第53話「断罪の夜」
大広間の空気が、一瞬で、凍りついた。
何百もの貴族たちの視線が。
壇の上の、純白のドレスの娘から。
大広間の中ほどに立つ、白いドレスの王女へと。
一斉に。
移っていった。
エレオノーラさんは。
動かなかった。
ただ、静かに。
壇の上の、花菱さんを。
見上げていた。
「――罪、とは」
エレオノーラさんの声が。
大広間に、響いた。
少しも、震えていなかった。
「――何のことでしょう、花菱殿」
花菱さんの、完璧な笑顔が。
さらに、美しく。
さらに、冷たく。
深まった。
「――とぼけないで、くださいな、殿下」
花菱さんの声が。
甘く。
柔らかく。
けれど、その一言一言が。
硝子の破片のように。
鋭く。
大広間に、降り注いだ。
「――あなたは、王家に伝わる、禁じられた呪術を用いて。
異界より来たりし、一人の若者の、心を、操った」
大広間が。
ざわめいた。
「――その若者に、『誓約の灯』などという、怪しげな力を、授け。
民の心を、惑わせ。『候補の勇者』などと、崇めさせた」
花菱さんの、硝子玉のような目が。
僕を、見た。
「――そして、その若者を、傀儡として。
……やがては、この国の、王位を、簒奪しようと、企んでいる」
大広間の、ざわめきが。
どよめきに、変わった。
「――王太子殿下が、三年前に、北の砦で、亡くなられて。
王家の世継ぎは、殿下、ただお一人。
……けれど、女の身では、王位は、継げない。
それが、この国の、古くからの、法」
花菱さんは。
銀の匙を。
硝子の杯に。
もう一度。
鳴らした。
澄んだ音が。
凍りついた大広間に。
響いた。
「――だから、殿下は。異界の若者を、勇者として、祭り上げた。
民に、崇めさせた。
……そして、いずれは、その若者と、婚姻を結び。勇者の妻として。
……実質的な、女王として。この国を、支配しようと」
花菱さんの、完璧な笑顔が。
大広間の、何百もの貴族たちを。
ゆっくりと。
見渡した。
「――魔女、ですわ。この方は」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
どよめきが。
嵐に、なった。
「――魔女……!」
「――王女殿下が、呪術を……!?」
「――だから、あの異界の若者は、あれほど、民に、崇められて……!」
「――候補の勇者など、最初から、怪しいと、思っておったのだ……!」
貴族たちの、声が。
四方八方から。
エレオノーラさんに、降り注いだ。
嘲り。
怒り。
疑い。
そして。
半年前から、ずっと、燻り続けていた。
王家への、不満。
国王の顔から。
血の気が、引いていた。
バルトロさんが。
国王の、隣で。
静かに。
目を、閉じていた。
「――証拠は、ございますわ」
花菱さんが、言った。
壇の脇から。
侍従が、一人。
銀の盆を、捧げ持って、進み出た。
盆の上に。
何通かの、羊皮紙の手紙が、載せられていた。
「――殿下が、王城の、宮廷魔術師長に、宛てた、密書。
……異界の若者の、心を、縛るための、呪術の、手順が、書かれておりますわ」
花菱さんは。
盆の上の、手紙を、一通、手に取った。
高々と、掲げた。
その手紙の、封蝋に。
王家の、紋章が、押されていた。
「――そして、証人も」
壇の脇から。
もう一人。
中年の、貴族が、進み出た。
肥えた体に、上等な、緑の上着。
その胸に、銀の徽章。
ヴァイス男爵家の、紋章。
「――ヴァイス男爵、でございます」
男爵は、大広間の、貴族たちに向かって、恭しく、頭を、下げた。
「――わたくしの、私兵隊長ガスパルが、先日、王女殿下の一行を、山賊と見誤り、誤って、刃を、向けてしまいました。
……その件で、ガスパルは、王都に、囚われております」
男爵の声が。
悲しげに、震えた。
「――けれど、ガスパルは、わたくしに、こう、申しておりました。
『王女殿下の、隣に立つ、異界の若者の目が、まるで、人形のように、虚ろであった』と。
『あれは、操られている者の、目であった』と」
――嘘だ。
僕は。
拳を。
握りしめた。
峠道で、ガスパルは。
王女殿下を、山賊を装って、襲撃した。
それは、ヴァイス男爵の命令で。
その男爵は、ドルマン侯爵の、意向で。
ガスパルは、尋問で、すべてを、吐いたはずだった。
けれど。
その証言は、王都の、王城の、地下の、尋問室の中のこと。
ここに集まった、何百もの貴族たちは。
誰も、それを、知らない。
「――そして、もう一人」
花菱さんの声が。
大広間の、どよめきを、切り裂いた。
「――この中で、誰よりも、あの若者のことを、よく、知っている方が、おりますわ」
花菱さんの、硝子玉のような目が。
壇の、脇に立つ。
黒い甲冑の、男を。
見た。
「――真の勇者、志賀拓真様」
志賀が。
一歩。
前に、進み出た。
黒い甲冑が。
大理石の床を、鳴らした。
志賀の、暗い目が。
僕を、見ていた。
それから。
その唇が。
ゆっくりと。
開いた。
「――あいつは」
志賀の声が。
大広間に、響いた。
もう一つの、誰かの声と、重なって。
「――あいつは、異界にいた頃から、人の心を、操るのが、上手い奴だった」
大広間が、静まり返った。
「――ゼミ長の選挙でも。俺のほうが、人気があったのに。
あいつは、いつの間にか、みんなの心を、掴んでた。
……召喚されてからも、そうだ。
城の連中も、城下の連中も、みんな、あいつに、心を、奪われた」
志賀の、首筋の、黒い筋が。
脈打っていた。
「――決闘で、俺が、あいつに、勝ったとき。
……誰も、俺を、見なかった。誰も、俺の名前を、呼ばなかった。
みんな、負けた、あいつの名前を、呼んでた」
志賀の声が。
震えた。
「――おかしいだろ。勝ったのは、俺なのに。
……あれは、呪術だ。あいつは、人の心を、操る、化け物なんだよ」
「――志賀」
声に、出していた。
志賀の目が。
一瞬だけ。
揺れた。
けれど。
すぐに。
その揺らぎは。
首筋の、黒い筋から、這い上がってきた、暗い光に。
呑み込まれた。
「――俺が、証人だ」
志賀は。
黒い剣の、柄に、手を、置いた。
「――あの王女は、魔女だ。あいつは、魔女の、傀儡だ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
大広間が。
燃え上がった。
声が。
怒号が。
嘲りが。
「――魔女を、捕らえよッ!」
「――王家は、異界の者を使って、我ら貴族を、支配しようとしたのだッ!」
「――侯爵閣下こそが、この国を、正しく、導かれるべきだッ!」
貴族たちの、何百もの顔が。
憎悪に、歪んでいた。
その憎悪が。
すべて。
大広間の中ほどに立つ、白いドレスの王女へと。
向けられていた。
剛が、僕の前に、一歩、踏み出した。
背中の盾に、手を、かけた。
古賀が、青ざめた顔で、僕の袖を、握りしめていた。
澪さんが、僕の隣で、唇を、噛んでいた。
そして。
エレオノーラさんは。
動かなかった。
憎悪の嵐の、その、ちょうど、中心で。
白いドレスを、纏って。
金の髪を、高く、結い上げて。
背筋を、まっすぐに、伸ばして。
ただ。
静かに。
立っていた。
――言葉で、刺されるのは。
――大勢の人々の前で、魔女だと、罵られて。
――誰も、わたくしの言葉を、信じてくれなかったら。
三日前の、夜明けの訓練場で。
震える声で、そう、言っていた王女が。
今。
その、恐れていた、嵐の、只中に。
一歩も、退かずに。
立っていた。
その手が。
ドレスの、襞の中で。
細身の剣の、柄に。
触れていた。
けれど。
抜かなかった。
エレオノーラさんは。
ゆっくりと。
大広間を。
見渡した。
憎悪に歪んだ、何百もの、顔を。
それから。
口を、開いた。
「――わたくしの、言葉を。信じてくださる方は、この中に、いらっしゃいますか」
静かな、声だった。
けれど、その声は。
怒号の嵐を。
切り裂いて。
大広間の、隅々にまで。
届いた。
一瞬。
大広間が。
静まり返った。
誰も。
答えなかった。
何百もの、貴族たちの、誰一人として。
エレオノーラさんの、白いドレスの、肩が。
ほんの、わずかに。
震えた。
――そのとき。
「――います」
僕は。
一歩。
前に、踏み出した。
エレオノーラさんの、隣に。
並んだ。
「――ここに、います」
大広間の、視線が。
一斉に。
僕に、集まった。
「――おう。俺も、いるぞ」
剛が。
エレオノーラさんの、反対側の、隣に、並んだ。
背中の盾を、床に、突き立てて。
「――難しいことは、分からんが。殿下は、魔女なんかじゃない。
半年、一緒に、旅をした。魔物に、剣を向けて。
黒蛇の刺客に、剣を向けて。
……一度も、誰かの心を、操ったりなんか、しなかった」
「――私も」
澪さんが。
僕の、隣に、並んだ。
淡い、水色のドレスの裾を、握りしめて。
その声が、震えていた。
けれど、はっきりと。
「――殿下は、私に、このドレスを、貸してくれた。
……誰かの心を操る人が、そんなこと、しない」
「――俺も」
古賀が。
澪さんの、隣に、並んだ。
眼鏡を、押し上げて。
「――鑑定士として、言わせてもらいます。
……白峰氏の、職業札に、呪術の痕跡なんて、一つも、ない。
半年間、毎日、見てきた。あの灯は、誰かに、与えられたものじゃない。
……白峰氏が、自分で、灯してきたものだ」
四人が。
エレオノーラさんの、両隣に。
並んでいた。
大広間の、貴族たちが。
ざわめいた。
「――ふん」
壇の上で。
ドルマン侯爵が。
鼻で、笑った。
「――異界の者が、魔女を、庇うか。
……魔女に、心を、操られている者たちが、何を言おうと。証言には、ならぬ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――では」
静かな、声が。
大広間に、響いた。
「――操られていない者の、証言なら。いかがでしょう、侯爵閣下」
国王の、隣から。
黒衣の、痩せた老紳士が。
一歩。
前に、進み出た。
宰相、バルトロ。
その手に。
一冊の、黒い革表紙の、帳簿を。
抱えていた。
ドルマン侯爵の、灰色の目が。
その帳簿を、捉えた。
ほんの、一瞬。
侯爵の、顔から。
表情が。
消えた。
「――これは、侯爵閣下の、王都の邸宅の、書斎より、拝借したものでございます」
バルトロさんの声は。
静かだった。
けれど、その一言一言が。
研ぎ澄まされた刃のように。
正確に。
大広間に、響いた。
「――この一年で、東の諸侯の領地から、侯爵家へと送られた、『軍資金』の、すべてが、記されております。
オルド村。ブラウエン。その他、二十を超える、村と、町。
……その総額は、王国の、一年分の、国庫収入に、匹敵いたします」
大広間が。
凍りついた。
東の貴族たちの、何人かの顔から。
血の気が、引いていった。
「――そして」
バルトロさんは。
帳簿の、間から。
羊皮紙の束を、取り出した。
「――侯爵閣下と、名を明かさぬ、何者かとの、密書でございます」
バルトロさんは。
その一枚を、広げた。
大広間の、貴族たちに、向かって。
読み上げた。
「――『満月の夜会にて、王家を、断罪す。王女を、異界の者を誑かし、王位を簒奪せんとした、魔女として』」
大広間の、空気が。
音を立てて。
凍りついた。
それは。
たった今。
壇の上の、純白のドレスの娘が。
口にした言葉と。
寸分、違わなかった。
「――『同時に、北の砦より、魔王軍、南下す。王都、混乱の内に、陥ちるべし』」
貴族たちの間から。
悲鳴が、漏れた。
「――『新王には、ドルマン侯爵を。魔王軍とは、和を結ぶ。東の諸侯の領地は、安堵す』」
「――『その証として、灯の候補の、身柄を、魔王城へと、差し出すべし』」
バルトロさんは。
羊皮紙を、下ろした。
それから。
壇の上の、ドルマン侯爵を。
まっすぐに。
見上げた。
「――魔王軍と、内通し。王家の転覆を、謀る。
……これを、この国の法では、大逆と、申します」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
大広間が。
静まり返っていた。
何百もの、貴族たちが。
息を、止めていた。
壇の上で。
ドルマン侯爵が。
動かなかった。
その、灰色の、冷たい目が。
バルトロさんの、手の中の、羊皮紙を。
じっと、見つめていた。
それから。
侯爵の、薄い唇が。
ゆっくりと。
弧を、描いた。
「――偽造だ」
その声は。
少しも、揺れていなかった。
「――宰相殿。その密書には、署名が、あるのか?
侯爵家の、印章が、押されているのか?
……ないであろう」
侯爵は。
壇の上から。
大広間の、貴族たちを、見渡した。
「――王家は、追い詰められておる。
だから、このような、偽の密書を、でっち上げ。
我がドルマン家に、濡れ衣を、着せようとしておる。
……皆様、騙されては、なりませぬぞ」
貴族たちが。
ざわめいた。
迷っていた。
どちらを、信じるべきか。
「――署名は、ございません」
バルトロさんが、静かに、答えた。
「――侯爵家の印章も、押されては、おりません。……さすがは、侯爵閣下。用心深い」
侯爵の、薄い唇が。
勝ち誇ったように、歪んだ。
「――ですが」
バルトロさんは。
羊皮紙の束の、一番下から。
もう一枚の、羊皮紙を、取り出した。
それは。
他の密書とは、違った。
焦げていた。
端が。
黒く。
「――これは、侯爵閣下の、書斎の、暖炉の、灰の中から、拾い上げたものでございます」
バルトロさんは。
その、焦げた羊皮紙を。
高々と。
掲げた。
「――燃やし損ねた、下書きでございましょう。……ここには」
焦げた羊皮紙の、燃え残った、その一角に。
赤い、封蝋が。
半分だけ。
残っていた。
双頭の、鷲。
そして、その封蝋の、隣に。
署名が。
燃え残っていた。
流麗な、けれど、冷たい筆跡で。
『――ドルマン』
大広間が。
爆発した。
「――侯爵閣下……!?」
「――大逆……! 魔王軍と、内通を……!」
「――我らを、騙していたのか……!」
東の貴族たちの、何人かが。
壇から、後ずさりしていった。
侯爵の、側から。
離れようと。
ドルマン侯爵の、顔から。
初めて。
すべての、色が。
抜け落ちていった。
「――そ、それは……」
侯爵の声が。
初めて。
震えた。
「――誰が……誰が、それを……! 書斎には、誰も……!」
「――俺だ」
大広間の、天井の。
巨大な、硝子の燭台の、その影から。
声が、した。
全員が。
見上げた。
燭台の、影の中から。
一つの、細身の影が。
音もなく。
大理石の床の上に。
降り立った。
黒い外套。
短く切った、前髪。
その奥の、鋭い目。
桐生、だった。
「――宮廷結界師団、補佐。桐生翔」
桐生は。
ドルマン侯爵を、まっすぐに、見上げた。
「――七日前の夜。あんたの書斎に、忍び込んだ。
帳簿も、密書も、暖炉の灰の中の、燃え残りも。全部、俺が、持ち出した」
桐生の目が。
冷たく。
細められた。
「――ついでに、地下も、見た。
……五十の魔物が、檻の中で、眠ってる、あんたの、地下牢もな」
大広間に。
悲鳴が。
響き渡った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――く……ッ」
ドルマン侯爵が。
壇の上で。
よろめいた。
その、灰色の目が。
大広間を、見渡した。
東の貴族たちが。
離れていった。
一人、また一人と。
ヴァイス男爵が。
青ざめた顔で、壇の脇から、後ずさりしていた。
侯爵の、目が。
最後に。
自分の、隣に立つ。
純白のドレスの、娘を。
捉えた。
そして。
侯爵の、薄い唇が。
歪んだ。
「――こ、この女だ……!」
侯爵の、震える指が。
花菱さんを。
指さした。
「――この女の、魅了の力だ……!
この女が、我らを、操ったのだ……!
我が息子ルーカスも、わしも、ヴァイス男爵も……!
みな、この、異界の、魅了術師に……!」
大広間が。
静まり返った。
花菱さんの、完璧な笑顔が。
凍りついていた。
「――ほら、見よ! 我が息子の、あの目を!」
侯爵の指が。
花菱さんの隣に立つ、ルーカスを、指さした。
ルーカスの、とろんと濁った目が。
大広間の、どこでもない場所を、見つめていた。
「――魅了されておる! この女の、魅了に!
……わしも、同じだ! この女に、心を、操られて……!
大逆など、わしの、本意では……!」
――花菱さんを、切り捨てた。
僕は。
花菱さんを、見た。
純白のドレス。
銀の冠。
赤い宝石の首飾り。
完璧な、笑顔。
その笑顔が。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
ひび割れていった。
「……え……」
花菱さんの、唇から。
か細い声が、漏れた。
「……え……莉愛……が……?」
硝子玉のような目が。
揺れていた。
激しく。
「……ち、違う……。莉愛……莉愛は……言われた、とおりに……。侯爵様に……言われたとおりに……」
花菱さんの、手から。
銀の匙が。
滑り落ちた。
大理石の床の上で。
澄んだ音を、立てて。
跳ねた。
「――白峰くん」
澪さんが。
僕の袖を、強く、引いた。
その目が。
淡い、若葉色の光を、帯びていた。
【薬草知識】の、その延長。
人の体の、状態を、見る目。
「――花菱さんの、体。……魅了の、痕跡が、ある」
澪さんの声が、震えていた。
「――花菱さん自身が、魅了されてる。
……ルーカスさんよりも、ずっと、深く。ずっと、濃く」
「――ほ、ほんとだ……!」
古賀が、掠れた声で、言った。
鑑定士の目が、淡い光を、帯びていた。
「――花菱さんの、札……!
【魅了術師】の文字が、半分、曇ってる……!
でも、それだけじゃない……!
札の上に、もう一つ、別の、黒い、何かが、重なってる……! 外から、被せられてる……!」
「――三枝さんッ!」
僕は、叫んだ。
大広間の、入り口の。
柱の陰に。
淡い青色の、結界師団のローブの、小柄な影が。
立っていた。
三枝さんが。
両手を、掲げた。
「――け、【結界】……ッ!」
青い光が。
大広間の、床を、走った。
一直線に。
壇の上の、花菱さんの、足元へと。
青い光の膜が。
花菱さんの、体を。
包み込んだ。
その瞬間。
花菱さんの、体から。
黒い、霧が。
噴き出した。
細い、糸のような、黒い霧が。
何本も。
何十本も。
花菱さんの、頭から。
胸から。
手足から。
まるで。
操り人形の、糸のように。
その、黒い糸の、すべてが。
一つの方向へと。
伸びていた。
壇の、奥の。
黒いカーテンの、その陰へと。
青い結界の光が。
黒い糸を。
一本。
また一本。
断ち切っていった。
花菱さんの、硝子玉のような目に。
光が。
戻った。
「――え」
花菱さんが。
自分の、手を。
見下ろした。
純白のドレスを。
見下ろした。
大広間を。
見渡した。
何百もの、貴族たちの、顔を。
自分を、指さす、侯爵の、震える指を。
隣で、とろんと濁った目をした、婚約者を。
そして。
大広間の中ほどに立つ。
白いドレスの、王女を。
花菱さんの、顔から。
血の気が。
引いていった。
「――莉愛……」
掠れた、声。
「――莉愛……今……何、を……」
花菱さんの、膝が。
崩れた。
壇の上に。
純白のドレスの裾を、広げて。
へたり込んだ。
「――莉愛……殿下に……何を、言ったの……?」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その、瞬間だった。
壇の、奥の。
黒いカーテンの、陰から。
笑い声が。
響いた。
甘く。
艶やかで。
夜の闇そのものが、嗤っているような。
「――あら、あら」
黒いカーテンが。
ゆっくりと。
開いた。
その奥から。
一人の、女が。
歩み出てきた。
黒い、ヴェール。
漆黒の、ドレス。
白い、指先。
赤い、唇。
「――糸を、切られて、しまったわね」
女の、赤い唇が。
ヴェールの奥で。
弧を、描いた。
「――まあ、いいわ。もう、その人形は、用済みだもの」
大広間の、空気が。
一瞬で。
冷たく、なった。
燭台の、何千本もの蝋燭の炎が。
一斉に。
揺らいだ。
まるで。
見えない、冷たい風が。
大広間を、吹き抜けたかのように。
「――メフィラ」
ドルマン侯爵が。
震える声で、その名を、呼んだ。
「――メフィラ……! な、何とかしろ……!
話が、違うではないか……!
満月の夜会で、王家を、断罪して……!」
「――ええ。そういう、お話でしたわね、侯爵様」
メフィラが。
侯爵の、隣に。
音もなく。
立った。
白い指先が。
侯爵の、頬に。
触れた。
「――でもね」
メフィラの、赤い唇が。
侯爵の、耳元に。
近づいた。
「――あなたも、もう、用済みなの」
侯爵の、灰色の目が。
大きく。
見開かれた。
メフィラの、白い指先から。
黒い、霧が。
滲み出した。
その霧が。
侯爵の、頬を。
首を。
胸を。
這うように。
包み込んでいった。
「――が……ッ、あ……ッ!」
侯爵の体が。
硬直した。
灰色の目が。
とろんと。
濁っていった。
ルーカスと、同じ目に。
いや。
それよりも。
ずっと。
深く。
「――侯爵様は、少し、お疲れのようですわ」
メフィラが。
大広間の、何百もの貴族たちに向かって。
艶やかに。
微笑んだ。
ヴェールの奥の。
赤い、瞳で。
「――では、そろそろ。本当の、夜会を。始めましょうか」
メフィラの、白い指先が。
宙で。
小さく。
弧を、描いた。
その、瞬間。
大広間の、床の。
大理石の、その、遥か下から。
地鳴りが。
響いた。
低く。
重く。
何十も。
何百も。
重なり合った。
獣の、咆哮。
「――地下の檻が、開いたッ!」
桐生が、叫んだ。
大広間の、床の、大理石が。
その、中央から。
内側から。
突き上げられるように。
ひび割れた。




