↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【最終章突入】職業「勇者」って言われたのですが、一緒に転移した同級生いわく違うらしい ~正しい職業を知りたい今日この頃~  作者: 有馬 茶
第3部 ~裏切りの華~

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

52/90

第52話「侯爵邸の夜会」

第52話「侯爵邸の夜会」



満月は、血のような色をしていた。


東の空に低く大きく昇ってきた月。

地平線の靄を通して。

その光は、銀ではなく。

熟れすぎた果実のような、鈍い赤銅色に濁っていた。


その月の下に。

ドルマン侯爵の、王都の邸宅が、建っていた。


王城の北東。

貴族たちの屋敷が並ぶ、丘の上の一番、高い場所。

灰色の石の巨大な館。

そのすべての窓から。

蝋燭の光が、溢れ出していた。

何百本。

いや、何千本。

館そのものが、一つの巨大な燭台のように。

夜の闇の中に、燃え上がっていた。


館の屋根の上に、旗が翻っていた。


黒地に金の。

双頭の鷲。


「……悪趣味だな」


王家の馬車の、窓から館を見上げて。

剛が低くつぶやいた。


剛は、王国騎士の正装の鎧を、纏っていた。

城壁を象った紋章が、胸の上で鈍く光っていた。

その腰には剣。

背中には盾。

夜会の護衛の騎士として。


「……難しいことは、分からんが。あの館、なんか、嫌な匂いがする」


馬車の床の上で。

シロガネが、低く喉を鳴らしていた。

夜会に狼を連れていくことは、許されなかった。

けれど、シロガネは、王家の馬車の中で、待つことになっていた。

館のすぐ外で。

いつでも、飛び込めるように。


「……地下の魔物の匂いだ」


僕の隣で古賀が掠れた声で言った。

借り物の黒い礼服。

袖が少しだけ長すぎた。

眼鏡の奥の目が。

館の土台の石壁を見つめていた。


「……桐生の報告どおりだ。

……鑑定で見える。

館の地下に、五十を超える魔物の気配。

……全部、眠ってる。

今はまだ」


馬車の向かいの席で。

エレオノーラさんが、静かに目を閉じていた。


白いドレス。

胸元に王家の紋章を刺繍した。

金の髪を高く結い上げて。

その首には、何の飾りもなかった。

ただ、腰のドレスの襞の中に。

細身の剣が一振り。

隠されていた。


その隣で。

澪さんが淡い、水色のドレスの裾を、両手で握りしめていた。


エレオノーラさんの昔のドレス。

肩の線も、腰の線も、澪さんの体に、ぴたりと合っていた。

黒い髪を少しだけ結い上げて。

その手首に。

小さな布袋が、結びつけられていた。

薬草の布袋。


「……似合ってるよ、柚木さん」

僕が言うと、澪さんは、ふいっと顔を背けた。

「……知らない」

その耳が真っ赤だった。


エレオノーラさんが、目を開けた。

澪さんを見て。

小さく微笑んだ。


馬車が。

館の正門の前で。

止まった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




館の大広間は、光の海だった。


天井から巨大な硝子の燭台が、いくつも、吊り下げられていた。

その一つ一つに、何百本もの蝋燭が、灯っていた。

燭台の硝子が、蝋燭の光を、無数の小さな虹に砕いて。

大広間の白い大理石の床の上に。

光の雨のように、降り注いでいた。


壁という壁に。

金の額縁の肖像画。

そのどれもが、双頭の鷲の紋章を、胸に戴いていた。


大広間を埋め尽くしていたのは。

貴族たち、だった。


絹と宝石と香水の匂い。

色とりどりのドレス。

金糸の刺繍の上着。

笑い声。

囁き声。

楽団の弦の音。


けれど。


王家の一行が、大広間の入り口に、姿を現した瞬間。


すべての音が。

止まった。


楽団の弦の音が。

途切れた。

笑い声が。

凍りついた。

何百もの貴族たちの顔が。

一斉に。

こちらを向いた。


その目に浮かんでいたのは。

好奇。

警戒。

嘲り。

そして、ほんのわずかな怯え。


「――アルセリア国王、レオンハルト陛下。

ならびに第一王女、エレオノーラ殿下。

……ご到着」


館の侍従長の甲高い声が。

静まり返った大広間に、響いた。


一拍の沈黙。


それから。

貴族たちが。

ゆっくりと。

頭を下げた。


けれど、その頭の下げ方が。

浅かった。


王に対する、礼ではなかった。

同じ貴族同士の。

いや、それよりもさらに浅い。

ただ、形だけの。


国王の隣で。

バルトロさんが、わずかに目を細めた。


「――そして」


侍従長の声が続いた。


その声が。

わずかに。

嘲るような、響きを帯びていた。


「――異界より来たりし、『候補』の勇者、白峰陽翔殿。……ご到着」


大広間のあちこちで。

くすくすと。

笑い声が漏れた。


――候補の。


その言葉に、込められた。

薄い冷たい侮り。


僕は。

何も、言わなかった。


ただ。

大広間の真ん中へと。

一歩。

踏み出した。


隣を。

エレオノーラさんが、歩いた。

反対側の隣を。

澪さんが歩いた。


その後ろを。

剛と古賀が。


貴族たちの人垣が。

左右に。

割れていった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




大広間の一番奥。

一段、高くなった壇の上に。

ドルマン侯爵が、立っていた。


痩せた背の高い老人。

白い髪を後ろに撫でつけて。

鷲の嘴のような鉤鼻。

灰色の冷たい目。


黒い上着。

その胸に金糸で双頭の鷲が刺繍されていた。


「――ようこそ陛下」


侯爵の声は、低くよく通った。

けれど、その声に温度はなかった。


「我が息子の、婚約の祝いに、足をお運びいただき、光栄の至りに存じます」


侯爵は、頭を下げなかった。

ただ、わずかに顎を引いただけだった。


国王の拳が。

ほんのわずかに。

握りしめられた。


「……招かれた以上、来ぬわけにも、いかぬでなドルマン」


国王の声は、静かだった。


侯爵の薄い唇が。

わずかに。

弧を描いた。


「――ご賢明なご判断にございます」


侯爵の灰色の目が。

国王から。

エレオノーラさんへ。

そして。

僕へと。

移った。


その目が。

一瞬だけ。

細められた。


「――そして、候補の勇者殿。噂はかねがね」


侯爵の声が。

冷たく。

滑らかに。

大広間に響いた。


「――四神殿のうち、三つを巡り。

魔将を二人までも屠ったとか。

……さぞや、お強いのでしょうな」


「……一人では、何もできません」


僕は、答えた。


「みんながいてくれたからです」


侯爵の目が。

わずかに。

揺れた。


それから。

侯爵は。

鼻で笑った。


「……謙虚なことだ。……さて」


侯爵は、壇の脇の扉のほうへと、手を差し伸べた。


「――今宵の主役を、ご紹介いたしましょう」




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




壇の脇の扉が。

ゆっくりと。

開いた。


最初に現れたのは。

金髪の若い男だった。


上等な白い上着。

整った顔立ち。

けれど、その目が。

どこか。

とろんと。

濁っていた。


焦点が合っていなかった。

ぼんやりと。

大広間のどこでもない場所を、見つめていた。


ルーカス。

侯爵家の次男。


そして。

ルーカスの腕に、手を添えて。


一人の娘が現れた。


純白のドレス。


胸元から裾まで。

真珠と銀糸の刺繍が、びっしりと施された。

天井の燭台の光を受けて。

ドレスそのものが、内側から輝いているように、見えた。


くるりと巻いた、明るい茶色の髪。

その上に。

小さな銀の冠。


首元に。

大きな赤い宝石の首飾り。


花菱さん、だった。


大広間が息を呑んだ。


美しかった。


王都の鑑定の儀で、「王妃ルートかなー?」と、

はしゃいでいたあの頃よりも。

ずっと。

ずっと。

美しかった。


けれど。


その顔に浮かんでいた笑顔が。


――目が死んでた。


桐生の言葉が。

頭の中で響いた。


花菱さんは。

笑っていた。

完璧な笑顔で。

口角を美しく上げて。

頬に柔らかな、えくぼを浮かべて。


けれど、その目だけが。

笑っていなかった。


硝子玉のように。

何も、映していなかった。


「――我が息子、ルーカスと。

異界より来たりし、魅了術師、花菱莉愛殿。

……二人の婚約を、ここに披露いたします」


侯爵の声が、大広間に響いた。


貴族たちが。

一斉に。

拍手を始めた。


その拍手の嵐の中で。

花菱さんは。

完璧な笑顔のまま。

ゆっくりと。

大広間を見渡した。


その硝子玉のような目が。


僕の上で。

止まった。


――一瞬。


ほんの一瞬だけ。


硝子玉のその奥で。

何かが。

揺れた。


溺れている人が。

水面の遥か上の光を。

見上げるような。


けれど。

次の瞬間には。

その揺らぎは。

消えていた。


花菱さんは。

完璧な笑顔のまま。

僕から目を逸らした。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




「――それから」


侯爵の声が。

拍手の嵐を、切り裂いた。


「――今宵、皆様にもう一人。ご紹介いたしたい方が、おります」


侯爵の薄い唇が。

ゆっくりと。

笑みの形に歪んだ。


「――我がドルマン家が、新たにお迎えした。……真の勇者殿を」


大広間が。

ざわめいた。


壇の脇の扉が。

再び。

開いた。


足音がした。


重い。

硬い。

鉄の足音。


一歩。

また一歩。


扉の奥の暗がりから。

黒い影が。

現れた。


黒い甲冑。


全身を夜の闇よりも、なお、黒い甲冑で包んでいた。

その表面に、細かな紋様が刻まれていた。

蛇の鱗のような。

いや。

鴉の羽根のような。

見る角度によって、形を変える、不気味な紋様。


腰に黒い長剣。


兜は、被っていなかった。


明るい茶色の髪。

よく鍛えられた顔立ち。


けれど。


その目の下に。

黒い隈が刻まれていた。

その瞳が。

半年前よりも。

ずっと。

暗い光を宿していた。


そして。

その首筋に。

黒い筋が。

何本も。

血管のように。

浮き上がっていた。


「――志賀」


声に出していた。


志賀が。

壇の上で。

足を止めた。


大広間の光の海のその向こうから。

僕を。

見た。


一瞬。

その顔に。

何かが。

浮かんだ。


それから。

その唇が。

ゆっくりと。

歪んだ。


「――よお、委員長」


その声は。

半年前と同じ。

掠れて。

乾いて。

けれど、その奥に。

何か、冷たい深い響きが。

重なっていた。


まるで志賀の声のその下で。

もう一つの誰かの声が。

一緒に喋っているかのような。


「――久しぶりだな。……候補のエセ勇者サマ」


志賀の背後の扉の暗がりから。

もう一つの大きな影が。

現れた。


堂島、だった。


半年前よりも。

さらに大きくなっていた。

いや。

膨れ上がって、いた。


筋肉が不自然に盛り上がって。

皮膚の下で、蠢いていた。

その目が。

赤く。

濁っていた。


焦点が合っていなかった。

ぼんやりと。

けれど、その奥に。

獣のような光が。


「……し、志賀……さん……」


堂島の唇から。

掠れた声が漏れた。


「……ここ……どこ……っすか……」




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




夜会が続いた。


楽団が再び、弦を奏で始めた。

貴族たちが再び、笑い声を上げ始めた。

けれど、その笑い声は。

どこか。

上滑りしていた。


誰もが。

大広間の二つの場所を。

ちらちらと。

盗み見ていた。


壇の上の黒い甲冑の、「真の勇者」と。

大広間の中ほどに立つ、「候補の勇者」と。


「……陽翔」


剛が僕のすぐ後ろで低く言った。


「……堂島の奴。……あれ、もう、まともじゃねえぞ」


剛の声が。

震えていた。


「……狂化が、解けてないんだ。……ずっと。……何日も。何週間も」


僕は、黙ってうなずいた。


「……それに志賀の首のあの黒い筋」


古賀が掠れた声で言った。

鑑定士の目が、淡い光を帯びていた。


「……鑑定、できない。……弾かれる。……でも、一つだけ見えた」


古賀の声が。

震えた。


「……あれ、志賀自身の魔力じゃない。

……外から流し込まれてる。

……黒い何か。

……黄昏の神殿で見た、古き魔の黒い霧と、同じ匂いがする」


胸の奥が。

冷たくなった。


そのとき。


「――委員長」


すぐ隣から。

声がした。


振り返った。


志賀が。

いつの間にか。

壇から降りて。

僕のすぐ隣に。

立っていた。


黒い甲冑から。

冷たい、墓の土のような匂いがした。


「――ちょっと顔、貸せよ」


志賀は。

顎で。

大広間の奥の。

硝子の扉の向こうのバルコニーを。

示した。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




バルコニーは、寒かった。


秋の夜風が。

石の手すりの上を、吹き抜けていった。


眼下に王都の街並みが広がっていた。

石造りの家々の屋根。

窓の小さな灯り。

遠くに王城の尖塔。


その上に。

赤銅色の満月が。

低く大きく。

浮かんでいた。


志賀は。

手すりに背中を預けていた。

腕を組んで。

月を見上げていた。


「……半年ぶりだな」


志賀が言った。


「……王都の東門で別れて以来か」

「……うん」

「……お前ずいぶん、有名になったな。

……ブラウエンの酒場でも、お前の歌が、流れてたぜ。

候補の勇者の旅の歌」


志賀の声が。

低く。

乾いていた。


「……三つの神殿を巡って。

魔将を二人、倒して。

……黒蛇の呪印を砕いて」


志賀は。

月から視線を外した。

僕を見た。


「――桐生を助けたんだってな」


その声が。

一瞬だけ。

揺れた。


「……うん」

「……そっか」


志賀は。

また。

月を見上げた。


長い沈黙だった。


「……志賀」


僕は、志賀の隣に立った。

手すりに手を置いた。


「……桐生から伝言がある」


志賀の組んだ腕が。

わずかに。

強張った。


「……『あいつ本当は、悪い奴じゃないんだ。

俺を助けてくれたのは、本当だから』って」


志賀は。

何も、言わなかった。


「……『今のあいつは何か、おかしい。

使えねえ奴はいらねえなんて、高校の頃の志賀なら、

絶対に言わなかった』って」


志賀の横顔が。

月明かりの中で。

歪んだ。


「……『もし、あいつに会うことがあったら、止めてやってくれ』って」


「――うるせえよ」


志賀の声が。

低く。

掠れた。


「――うるせえよ、委員長」


志賀は。

手すりから、背中を離した。

僕に向き直った。


その手が。

腰の職業札に伸びた。


黒い札。


完全に黒く塗り潰された札。


志賀は。

その札を。

僕の目の前に。

突きつけた。


「――見ろよ」


札の黒い表面に。

黒よりも、さらに深い闇の色で。

文字が浮かび上がっていた。


【職業:勇者】


志賀の親指が。

その文字のすぐ後ろに。

押し当てられていた。


まるで。

何かを。

隠すように。


「――勇者だ。俺の札に、勇者って出たんだよ」


志賀の目が。

暗い光を宿して。

輝いていた。


「――お前は、候補だ。

俺は、勇者だ。

……分かるか?

 神様が認めたんだよ。

俺が本物だって」


僕は。

志賀の親指を。

見ていた。


その親指の縁から。

わずかに。

本当にわずかに。

はみ出していた。


括弧の。

端が。


「……志賀」


声が掠れた。


「……その親指の下」


志賀の顔が。

凍りついた。


「……括弧があるよね」


夜風が。

止んだ。


志賀の親指が。

札の上で。

小刻みに。

震えていた。


「……何、言ってんだ」


「……何て書いてあるの」


「――何も、書いてねえよッ!」


志賀の声が。

バルコニーに。

響き渡った。


「――勇者だッ!

 俺は、勇者なんだよッ!

 それだけだッ!

 括弧なんか、ねえッ!

 何もねえんだよッ!」


志賀の首筋の黒い筋が。

脈打つように。

蠢いていた。


「……志賀」


僕は。

一歩。

志賀に近づいた。


「……三百年前に、同じことを、した人がいたんだ」


志賀の目が。

揺れた。


「……禁書の一行を。

見なかったことに、した人が。

……その人は、みんなを帰したかった。

それだけだった。

でも、その一行を見なかったせいで。

……大切な人を全部、失った」


僕は。

志賀の震える手のその上に。

そっと。

自分の手を。

重ねようとした。


「……志賀。

その括弧の中を、一緒に見よう。

……一人で抱え込まなくていいから」


志賀の手が。

僕の手を。


――払いのけた。


「――触んじゃねえよッ!」


志賀の目が。

赤く。

充血していた。


その目に。

涙が。

滲んでいるように、見えた。


けれど。

次の瞬間。

その涙は。

首筋の黒い筋から、這い上がってきた暗い光に。

呑み込まれて。

消えた。


「――お前は、いつもそうだ」


志賀の声が。

低く。

冷たく。

もう一つの、誰かの声と重なって。

響いた。


「――いつも、上から手を差し伸べてくる。

……ゼミ長の選挙のときも。

決闘のときも。

本陣でも。

東門でも」


志賀は。

黒い札を。

腰に戻した。


「――俺はお前の手なんか、いらねえ」


志賀は。

背を向けた。


硝子の扉の向こうの。

光の海の大広間へと。

歩き出した。


扉の前で。

一度だけ。

立ち止まった。


振り返らずに。


「――今夜。お前は、終わる」


その声が。

夜風の中に。

冷たく。

響いた。


「――お前の大切な王女様も。……全部、な」


扉が。

閉まった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




僕は。

バルコニーの手すりの前に。

一人。

立ち尽くしていた。


志賀の手を、払われた自分の手を。

見下ろしていた。


――一緒に見よう。


届かなかった。


いや。


届きかけた。


志賀の目に。

一瞬。

涙が。

滲んでいた。


あれは。

古き魔の黒い霧ではなかった。

志賀自身の。

涙だった。


「……白峰くん」


硝子の扉が開いて。

澪さんがバルコニーに出てきた。


淡い水色のドレスの裾が。

夜風に揺れていた。


「……志賀くん、すごい顔で戻ってきた」

「……うん」

「……何か、あったの」

「……届かなかった」


僕は、手を握りしめた。


「……でも、届きかけた」


澪さんは。

何も、言わなかった。


ただ。

僕の握りしめた手の上に。

そっと。

自分の手を。

重ねた。


小さくて。

冷たくて。

けれど、優しい手。


「……届きかけたなら」


澪さんが小さく言った。


「……次は、届くかもしれない」


そのとき。


大広間の中から。

楽団の弦の音が。

不意に。

途切れた。


続いて。

澄んだ鈴の音が。

一つ。

響いた。


誰かが。

杯を銀の匙で叩いていた。


大広間の喧騒が。

すっと。

静まり返った。


硝子の扉の向こうで。

光の海のその中心で。


純白のドレスの娘が。

壇の上に立っていた。


完璧な笑顔で。

硝子玉のような目で。


その手に。

銀の匙と。

硝子の杯を持って。


「――皆様」


花菱さんの声が。

大広間に響いた。


甘く。

柔らかく。

けれど、その奥に。

何か。

冷たく硬いものが。

潜んでいた。


「――今宵、この祝いの席で。

皆様にお伝えしなければ、ならないことが、ございます」


僕と澪さんは。

顔を見合わせた。


硝子の扉を開けて。

大広間へと。

駆け戻った。


花菱さんの硝子玉のような目が。

大広間の光の海を、見渡していた。


そして。

その目が。


白いドレスの、金の髪の王女の上で。


ぴたりと。

止まった。


「――アルセリア第一王女、エレオノーラ殿下」


花菱さんの完璧な笑顔が。

ゆっくりと。

冷たく。

歪んでいった。


「――あなたの罪を。今、ここで。明らかに、させていただきます」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。