第52話「侯爵邸の夜会」
満月は、血のような色をしていた。
東の空に、低く、大きく、昇ってきた月。
地平線の、靄を、通して。
その光は、銀ではなく。
熟れすぎた果実のような、鈍い、赤銅色に、濁っていた。
その月の下に。
ドルマン侯爵の、王都の邸宅が、建っていた。
王城の、北東。
貴族たちの屋敷が並ぶ、丘の上の、一番、高い場所。
灰色の石の、巨大な館。
その、すべての窓から。
蝋燭の光が、溢れ出していた。
何百本。
いや、何千本。
館そのものが、一つの、巨大な燭台のように。
夜の闇の中に、燃え上がっていた。
館の屋根の上に、旗が、翻っていた。
黒地に、金の。
双頭の、鷲。
「……悪趣味だな」
王家の馬車の、窓から、館を見上げて。
剛が、低く、つぶやいた。
剛は、王国騎士の、正装の鎧を、纏っていた。
城壁を象った紋章が、胸の上で、鈍く、光っていた。
その腰には、剣。
背中には、盾。
夜会の、護衛の騎士として。
「……難しいことは、分からんが。あの館、なんか、嫌な匂いがする」
馬車の、床の上で。
シロガネが、低く、喉を、鳴らしていた。
夜会に、狼を連れていくことは、許されなかった。
けれど、シロガネは、王家の馬車の中で、待つことになっていた。
館の、すぐ外で。
いつでも、飛び込めるように。
「……地下の、魔物の匂いだ」
僕の隣で、古賀が、掠れた声で、言った。
借り物の、黒い礼服。
袖が、少しだけ、長すぎた。
眼鏡の奥の目が。
館の、土台の、石壁を、見つめていた。
「……桐生の報告どおりだ。……鑑定で、見える。
館の地下に、五十を超える、魔物の気配。
……全部、眠ってる。今は、まだ」
馬車の、向かいの席で。
エレオノーラさんが、静かに、目を、閉じていた。
白い、ドレス。
胸元に、王家の紋章を刺繍した。
金の髪を、高く、結い上げて。
その首には、何の、飾りも、なかった。
ただ、腰の、ドレスの襞の中に。
細身の剣が、一振り。
隠されていた。
その隣で。
澪さんが、淡い、水色のドレスの裾を、両手で、握りしめていた。
エレオノーラさんの、昔のドレス。
肩の線も、腰の線も、澪さんの体に、ぴたりと、合っていた。
黒い髪を、少しだけ、結い上げて。
その手首に。
小さな、布袋が、結びつけられていた。
薬草の、布袋。
「……似合ってるよ、柚木さん」
僕が言うと、澪さんは、ふいっと、顔を、背けた。
「……知らない」
その耳が、真っ赤だった。
エレオノーラさんが、目を、開けた。
澪さんを、見て。
小さく、微笑んだ。
馬車が。
館の、正門の前で。
止まった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
館の大広間は、光の、海だった。
天井から、巨大な、硝子の燭台が、いくつも、吊り下げられていた。
その一つ一つに、何百本もの蝋燭が、灯っていた。
燭台の硝子が、蝋燭の光を、無数の、小さな虹に、砕いて。
大広間の、白い大理石の床の上に。
光の、雨のように、降り注いでいた。
壁という壁に。
金の額縁の、肖像画。
そのどれもが、双頭の鷲の紋章を、胸に、戴いていた。
大広間を、埋め尽くしていたのは。
貴族たち、だった。
絹と、宝石と、香水の、匂い。
色とりどりの、ドレス。
金糸の刺繍の、上着。
笑い声。
囁き声。
楽団の、弦の音。
けれど。
王家の一行が、大広間の入り口に、姿を現した瞬間。
すべての音が。
止まった。
楽団の、弦の音が。
途切れた。
笑い声が。
凍りついた。
何百もの、貴族たちの、顔が。
一斉に。
こちらを、向いた。
その目に、浮かんでいたのは。
好奇。
警戒。
嘲り。
そして、ほんのわずかな、怯え。
「――アルセリア国王、レオンハルト陛下。
ならびに、第一王女、エレオノーラ殿下。……ご到着」
館の、侍従長の、甲高い声が。
静まり返った大広間に、響いた。
一拍の、沈黙。
それから。
貴族たちが。
ゆっくりと。
頭を、下げた。
けれど、その頭の、下げ方が。
浅かった。
王に対する、礼ではなかった。
同じ、貴族同士の。
いや、それよりも、さらに、浅い。
ただ、形だけの。
国王の、隣で。
バルトロさんが、わずかに、目を、細めた。
「――そして」
侍従長の声が、続いた。
その声が。
わずかに。
嘲るような、響きを、帯びていた。
「――異界より来たりし、『候補』の勇者、白峰陽翔殿。……ご到着」
大広間の、あちこちで。
くすくすと。
笑い声が、漏れた。
――候補の。
その言葉に、込められた。
薄い、冷たい、侮り。
僕は。
何も、言わなかった。
ただ。
大広間の、真ん中へと。
一歩。
踏み出した。
隣を。
エレオノーラさんが、歩いた。
反対側の、隣を。
澪さんが、歩いた。
その、後ろを。
剛と、古賀が。
貴族たちの、人垣が。
左右に。
割れていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
大広間の、一番奥。
一段、高くなった、壇の上に。
ドルマン侯爵が、立っていた。
痩せた、背の高い、老人。
白い髪を、後ろに、撫でつけて。
鷲の嘴のような、鉤鼻。
灰色の、冷たい目。
黒い、上着。
その胸に、金糸で、双頭の鷲が、刺繍されていた。
「――ようこそ、陛下」
侯爵の声は、低く、よく通った。
けれど、その声に、温度は、なかった。
「我が息子の、婚約の祝いに、足をお運びいただき、光栄の至りに存じます」
侯爵は、頭を、下げなかった。
ただ、わずかに、顎を、引いただけだった。
国王の、拳が。
ほんのわずかに。
握りしめられた。
「……招かれた以上、来ぬわけにも、いかぬでな、ドルマン」
国王の声は、静かだった。
侯爵の、薄い唇が。
わずかに。
弧を、描いた。
「――ご賢明な、ご判断にございます」
侯爵の、灰色の目が。
国王から。
エレオノーラさんへ。
そして。
僕へと。
移った。
その目が。
一瞬だけ。
細められた。
「――そして、候補の勇者殿。噂は、かねがね」
侯爵の声が。
冷たく。
滑らかに。
大広間に、響いた。
「――四神殿のうち、三つを巡り。魔将を、二人までも、屠ったとか。
……さぞや、お強いのでしょうな」
「……一人では、何もできません」
僕は、答えた。
「みんなが、いてくれたから、です」
侯爵の目が。
わずかに。
揺れた。
それから。
侯爵は。
鼻で、笑った。
「……謙虚な、ことだ。……さて」
侯爵は、壇の、脇の、扉のほうへと、手を、差し伸べた。
「――今宵の、主役を、ご紹介いたしましょう」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
壇の、脇の扉が。
ゆっくりと。
開いた。
最初に、現れたのは。
金髪の、若い男だった。
上等な、白い上着。
整った、顔立ち。
けれど、その目が。
どこか。
とろんと。
濁っていた。
焦点が、合っていなかった。
ぼんやりと。
大広間の、どこでもない場所を、見つめていた。
ルーカス。
侯爵家の、次男。
そして。
ルーカスの腕に、手を、添えて。
一人の、娘が、現れた。
純白の、ドレス。
胸元から、裾まで。
真珠と、銀糸の刺繍が、びっしりと、施された。
天井の燭台の光を受けて。
ドレスそのものが、内側から、輝いているように、見えた。
くるりと巻いた、明るい茶色の髪。
その上に。
小さな、銀の、冠。
首元に。
大きな、赤い宝石の、首飾り。
花菱さん、だった。
大広間が、息を、呑んだ。
美しかった。
王都の鑑定の儀で、「王妃ルートかなー?」と、はしゃいでいた、あの頃よりも。
ずっと。
ずっと。
美しかった。
けれど。
その顔に、浮かんでいた、笑顔が。
――目が、死んでた。
桐生の言葉が。
頭の中で、響いた。
花菱さんは。
笑っていた。
完璧な、笑顔で。
口角を、美しく、上げて。
頬に、柔らかな、えくぼを、浮かべて。
けれど、その目だけが。
笑っていなかった。
硝子玉のように。
何も、映していなかった。
「――我が息子、ルーカスと。
異界より来たりし、魅了術師、花菱莉愛殿。
……二人の、婚約を、ここに、披露いたします」
侯爵の声が、大広間に、響いた。
貴族たちが。
一斉に。
拍手を、始めた。
その拍手の、嵐の中で。
花菱さんは。
完璧な、笑顔のまま。
ゆっくりと。
大広間を、見渡した。
その、硝子玉のような目が。
僕の上で。
止まった。
――一瞬。
ほんの、一瞬だけ。
硝子玉の、その奥で。
何かが。
揺れた。
溺れている人が。
水面の、遥か上の、光を。
見上げるような。
けれど。
次の瞬間には。
その揺らぎは。
消えていた。
花菱さんは。
完璧な、笑顔のまま。
僕から、目を、逸らした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――それから」
侯爵の声が。
拍手の嵐を、切り裂いた。
「――今宵、皆様に、もう一人。ご紹介いたしたい方が、おります」
侯爵の、薄い唇が。
ゆっくりと。
笑みの形に、歪んだ。
「――我がドルマン家が、新たに、お迎えした。……真の、勇者殿を」
大広間が。
ざわめいた。
壇の、脇の扉が。
再び。
開いた。
足音が、した。
重い。
硬い。
鉄の、足音。
一歩。
また一歩。
扉の、奥の、暗がりから。
黒い、影が。
現れた。
黒い、甲冑。
全身を、夜の闇よりも、なお、黒い、甲冑で、包んでいた。
その表面に、細かな、紋様が、刻まれていた。
蛇の、鱗のような。
いや。
鴉の、羽根のような。
見る角度によって、形を変える、不気味な紋様。
腰に、黒い、長剣。
兜は、被っていなかった。
明るい、茶色の髪。
よく、鍛えられた、顔立ち。
けれど。
その目の、下に。
黒い、隈が、刻まれていた。
その瞳が。
半年前よりも。
ずっと。
暗い、光を、宿していた。
そして。
その、首筋に。
黒い、筋が。
何本も。
血管のように。
浮き上がっていた。
「――志賀」
声に、出していた。
志賀が。
壇の上で。
足を、止めた。
大広間の、光の海の、その向こうから。
僕を。
見た。
一瞬。
その顔に。
何かが。
浮かんだ。
それから。
その唇が。
ゆっくりと。
歪んだ。
「――よお、委員長」
その声は。
半年前と、同じ。
掠れて。
乾いて。
けれど、その奥に。
何か、冷たい、深い、響きが。
重なっていた。
まるで、志賀の声の、その下で。
もう一つの、誰かの声が。
一緒に、喋っているかのような。
「――久しぶりだな。……候補の、エセ勇者サマ」
志賀の、背後の、扉の暗がりから。
もう一つの、大きな影が。
現れた。
堂島、だった。
半年前よりも。
さらに、大きく、なっていた。
いや。
膨れ上がって、いた。
筋肉が、不自然に、盛り上がって。
皮膚の下で、蠢いていた。
その目が。
赤く。
濁っていた。
焦点が、合っていなかった。
ぼんやりと。
けれど、その奥に。
獣のような、光が。
「……し、志賀……さん……」
堂島の、唇から。
掠れた声が、漏れた。
「……ここ……どこ……っすか……」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
夜会が、続いた。
楽団が、再び、弦を、奏で始めた。
貴族たちが、再び、笑い声を、上げ始めた。
けれど、その笑い声は。
どこか。
上滑りしていた。
誰もが。
大広間の、二つの場所を。
ちらちらと。
盗み見ていた。
壇の上の、黒い甲冑の、「真の勇者」と。
大広間の、中ほどに立つ、「候補の勇者」と。
「……陽翔」
剛が、僕の、すぐ後ろで、低く、言った。
「……堂島の奴。……あれ、もう、まともじゃねえぞ」
剛の声が。
震えていた。
「……狂化が、解けてないんだ。……ずっと。……何日も。何週間も」
僕は、黙って、うなずいた。
「……それに、志賀の、首の、あの黒い筋」
古賀が、掠れた声で、言った。
鑑定士の目が、淡い光を、帯びていた。
「……鑑定、できない。……弾かれる。……でも、一つだけ、見えた」
古賀の声が。
震えた。
「……あれ、志賀自身の、魔力じゃない。
……外から、流し込まれてる。……黒い、何か。
……黄昏の神殿で見た、古き魔の、黒い霧と、同じ、匂いが、する」
胸の奥が。
冷たく、なった。
そのとき。
「――委員長」
すぐ、隣から。
声が、した。
振り返った。
志賀が。
いつの間にか。
壇から、降りて。
僕の、すぐ隣に。
立っていた。
黒い甲冑から。
冷たい、墓の土のような、匂いが、した。
「――ちょっと、顔、貸せよ」
志賀は。
顎で。
大広間の、奥の。
硝子の扉の向こうの、バルコニーを。
示した。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
バルコニーは、寒かった。
秋の、夜風が。
石の手すりの上を、吹き抜けていった。
眼下に、王都の、街並みが、広がっていた。
石造りの家々の、屋根。
窓の、小さな灯り。
遠くに、王城の、尖塔。
その上に。
赤銅色の、満月が。
低く、大きく。
浮かんでいた。
志賀は。
手すりに、背中を、預けていた。
腕を、組んで。
月を、見上げていた。
「……半年ぶり、だな」
志賀が、言った。
「……王都の、東門で、別れて以来か」
「……うん」
「……お前、ずいぶん、有名に、なったな。
……ブラウエンの酒場でも、お前の歌が、流れてたぜ。候補の勇者の、旅の歌」
志賀の声が。
低く。
乾いていた。
「……三つの神殿を巡って。魔将を、二人、倒して。……黒蛇の呪印を、砕いて」
志賀は。
月から、視線を、外した。
僕を、見た。
「――桐生を、助けたんだってな」
その声が。
一瞬だけ。
揺れた。
「……うん」
「……そっか」
志賀は。
また。
月を、見上げた。
長い、沈黙だった。
「……志賀」
僕は、志賀の、隣に、立った。
手すりに、手を、置いた。
「……桐生から、伝言が、ある」
志賀の、組んだ腕が。
わずかに。
強張った。
「……『あいつ、本当は、悪い奴じゃないんだ。俺を助けてくれたのは、本当だから』って」
志賀は。
何も、言わなかった。
「……『今のあいつは、何か、おかしい。使えねえ奴はいらねえなんて、高校の頃の志賀なら、絶対に、言わなかった』って」
志賀の、横顔が。
月明かりの中で。
歪んだ。
「……『もし、あいつに、会うことがあったら、止めてやってくれ』って」
「――うるせえよ」
志賀の声が。
低く。
掠れた。
「――うるせえよ、委員長」
志賀は。
手すりから、背中を、離した。
僕に、向き直った。
その手が。
腰の、職業札に、伸びた。
黒い、札。
完全に、黒く、塗り潰された、札。
志賀は。
その札を。
僕の、目の前に。
突きつけた。
「――見ろよ」
札の、黒い表面に。
黒よりも、さらに深い、闇の色で。
文字が、浮かび上がっていた。
【職業:勇者】
志賀の、親指が。
その文字の、すぐ後ろに。
押し当てられていた。
まるで。
何かを。
隠すように。
「――勇者だ。俺の札に、勇者って、出たんだよ」
志賀の目が。
暗い、光を、宿して。
輝いていた。
「――お前は、候補だ。俺は、勇者だ。
……分かるか?
神様が、認めたんだよ。俺が、本物だって」
僕は。
志賀の、親指を。
見ていた。
その、親指の、縁から。
わずかに。
本当に、わずかに。
はみ出していた。
括弧の。
端が。
「……志賀」
声が、掠れた。
「……その、親指の、下」
志賀の、顔が。
凍りついた。
「……括弧が、ある、よね」
夜風が。
止んだ。
志賀の、親指が。
札の上で。
小刻みに。
震えていた。
「……何、言ってんだ」
「……何て、書いてあるの」
「――何も、書いてねえよッ!」
志賀の声が。
バルコニーに。
響き渡った。
「――勇者だッ!
俺は、勇者なんだよッ!
それだけだッ!
括弧なんか、ねえッ!
何も、ねえんだよッ!」
志賀の、首筋の、黒い筋が。
脈打つように。
蠢いていた。
「……志賀」
僕は。
一歩。
志賀に、近づいた。
「……三百年前に、同じことを、した人が、いたんだ」
志賀の、目が。
揺れた。
「……禁書の、一行を。見なかったことに、した人が。
……その人は、みんなを、帰したかった。
それだけだった。でも、その一行を、見なかったせいで。
……大切な人を、全部、失った」
僕は。
志賀の、震える手の、その上に。
そっと。
自分の手を。
重ねようとした。
「……志賀。その括弧の中を、一緒に、見よう。
……一人で、抱え込まなくて、いいから」
志賀の、手が。
僕の手を。
――払いのけた。
「――触んじゃねえよッ!」
志賀の、目が。
赤く。
充血していた。
その目に。
涙が。
滲んでいるように、見えた。
けれど。
次の瞬間。
その涙は。
首筋の、黒い筋から、這い上がってきた、暗い光に。
呑み込まれて。
消えた。
「――お前は、いつも、そうだ」
志賀の声が。
低く。
冷たく。
もう一つの、誰かの声と、重なって。
響いた。
「――いつも、上から、手を、差し伸べてくる。
……ゼミ長の選挙のときも。
決闘のときも。
本陣でも。
東門でも」
志賀は。
黒い札を。
腰に、戻した。
「――俺は、お前の手なんか、いらねえ」
志賀は。
背を、向けた。
硝子の扉の、向こうの。
光の海の、大広間へと。
歩き出した。
扉の、前で。
一度だけ。
立ち止まった。
振り返らずに。
「――今夜。お前は、終わる」
その声が。
夜風の中に。
冷たく。
響いた。
「――お前の、大切な王女様も。……全部、な」
扉が。
閉まった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
僕は。
バルコニーの、手すりの前に。
一人。
立ち尽くしていた。
志賀の手を、払われた、自分の手を。
見下ろしていた。
――一緒に、見よう。
届かなかった。
いや。
届きかけた。
志賀の目に。
一瞬。
涙が。
滲んでいた。
あれは。
古き魔の、黒い霧ではなかった。
志賀自身の。
涙だった。
「……白峰くん」
硝子の扉が、開いて。
澪さんが、バルコニーに、出てきた。
淡い、水色のドレスの裾が。
夜風に、揺れていた。
「……志賀くん、すごい顔で、戻ってきた」
「……うん」
「……何か、あったの」
「……届かなかった」
僕は、手を、握りしめた。
「……でも、届きかけた」
澪さんは。
何も、言わなかった。
ただ。
僕の、握りしめた手の上に。
そっと。
自分の手を。
重ねた。
小さくて。
冷たくて。
けれど、優しい手。
「……届きかけたなら」
澪さんが、小さく、言った。
「……次は、届くかもしれない」
そのとき。
大広間の、中から。
楽団の、弦の音が。
不意に。
途切れた。
続いて。
澄んだ、鈴の音が。
一つ。
響いた。
誰かが。
杯を、銀の匙で、叩いていた。
大広間の、喧騒が。
すっと。
静まり返った。
硝子の扉の、向こうで。
光の海の、その中心で。
純白のドレスの娘が。
壇の上に、立っていた。
完璧な、笑顔で。
硝子玉のような、目で。
その手に。
銀の匙と。
硝子の杯を、持って。
「――皆様」
花菱さんの声が。
大広間に、響いた。
甘く。
柔らかく。
けれど、その奥に。
何か。
冷たく、硬いものが。
潜んでいた。
「――今宵、この祝いの席で。皆様に、お伝えしなければ、ならないことが、ございます」
僕と、澪さんは。
顔を、見合わせた。
硝子の扉を、開けて。
大広間へと。
駆け戻った。
花菱さんの、硝子玉のような目が。
大広間の、光の海を、見渡していた。
そして。
その目が。
白いドレスの、金の髪の、王女の上で。
ぴたりと。
止まった。
「――アルセリア第一王女、エレオノーラ殿下」
花菱さんの、完璧な笑顔が。
ゆっくりと。
冷たく。
歪んでいった。
「――あなたの、罪を。今、ここで。明らかに、させていただきます」




