第50話「候補の、その先」
王都の東門が、見えたとき。
城壁の上に、人が、鈴なりに、並んでいた。
半年前。
僕たちを見送ってくれた、あの城壁。
修復を終えたばかりだった、真新しい樫の扉。
その扉が、今は、半年分の風雨に晒されて、少しだけ、色が、落ち着いていた。
扉が、開いた。
その向こうの、大通りに。
人が、溢れていた。
「――お帰りなさい、勇者様ーッ!」
「――王女殿下ーッ!」
「――城壁の騎士様ーッ!」
「――薬師様ーッ!」
「――鑑定士様ーッ!」
「――シロガネーッ!」
花びらが、雨のように、降ってきた。
半年前に、王都大侵攻から生還したときと、同じ。
いや。
それよりも、ずっと、多くの花びらが。
ずっと、多くの、声が。
「……すげえな」
剛が、御者台の上で、呆然と、つぶやいた。
「……難しいことは、分からんが。俺たちの名前まで、呼ばれてるぞ」
大通りの、真ん中で。
一人の少女が、人垣を、かき分けて、飛び出してきた。
栗色の髪を、きっちりと結い上げた。
メイド服の。
「――ハルト様ああッ!」
リゼさん、だった。
その手に。
白いハンカチが、握りしめられていた。
半年前、割れたカップの破片で切った指に、僕が巻いた、あのハンカチ。
僕は、馬から、降りた。
リゼさんが。
僕の前で、立ち止まった。
泣いていた。
笑っていた。
「……お、お帰り、なさいませ……!」
「ただいま、リゼさん」
僕は、懐から、白いハンカチを、取り出した。
旅立ちの朝に、リゼさんがくれた。
小さな、灯草の花の刺繍の。
半年の旅で、少しだけ、擦り切れて。
少しだけ、汚れて。
けれど、一度も、手放さなかった。
「……ずっと、持ってたよ。お守り」
リゼさんの目から。
涙が。
堰を切ったように。
溢れ出した。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
王城の正門の前に。
美咲さんと、奏さんが、立っていた。
「――お帰りなさい、みんな」
美咲さんが、両手を、広げた。
その目が、赤かった。
「ちゃんと、毎日、三食、食べてた? ……澪ちゃん、白峰くん、ちゃんと食べてた?」
「……食べなかったときは、口に詰め込みました」
澪さんが、真顔で、答えた。
美咲さんが、声を上げて、笑った。
それから、澪さんを、ぎゅっと、抱きしめた。
「――おかえり」
奏さんが。
竪琴を、抱えて。
正門の脇の、石段に、腰かけていた。
半年前と、同じ場所。
「……旅立ちの歌は、帰ってきたときに、一緒に歌うって、言ったよね」
奏さんは、竪琴の弦に、指を、置いた。
ぽろん、と。
澄んだ音が。
王城の前庭に、響いた。
不思議なことに。
その一音で。
大通りの喧騒が。
すっと。
静まり返った。
「――今から、歌います」
奏さんの声が。
澄んで。
よく通って。
王城の前庭に、染み渡っていった。
「――遠い国を、旅してきた、六つの灯の、歌です」
そして、歌が、始まった。
霧の森で、銀色の狼の鼻を頼りに、闇を渡った勇者がいた。
燃える館の、書斎の扉を、体ごと、押し破った勇者がいた。
雨の夜の治療所で、薬師と錬金術師が、夜通し、小さな命を、守り抜いた。
潮騒の港で、片足の漁師が、舵を握り、海喰らいの喉の下へと、船を進めた。
崖の上で、黒い蛇の呪いを、五人と一頭の灯が、砕いた。
黄昏の山で、勇者は、選ばなかった。
誰か一人を、帰すことも。
自分一人で、帰ることも。
奏さんは、どこで、それを、知ったのだろう。
――いや。
知っていた、のだ。
ヴェルダさんの、水晶。
エレオノーラさんの、父王への、報告書。
そして、旅の途中の、宿場町で、吟遊詩人たちが、噂を、歌にして、伝えていった。
候補の勇者の、旅の歌が。
僕たちよりも先に。
王都に、届いていたのだ。
奏さんの、歌声に。
美咲さんの、声が、重なった。
リゼさんの、声が、重なった。
大通りの、人々の、声が。
一つ。
また一つ。
重なっていった。
剛が、低い声で、口ずさんでいた。
古賀が、眼鏡を外して、目元を、拭いながら、唇を、動かしていた。
澪さんが、小さな声で、歌っていた。
エレオノーラさんが。
王女が。
人々の前で。
歌っていた。
僕も。
歌った。
胸のポケットが。
温かかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
王城の、西の塔の、一番下の階。
石造りの、小さな部屋。
窓には、鉄の格子が、嵌められていた。
けれど、寝台には、清潔な敷布が、敷かれていた。
小さな机の上には、本が、何冊か、積まれていた。
その寝台の端に。
桐生が、座っていた。
ひと月前に、セイレンの交易船で、王都に、着いたのだという。
自首して。
水門のことを。
黒蛇のことを。
すべて、話したのだという。
「……白峰」
桐生が、顔を、上げた。
前髪が、短く、切られていた。
その下の目が。
はっきりと。
見えていた。
「……おかえり」
「ただいま、桐生」
桐生の、首に。
もう、何も、なかった。
「……裁き、決まったんだ」
桐生が、言った。
「……王女様の、書状のおかげで。
……一年間、監視付きで、宮廷結界師団の、補佐をすることに、なった」
桐生は、少しだけ、照れくさそうに、目を逸らした。
「……結界を張る連中の、護衛だってさ。
影から。……ヴェルダの婆さんが、推してくれたらしい。
『影から守る奴が、一人くらい、いたほうがいい』って」
「……結界師団、ってことは」
桐生の、頬が。
少しだけ、赤く、なった。
そのとき。
部屋の、扉が。
小さく、叩かれた。
遠慮がちな、ノックの音。
「……き、桐生、くん……? い、いる……?」
扉の向こうから。
小さな、震える声。
桐生の体が。
寝台の上で。
びくりと、跳ねた。
「……あ、ああ。……いる」
扉が。
ゆっくりと。
開いた。
淡い青色の、結界師団のローブ。
小柄な体。
少しだけ、伸びた髪を、後ろで、小さく、束ねていた。
三枝さん、だった。
扉の前に、立ったまま。
両手を、胸の前で、握りしめて。
桐生を、見ていた。
桐生も。
寝台の端に、座ったまま。
三枝さんを、見ていた。
ひと月前に、王都に着いてから。
二人は、まだ、顔を、合わせていなかったのだという。
桐生が、会うのを、怖がって。
三枝さんが、桐生の準備ができるまで、待っていて。
僕は。
そっと。
部屋の、隅に、下がった。
長い。
長い。
沈黙だった。
それから。
三枝さんが。
一歩。
部屋の中に、踏み込んだ。
「……ひ、ひと月、待った……よ」
声が、震えていた。
「……ご、ごめん」
桐生が、掠れた声で、言った。
「……セイレンで、水晶越しに、言ったけど。
……ちゃんと、顔を見て、言いたかった」
桐生は。
寝台から、立ち上がった。
三枝さんの前に、立った。
背の低い三枝さんを。
見下ろすのではなく。
膝を、折って。
目の、高さを、合わせて。
「――ごめん、三枝。……水門のこと。
子どもたちのこと。……お前に、一人で、結界を張らせたこと」
三枝さんの、目から。
涙が。
ぽろりと。
こぼれた。
「……う、うん」
三枝さんは。
袖で、涙を、拭った。
それから。
震える手を。
桐生の前に。
差し出した。
「……き、今日から、よろしく、ね。……ほ、補佐、さん」
桐生は。
しばらく。
その、小さな手を。
見つめていた。
それから。
その手を。
そっと。
握った。
「……ああ。よろしく」
二人の、握り合った手の上に。
格子の窓から差し込む、午後の光が。
静かに。
落ちていた。
僕は。
音を立てないように。
そっと。
部屋を、出た。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
西の塔の、てっぺんの、丸い研究室。
その扉を開けた瞬間。
羊皮紙の山が、雪崩のように、崩れてきた。
「――ああっ! 白峰!
そこ、踏むな! 論理的に、並べてあるんだ!」
羊皮紙の山の、向こうから。
ひびの入った眼鏡が、覗いた。
宇佐美、だった。
インクで、真っ黒に汚れた指。
目の下に、濃い隈。
けれど、その目は。
オルド村の、燃える館で見た目とは、まるで、違っていた。
生き生きと。
きらきらと。
輝いていた。
「――おかえり、坊や」
羊皮紙の山の、さらに奥から。
ヴェルダさんの、しわがれた声。
杖をついて、皺だらけの顔で、笑っていた。
「……ルーメリアの記録、届いたよ。
ディートリヒとかいう、書庫番の爺さんからね。
……宇佐美の坊やが、三日三晩、寝ずに、読み込んでる」
「――白峰」
宇佐美が、羊皮紙の山を、かき分けて、僕の前に、出てきた。
その手に、一枚の羊皮紙を、握りしめていた。
「――論理的に、考えたんだ。
灯移しの儀の、禁書と。三つの神殿の、誓約と。
……それから、お前の札の、誓約の欄」
宇佐美の声が。
興奮で、震えていた。
「――灯は、奪えない。移せない。
ただ、分かつことしか、できない。……そうだよな」
「……うん」
「――なら」
宇佐美は。
羊皮紙を。
僕の目の前に、突きつけた。
そこに。
びっしりと、数式が、書き込まれていた。
その一番下に。
宇佐美の、角張った文字で。
一行だけ。
『門は、灯を以て、開く。灯を持たぬ者は、通れず』
『――では、灯を「分かたれた」者は?』
「――お前の灯を、分かち合った者は。灯を、持っていることに、ならないか?」
宇佐美の、ひびの入った眼鏡の奥の目が。
まっすぐに。
僕を、見ていた。
「――峠道で、お前たちが、円になって、灯を、巡らせたって、聞いた。
五人と一頭の、体が、全部、金色に、光ったって。
……それは、つまり、全員が、その瞬間、灯を、持っていたってことだ」
研究室が。
静まり返った。
「……つまり、宇佐美」
僕は、掠れた声で、言った。
「……灯を、分かち合った者なら。……門を、通れる、かもしれない?」
「――かもしれない、だ」
宇佐美は。
眼鏡を、押し上げた。
「――要検証、だよ。……オルド村で、学んだんだ。
検証せずに、結論を出すのは、論理的じゃないって」
それから。
宇佐美は。
少しだけ。
照れくさそうに。
笑った。
「――でも、もし、そうなら。……三百年前の四人も。
灯を、奪おうとするんじゃなくて、分かち合っていれば。
……みんなで、帰れたのかもしれない」
胸のポケットが。
熱く、なった。
――みんなで、帰る方法を、探す。
黄昏の神殿で、鏡の石板に向かって、言った言葉。
その答えの。
最初の、一欠片が。
今。
宇佐美の、インクで汚れた手の中に。
あった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
王城の、厩舎。
藁の匂い。
馬の、静かな寝息。
その一番奥の、馬房の前で。
一人の若者が、馬の蹄を、削っていた。
半年前よりも、ずっと、手慣れた手つきで。
小田切、だった。
厩番の作業着。
髪に、藁くずを、付けて。
その隣で、十三歳の――いや、もう、十四歳になった、ピートくんが、黙って、その手元を、見守っていた。
もう、何も、教えることは、ないようだった。
厩舎の入り口に。
僕と、シロガネが、立った。
小田切が、顔を、上げた。
シロガネを、見た。
その肩が。
一瞬だけ。
強張った。
それから。
小田切は。
削りかけの蹄から、手を、離して。
ゆっくりと。
立ち上がった。
「……おかえり、委員長」
「ただいま、小田切」
小田切の目が。
シロガネに、向いていた。
半年前。
厩舎で。
頭を下げて、「ごめん」と言った小田切に。
シロガネは、背を向けて。
一度だけ、鼻を鳴らして。
去っていった。
許したのか。
許さないのか。
ただ、聞いた、というだけなのか。
シロガネが。
一歩。
厩舎の中に、踏み込んだ。
小田切の肩が。
びくりと、跳ねた。
シロガネが。
もう一歩。
また一歩。
小田切の、目の前まで。
歩いていった。
それから。
シロガネは。
小田切の、藁くずだらけの手に。
その鼻先を。
そっと。
押しつけた。
小田切の、息が。
止まった。
シロガネの、金色の瞳が。
小田切を、見上げていた。
唸りも、しなかった。
牙も、剥かなかった。
ただ。
静かに。
小田切の手が。
震えながら。
ゆっくりと。
シロガネの、銀色の頭の、上に。
置かれた。
シロガネは。
逃げなかった。
小田切の手の下で。
目を。
細めた。
「……っ」
小田切の顔が。
くしゃくしゃに、歪んだ。
「……いいのかよ……」
掠れた声。
「……オレ……お前のこと……二か月も……」
シロガネが。
小さく。
鼻を、鳴らした。
それから。
小田切の手のひらを。
一度だけ。
ざらりと。
舐めた。
小田切は。
シロガネの頭に、手を置いたまま。
藁の上に。
膝を、ついた。
声を上げて。
子どものように。
泣いた。
ピートくんが。
黙って。
小田切の背中に、手を、置いていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
王城の、作戦室。
半年前と、同じ。
長い卓の上に、王国全土の地図が、広げられていた。
卓を囲んでいたのは。
国王レオンハルト。
宰相バルトロさん。
騎士団長ガルドさん。
宮廷魔術師長ヴェルダさん。
エレオノーラさん。
そして、僕。
「――ガスパルが、吐いたぞ」
ガルドさんが、低い声で、言った。
「峠道の襲撃は、ヴァイス男爵の命令だと。
そして、ヴァイス男爵は、ドルマン侯爵の意向を受けて、動いていたと」
「……では」
エレオノーラさんが、身を乗り出した。
バルトロさんが、静かに、首を、横に振った。
「――ドルマン侯爵は、本日、貴族院にて、すべてを、否定されました」
バルトロさんの声は、冷静だった。
けれど、その奥に、深い、苦々しさが、滲んでいた。
「ガスパルの証言は、私怨による、でっち上げであると。
ヴァイス男爵は、侯爵の寄子ではあるが、その私兵の暴走までは、責任を持てぬと。
黒蛇の依頼状の封蝋も、何者かが、侯爵家の印章を、盗んで、偽造したものであると」
バルトロさんは、手元の、革の帳面を、閉じた。
「……そして、東の貴族たちの多くが、侯爵の言い分を、支持いたしました。
『王家は、異界の若者を独り占めするために、侯爵閣下に、濡れ衣を着せようとしている』と」
作戦室が、静まり返った。
「……王家の力は、今、それほどまでに、弱いのだ」
国王が、静かに、言った。
その目が。
深い、疲れを、宿していた。
「三年前に、アルベルトを失い。
北の砦を失い。王都大侵攻で、多くの兵を失った。
……東の貴族たちは、もはや、王家を、恐れてはいない」
「――それと」
ヴェルダさんが、一通の手紙を、卓の上に、置いた。
上質な、羊皮紙。
赤い、封蝋。
双頭の、鷲。
「――今日の昼に、届いた」
ヴェルダさんの声が。
低く、なった。
「――侯爵家の、次男、ルーカス殿と、異界の娘、花菱莉愛殿の、婚約披露の夜会の、招待状さ。
……来月の、満月の夜。王都の、侯爵邸で」
ヴェルダさんの、皺だらけの指が。
招待状の、宛名を、叩いた。
「――宛名は、国王陛下と、エレオノーラ王女殿下。それから」
指が。
もう一つの、名前の上で。
止まった。
「――灯の候補、白峰陽翔殿」
僕の、名前だった。
「……罠、だな」
ガルドさんが、唸った。
「――招待状には、もう一行、添えてある」
ヴェルダさんは、招待状を、裏返した。
そこに。
流麗な、けれど、ひどく冷たい筆跡で。
こう、書かれていた。
『――当夜は、我がドルマン家が、新たに迎えた、
「真の勇者」殿を、皆様に、ご紹介いたしたく存じます』
作戦室の、空気が。
凍りついた。
「……真の、勇者」
エレオノーラさんの声が。
掠れた。
僕は。
その一行を。
見つめていた。
――お前は、序盤で退場する踏み台なんだよ。
――この物語の主人公は、俺だ。
半年前。
王城の正門の前で。
僕の顔のすぐ前まで、顔を近づけて。
そう言い放った、茶色の髪の男。
――次は、絶対に、負けねえ。
王都の東門で。
赤く充血した目で。
そう言い残して、去っていった男。
「……志賀」
声に、出していた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜、遅く。
治療院の、屋根の上で。
澪さんが。
一人。
夜空を、見上げていた。
半年前と、同じ。
見知らぬ星座。
けれど、半年の旅で。
その名前を、いくつか、覚えた。
「……眠れないの?」
屋根の上に、上がった僕に。
澪さんは、振り返らずに、言った。
「……うん。少しだけ」
僕は、澪さんの隣に、腰を下ろした。
しばらく、二人とも、何も、言わなかった。
夜風が。
治療院の、屋根の上を。
静かに、吹き抜けていった。
「……宇佐美くんの、話。聞いた」
澪さんが、ぽつりと、言った。
「……灯を、分かち合った人なら。門を、通れるかもしれないって」
「……うん。まだ、要検証、だけど」
「……そっか」
澪さんは。
膝を、抱えた。
「……ねえ、白峰くん」
「うん」
「……もし。もし、本当に、みんなで、帰れる方法が、見つかったら」
澪さんの声が。
少しだけ。
震えた。
「……白峰くんは、帰る?」
僕は。
すぐには、答えられなかった。
元の世界。
家族。
大学。
篠原教授。
合宿所の、研修室。
この世界。
エレオノーラさん。
ガルドさん。
ヴェルダさん。
リゼさん。
トマスくん。
ニコくん。
カイルさん。
オーダさん。
ベンさん。
ディートリヒさん。
灰で汚れた顔の、あの小さな女の子。
そして。
三百年、一人で、泣き続けている、遥さん。
「……分からない」
正直に、答えた。
「……帰りたい気持ちも、ある。
でも、この世界にも、大切な人が、たくさん、できた。
……それに、遥さんとの、約束も、ある」
「……そっか」
澪さんは。
膝を抱えたまま。
夜空を、見上げていた。
「……私はね」
澪さんが、小さく、言った。
「……白峰くんが、帰るなら、帰る。……残るなら、残る」
僕は。
澪さんを、見た。
澪さんは。
僕を、見なかった。
ただ、夜空を、見上げていた。
その耳が。
月明かりの下でも、分かるほど。
赤かった。
「……一人で帰っても、意味がないって。
王都大侵攻の前の夜に、城壁の上で、言ったでしょ」
澪さんの声が。
夜風の中に。
小さく。
けれど、確かに。
溶けていった。
「……あれ。……そういう、意味だから」
夜風が。
止んだ。
僕は。
何も、言えなかった。
胸の奥が。
熱かった。
灯では、なかった。
職業札は、静かなままだった。
それなのに。
胸の奥が。
どうしようもなく。
熱かった。
「……柚木さん」
「……返事は、いらない」
澪さんが。
僕の言葉を、遮った。
それから。
ようやく。
僕のほうを。
向いた。
月明かりの下で。
澪さんの目が。
少しだけ、潤んで。
けれど。
まっすぐに。
僕を、見ていた。
「……今は、まだ、いい。……全部、終わってから。
遥さんを、助けて。志賀くんを、止めて。
みんなで、帰る方法を、見つけて。
……それから、で、いい」
澪さんは。
小さく。
本当に、小さく。
微笑んだ。
「……それまで、私は、白峰くんが、怪我するたびに、治すから。
……何度でも」
僕は。
しばらく。
澪さんの、その微笑みを、見つめていた。
それから。
うなずいた。
「……うん。約束」
胸のポケットが。
ふわりと。
温かく、なった。
職業札を、取り出した。
【職業:勇者(候補)】
【スキル:誓約の灯】
【誓約:銀牙狼シロガネ】
【暁の印:灯は、独りでは、燃えず】
【潮の印:真実を、分かち合え】
【黄昏の印:灯は、奪えず、ただ、分かつのみ】
そして。
「候補」の二文字が。
月明かりの下で。
今にも、消えてしまいそうなほど。
淡く。
透き通っていた。
けれど。
まだ。
消えては、いなかった。
――四つ目の神殿は、北の果て。魔王の、領域の中さ。
ヴェルダさんの言葉が、頭をよぎった。
四つ目の誓約。
最後の、一欠片。
それを、手にしたとき。
この二文字は。
どうなるのだろう。
僕は。
札を、胸のポケットに、戻した。
隣で、澪さんが。
夜空を、見上げていた。
その横顔を。
月明かりが。
白く。
優しく。
照らしていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
同じ夜。
東の、黒い岩山の上の。
双頭の鷲の、城。
その、一番高い塔の、一室で。
志賀拓真は。
窓辺に、立っていた。
その手に。
黒い職業札が、握られていた。
完全に。
黒く。
塗り潰された、札。
その黒の、表面に。
黒よりも、さらに深い、闇の色で。
文字が。
浮かび上がっていた。
三か月前に、生まれようとしていた、文字。
それが。
今夜。
ようやく。
はっきりと。
形を、成していた。
志賀は。
その文字を。
見つめていた。
長い間。
それから。
その唇が。
ゆっくりと。
笑みの形に。
歪んでいった。
「……は、はは……」
掠れた、笑い声。
「……ははは……ははははッ……!」
志賀は。
札を。
月明かりに。
かざした。
「――見ろよ……! 見ろよ、堂島……!」
部屋の隅で。
堂島が、ぼんやりとした目で、顔を、上げた。
「――勇者だ……! 俺の札に……勇者って、出たぞ……!」
志賀の手の中の、黒い札。
その表面に、浮かび上がった、闇の色の文字。
【職業:勇者】
そして。
その、すぐ後ろに。
括弧に括られた。
小さな。
小さな。
文字が。
志賀は。
その文字を。
見なかった。
いや。
見て。
見なかったことに、した。
三百年前に、禁書の一行を、見なかったことにした、学者の青年のように。
「――あいつは、候補だ……! 俺は、勇者だ……! ははッ……! 俺が、本物だったんだ……!」
窓の外の、夜の闇の中で。
黒いヴェールの女が。
塔の、屋根の上に、腰かけて。
赤い唇で。
艶やかに。
笑っていた。
「――ええ。そうよ、本物の、勇者様」
女の、赤い瞳が。
志賀の手の中の、黒い札を。
その、括弧の中の、二文字を。
愉しげに。
見下ろしていた。
【職業:勇者(偽)】
「――あとは、満月の夜を、待つだけ」
月が。
雲の切れ間から。
冷たく。
白く。
双頭の鷲の城を。
照らしていた。
〈第2部「巡礼」・完〉
――――――――――――――――――――
あとがき ~第2部を終えて~
――――――――――――――――――――
第2部「巡礼」、最後までお読みいただき、本当に、本当にありがとうございました。
第26話から、第50話まで。
陽翔たちが、三つの神殿を巡り、半年の旅を終えて、王都に帰ってくるまでの物語でした。
ここだけの話を、いくつか。
一つ目。
第2部では、二人の「脱落者」と、一人の「帰還者」を描きました。
宇佐美は、【賢者】から【物知り】へ。
姫野は、【錬金術師】から【調合見習い】へ。
二人とも、最後の最後に、自分の過ちを認めたことで、職業を、完全には失わずに済みました。
そして、桐生。
黒蛇の呪印から解き放たれて、「俺は、桐生翔だ」と叫んだ。
桐生だけは、職業を、一文字も、失っていません。
これは意図したものでして、
彼は、罪を犯しましたが、戒律――「契約を違えるな」には、背かなかった。
最後まで、陽翔を殺さないという、自分自身との約束を、守り抜いたからです。
二つ目。
三百年前の四人と、魔王の正体。
暁、潮、黄昏。
三つの神殿で、少しずつ明かされていった、結城遥と、その仲間たちの物語。
「誰も、悪人ではない」。
それが、この三百年前の悲劇を書くときに、一番大切にしたことでした。
そして、魔王に仕える魔将たちもまた、遥に拾われた「はぐれ者」だった。
グラズも、ザハルも。
彼らの最期の言葉が、第3部以降の、陽翔の戦いの意味を、大きく変えていきます。
三つ目。
宇佐美の「灯を分かち合った者なら、門を通れるかもしれない」という仮説。
これは、第2部で、「物知り」となった宇佐美が、
初めて、自分の知識を、誰かのために正しく使えた瞬間でもあります。
そこを演出したい場面で入れております。
四つ目。
澪の、屋根の上の言葉。
「返事は、いらない」。
第1話から、ずっと、言葉より先に手が動いてきた澪が。
初めて、自分の言葉で、自分の気持ちを、口にした場面です。
私もまだどうなるか決めておらず分かっておりません。
陽翔の答えは、物語の最後まで、大切に取っておきたいと思っています。
そして、最後に。
志賀の札に浮かび上がった、【勇者(偽)】。
彼が、その括弧の中の文字を、「見なかったことにした」こと。
それが、第3部の始まりになります。
皆さまがお察しの通り、二人の「勇者」が、再び対峙します。
引き続き第3部も、どうぞ、よろしくお願いいたします。
~第3部「裏切りの華」~




