第48話「双頭の鷲の城」
※今回は、久しぶりの登場。志賀拓真の視点でお届けします。
第48話「双頭の鷲の城」
剣が重かった。
いつからだろう。
城下の武器屋で買った、飾り気のない長剣。
グラズに折られた宝石の剣の代わりの。
最初は、何も感じなかった。
ただの鉄の棒だった。
それがいつの間にか。
重くなっていた。
握るたびに。
振るたびに。
腕に鉛を流し込まれるように。
「――志賀さんッ! 右っすッ!」
堂島の声で我に返った。
右から。
灰色の狼が、跳びかかってきていた。
森狼。
Eランクの雑魚。
ヴェルンにいた頃なら、剣を抜くまでもなく、蹴り飛ばしていた相手。
剣を振った。
魔力を刃に込めた。
青と黒の光。
魔剣士の力。
――光が出なかった。
いや。
出た。
けれど、それは、光と呼ぶにはあまりにも薄かった。
蝋燭の炎が、風に吹き消される寸前のような。
青でも黒でもない。
濁った灰色の霞。
刃が狼の肩を浅くかすめた。
狼が怯まずに牙を剥いた。
俺の左腕に食らいついた。
「――ぐあッ……!」
「――志賀さんッ!」
堂島が斧を振るった。
狼の体が宙を舞って、木の幹に叩きつけられた。
動かなくなった。
左腕から血が流れていた。
森狼に。
Eランクの雑魚に。
噛まれた。
「……志賀さん、大丈夫っすか」
堂島が心配そうに覗き込んできた。
「最近、調子、悪いっすね。……前はこんな奴、一撃だったのに」
「……うるせえ」
俺は、堂島の手を振り払った。
腰の職業札に、手を伸ばした。
取り出しかけて。
やめた。
見たくなかった。
見なくても、分かっていた。
【職業:魔剣士】。
その文字はもう。
ほとんど。
黒く塗り潰されていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
王都を出て、三か月が過ぎた。
東の交易都市、ブラウエン。
リンドールよりも、さらに東の。
ドルマン侯爵の領地に近い街。
最初は順調だった。
ギルドでDランクの依頼を、片っ端から受けた。
Cランクに、戻るまでそう、時間は、かからないはずだった。
それが。
剣が重くなった。
魔力が薄くなった。
Dランクの依頼に、苦戦するようになった。
Eランクの依頼でも、怪我をするようになった。
ギルドの連中の目が変わった。
――あれが王都でハルン村の依頼を、放り出した連中か。
――最速でCランクになったとか言ってたが、
今じゃ、森狼にも噛まれる始末だ。
――候補の勇者様の引き立て役だったって噂だぜ。
酒場の隅で囁かれる声。
聞こえないふりをした。
けれど、聞こえていた。
全部。
「……まあまあ、志賀。気にすんなって」
宿の薄汚い部屋で。
吉岡がいつもの愛想笑いを浮かべていた。
「調子の波ってのは、誰にでも、あるもんだしさ。……な?」
吉岡の目が。
笑っていなかった。
いつからだろう。
吉岡の目が、俺を見るたびに。
何かを値踏みするように、細められるように、なったのは。
長いものには巻かれろ。
吉岡の口癖。
その長いものが。
もう、俺ではないのかもしれない。
「……ウッス。俺は、志賀さんに、ついていくっすよ」
堂島が言った。
狂化の反動で、目の下に黒い隈を刻んで。
その目がどこか、焦点の合わない、ぼんやりとした光を宿していた。
最近の堂島は、狂化が解けるのが遅くなっていた。
三日前は、依頼の途中で狂化が解けずに、
村の牛を二頭、斧で叩き殺した。
村人に石を投げられた。
堂島は、何も覚えていなかった。
「……志賀さんが、主人公なんすから。
俺は、志賀さんの一番の子分っすから」
堂島のぼんやりとした目が。
俺を見ていた。
その目を見ていられなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
宿に一通の手紙が届いた。
上質な羊皮紙。
赤い封蝋。
その封蝋に、押された紋章。
双頭の鷲。
封を切った。
丸みを帯びた、見覚えのある文字だった。
『志賀くんへ
莉愛だよー。
元気?
今ね、莉愛、ドルマン侯爵様のお城にいるの。
ブラウエンから、馬車で二日くらいのところ。
侯爵様がね、志賀くんに会いたいって。
すっごく大事なお話があるんだって。
迎えの馬車を、出してくれるって。
来てくれるかなー?
莉愛より』
最後の一行だけ。
文字が少しだけ震えていた。
『……あのね、志賀くん。莉愛、ちょっとだけ怖いかも』
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ドルマン侯爵の城は、黒い岩山の上に建っていた。
ブラウエンから、迎えの馬車に揺られて、二日。
東のなだらかな丘陵地帯のその真ん中に。
突然、突き上げるように、そそり立つ黒い岩山。
その頂に。
灰色の石の巨大な城が、覆いかぶさるように、建っていた。
城の一番高い塔の上に。
旗が翻っていた。
黒地に金の。
双頭の鷲。
「……すげえ」
馬車の窓から、堂島が呆然と見上げていた。
吉岡は来なかった。
ブラウエンを発つ朝。
吉岡の寝台は空だった。
荷物もなかった。
宿の主人に聞くと、夜明け前に、西へ向かう荷馬車に、乗っていったという。
置き手紙もなかった。
――長いものには巻かれろ。
吉岡は。
もっと長いものを。
見つけたのだろう。
あるいは。
長いものから、逃げ出したのか。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
城の大広間は冷たかった。
石の床。
石の壁。
石の柱。
壁に掛けられた、何枚もの巨大な肖像画。
そのどれもが、同じ双頭の鷲の紋章を、胸に戴いていた。
暖炉に火は入っていた。
けれど、その熱は、大広間の冷たい石の空気に呑み込まれて。
どこにも、届いていないようだった。
大広間の一番奥。
一段高くなった壇の上に。
一人の老人が座っていた。
痩せていた。
背が高かった。
白い髪を後ろに撫でつけていた。
その顔に深い皺が刻まれていた。
けれど、その皺の一本一本が。
穏やかさではなく。
鋭さを刻んでいた。
鷲の嘴のような鉤鼻。
その下の薄い唇。
そして、その目。
灰色の冷たい目。
ドルマン侯爵。
その隣に。
淡い桃色のドレスを纏った、娘が立っていた。
花菱、だった。
くるりと巻いた髪。
胸元に大きな宝石の首飾り。
王都の鑑定の儀で、「王妃ルートかなー?」と、
はしゃいでいたあの頃よりも。
ずっと華やかに。
ずっと美しく。
けれど。
その笑顔が。
どこか。
硬かった。
「……し、志賀くん。来てくれたんだー」
花菱の声が。
少しだけ震えていた。
「――ようこそ、異界の魔剣士殿」
ドルマン侯爵が言った。
低くよく通るけれど温度のない声。
「花菱殿から、そなたの話は、よく伺っておる。
……王都の訓練場で、候補の勇者を、打ち負かしたとな」
その一言で。
胸の奥が。
熱くなった。
――打ち負かした。
そうだ。
俺は勝ったんだ。
あの決闘で。
エセ勇者に。
なのに、誰もそれを覚えていない。
誰も、俺を見ない。
この侯爵だけが。
「……ああ。勝ったよ」
俺は言った。
「俺の勝ちだった」
ドルマン侯爵の薄い唇が。
わずかに。
弧を描いた。
「――そうであろう。そなたこそが、本物よ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
大広間の長い卓に案内された。
卓の上に料理が並べられていた。
見たこともないほど、豪華な。
焼いた鳥。
果物の山。
葡萄酒の杯。
堂島が目を輝かせて、鳥の脚にかぶりついた。
俺は、手をつけなかった。
「……で大事な話って何だよ」
ドルマン侯爵は、葡萄酒の杯を、ゆっくりと傾けた。
「――この国は弱い」
侯爵の灰色の目が。
暖炉の火を映していた。
「王家は、三年前に王太子を失った。
国王レオンハルトは、優しすぎる。
民に頭を下げ、異界の若者に、頭を下げ、……魔王軍に怯えている」
侯爵の声が、冷たくなった。
「王都大侵攻ではたまたま、勝った。
だが、それは王家の力ではない。
異界から来た、灯の候補とやらの力だ」
灯の候補。
その言葉に。
胸の奥が。
冷たくなった。
「――あの若者は危険だ」
侯爵が言った。
「民は、あの若者を、勇者と呼んで崇めている。
王家は、あの若者を手放そうとしない。
……このまま、あの若者が、四神殿を巡り魔王を討てば。
民は、王家ではなく、あの若者についていく。
我ら貴族の何百年もの権威も、秩序も、
すべて、一人の異界の小僧に奪われる」
侯爵の灰色の目が。
俺を見た。
「――だから、黒蛇に依頼した。あの若者を消せと」
息が止まった。
「……は?」
「失敗したがな」
侯爵は、何でもないことのように、言った。
「黒蛇の新入りの小僧が、裏切ったそうだ。
……そなたの昔の子分だったか」
――桐生。
「『使えねえ奴はいらねえ』」
自分の声が、頭の中で響いた。
リンドールから届いた、桐生の手紙に書いた。
たった一行の返事。
「……で」
俺は、掠れた声で言った。
「……俺に何をさせたいんだよ」
ドルマン侯爵の薄い唇が。
ゆっくりと。
笑みの形に。
歪んだ。
「――そなたに本物の勇者に、なってもらいたい」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「……本物の勇者?」
「そうだ」
侯爵は、杯を卓の上に置いた。
「灯の候補などという、得体の知れぬ小僧ではなく。
我ら貴族が、認める本物の勇者に。
……そなたが魔王を討ち。
そなたが民の英雄となる。
そして、そなたは、我がドルマン家の後ろ盾を得て。
この国の新たな、秩序の柱となる」
侯爵の灰色の目が。
暖炉の火を映して。
赤く光っていた。
「――レオンハルトの弱い王家に代わってな」
大広間が静まり返った。
堂島が鳥の脚を口に咥えたまま。
固まっていた。
花菱が。
侯爵の隣で。
唇を噛んでいた。
「……王家に代わってって」
俺は言った。
「……それ、反乱、じゃねえか」
「反乱ではない」
侯爵が静かに言った。
「――正しい者が、正しい場所に立つだけだ」
「……でも、俺は」
俺は、自分の腰の職業札に手を当てた。
「……俺の札はもう」
言葉が続かなかった。
ほとんど、黒く塗り潰された札。
剣は重く。
魔力は薄く。
森狼にさえ噛まれる。
こんな俺が。
魔王を討つ?
「――分かっておる」
声が。
した。
ドルマン侯爵の声ではなかった。
甘く。
艶やかで。
夜の闇そのものが、囁いているような。
聞き覚えがあった。
三か月前。
王都から東へ馬で一日の宿場町の外れの丘の上。
月明かりの下で。
誰もいない、夜の闇から聞こえてきた。
――あなたこそが、本物の勇者だわ。
大広間の壇のその陰から。
一人の女が。
ゆっくりと。
歩み出てきた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
黒いヴェール。
顔の上半分を、覆う薄い黒い紗。
その下から覗く。
赤い唇。
白い顎。
夜の闇よりもなお、暗い漆黒のドレス。
その裾が。
石の床の上を。
音もなく。
滑っていた。
白い指先が。
卓の縁を。
ゆっくりと。
撫でていた。
「――侯爵様の側近を、務めております」
女が。
甘い声で。
言った。
「メフィラ、とお呼びくださいな」
メフィラ。
その名前が。
大広間の冷たい空気の中に。
ねっとりと。
溶けていった。
花菱の顔が。
青ざめていた。
メフィラが。
卓を回り込んで。
俺のすぐ隣に。
立った。
甘い香りがした。
花の香り。
けれど、その奥に。
何か。
腐ったような。
古い墓の土のような。
「――あなたの札」
メフィラの白い指先が。
俺の腰の職業札に。
触れた。
「――可哀想に。ほとんど、黒くなってしまって」
指先が。
札の表面を。
なぞった。
「――でもね」
メフィラの赤い唇が。
俺の耳元に。
近づいた。
「――黒いのは、悪いことではないのよ」
その瞬間。
札が。
熱くなった。
いや。
熱いのではなかった。
冷たい。
氷よりも冷たい。
けれど、その冷たさの中から。
何かが。
溢れ出してきた。
力、だった。
黒い力。
札から。
腰から。
腕へ。
胸へ。
頭のてっぺんまで。
黒い冷たいけれど、圧倒的な力が。
奔流のように。
駆け巡った。
剣が。
軽くなった。
いや。
剣を握っていないのに。
腕の中に。
剣の重さが、消えていく感覚が。
あった。
「――あ、あ……」
声が漏れた。
この感覚。
王都の訓練場で、初めて、見習い騎士を、一撃で倒したときの。
ヴェルンのギルドで、ゴードンを、一撃で倒したときの。
ワイバーンを七体、狩ったときの。
いや。
それよりも。
ずっと。
ずっと。
強い。
「――ね?」
メフィラの声が。
耳元で。
囁いた。
「――あなたこそが、本物の勇者なのよ」
「――あの、灯の候補なんかじゃない」
「――あなたのその黒い札こそが。本物の力の証なの」
札を取り出した。
もう、見ることを恐れていなかった。
【職業:魔剣士】。
その文字は。
完全に。
黒く。
塗り潰されていた。
一文字も。
読めなかった。
けれど。
その黒の表面に。
黒よりも、さらに深い闇の色で。
何か、新しい文字が。
浮かび上がろうとしていた。
まだ読めなかった。
けれど。
何かが。
生まれようとしていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――志賀くん」
花菱の声がした。
震えていた。
「――志賀くん、やめたほうがいいと思う」
花菱が。
侯爵の隣から。
一歩、前に出ていた。
その顔が。
真っ青だった。
宝石の首飾りを、握りしめるその手が。
震えていた。
「……莉愛、ね。
この三か月、このお城にいたの。
……ルーカス様と婚約して。
侯爵様にすっごくよくしてもらって」
花菱の声が。
震えた。
「……でも、なんか、変なの。
……このお城、夜になると、地下から声がするの。
……人じゃない声。
……それにメフィラさんが来てから、
侯爵様もルーカス様もなんか、目が」
花菱は、そこで言葉を切った。
メフィラの黒いヴェールの奥から。
視線が。
花菱を捉えていた。
「――花菱様」
メフィラの声が。
甘く。
けれど、その奥に。
冷たい刃を隠して。
「――お疲れのようですわね。お部屋で、お休みになっては」
メフィラの白い指先が。
宙で。
小さく。
弧を描いた。
花菱の目が。
一瞬。
とろんと。
濁った。
――魅了。
花菱自身が、ルーカスや、貴族たちに使っていた力。
それと同じ。
いや。
それよりも。
ずっと深く。
ずっと濃い。
「……う、ん……。莉愛……ちょっと……疲れた……かなー……」
花菱は。
ぼんやりとした、笑顔を浮かべて。
侍女に手を引かれて。
大広間を出ていった。
その去り際に。
一度だけ。
花菱が。
振り返った。
その目が。
一瞬だけ。
濁りを振り払うように。
澄んで。
俺を。
見た。
――助けて。
唇が。
そう、動いた気がした。
扉が。
閉まった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
俺は。
花菱の消えた扉を。
見つめていた。
胸の奥で。
何かが。
疼いた。
ほんの一瞬。
――助けて。
桐生の手紙。
『助けてくれ』。
俺は、『使えねえ奴は、いらねえ』と返した。
花菱の唇。
『助けて』。
――俺は。
「――志賀様」
メフィラの声が。
耳元で。
囁いた。
その声が。
疼きを。
甘く。
溶かしていった。
「――花菱様は、少し、疲れていらっしゃるだけ。……心配、いりませんわ」
メフィラの白い指が。
俺の頬に。
触れた。
冷たかった。
「――それより。あなたには、もっと大事なことがあるでしょう?」
――そうだ。
俺には。
もっと大事なことが。
「――あの、灯の候補を超えること」
――そうだ。
「――本物の勇者になること」
――そうだ。
「――誰もがあなたを見るように。誰もが、あなたの名を呼ぶように」
――そうだ。
胸の疼きが。
消えた。
黒い札が。
冷たく。
熱く。
脈打っていた。
「――決めたぞ、侯爵」
俺は立ち上がった。
「――その話、乗ってやる」
ドルマン侯爵の薄い唇が。
満足げに。
弧を描いた。
メフィラの赤い唇が。
ヴェールの奥で。
艶やかに。
笑った。
「――ようこそ本物の、勇者様」
堂島が。
鳥の脚を卓の上に落としていた。
ぼんやりとした目で。
俺を見上げていた。
「……志賀、さん……?」
その声が。
少しだけ。
怯えていた。
けれど、俺は。
気づかなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
城の一番高い塔のバルコニーで。
メフィラは。
一人。
夜空を見上げていた。
北の空を。
黒いヴェールを、わずかに持ち上げて。
その下の赤い瞳で。
「――ザハルが逝ったわね」
誰に聞かせるでもなく。
メフィラは、つぶやいた。
北の空に。
黒い羽根が。
何千枚も。
風に乗って。
流れていくのが見えた。
「――グラズに続いて。
……あの方の可愛い、はぐれ者たちが、また一羽」
メフィラの赤い唇が。
冷たく。
歪んだ。
「――あの方は、甘すぎるのよ。
三百年経ってもまだ胸の灯の欠片で、
はぐれ者たちを、温めようとなさる」
メフィラは。
城の地下へと続く暗い階段を。
見下ろした。
その地下から。
声が。
聞こえていた。
人ではない声。
低く。
濁って。
何十も。
何百も。
重なり合った。
「――あの方が灯を手に入れたら。
古き魔は、完全にあの方の中で目覚める。
……そのとき、この世界は、本当の意味で、魔のものになる」
メフィラは。
笑った。
「――そのための器が。ようやく熟れてきたわ」
城の客室の一つに。
灯りがともっていた。
その窓の向こうで。
一人の若者が。
黒い職業札を握りしめて。
眠れずに。
天井を見上げていた。
「――迎えに来てあげたわよ。……本物の、勇者様」




