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【最終章突入】職業「勇者」って言われたのですが、一緒に転移した同級生いわく違うらしい ~正しい職業を知りたい今日この頃~  作者: 有馬 茶
第3部 ~裏切りの華~

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第52話「侯爵邸の夜会」

満月は、血のような色をしていた。


東の空に、低く、大きく、昇ってきた月。

地平線の、靄を、通して。

その光は、銀ではなく。

熟れすぎた果実のような、鈍い、赤銅色に、濁っていた。


その月の下に。

ドルマン侯爵の、王都の邸宅が、建っていた。


王城の、北東。

貴族たちの屋敷が並ぶ、丘の上の、一番、高い場所。

灰色の石の、巨大な館。

その、すべての窓から。

蝋燭の光が、溢れ出していた。

何百本。

いや、何千本。

館そのものが、一つの、巨大な燭台のように。

夜の闇の中に、燃え上がっていた。


館の屋根の上に、旗が、翻っていた。


黒地に、金の。

双頭の、鷲。


「……悪趣味だな」


王家の馬車の、窓から、館を見上げて。

剛が、低く、つぶやいた。


剛は、王国騎士の、正装の鎧を、纏っていた。

城壁を象った紋章が、胸の上で、鈍く、光っていた。

その腰には、剣。

背中には、盾。

夜会の、護衛の騎士として。


「……難しいことは、分からんが。あの館、なんか、嫌な匂いがする」


馬車の、床の上で。

シロガネが、低く、喉を、鳴らしていた。

夜会に、狼を連れていくことは、許されなかった。

けれど、シロガネは、王家の馬車の中で、待つことになっていた。

館の、すぐ外で。

いつでも、飛び込めるように。


「……地下の、魔物の匂いだ」


僕の隣で、古賀が、掠れた声で、言った。

借り物の、黒い礼服。

袖が、少しだけ、長すぎた。

眼鏡の奥の目が。

館の、土台の、石壁を、見つめていた。


「……桐生の報告どおりだ。……鑑定で、見える。

 館の地下に、五十を超える、魔物の気配。

 ……全部、眠ってる。今は、まだ」


馬車の、向かいの席で。

エレオノーラさんが、静かに、目を、閉じていた。


白い、ドレス。

胸元に、王家の紋章を刺繍した。

金の髪を、高く、結い上げて。

その首には、何の、飾りも、なかった。

ただ、腰の、ドレスの襞の中に。

細身の剣が、一振り。

隠されていた。


その隣で。

澪さんが、淡い、水色のドレスの裾を、両手で、握りしめていた。


エレオノーラさんの、昔のドレス。

肩の線も、腰の線も、澪さんの体に、ぴたりと、合っていた。

黒い髪を、少しだけ、結い上げて。

その手首に。

小さな、布袋が、結びつけられていた。

薬草の、布袋。


「……似合ってるよ、柚木さん」

僕が言うと、澪さんは、ふいっと、顔を、背けた。

「……知らない」

その耳が、真っ赤だった。


エレオノーラさんが、目を、開けた。

澪さんを、見て。

小さく、微笑んだ。


馬車が。

館の、正門の前で。

止まった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




館の大広間は、光の、海だった。


天井から、巨大な、硝子の燭台が、いくつも、吊り下げられていた。

その一つ一つに、何百本もの蝋燭が、灯っていた。

燭台の硝子が、蝋燭の光を、無数の、小さな虹に、砕いて。

大広間の、白い大理石の床の上に。

光の、雨のように、降り注いでいた。


壁という壁に。

金の額縁の、肖像画。

そのどれもが、双頭の鷲の紋章を、胸に、戴いていた。


大広間を、埋め尽くしていたのは。

貴族たち、だった。


絹と、宝石と、香水の、匂い。

色とりどりの、ドレス。

金糸の刺繍の、上着。

笑い声。

囁き声。

楽団の、弦の音。


けれど。


王家の一行が、大広間の入り口に、姿を現した瞬間。


すべての音が。

止まった。


楽団の、弦の音が。

途切れた。

笑い声が。

凍りついた。

何百もの、貴族たちの、顔が。

一斉に。

こちらを、向いた。


その目に、浮かんでいたのは。

好奇。

警戒。

嘲り。

そして、ほんのわずかな、怯え。


「――アルセリア国王、レオンハルト陛下。

 ならびに、第一王女、エレオノーラ殿下。……ご到着」


館の、侍従長の、甲高い声が。

静まり返った大広間に、響いた。


一拍の、沈黙。


それから。

貴族たちが。

ゆっくりと。

頭を、下げた。


けれど、その頭の、下げ方が。

浅かった。


王に対する、礼ではなかった。

同じ、貴族同士の。

いや、それよりも、さらに、浅い。

ただ、形だけの。


国王の、隣で。

バルトロさんが、わずかに、目を、細めた。


「――そして」


侍従長の声が、続いた。


その声が。

わずかに。

嘲るような、響きを、帯びていた。


「――異界より来たりし、『候補』の勇者、白峰陽翔殿。……ご到着」


大広間の、あちこちで。

くすくすと。

笑い声が、漏れた。


――候補の。


その言葉に、込められた。

薄い、冷たい、侮り。


僕は。

何も、言わなかった。


ただ。

大広間の、真ん中へと。

一歩。

踏み出した。


隣を。

エレオノーラさんが、歩いた。

反対側の、隣を。

澪さんが、歩いた。


その、後ろを。

剛と、古賀が。


貴族たちの、人垣が。

左右に。

割れていった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




大広間の、一番奥。

一段、高くなった、壇の上に。

ドルマン侯爵が、立っていた。


痩せた、背の高い、老人。

白い髪を、後ろに、撫でつけて。

鷲の嘴のような、鉤鼻。

灰色の、冷たい目。


黒い、上着。

その胸に、金糸で、双頭の鷲が、刺繍されていた。


「――ようこそ、陛下」


侯爵の声は、低く、よく通った。

けれど、その声に、温度は、なかった。


「我が息子の、婚約の祝いに、足をお運びいただき、光栄の至りに存じます」


侯爵は、頭を、下げなかった。

ただ、わずかに、顎を、引いただけだった。


国王の、拳が。

ほんのわずかに。

握りしめられた。


「……招かれた以上、来ぬわけにも、いかぬでな、ドルマン」


国王の声は、静かだった。


侯爵の、薄い唇が。

わずかに。

弧を、描いた。


「――ご賢明な、ご判断にございます」


侯爵の、灰色の目が。

国王から。

エレオノーラさんへ。

そして。

僕へと。

移った。


その目が。

一瞬だけ。

細められた。


「――そして、候補の勇者殿。噂は、かねがね」


侯爵の声が。

冷たく。

滑らかに。

大広間に、響いた。


「――四神殿のうち、三つを巡り。魔将を、二人までも、屠ったとか。

 ……さぞや、お強いのでしょうな」


「……一人では、何もできません」


僕は、答えた。


「みんなが、いてくれたから、です」


侯爵の目が。

わずかに。

揺れた。


それから。

侯爵は。

鼻で、笑った。


「……謙虚な、ことだ。……さて」


侯爵は、壇の、脇の、扉のほうへと、手を、差し伸べた。


「――今宵の、主役を、ご紹介いたしましょう」




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




壇の、脇の扉が。

ゆっくりと。

開いた。


最初に、現れたのは。

金髪の、若い男だった。


上等な、白い上着。

整った、顔立ち。

けれど、その目が。

どこか。

とろんと。

濁っていた。


焦点が、合っていなかった。

ぼんやりと。

大広間の、どこでもない場所を、見つめていた。


ルーカス。

侯爵家の、次男。


そして。

ルーカスの腕に、手を、添えて。


一人の、娘が、現れた。


純白の、ドレス。


胸元から、裾まで。

真珠と、銀糸の刺繍が、びっしりと、施された。

天井の燭台の光を受けて。

ドレスそのものが、内側から、輝いているように、見えた。


くるりと巻いた、明るい茶色の髪。

その上に。

小さな、銀の、冠。


首元に。

大きな、赤い宝石の、首飾り。


花菱さん、だった。


大広間が、息を、呑んだ。


美しかった。


王都の鑑定の儀で、「王妃ルートかなー?」と、はしゃいでいた、あの頃よりも。

ずっと。

ずっと。

美しかった。


けれど。


その顔に、浮かんでいた、笑顔が。


――目が、死んでた。


桐生の言葉が。

頭の中で、響いた。


花菱さんは。

笑っていた。

完璧な、笑顔で。

口角を、美しく、上げて。

頬に、柔らかな、えくぼを、浮かべて。


けれど、その目だけが。

笑っていなかった。


硝子玉のように。

何も、映していなかった。


「――我が息子、ルーカスと。

 異界より来たりし、魅了術師、花菱莉愛殿。

 ……二人の、婚約を、ここに、披露いたします」


侯爵の声が、大広間に、響いた。


貴族たちが。

一斉に。

拍手を、始めた。


その拍手の、嵐の中で。

花菱さんは。

完璧な、笑顔のまま。

ゆっくりと。

大広間を、見渡した。


その、硝子玉のような目が。


僕の上で。

止まった。


――一瞬。


ほんの、一瞬だけ。


硝子玉の、その奥で。

何かが。

揺れた。


溺れている人が。

水面の、遥か上の、光を。

見上げるような。


けれど。

次の瞬間には。

その揺らぎは。

消えていた。


花菱さんは。

完璧な、笑顔のまま。

僕から、目を、逸らした。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




「――それから」


侯爵の声が。

拍手の嵐を、切り裂いた。


「――今宵、皆様に、もう一人。ご紹介いたしたい方が、おります」


侯爵の、薄い唇が。

ゆっくりと。

笑みの形に、歪んだ。


「――我がドルマン家が、新たに、お迎えした。……真の、勇者殿を」


大広間が。

ざわめいた。


壇の、脇の扉が。

再び。

開いた。


足音が、した。


重い。

硬い。

鉄の、足音。


一歩。

また一歩。


扉の、奥の、暗がりから。

黒い、影が。

現れた。


黒い、甲冑。


全身を、夜の闇よりも、なお、黒い、甲冑で、包んでいた。

その表面に、細かな、紋様が、刻まれていた。

蛇の、鱗のような。

いや。

鴉の、羽根のような。

見る角度によって、形を変える、不気味な紋様。


腰に、黒い、長剣。


兜は、被っていなかった。


明るい、茶色の髪。

よく、鍛えられた、顔立ち。


けれど。


その目の、下に。

黒い、隈が、刻まれていた。

その瞳が。

半年前よりも。

ずっと。

暗い、光を、宿していた。


そして。

その、首筋に。

黒い、筋が。

何本も。

血管のように。

浮き上がっていた。


「――志賀」


声に、出していた。


志賀が。

壇の上で。

足を、止めた。


大広間の、光の海の、その向こうから。

僕を。

見た。


一瞬。

その顔に。

何かが。

浮かんだ。


それから。

その唇が。

ゆっくりと。

歪んだ。


「――よお、委員長」


その声は。

半年前と、同じ。

掠れて。

乾いて。

けれど、その奥に。

何か、冷たい、深い、響きが。

重なっていた。


まるで、志賀の声の、その下で。

もう一つの、誰かの声が。

一緒に、喋っているかのような。


「――久しぶりだな。……候補の、エセ勇者サマ」


志賀の、背後の、扉の暗がりから。

もう一つの、大きな影が。

現れた。


堂島、だった。


半年前よりも。

さらに、大きく、なっていた。

いや。

膨れ上がって、いた。


筋肉が、不自然に、盛り上がって。

皮膚の下で、蠢いていた。

その目が。

赤く。

濁っていた。


焦点が、合っていなかった。

ぼんやりと。

けれど、その奥に。

獣のような、光が。


「……し、志賀……さん……」


堂島の、唇から。

掠れた声が、漏れた。


「……ここ……どこ……っすか……」




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




夜会が、続いた。


楽団が、再び、弦を、奏で始めた。

貴族たちが、再び、笑い声を、上げ始めた。

けれど、その笑い声は。

どこか。

上滑りしていた。


誰もが。

大広間の、二つの場所を。

ちらちらと。

盗み見ていた。


壇の上の、黒い甲冑の、「真の勇者」と。

大広間の、中ほどに立つ、「候補の勇者」と。


「……陽翔」


剛が、僕の、すぐ後ろで、低く、言った。


「……堂島の奴。……あれ、もう、まともじゃねえぞ」


剛の声が。

震えていた。


「……狂化が、解けてないんだ。……ずっと。……何日も。何週間も」


僕は、黙って、うなずいた。


「……それに、志賀の、首の、あの黒い筋」


古賀が、掠れた声で、言った。

鑑定士の目が、淡い光を、帯びていた。


「……鑑定、できない。……弾かれる。……でも、一つだけ、見えた」


古賀の声が。

震えた。


「……あれ、志賀自身の、魔力じゃない。

 ……外から、流し込まれてる。……黒い、何か。

 ……黄昏の神殿で見た、古き魔の、黒い霧と、同じ、匂いが、する」


胸の奥が。

冷たく、なった。


そのとき。


「――委員長」


すぐ、隣から。

声が、した。


振り返った。


志賀が。

いつの間にか。

壇から、降りて。

僕の、すぐ隣に。

立っていた。


黒い甲冑から。

冷たい、墓の土のような、匂いが、した。


「――ちょっと、顔、貸せよ」


志賀は。

顎で。

大広間の、奥の。

硝子の扉の向こうの、バルコニーを。

示した。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




バルコニーは、寒かった。


秋の、夜風が。

石の手すりの上を、吹き抜けていった。


眼下に、王都の、街並みが、広がっていた。

石造りの家々の、屋根。

窓の、小さな灯り。

遠くに、王城の、尖塔。


その上に。

赤銅色の、満月が。

低く、大きく。

浮かんでいた。


志賀は。

手すりに、背中を、預けていた。

腕を、組んで。

月を、見上げていた。


「……半年ぶり、だな」


志賀が、言った。


「……王都の、東門で、別れて以来か」

「……うん」

「……お前、ずいぶん、有名に、なったな。

 ……ブラウエンの酒場でも、お前の歌が、流れてたぜ。候補の勇者の、旅の歌」


志賀の声が。

低く。

乾いていた。


「……三つの神殿を巡って。魔将を、二人、倒して。……黒蛇の呪印を、砕いて」


志賀は。

月から、視線を、外した。

僕を、見た。


「――桐生を、助けたんだってな」


その声が。

一瞬だけ。

揺れた。


「……うん」

「……そっか」


志賀は。

また。

月を、見上げた。


長い、沈黙だった。


「……志賀」


僕は、志賀の、隣に、立った。

手すりに、手を、置いた。


「……桐生から、伝言が、ある」


志賀の、組んだ腕が。

わずかに。

強張った。


「……『あいつ、本当は、悪い奴じゃないんだ。俺を助けてくれたのは、本当だから』って」


志賀は。

何も、言わなかった。


「……『今のあいつは、何か、おかしい。使えねえ奴はいらねえなんて、高校の頃の志賀なら、絶対に、言わなかった』って」


志賀の、横顔が。

月明かりの中で。

歪んだ。


「……『もし、あいつに、会うことがあったら、止めてやってくれ』って」


「――うるせえよ」


志賀の声が。

低く。

掠れた。


「――うるせえよ、委員長」


志賀は。

手すりから、背中を、離した。

僕に、向き直った。


その手が。

腰の、職業札に、伸びた。


黒い、札。


完全に、黒く、塗り潰された、札。


志賀は。

その札を。

僕の、目の前に。

突きつけた。


「――見ろよ」


札の、黒い表面に。

黒よりも、さらに深い、闇の色で。

文字が、浮かび上がっていた。


【職業:勇者】


志賀の、親指が。

その文字の、すぐ後ろに。

押し当てられていた。


まるで。

何かを。

隠すように。


「――勇者だ。俺の札に、勇者って、出たんだよ」


志賀の目が。

暗い、光を、宿して。

輝いていた。


「――お前は、候補だ。俺は、勇者だ。

 ……分かるか?

 神様が、認めたんだよ。俺が、本物だって」


僕は。

志賀の、親指を。

見ていた。


その、親指の、縁から。

わずかに。

本当に、わずかに。

はみ出していた。


括弧の。

端が。


「……志賀」


声が、掠れた。


「……その、親指の、下」


志賀の、顔が。

凍りついた。


「……括弧が、ある、よね」


夜風が。

止んだ。


志賀の、親指が。

札の上で。

小刻みに。

震えていた。


「……何、言ってんだ」


「……何て、書いてあるの」


「――何も、書いてねえよッ!」


志賀の声が。

バルコニーに。

響き渡った。


「――勇者だッ!

 俺は、勇者なんだよッ!

 それだけだッ!

 括弧なんか、ねえッ!

 何も、ねえんだよッ!」


志賀の、首筋の、黒い筋が。

脈打つように。

蠢いていた。


「……志賀」


僕は。

一歩。

志賀に、近づいた。


「……三百年前に、同じことを、した人が、いたんだ」


志賀の、目が。

揺れた。


「……禁書の、一行を。見なかったことに、した人が。

 ……その人は、みんなを、帰したかった。

 それだけだった。でも、その一行を、見なかったせいで。

 ……大切な人を、全部、失った」


僕は。

志賀の、震える手の、その上に。

そっと。

自分の手を。

重ねようとした。


「……志賀。その括弧の中を、一緒に、見よう。

 ……一人で、抱え込まなくて、いいから」


志賀の、手が。

僕の手を。


――払いのけた。


「――触んじゃねえよッ!」


志賀の、目が。

赤く。

充血していた。


その目に。

涙が。

滲んでいるように、見えた。


けれど。

次の瞬間。

その涙は。

首筋の、黒い筋から、這い上がってきた、暗い光に。

呑み込まれて。

消えた。


「――お前は、いつも、そうだ」


志賀の声が。

低く。

冷たく。

もう一つの、誰かの声と、重なって。

響いた。


「――いつも、上から、手を、差し伸べてくる。

 ……ゼミ長の選挙のときも。

 決闘のときも。

 本陣でも。

 東門でも」


志賀は。

黒い札を。

腰に、戻した。


「――俺は、お前の手なんか、いらねえ」


志賀は。

背を、向けた。


硝子の扉の、向こうの。

光の海の、大広間へと。

歩き出した。


扉の、前で。

一度だけ。

立ち止まった。


振り返らずに。


「――今夜。お前は、終わる」


その声が。

夜風の中に。

冷たく。

響いた。


「――お前の、大切な王女様も。……全部、な」


扉が。

閉まった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




僕は。

バルコニーの、手すりの前に。

一人。

立ち尽くしていた。


志賀の手を、払われた、自分の手を。

見下ろしていた。


――一緒に、見よう。


届かなかった。


いや。


届きかけた。


志賀の目に。

一瞬。

涙が。

滲んでいた。


あれは。

古き魔の、黒い霧ではなかった。

志賀自身の。

涙だった。


「……白峰くん」


硝子の扉が、開いて。

澪さんが、バルコニーに、出てきた。


淡い、水色のドレスの裾が。

夜風に、揺れていた。


「……志賀くん、すごい顔で、戻ってきた」

「……うん」

「……何か、あったの」

「……届かなかった」


僕は、手を、握りしめた。


「……でも、届きかけた」


澪さんは。

何も、言わなかった。


ただ。

僕の、握りしめた手の上に。

そっと。

自分の手を。

重ねた。


小さくて。

冷たくて。

けれど、優しい手。


「……届きかけたなら」


澪さんが、小さく、言った。


「……次は、届くかもしれない」


そのとき。


大広間の、中から。

楽団の、弦の音が。

不意に。

途切れた。


続いて。

澄んだ、鈴の音が。

一つ。

響いた。


誰かが。

杯を、銀の匙で、叩いていた。


大広間の、喧騒が。

すっと。

静まり返った。


硝子の扉の、向こうで。

光の海の、その中心で。


純白のドレスの娘が。

壇の上に、立っていた。


完璧な、笑顔で。

硝子玉のような、目で。


その手に。

銀の匙と。

硝子の杯を、持って。


「――皆様」


花菱さんの声が。

大広間に、響いた。


甘く。

柔らかく。

けれど、その奥に。

何か。

冷たく、硬いものが。

潜んでいた。


「――今宵、この祝いの席で。皆様に、お伝えしなければ、ならないことが、ございます」


僕と、澪さんは。

顔を、見合わせた。


硝子の扉を、開けて。

大広間へと。

駆け戻った。


花菱さんの、硝子玉のような目が。

大広間の、光の海を、見渡していた。


そして。

その目が。


白いドレスの、金の髪の、王女の上で。


ぴたりと。

止まった。


「――アルセリア第一王女、エレオノーラ殿下」


花菱さんの、完璧な笑顔が。

ゆっくりと。

冷たく。

歪んでいった。


「――あなたの、罪を。今、ここで。明らかに、させていただきます」

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