第51話「満月までの日々」
第3部 ~裏切りの華~ 開幕
第3部 ~裏切りの華~
第51話「満月までの日々」
「行くべきではない」
作戦室の長い卓を、ガルドさんの拳が叩いた。
重い音が石の壁に跳ね返った。
「罠だと分かりきっている。
侯爵邸は、侯爵の城の中も同然だ。
王都の中にあるとはいえ、その門の内側は、双頭の鷲の領分だ。
……そこに陛下と殿下と坊主を送り込めと?」
「行かねばなりませぬ」
静かにけれど、一歩も引かぬ声で、バルトロさんが答えた。
「招待を断れば、東の貴族たちは、こう申しましょう。
『王家は、侯爵閣下を恐れておられる』と。
……今、王家がわずかでも、怯む姿を見せれば。
様子見を決め込んでいる中立の貴族たちまで、
一斉に侯爵の側へなびきます」
作戦室が静まり返った。
窓の外で秋の冷たい雨が降っていた。
満月の夜会まで、あと十日。
「……ならば」
国王が静かに口を開いた。
「余が行こう。エレオノーラと、白峰殿は城に」
「父上」
エレオノーラさんが立ち上がった。
「招待状の宛名には、わたくしの名があります。
白峰殿の名も。
……父上お一人が行かれれば。
侯爵は、『王女と灯の候補は、逃げた』と触れ回るでしょう」
エレオノーラさんの青い瞳が揺らがなかった。
「わたくしは行きます。
兄が一人で、砦の門の前に立ったように、ではありません。
……皆で行くのです」
国王は長い間、娘を見つめていた。
それから、僕を見た。
「……白峰殿はどう思う」
僕は、卓の上の招待状を見下ろした。
双頭の鷲の封蝋。
その裏の流麗で冷たい筆跡。
――新たに迎えた、「真の勇者」殿をご紹介いたしたく。
「……行きます」
僕は、顔を上げた。
「志賀がそこにいます。花菱さんも。たぶん、堂島も」
胸のポケットに手を当てた。
「桐生に約束しました。
志賀を止めてくれって。
……それに花菱さんは、助けを求めてるのかもしれない。
吉岡から聞いた花菱さんの手紙の、
最後の一行が、ずっと気になってるんです」
ガルドさんが、深く息を吐いた。
それから、傷だらけの顔を、くしゃりと歪めた。
「……お前は、いつもそうだな」
「すみません」
「謝るな」
ガルドさんは立ち上がった。
「なら、準備だ。
十日でできる限りのことをする。
罠に自分から飛び込むなら。
罠ごと食い破る準備をな」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
王城の地下の尋問室。
石の壁に囲まれた窓のない部屋。
小さな卓の向こうに、一人の男が座っていた。
「いやあ、まあまあ。白峰、久しぶりじゃん」
吉岡、だった。
半年前よりも、頬がこけていた。
着ている服は、王城の下働きが着る粗末な麻の上着。
けれど、その顔に浮かぶ愛想笑いだけは。
半年前と何一つ、変わっていなかった。
「元気そうで何よりだよ。
いやあ、噂は聞いてるぜ。
三つの神殿を巡って、魔将を倒して、ほんとさすがだよなあ、白峰は。
俺は最初から、お前が本物だって、思ってたんだよ。
ほら、長いものには、巻かれろって言うじゃん?」
「……吉岡」
僕は、卓の向かいに座った。
「侯爵の城の中のこともう一度、聞かせてほしい。
覚えていることを全部」
吉岡の愛想笑いが。
わずかに。
引きつった。
「……全部って、宰相のじいさんにもう、話したぜ?」
「僕は、吉岡の口から聞きたいんだ」
吉岡は、しばらく目を泳がせていた。
それから、肩をすくめた。
「……城、っていうかさ。
俺は結局、中には入ってないんだよ。
ブラウエンで、花菱からの手紙が来て。
志賀が行くって言い出して」
吉岡の声が、少しだけ低くなった。
「……その手紙の最後の一行がさ。
『莉愛、ちょっとだけ、怖いかも』って、震える字で書いてあったんだよ」
「……うん」
「……それ見て、ああ、これはヤバいやつだって思った。
長いものは、長いものでも、巻かれたら、絞め殺されるやつだって」
吉岡は、自分の粗末な麻の袖を、指先でいじった。
「……だから、逃げた。夜明け前に。志賀にも、堂島にも何も言わずに」
尋問室が静まり返った。
「……なあ、白峰」
吉岡が上目遣いに僕を見た。
「……俺、間違ってないよな?
逃げたのは、正解だったよな?
王家に情報を持ってきたんだから、むしろ、手柄だよな?」
僕は、吉岡を見つめた。
「……逃げたことが、間違いだったとは言わない」
吉岡の顔が、ぱっと明るくなった。
「でも」
その顔がまた凍りついた。
「花菱さんが、『怖い』って書いてたのを見て。
志賀がその城に行くのを知っていて。
……一言も、止めなかったんだよね」
吉岡の愛想笑いが。
今度こそ。
完全に。
消えた。
「……止めたって聞かねえよ、志賀は」
「うん。そうかもしれない」
「……じゃあ、何も変わらなかっただろ」
「変わらなかったかもしれない。でも」
僕は立ち上がった。
「桐生は、黒蛇の呪印に縛られても、最後まで誰かを守ろうとした。
三枝さんは、震えながら、志賀に嫌だって言った。
……吉岡は、長いものに巻かれることだけを、考えてた」
吉岡は、何も言わなかった。
ただ、卓の上の自分の手を見下ろしていた。
尋問室の扉の前で、僕は振り返った。
「……情報、ありがとう、吉岡。本当に助かった」
吉岡が顔を上げた。
その目が揺れていた。
「……それと。厨房のボルグさんが、皿洗いが足りないって言ってたよ」
吉岡の口が、ぽかんと開いた。
「……は?
皿洗い?
俺が?
王家に情報を持ってきた功労者の俺が?」
「功労者だから、牢屋じゃなくて、厨房なんだと思う」
「……っ」
「ボルグさんは、料理人の言うことしか、聞かない人だけど。
皿をちゃんと洗う人のことは、ちゃんと見てくれるよ」
扉が閉まる直前。
尋問室の中から、吉岡の情けない声が聞こえてきた。
「……ま、まあまあ……。
長いものには巻かれろ、って言うしな……。
……で、でも、皿洗いって……」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
夜会まであと七日。
王城の西の塔の一番下の階。
桐生の部屋の格子の窓の前に。
三枝さんと、桐生と僕と古賀が集まっていた。
「侯爵邸に忍び込む」
桐生が言った。
前髪を短く切ったその顔に。
迷いはなかった。
「結界師団の補佐としての最初の仕事だ。
……ヴェルダの婆さんと、宰相の爺さんに、許可はもらった。
監視役として、ガルド団長の部下が二人、外で待機する」
桐生は、自分の首に指先で触れた。
何もない白い肌。
「黒蛇の技は、まだ体に残ってる。
呪印は消えたけど。
影の歩き方は消えてない」
「……き、気をつけてね」
三枝さんが、両手で何かを、桐生の手に押しつけた。
小さな青い硝子玉。
その中に淡い光が揺らめいていた。
「……け、結界のお守り。
わ、私の結界を少しだけ閉じ込めたの。
……い、いざというとき、割れば、一回だけ守ってくれるから」
桐生は、硝子玉を見下ろした。
それから、三枝さんを見た。
「……ありがとな三枝」
三枝さんの頬が、真っ赤になった。
「で、調べてほしいことが三つある」
古賀が羊皮紙を広げた。
びっしりと、書き込まれた侯爵邸の間取り図。
吉岡の証言と、王都の古い建築記録から古賀が、
三日かけて、描き起こしたものだった。
「一つ目は、花菱さんの部屋。
……花菱さんが、本当に魅了されてるのか。
されてるなら、誰に」
古賀の指が、間取り図の二階の東の端を叩いた。
「二つ目は地下。
吉岡の証言だと、侯爵の城の地下から、人じゃない声が聞こえたって。
王都の侯爵邸にも、古い地下室がある。
建築記録に載ってた」
古賀の指が、間取り図の一番下を叩いた。
「三つ目は、侯爵の書斎。
……軍資金の帳簿。
それともしあるなら。
魔王軍との密書」
桐生は、間取り図を、じっと見つめていた。
それから、小さくうなずいた。
「……全部、調べてくる」
「……桐生」
僕は、桐生の前に立った。
「無理は、しないで。危なかったら、すぐに戻ってきて」
「……お前に言われたくねえよ」
桐生は、少しだけ笑った。
「燃える館に飛び込んだり、魔将と一騎打ちしたり。
……無理しかしてねえ奴が何、言ってんだよ」
古賀が吹き出した。
三枝さんが、くすくすと笑った。
僕は、頭をかいた。
「……最近、よく言われる」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
桐生は、王都の夜の闇の中に消えていった。
影から影へ。
屋根から、屋根へ。
音もなく。
戻ってきたのは、夜明け前だった。
西の塔の桐生の部屋の格子の窓の外に。
黒い影が降り立った。
窓の内側で、一晩じゅう、待っていた三枝さんが。
声もなく両手で口を押さえた。
桐生は。
外套がところどころ、裂けていた。
頬に一筋の浅い傷があった。
けれど、生きていた。
「……戻った」
掠れた声。
その手が。
外套の懐から。
何かを取り出した。
羊皮紙の束。
そして。
一冊の黒い革表紙の帳簿。
「全部、取ってきた」
桐生の短く切った前髪の奥の目が。
夜明けの薄明かりの中で。
鋭く光っていた。
「それと。地下で、見たものがある」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
作戦室。
卓の上に桐生が持ち帰ったものが、並べられていた。
黒い革表紙の帳簿。
そこにはこの一年で、東の貴族たちの領地から、
侯爵家へと送られた、「軍資金」のすべてが記されていた。
オルド村。
ブラウエン。
その他、二十を超える村と町。
その総額は。
王国の一年分の国庫収入に匹敵した。
そして、羊皮紙の束。
バルトロさんが、その一枚一枚を、震える手でめくっていた。
「……これは」
宰相の声が。
初めて。
揺れていた。
羊皮紙は手紙だった。
侯爵から誰かへ。
誰かから侯爵へ。
その誰か、の署名は。
どの手紙にもなかった。
けれど、手紙の内容は。
『満月の夜会にて、王家を断罪す。
王女を異界の者を誑かし、王位を簒奪せんとした魔女として』
『同時に北の砦より魔王軍、南下す。
王都、混乱の内に陥ちるべし』
『新王にはドルマン侯爵を。
魔王軍とは和を結ぶ。
東の諸侯の領地は安堵す』
『その証として、灯の候補の身柄を、魔王城へと差し出すべし』
作戦室が凍りついた。
「……魔王軍と内通して」
エレオノーラさんの声が掠れていた。
「……王家を断罪して。……白峰殿を、魔王に差し出す」
国王が両手で顔を覆っていた。
「それと」
桐生が低い声で言った。
作戦室の壁際に立ったまま。
腕を組んで。
「……地下で見たものの話だ」
全員の視線が、桐生に集まった。
「……侯爵邸の地下室。
古い石の地下牢だった。
……そこに魔物がいた」
ガルドさんの拳が、卓の上で握りしめられた。
「……三十。
いや、五十はいた。
オーガ。
ホブゴブリン。
黒い狼。
……全部、檻の中で眠らされてた。
……あの、黒いヴェールの女の魔法で」
桐生は一度、言葉を切った。
「……夜会の夜に、その檻が、開くんだと思う。……侯爵邸のど真ん中で」
作戦室の誰もが。
言葉を失っていた。
「……花菱は」
僕は、掠れた声で尋ねた。
桐生の顔が。
わずかに。
歪んだ。
「……二階の東の端の部屋に、いた。……窓の外から覗いた」
桐生は、窓の外の朝焼けの空を見つめた。
「……鏡の前に座ってた。
婚約披露のドレスを着て。
……ずっと笑ってた。
鏡に向かって。
一人で。
……一晩じゅう」
桐生の声が。
低くなった。
「目が死んでた」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
夜会まであと三日。
王城の訓練場。
夜明け前の青い沈黙の底で。
僕とエレオノーラさんが、木剣を打ち合っていた。
旅の間も、ずっと続けてきた。
夜明けの稽古。
半年前に初めて、この訓練場で打ち合ったときから。
けれど。
今朝のエレオノーラさんの剣は。
どこか。
重かった。
「……エレオノーラさん」
木剣を下ろした。
エレオノーラさんも、木剣を下ろした。
息が乱れていた。
旅の間、一度も、乱れなかった王女の息が。
「……断罪、されるのは、わたくしだそうですね」
エレオノーラさんが、小さく言った。
「異界の者を誑かし、王位を簒奪せんとした魔女。
……侯爵の手紙にそう、書かれていました」
「……はい」
「……花菱殿の口から。夜会の大勢の貴族の前で」
エレオノーラさんは訓練場の、
東の城壁の向こうの白み始めた空を見上げた。
「……怖いのです」
僕は、黙って聞いていた。
「……剣を向けられるのは怖くない。
魔物も、魔将も黒蛇の刺客も。
……剣で戦えばいい。
けれど」
エレオノーラさんの声が震えた。
「……言葉で刺されるのは。
大勢の人々の前で、魔女だと罵られて。
……誰も、わたくしの言葉を、信じてくれなかったら」
「僕が信じます」
エレオノーラさんが振り返った。
「剛も、柚木さんも古賀もシロガネも。
桐生も三枝さんも。
ガルドさんも、バルトロさんも、ヴェルダさんも。
王様も」
僕は、エレオノーラさんを、まっすぐに見た。
「リンドールのマルガさんも。
セイレンのオーダさんとカイルさんも。
ルーメリアのディートリヒさんも。
……エレオノーラさんが半年間、一緒に旅をしてきた人たちは、
全員、エレオノーラさんを信じてます」
エレオノーラさんの青い瞳が。
大きく。
見開かれた。
「エレオノーラさんは、一人じゃ、ありません」
――灯は、独りでは燃えず。
胸のポケットが。
ふわりと。
温かくなった。
エレオノーラさんは。
しばらく。
何も言わなかった。
それから。
木剣を構え直した。
「……もう一本、お願いできますか」
その声は。
もう。
震えていなかった。
「……はい」
夜明けの最初の光が。
東の城壁の上から。
訓練場の石畳を。
金色に。
染め始めた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
夜会の前の夜。
王城の澪さんの部屋の前で。
エレオノーラさんが、立ち止まっていた。
手に何かを抱えていた。
淡い水色の布。
僕は、廊下の角からその姿を見ていた。
声をかけるべきか、迷っていた。
エレオノーラさんが、扉を叩いた。
扉が開いた。
澪さんが顔を出した。
寝間着姿で。
少しだけ驚いた顔で。
「……殿下?」
「……柚木殿。夜分に失礼します」
エレオノーラさんは、抱えていた布を、澪さんの前に差し出した。
「……これを」
それはドレス、だった。
淡い水色の。
飾り気のないけれど、上質な絹の。
「……夜会に着ていくものが、ないと美咲殿から聞きました。
……わたくしの昔のドレスです。
背丈がちょうど、同じくらいだと思って」
澪さんは。
ドレスを見下ろしていた。
それから、エレオノーラさんを見上げた。
「……どうして私に」
エレオノーラさんは。
少しだけ。
目を伏せた。
「……治療院の屋根の上で。
あなたが白峰殿に何を言ったのか。
……わたくしは知りません」
澪さんの肩が。
びくりと震えた。
「……でも。
あの夜から、白峰殿が時々、あなたのほうを、見るようになったことは。
……知っています」
廊下の角で。
僕は、息を止めていた。
「……殿下」
「エレオノーラで結構です」
エレオノーラさんは。
顔を上げた。
澪さんをまっすぐに見た。
「わたくしたちは、同じ人の隣に、立ちたいと思っています。
……違いますか」
澪さんは。
長い間。
何も言わなかった。
それから。
小さく。
けれど、はっきりと。
「……違いません」
と、答えた。
エレオノーラさんは。
少しだけ。
寂しそうに。
けれど、どこか、晴れやかに。
微笑んだ。
「なら、明日は。
二人であの人の隣に立ちましょう。
……魔女だと罵られても。
罠の只中でも」
エレオノーラさんは、ドレスを澪さんの手に、そっと渡した。
「その後のことは。全部、終わってから。……それで、いいでしょう?」
澪さんは。
ドレスを胸に抱きしめた。
「……うん。……全部、終わってから」
澪さんが。
小さく。
笑った。
エレオノーラさんも。
笑った。
二人のその笑顔を。
廊下の角から。
僕は。
見ていた。
胸の奥が。
熱かった。
灯ではなかった。
それなのに。
どうしようもなく。
熱かった。
窓の外で。
雲の切れ間から。
ほとんど、満ちた月が。
冷たく。
白く。
王都を照らしていた。
満月まで。
あと、一夜。




