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【最終章突入】職業「勇者」って言われたのですが、一緒に転移した同級生いわく違うらしい ~正しい職業を知りたい今日この頃~  作者: 有馬 茶
第2部 ~巡礼~

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第47話「影翼のザハル」

第47話「影翼のザハル」



夜明けは、黒い翼とともにやってきた。


終わりの山の頂の台地。

鏡の石板の前で、僕たちは、夜を明かした。

誰も、眠れなかった。

石板の表面に刻まれた、蒼さんの文字を。

台座の上の錆びた鉄の剣を。

ただ、黙って見つめていた。


東の空が白み始めた。

鏡の石板が、西を向いているせいで、朝日は、その裏側から、昇ってきた。

石板の巨大な影が。

台地の上に長く、長く伸びていた。


その影のさらに向こう。

台地の東の縁の、その下の山の肩の空に。


黒い点が浮かんでいた。


十。

二十。

三十。


そして、その真ん中に。

ひときわ、巨大な黒い影。


「……来た」


古賀が掠れた声でつぶやいた。


シロガネが、立ち上がった。

銀色の毛並みが、一斉に逆立った。

喉の奥から、低く長く唸り声が漏れた。


黒い点の群れが。

朝焼けの空を。

こちらへと。

迫ってきていた。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




三十頭の飛竜だった。


荒野で難民たちを襲った十頭の三倍。

その一頭一頭の背中に、ゴブリンの騎兵が、槍と弓を構えていた。


そして、その群れの先頭に。

夜の闇を切り取ったような、黒い皮膜の翼を持つ巨大な飛竜。

その背に。

黒い甲冑と、鴉の翼を持つ、男が立っていた。


影翼のザハル。


飛竜の群れが。

台地の真上で。

円を描き始めた。


ゆっくりと。

獲物を値踏みするように。

朝焼けの空に。

黒い渦を描いていた。


その渦の中心から。

ザハルの乾いた声が。

降ってきた。


「――見たのだな。黄昏の記憶を」


ザハルの赤い目が。

台座の上の錆びた鉄の剣を。

見下ろしていた。


「……その剣。我が主の剣だ。三百年前の」


ザハルの声が。

わずかに。

揺れた。


「……貴様が持ってきたのか。暁の神殿から」


「……はい」


僕は、台座の前に立った。

アルベルトさんの鋼の剣を、抜いた。


「……ザハル。あなたの、主は。……結城遥さん、ですね」


渦を描く飛竜の群れが。

一瞬。

乱れた。


ザハルは、答えなかった。


長い沈黙だった。


それから。


「――我が主は」


ザハルの声が。

低く。

重く。

台地に降ってきた。


「――三百年、待っておられる」


「――灯を持つ者を」


「――胸の空洞を、埋めるために。

古き魔に喰われ、千切れた灯を、取り戻すために。

……そして、北の果ての古代の門を、開くために」


ザハルの鴉の翼が。

大きく。

広がった。


「――貴様の灯を奪うためにな」


――灯は、奪えず。ただ分かつのみ。


鏡の石板の金色の文字が。

頭の中で響いた。


「……奪えない」


僕は、言った。


「灯は、奪えない。三百年前に、遥さん自身が、それを思い知ったはずだ」


「――我が主は、そうは思っておられぬ」


ザハルの声が。

冷たくなった。


「――三百年前、灯移しの儀は失敗した。

未熟な学者の小僧が、儀式を誤ったからだ。

……我が主はそう、信じておられる。

正しく儀式を行えば灯は奪えると」


ザハルが。

腰の黒い剣を。

抜いた。


鴉の羽根の紋様が刻まれた黒い刃。


「――今日、私は主の御命令でここに来た。

灯の候補を、生かしたまま、魔王城へ連れ帰れと」


黒い刃が。

朝焼けの中で。

鈍く。

光った。


「――手足の一本や二本は、構わぬとな」




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




飛竜の群れが。

一斉に。

急降下を始めた。


三十の黒い影が。

朝焼けの空から。

台地へと。

雪崩のように。


「――【城壁】ッ!」


剛の青い光が。

台地に。

爆ぜた。


荒野で難民たちを守ったあの天蓋。

青い光の傘が。

剛の盾から。

天に向かって。

大きく丸く。

広がった。


最初の飛竜が。

天蓋に激突した。


――轟音。


二頭目。

三頭目。

十頭目。


飛竜たちが。

天蓋に。

次々と叩きつけられた。

鉤爪が青い膜を掻き毟った。

ゴブリンの槍が、膜を突いた。

弓矢が雨のように、膜の上に降り注いだ。


天蓋が。

軋んだ。


荒野のときの十頭とは、違った。

三十頭。

その重さが。

青い光の膜を。

押し潰そうと。


「――ぐうおおおおッ……!」


剛の膝が。

黒い岩に沈んだ。


「――剛ッ!」

「――大丈夫だッ! まだ持つッ!」


剛が叫んだ。

額に血管が浮かんでいた。

盾を握る腕が、震えていた。


「――でも、長くは無理だッ!

 陽翔ッ!

 あの黒い羽根の野郎を何とかしろッ!」


天蓋の真上で。


ザハルが。

巨大な飛竜の背から。

宙へと。

舞い上がっていた。


自分の鴉の翼で。


黒い剣を振り上げた。


「――剛ッ! 来るッ!」


古賀の悲鳴。


ザハルの剣が。

振り下ろされた。


その軌跡から。

黒い羽根の刃が。

何百枚も。

嵐のように。


天蓋へと。

降り注いだ。


――青い膜が。

悲鳴を上げた。


羽根の刃が。

一枚、また一枚と。

膜に突き刺さった。

突き刺さった場所から。

青い光が。

ひび割れるように。

砕けていった。


天蓋に。

穴が開いた。


一つ。

二つ。

五つ。


その穴から。

飛竜の鉤爪が。

ゴブリンの槍が。

天蓋の内側へと。

差し込まれてきた。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




「――エレオノーラさんッ! 左の穴をッ!」

「――承知ッ!」


エレオノーラさんが、天蓋の左の穴へと駆けた。

穴から差し込まれた飛竜の鉤爪を。

細身の剣で。

断った。

鉤爪の付け根の腱を。

正確に。


飛竜が絶叫して、穴から足を引き抜いた。


「――シロガネッ! 右をッ!」


シロガネが、天蓋の右の穴へと跳んだ。

穴から、身を乗り出していたゴブリンの騎兵の、槍に牙を立てた。

槍ごとゴブリンを、穴の外へと振り払った。


「――柚木さんは剛をッ!」

「――分かってるッ!」


澪さんが剛の背中に、両手を押し当てた。

若葉色の光が。

その手から、溢れ出した。

剛の震える体に。

流れ込んでいった。


「――少しだけ、楽になるッ! 剛くん、頑張ってッ!」

「――おうッ……! 澪の光は、あったけえなッ……!」


青い天蓋が。

若葉色の光を、帯びた。

開いていた穴が。

少しずつ。

塞がり始めた。


そして。


僕は。

天蓋の縁へと。

走った。


「――シロガネッ!」


天蓋の右の穴から、戻ってきたシロガネが。

僕の隣に並んだ。


その背中に。

飛び乗った。


「――行くよ」


シロガネが。

一度だけ。

低く。

吠えた。


――独りで進むな。


シロガネが。

天蓋の縁を。

蹴った。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




青い光の斜面を。

銀色の狼が。

駆け上がっていった。


その背中に、僕を乗せて。


天蓋の上は。

戦場だった。


飛竜たちが。

青い膜の上に、降り立って。

鉤爪で膜を掻き毟っていた。

その間を。

シロガネが。

銀色の閃光となって。

駆け抜けていった。


飛竜の牙が。

左から迫った。


シロガネが跳んだ。

牙が空を噛んだ。


その跳躍の頂で。

僕の剣が。

飛竜の翼の付け根を。

断った。


着地。

すぐにまた跳ぶ。


飛竜の尾が。

右から薙いできた。


シロガネが、身を沈めた。

尾が頭上を、唸りを上げて、通り過ぎていった。


その通り過ぎた尾の付け根に。

剣を。


一頭。

また一頭。


シロガネと僕は。

一つの生き物のように。

天蓋の上の飛竜の群れの中を。

駆け抜けていった。


――【誓約:銀牙狼シロガネ】。


胸のポケットが。

燃えていた。


シロガネの銀色の毛並みに。

金色の光が。

走っていた。


僕の剣にも。

金色の光が。

灯っていた。


天蓋の頂へ。


その真上の空に。

ザハルが。

浮かんでいた。


鴉の翼を広げて。

黒い剣を構えて。

赤い目で。

僕を見下ろしていた。


「――来たか、灯の候補」


ザハルの声が。

朝焼けの空に、響いた。


「――狼の背に乗って、空を駆けるか。

……三百年前のあの男も、同じだった。

獣と心を通わせて」


ザハルの赤い目が。

わずかに。

細められた。


「――我が主も、昔は、狼の背に乗っておられた。

灰色の美しい狼だった。

……古き魔に喰われるまでは」


シロガネが。

天蓋の頂を。

蹴った。


宙へ。


ザハルへと。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




空中で。

剣と剣が。

交わった。


――重い。


グラズの棍棒とは、違った。

ヴィゴの細い刃とも、違った。


ザハルの黒い剣は。

重さの中に。

速さを秘めていた。

速さの中に。

重さを秘めていた。


三百年。

魔王に仕え続けた、魔将の剣。


金色の光と、黒い光が。

空中で。

ぶつかり合った。


火花ではなかった。

光の嵐、だった。


金色の破片と、黒い破片が。

朝焼けの空に。

花火のように。

散った。


シロガネの体が。

衝撃で。

宙に弾き飛ばされた。


落ちていく。


天蓋の上へと。


シロガネが、空中で体をひねった。

四本の脚で。

天蓋の上に。

着地した。


その衝撃が。

背中の僕を。

揺さぶった。


見上げた。


ザハルが。

宙に浮かんだまま。

黒い剣を振り上げていた。


「――羽根よ」


ザハルの剣が。

振り下ろされた。


黒い羽根の刃が。

何百枚も。

嵐のように。


天蓋の上の僕と、シロガネへと。

降り注いできた。


――荒野のときと、同じ。


けれど。

荒野のときより。

ずっと多い。

ずっと速い。

ずっと鋭い。


剣を掲げた。


金色の光が。

剣から広がった。


羽根の刃が。

叩きつけられた。


一枚。

十枚。

百枚。


金色の光が。

削られていった。


――足りない。


荒野のときは。

一人で防ぎきった。

けれど、あのときのザハルは。

本気では、なかった。


今は。

違う。


羽根の刃が。

金色の光を。

一枚、また一枚と。

剥ぎ取っていく。


光の最後の一枚が。

剥がれかけた。


その瞬間。


背中に。

温かい手が、触れた。


いや。


手では、なかった。


声、だった。


「――白峰殿ッ!」


エレオノーラさんの声。

天蓋の下から。


「――陽翔ッ!」


剛の声。


「――白峰くんッ!」


澪さんの声。


「――白峰氏ッ!」


古賀の声。


天蓋の青い膜を通して。

四つの声が。

四つの灯が。


僕の背中に。

届いた。


胸のポケットが。

爆ぜた。


――灯を分かつ。


金色の光が。

剥がれかけていた光のその内側から。

新しく。

溢れ出した。


一枚ではなかった。

五枚。

六枚。

重なり合って。


羽根の刃の嵐を。

押し返した。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




羽根の嵐が、止んだ。


天蓋の上に。

黒い羽根が、何百枚も散らばっていた。


僕とシロガネは。

その真ん中に。

立っていた。


傷一つなかった。


宙で。

ザハルが。

剣を下ろしていた。


その赤い目が。

大きく。

見開かれていた。


「――……仲間の灯を」


ザハルの声が。

掠れた。


「……天蓋越しに、受け取ったのか」


それから。

ザハルは。

長い間。

僕を見下ろしていた。


「……三百年前のあの男は」


ザハルが。

静かに。

言った。


「……それができなかった」


ザハルの鴉の翼が。

ゆっくりと。

羽ばたいた。


「……我が主は、一人で灯を抱えておられた。

仲間に分かつことを知らなかった。

……だから、灯は、奪われるものだと、思い込んでおられる」


ザハルの黒い剣が。

再び。

構えられた。


けれど、その構えには。

さっきまでの冷たさが。

なかった。


「――灯の候補」


ザハルの声が。

朝焼けの空に、響いた。


「――私と一騎打ちをしろ」


「――羽根も、飛竜も使わぬ。

剣と剣だけで。

……貴様の灯が本当に我が主の、

三百年の間違いを、正せるものなのか。

この剣で確かめさせてもらう」


ザハルが。

片手を上げた。


天蓋の上の飛竜たちが。

一斉に。

飛び立った。

空高く。

円を描いて。

距離を取った。


ザハルが。

天蓋の上に。

降り立った。


鴉の翼を畳んだ。


黒い剣を。

正眼に。

構えた。


僕は。

シロガネの背から、降りた。


「……シロガネ。少しだけ、離れてて」


シロガネが、金色の瞳で僕を見上げた。

それから。

小さく鼻を鳴らして。

数歩。

下がった。


僕は。

アルベルトさんの鋼の剣を。

正眼に。

構えた。


親指は、ここ。

小指で締める。


天蓋の上。

朝焼けの空の真下。


二人が。

向かい合った。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




風が止んだ。


台地の山の頂のその空気が。

すべて。

凍りついたように。


天蓋の下で。

四人が。

息を止めていた。


空の上で。

三十頭の飛竜が。

翼の羽ばたきさえ、止めたように。

静かに。

円を描いていた。


ザハルの赤い目と。

僕の目が。

交わっていた。


――打ち込む直前に一度、息を吐きなさい。


息を。

吐いた。


白い吐息が。

朝の冷たい空気に。

ほどけて。

消えた。


その消える瞬間に。


二人が。

同時に。

動いた。


――一合。


黒い剣と鋼の剣が。

交わった。


音が。

なかった。


あまりにも、速く。

あまりにも、重く。

音が生まれる前に。

次の動きが、始まっていた。


――二合。


ザハルの剣が。

下から跳ね上がった。

流した。

返す刃で。

ザハルの肩を。

ザハルが半歩、退いた。

刃が空を切った。


――三合。


四合。


五合。


剣と剣が。

交わり。

離れ。

また交わった。


金色と黒の。

光の軌跡が。

天蓋の上に。

幾重にも。

幾重にも。

重なり合って。


まるで二人で。

一枚の絵を、描いているように。


――十合。


腕が痺れていた。

左腕の黒蛇の短剣の傷が。

包帯の下で、また開いていた。

血が袖を伝っていた。


ザハルの黒い甲冑にも。

いくつもの細い、傷が刻まれていた。

金色の剣が、かすめた痕。


――二十合。


息が上がっていた。

肺が焼けるように痛かった。

視界の端が。

少しずつ。

白く霞み始めていた。


それでも。

剣は。

止まらなかった。


ガルドさんの四十年の剣。

エレオノーラさんの三年の剣。

そして、僕自身の。

四か月と半年の。

夜明けと素振りと。


そのすべてが。

今、この剣の中に。

あった。


――三十合。


ザハルの剣が。

上から。

斜めに。

振り下ろされた。


これまでで一番、重い。

一番、速い。

三百年のすべてを、込めたような。


――受けるな。


体が叫んだ。


だから。

受けなかった。


流しも、しなかった。


ただ。

一歩。

前へ。


ザハルの剣の。

その内側へ。


黒い刃が。

僕の左の肩口を。

かすめた。


肩の外套が裂けた。

その下の肌が、裂けた。

熱い。


けれど。


僕の剣は。

すでに。

ザハルの懐の中に。

あった。


――角の付け根だよ、白峰氏。


古賀の声が、頭をよぎった。


グラズのときと、同じ。

魔将の体には、必ず。

魔力の流れの出口がある。


ザハルの。

背中の。

鴉の翼の。

その付け根。


黒い羽毛と、黒い甲冑の継ぎ目。


天蓋の下から。

古賀の叫び声が。

聞こえた。


「――白峰氏ッ! 翼の、付け根だッ! そこだけ、甲冑がないッ!」


――剣は、守るために振れ。


息を吐く。

肩の力を抜く。

親指は、ここ。

小指で締める。

力を入れるのは、振り下ろす最後の一瞬だけ。


金色の剣が。

ザハルの脇の下を、潜り抜けて。

背中の翼の付け根へと。


吸い込まれていった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




音がなかった。


それから。


ザハルの背中の鴉の翼が。


ゆっくりと。


散っていった。


黒い羽根が。

一枚、また一枚と。

付け根から、剥がれ落ちて。

朝焼けの空に。

舞い上がっていった。


何百枚。

何千枚。


黒い羽根が。

朝日を受けて。

金色に縁取られて。

雪のように。

天蓋の上に。

降りしきっていた。


ザハルの体が。

膝から。

崩れ落ちた。


黒い剣が。

その手から、滑り落ちて。

天蓋の上に。

転がった。


空の上で。

三十頭の飛竜が。

一斉に。

悲鳴のような、叫びを上げた。


それから。

一頭、また一頭と。

北の空へと。

逃げ去っていった。


天蓋の上に。

僕とザハルだけが。

残された。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




ザハルは、仰向けに倒れていた。


兜が外れていた。

その下の顔は。

人の顔だった。


いや。

人に似た顔。

灰色の肌。

鋭く尖った耳。

そして、赤い目。


けれど、その目には。

もう、冷たさはなかった。


「……見事、だ」


ザハルの掠れた声。


「……三百年、剣を振るってきたが。

……仲間の灯を、背負った剣に、斬られたのは初めてだ」


僕は、ザハルの隣に膝をついた。


「……ザハル」

「……なんだ」

「……遥さんのこと。教えてほしい」


ザハルは、しばらく黙っていた。


朝焼けの空を。

舞い上がっていく、自分の羽根を。

見上げていた。


「……三百年前」


ザハルがぽつりと言った。


「……私は、北の山脈の、鴉の一族の小さな雛だった。

……古き魔に一族を喰われて。

一羽だけ生き残って。

……雪の中で凍えて、死にかけていた」


ザハルの赤い目が。

遠くを見ていた。


「……そこにあの方が来られた。

胸に空洞を抱えて。

古き魔をその身に取り込んだばかりの。

……黒い霧を纏った若い男」


ザハルの唇が。

わずかに。

緩んだ。


「……あの方は、私を拾ってくださった。

凍えた私を、その胸の空洞の縁に残った、

わずかな灯で、温めてくださった。

……古き魔の黒い霧に、心の大半を、喰われながら。

それでも、その灯の欠片だけは最後まで、

誰かを温めようとしておられた」


ザハルの目から。

涙が。

一筋。

こぼれた。


灰色の頬を伝って。


「……グラズも、同じだ。

……あの粗暴なオーガも群れを追われて、

死にかけていたところを、あの方に拾われた。

……魔王軍の魔将は皆、そうだ。

皆、あの方に拾われたはぐれ者だ」


「……遥さんは」

僕は、掠れた声で尋ねた。

「……今も、その灯の欠片を」


「……ああ」


ザハルは、小さくうなずいた。


「……だが、年々、弱くなっている。

……古き魔の黒い霧があの方の心を、

少しずつ、少しずつ喰らい尽くしている。

……あと何年、もつのか。

……私にも、分からぬ」


ザハルは。

震える手を。

僕の腕に伸ばした。


灰色の冷たい指が。

僕の袖を。

掴んだ。


「……灯の候補」


ザハルの声が。

最後の力を、振り絞るように。

強くなった。


「……あの方は、貴様の灯を、奪おうとされるだろう。

三百年の執念で。

……古き魔の黒い霧のすべての力で」


赤い目が。

まっすぐに。

僕を見つめていた。


「……だが、もし。

……もし貴様の灯が。

本当に奪えず、ただ、分かつだけのものなら」


ザハルの指が。

僕の袖を。

強く。

握りしめた。


「――あの方に分けてやってくれ」


「――三百年、一人で泣いておられるあの方に」


ザハルの手が。

僕の袖から。

滑り落ちた。


赤い目が。

ゆっくりと。

閉じられた。


その唇が。

最後に。

かすかに。

動いた。


「……あの方は……本当は……」


「……ただ……帰りたかった……だけ……なのだ……」




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




ザハルの体が。

朝の光の中に。

黒い羽根となって。

ほどけていった。


指先から。

髪の先から。

黒い甲冑の継ぎ目から。


何千枚もの黒い羽根が。

朝焼けの空に。

舞い上がって。

北へ。

北へと。

風に乗って。

流れていった。


まるで。

主の待つ場所へ。

帰っていくように。


天蓋の上に。

黒い剣だけが。

残されていた。


僕は、その剣を拾い上げた。


重かった。


三百年。

主のために、振るわれ続けた剣。


青い天蓋が、消えた。


剛が黒い岩の上に仰向けに倒れた。

澪さんがその隣に崩れるように座り込んだ。

古賀が膝をついて、肩で息をしていた。

エレオノーラさんが、剣を鞘に収めて、僕のほうへ歩いてきた。


シロガネが、僕の足元に来た。

銀色の頭を、僕の膝に押しつけた。


僕は。

北の空を。

黒い羽根が、流れていったその空を。

見つめていた。


「……白峰殿」


エレオノーラさんが、僕の隣に立った。


「……魔将が最後に何を」


「……遥さんに灯を、分けてやってくれって」


僕は、黒い剣を握りしめた。


「……三百年、一人で泣いてるって」


エレオノーラさんは。

何も、言わなかった。


ただ。

僕の震える手の上に。

そっと。

自分の手を。

重ねた。


朝日が。

完全に。

東の空に。

昇りきっていた。

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