それから。
大広間の中ほどで。
一人の貴族が。
膝をついた。
太った体に、上等なけれど、煤で汚れた上着。
昨夜。
誰よりも、大きな声で、「魔女を捕らえよ」と叫んでいた男。
そして。
オーガの棍棒の下で、腰を抜かして、剛に救われた男。
「――……我ら、東の諸侯は」
その声が。
震えていた。
「――侯爵の甘言に惑わされ。
王家を侮り。
……殿下を魔女と罵りました」
男は。
大理石の床に。
額を。
擦りつけた。
「――申し訳、ございませんでした」
その隣で。
もう一人の貴族が。
膝をついた。
その隣で。
もう一人。
一人。
また一人。
大広間の貴族たちが。
次々と。
膝をついていった。
何百もの頭が。
大理石の床に。
垂れていった。
半年前の鑑定の儀の翌日。
「宝物庫を見せろ」「国宝級をよこせ」と、
要求を突きつけた、志賀たちのあの日。
浅く形だけの礼をしていた貴族たちが。
今。
王の前に。
深く。
深く。
頭を垂れていた。
国王は。
しばらく。
その光景を、見下ろしていた。
それから。
静かに。
目を閉じた。
「……顔を上げよ」
国王の声は。
少しだけ。
掠れていた。
「――魔王軍は、北にいる。
侯爵も、北へと消えた。
……戦は、まだ終わっていない。
むしろ、これからだ」
国王は。
目を開けた。
「――今、この国に必要なのは。
互いを罵り合うことではない。
……共に立つことだ」
貴族たちが。
ゆっくりと。
顔を上げた。
その何百もの顔に。
昨夜の嘲りはもう、なかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その日の午後。
王城の小さな謁見の間。
石の床の真ん中に。
一人の娘が、膝をついていた。
純白のドレスでは、なかった。
粗末な灰色の麻の服。
くるりと巻いていた、明るい茶色の髪は。
解かれて。
肩の上に力なく垂れていた。
その両手首に。
銀色の枷が、嵌められていた。
細い鎖で繋がれた。
その表面に、細かな紋様が刻まれていた。
――魅了封じの枷。
花菱さん、だった。
謁見の間の玉座に。
国王が座っていた。
その隣に。
バルトロさんと、ヴェルダさん。
そして。
花菱さんの正面に。
エレオノーラさんが、立っていた。
僕は。
謁見の間の隅に立っていた。
「――花菱莉愛」
バルトロさんの声が。
静かに響いた。
「――そなたの罪を、申し渡す前に。一つ問う」
花菱さんの肩が。
びくりと震えた。
「――昨夜の夜会で、そなたは、黒いヴェールの女に、魅了されていた。
宮廷結界師団の、三枝殿の結界が、その糸を断ち切るまで。
……それは、確かであると、宮廷魔術師長が証言しておる」
ヴェルダさんが。
小さくうなずいた。
「――だが」
バルトロさんの声が。
わずかに。
硬くなった。
「――黒いヴェールの女が、侯爵家に現れたのは。
およそ、三か月前のことだと、ヴァイス男爵は、申しておる。
……そなたが侯爵家の次男、ルーカス殿と出会ったのは。
それよりも、さらに三か月前。
ヴェルンの冒険者ギルドの酒場であったと」
花菱さんの顔から。
血の気が。
引いていった。
「――ルーカス殿は、昨夜、黒いヴェールの女と共に、闇の中へと消えた。
……だが、侯爵家の侍女たちは皆、口を揃えて、こう申しておる。
『ルーカス様の目が、とろんと濁り始めたのは。
花菱様がお屋敷にいらしてから、すぐのことでございました』と」
謁見の間が。
静まり返った。
「――問う花菱莉愛」
バルトロさんの鋭い目が。
花菱さんを、まっすぐに見下ろした。
「――黒いヴェールの女が、現れるその前に。
そなた自身の魅了の力で。
ルーカス殿の心を奪ったのか」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
花菱さんは。
長い間。
何も言わなかった。
枷を嵌められた両手を。
膝の上で。
握りしめていた。
その手が。
震えていた。
それから。
「……はい」
か細い声だった。
「……莉愛が……やりました」
花菱さんは。
顔を上げなかった。
「……ヴェルンの酒場で。
ルーカス様が、侯爵家の次男だって、聞いて。
……この人と結婚したら、莉愛、お姫様になれるかもって。
……思って」
花菱さんの声が。
震えた。
「……魅了を使いました。
少しずつ。
少しずつ。
……ルーカス様が、莉愛のこと、好きになってくれるように。
……お屋敷の夜会に、招待してくれるように。
……侯爵様に莉愛のこと、紹介してくれるように」
花菱さんの肩が。
激しく。
震え始めた。
「……侯爵様にも、使いました。
……莉愛のこと、気に入ってくれるように。
……ルーカス様との婚約を、許してくれるように」
謁見の間に。
花菱さんの嗚咽だけが。
響いていた。
「……そしたら。
メフィラさんが来て。
……莉愛の魅了なんかより、ずっと、ずっと強い魅了で。
……莉愛も、ルーカス様も侯爵様も。
みんな操られて」
花菱さんは。
ようやく。
顔を上げた。
その目が。
涙で。
ぐしゃぐしゃに濡れていた。
「……昨夜。
殿下にひどいことを言ったのは。
メフィラさんに、操られてたから。
……それは本当です」
花菱さんは。
エレオノーラさんを。
まっすぐに。
見上げた。
「……でも。最初に、誰かの心を、操ったのは。……莉愛、です」
花菱さんの声が。
掠れた。
「……ルーカス様は。
莉愛と出会わなければ。
メフィラさんに、操られることも、なかった。
……闇の中に連れていかれることも、なかった」
花菱さんは。
枷を嵌められた両手を。
石の床に。
ついた。
額を。
床に。
擦りつけた。
「――全部、莉愛のせいです。……ごめんなさい」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
花菱さんの腰の。
職業札が。
音を立てた。
――ぱき、と。
小田切のときと。
宇佐美のときと。
姫野さんのときと。
同じ音。
花菱さんは。
動かなかった。
床に額を擦りつけたまま。
その音を。
聞いていた。
職業札の表面に。
亀裂が走っていた。
【職業:魅了術師】。
その文字の半分を、覆っていた灰色の霞が。
渦を巻いた。
霞が晴れた。
【職業:術師見習い】
謁見の間が。
静まり返った。
「……劣化、だね」
ヴェルダさんが。
静かに言った。
「……魅了術師の戒律は。
『心を奪う力で、心を偽るなかれ』。
……嬢ちゃんは、その戒律に背き続けた。
ルーカスの心を偽り。
侯爵の心を偽り。
……そして、何より。
自分の心を偽り続けた」
ヴェルダさんは。
杖をついて。
花菱さんの前に歩み寄った。
「……でも、最後に。
自分の口で、本当のことを言った。
『最初に誰かの心を操ったのは、莉愛です』とね。
……だから、『なし』にはならなかった」
ヴェルダさんは。
花菱さんの枷を嵌められた手に。
皺だらけの手を、そっと置いた。
「……術師見習い。
魅了も、結界も治癒も使えない。
ただ、魔力の扱い方の基礎だけを知っている。
……一から学び直す者の職業さ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――裁きを申し渡す」
バルトロさんの声が。
謁見の間に響いた。
「――花菱莉愛。
侯爵家の次男、ルーカス殿、ならびに、
ドルマン侯爵に対する精神干渉の罪。
……これは、この国の法において、重罪である。
本来ならば、死罪に相当する」
花菱さんの肩が。
びくりと跳ねた。
謁見の間が。
凍りついた。
「――だが」
バルトロさんは。
手元の羊皮紙に目を落とした。
「――王女殿下より、嘆願が出ておる」
花菱さんが。
弾かれたように。
顔を上げた。
エレオノーラさんを。
見た。
エレオノーラさんは。
静かに。
花菱さんを。
見下ろしていた。
「――そして、灯の候補、白峰陽翔殿からも」
花菱さんの涙で濡れた目が。
謁見の間の隅の。
僕を捉えた。
「――両名の嘆願により。
死罪を減じ。
魅了封じの枷を生涯、嵌めること。
ならびに。
……国外への追放を申し渡す」
謁見の間に。
沈黙が落ちた。
花菱さんは。
呆然と。
エレオノーラさんを。
見上げていた。
「……なんで……」
花菱さんの唇から。
掠れた声が漏れた。
「……なんで……殿下が……。
莉愛……殿下のこと……魔女って……みんなの前で……」
エレオノーラさんは。
花菱さんの前に。
膝をついた。
王女が。
罪人の前に。
膝をついた。
「――あなたは昨夜。
結界の光が、黒い糸を断ち切ったその瞬間に。
真っ先にわたくしを見ました」
エレオノーラさんの声が。
静かに。
響いた。
「――そして、こう、言いました。『莉愛、殿下に何を言ったの』と」
花菱さんの目が。
大きく。
見開かれた。
「――自分が操られていたことよりも。
自分がこれからどうなるのかよりも。
……まず、わたくしを、傷つけたことを案じた」
エレオノーラさんは。
枷を嵌められた、花菱さんの両手を。
そっと。
自分の両手で。
包み込んだ。
「――それに。
白峰殿が燃え落ちる燭台の下から、あなたを救い出したとき。
……あなたは、白峰殿にこう、尋ねたそうですね。
『なんで助けるの』と」
花菱さんの唇が。
震えた。
「――白峰殿の答えを、わたくしも、聞きました。
……わたくしの答えも、同じです」
エレオノーラさんは。
小さく。
微笑んだ。
「――あなたは、白峰殿のゼミの仲間。
……白峰殿が隣に立つことを許した大切な人。
……ならばわたくしにとっても」
花菱さんは。
エレオノーラさんの手の中で。
声を上げて。
泣いた。
子どものように。
謁見の間の窓から。
灰の降る王都の空が。
見えていた。
灰の向こうに。
秋の薄い青空が。
少しだけ。
覗いていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
治療院の一番奥の特別な部屋。
窓に鉄の格子が嵌められていた。
床にヴェルダさんの、紫色の魔法陣が刻まれていた。
その魔法陣の中央の頑丈な寝台の上に。
巨大な体が、横たわっていた。
堂島。
鎖は外されていた。
けれど、その巨体を、三枝さんの青い結界が、薄く包み込んでいた。
膨れ上がっていた筋肉は。
少しだけ。
元の大きさに、戻り始めていた。
けれど。
その赤く濁った目は。
まだ。
天井を虚ろに見上げたままだった。
寝台の脇に。
剛が座っていた。
砕けた銀の鎧は、脱いでいた。
全身に包帯を巻いていた。
澪さんに絶対安静と、言い渡されていた。
それでも。
剛は毎晩、この部屋に来ていた。
堂島の大きな手を。
自分の大きな手で。
握っていた。
「……なあ、堂島」
剛が。
静かに。
話しかけていた。
「……今日な。
王様が貴族の連中に、すげえ、いい演説したんだぞ。
……俺の名前も、出てきた。
壁の後ろにいる奴は全員、守るって。
……ちょっと恥ずかしかったけどな」
堂島は。
答えなかった。
赤く濁った目が。
天井を見上げていた。
「……花菱の奴、国外追放だってさ。
……でも、死罪じゃなかった。
陽翔と殿下が頼んでくれたんだと。
……あいつわんわん、泣いてたらしいぞ」
剛は。
堂島の手を。
少しだけ。
強く握った。
「……お前も、早く帰ってこいよ」
剛の声が。
少しだけ。
震えた。
「……ゼミの飲み会でさ。
お前、潰れるたびに、俺の背中で寝言、言ってたんだぞ。
……『志賀さん、俺、役に立ってますか』って。
……毎回」
剛は。
うつむいた。
「……志賀はもう、いない。
……北に連れていかれた。
……でも、俺はここにいる。
……役に立つとか、立たないとか、関係なく。
……お前が帰ってくるの待ってる」
その瞬間。
堂島の大きな手の。
指が。
ほんのわずかに。
動いた。
剛が。
顔を上げた。
堂島の赤く濁った目は。
まだ。
天井を見上げていた。
けれど。
その目の端から。
一筋。
涙が。
こめかみを伝って。
枕の上に。
落ちていった。
剛は。
何も、言わなかった。
ただ。
堂島の手を。
両手で。
握りしめた。
部屋の扉の外で。
僕は。
その光景を見ていた。
胸のポケットの職業札の針の先ほどの種火が。
ほんのわずかに。
また。
大きくなった。




