第45話「滅びの都」
第45話「滅びの都」
ルーメリアの都は、灰の海の底に沈んでいた。
荒野の窪地から二日。
難民たちの荷車と一緒に、西へ、西へと歩き続けた。
灰色の土は、西へ進むほどに、深く柔らかくなっていった。
足首まで灰に沈んだ。
風が吹くたびに、灰が舞い上がり、視界を白く霞ませた。
その白い霞の向こうに。
城壁が見えた。
いや。
城壁、だったもの。
かつては、天を衝くほど、高かったのだろう。
白い石の城壁が。
そのところどころが巨人の手で、
引き千切られたように、崩れ落ちていた。
崩れた石が、灰の中に半ば埋もれていた。
残った部分も、黒く焼け焦げて。
その表面を、灰が雪のように覆っていた。
城壁の崩れた隙間から。
都の中が見えた。
尖塔があった。
いくつも。
けれど、そのどれもが、途中で折れていた。
折れた尖塔が灰色の空に向かって、黒い、
骨の指のように、突き出していた。
音がなかった。
鳥の声も。
虫の声も。
風の音さえ、灰に吸い込まれて。
ただ、しんと。
静まり返っていた。
「……十年前まで、ここに二十万の民が、暮らしておりました」
杖をついて、僕の隣を歩きながら、ディートリヒさんが言った。
「大陸で一番、美しい都と謳われておりました。
白い石の都。
麦の都。
書物の都。
……王立書庫には、大陸じゅうの書物が、集められておりました」
ディートリヒさんの白い髭が、風に揺れた。
「――一晩、でございました」
声が掠れた。
「魔王の軍勢が、北の山脈を越えて現れて。
たった一晩で。
……この都は、灰になりました」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
崩れた城壁の隙間をくぐった。
都の大通り。
石畳は、灰に覆われていた。
両側に建物の残骸が並んでいた。
屋根の落ちた家。
壁だけが残った店。
焼け焦げた看板。
その看板に、かろうじて、読み取れる文字。
『パン屋』。
『仕立て屋』。
『本屋』。
本屋が多かった。
通りの三軒に、一軒が本屋だった。
その焼け落ちた店先に。
黒く炭になった本の残骸が。
灰の中に積み重なっていた。
古賀がその一つの前で足を止めた。
しゃがみ込んで。
灰の中から、炭になった本の背表紙を、そっと拾い上げた。
指先で触れた瞬間。
炭が崩れて灰になった。
古賀は、しばらく自分の灰にまみれた指先を見つめていた。
「……書物の都」
かすれた声だった。
「……全部、燃えちゃったんだ」
大通りの突き当たりに。
巨大な建物の残骸があった。
白い石の円柱が、何十本も並んでいた。
その円柱の半分以上が折れていた。
屋根はなかった。
けれど、その建物の正面の階段の上に。
巨大な石の扉が残っていた。
扉の上に刻まれた文字。
『ルーメリア王立書庫』
その下にもう一行。
『知は灯なり』
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
書庫の中は、灰の森だった。
かつては、天井まで届く、巨大な書棚が、何百も、並んでいたのだろう。
その書棚が。
すべて焼け落ちて。
黒い炭の柱となって。
灰の床から、林のように、突き出していた。
焼け落ちた屋根の穴から、くすんだ空の光が、差し込んでいた。
その光の中を。
灰が。
細かな雪のように。
ゆっくりと。
舞い落ちていた。
「……こちらです」
ディートリヒさんが杖をついて、
灰の森の中を、奥へ、奥へと進んでいった。
書庫の一番奥。
炭の林のさらに奥に。
石の床があった。
灰を杖の先で払いのけると。
その下から。
円い石の蓋が現れた。
人が一人、通れるほどの大きさ。
その表面に、紋様が刻まれていた。
炎の、紋様。
――職業札の誓約の灯と同じ。
「……地下書庫への入り口でございます」
ディートリヒさんが言った。
「王立書庫の最も古い、最も重要な記録が納められた場所。
……代々の書庫番だけが、その存在を知っておりました」
「……鍵は」
「ございません」
ディートリヒさんは、首を横に振った。
「この蓋には、鍵穴がないのです。
……三百年前から誰一人、開けた者はおりません。
代々の書庫番に、言い伝えられてきたのは、たった一言だけ」
ディートリヒさんの澄んだ目が。
僕を見た。
「――『灯を持つ者のみ、これを開く』」
胸のポケットが。
熱くなった。
僕は、石の蓋の前に膝をついた。
炎の紋様に。
手のひらを。
そっと。
置いた。
――冷たい。
三百年、誰にも触れられなかった石の冷たさ。
職業札が。
灯った。
手のひらから。
金色の光が滲み出した。
その光が、炎の紋様の溝の中へと流れ込んでいった。
一本。
また一本。
紋様のすべての溝が。
金色に。
満たされていった。
石の蓋が。
震えた。
重い石と石が擦れ合う音。
三百年分の沈黙を破るように。
蓋が。
ゆっくりと。
横に滑っていった。
その下に。
石の階段が。
闇の中へと。
続いていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
地下書庫は小さかった。
円い石の部屋。
壁に沿って、石の棚が並んでいた。
その棚に。
巻物と革表紙の本が。
整然と。
並んでいた。
燃えていなかった。
三百年前のそのままに。
灰一つ被らずに。
ランプの灯りを掲げた。
その光が、石の棚の本の背表紙を照らし出した。
古賀が息を呑んだ。
「……全部、残ってる」
ディートリヒさんが、震える手で、棚の一冊の革表紙の本に触れた。
その目から、涙が溢れていた。
「……ああ……。ルーメリアの知が……。まだここに……」
棚の一番奥に。
石の台座があった。
その上に。
一冊だけ。
他とは、違う本が置かれていた。
黒い革表紙。
何の飾りもない。
けれど、その表紙に。
炎の紋様が。
小さく。
刻まれていた。
台座の前に立った。
本を手に取った。
表紙を開いた。
最初のページに。
文字が書かれていた。
この世界の文字だった。
古い流麗な、ルーメリアの書記の筆跡。
けれど、その文字の隣に。
もう一つの文字が。
添えられていた。
拙い。
けれど、一字一字、丁寧に書かれた。
日本語、だった。
『結城 遥』
『葛城 誠』
『神楽坂 詩織』
『椎名 蒼』
四つの名前。
その下にルーメリアの書記の文字で。
『異界より来たりし四人の若者。
その名をここに記す。
彼らの一人、ユウキ・ハルカ殿の求めに応じて。
――「僕たちが確かにここにいたことを、
誰かに覚えていてほしい」と』
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
地下書庫の石の床に腰を下ろした。
ランプの灯りの下で。
黒い革表紙の本を、一ページずつめくっていった。
古賀が隣で、一緒に覗き込んでいた。
エレオノーラさんが、澪さんが剛がその後ろから。
ディートリヒさんが、震える声で、古い言い回しを、読み解いてくれた。
それは、ルーメリアの一人の若い書記が、書き残した記録だった。
三百年前。
アルセリアの召喚の儀で、四人の若者が、この世界に招かれた。
勇者の職業を授かったのは、ただ一人。
結城遥。
残りの三人は。
葛城誠は【剣士】。
神楽坂詩織は【聖女】。
椎名蒼は【学者】。
四人は、魔王軍と戦うために旅に出た。
四神殿を巡る旅に。
――魔王軍?
「……三百年前にも、魔王がいたの?」
古賀が声を上げた。
ディートリヒさんが、首を横に振った。
「……いえ。
ここに書かれているのは、『北の古き魔』。
魔王、とは呼ばれておりません。
……北の山脈の向こうから魔物の群れを、
率いて現れる古い名もなき、災い」
記録は続いていた。
四人は、ルーメリアの都に、何度も立ち寄った。
王立書庫で、古い記録を調べるために。
学者の椎名蒼が、特に熱心だった。
その書記は、蒼と親しくなったらしい。
記録のところどころに、蒼の言葉が書き留められていた。
『――蒼殿いわく。
「僕は戦えないから。
せめて、知ることで、みんなの役に立ちたい」と』
『――蒼殿いわく。
「遥はいつも、一人で全部を背負おうとする。
誠も詩織さんも、それがずっと心配なんだ」と』
ページをめくった。
記録の筆跡が。
少しずつ。
乱れ始めていた。
『――潮の神殿より、戻られた四人の様子がおかしい。
ユウキ殿と、他の三人の間に、言葉がない』
『――蒼殿が夜更けに一人で書庫に来られた。
禁書の棚の鍵を貸してほしいと。
わたしは断れなかった』
『――蒼殿が禁書の中から、一冊の書を見つけ出された。
「灯移しの儀」。
灯を持つ者から、灯を別の者へと、移す古い禁じられた儀式』
古賀の息が止まった。
『――蒼殿は、泣いておられた。
「これがあれば、みんな帰れるかもしれない。
遥の灯を一度、誰かに移して、その誰かが門を通って。
それから、また灯を遥に返せば」と』
『――けれど、書にはこうも記されていた。
「灯は、移すことは能わず。
ただ、奪うのみ。
奪われし者は、灯を失う」と』
『――蒼殿は、その一行を、見なかったことに、されたのだと思う。
……あるいは、誠殿と詩織殿に、伝えられなかったのか』
ページをめくった。
最後のページだった。
筆跡が。
ひどく乱れていた。
インクが滲んでいた。
涙の跡のように。
『――四人は、黄昏の神殿へと向かわれた。
蒼殿は出立の前夜、わたしにこの記録を託された。
「もし、僕たちが帰ってこなかったら。
この記録を、地下に封じてほしい。
いつか、また灯を持つ者が来たときに。
その人が僕たちと同じ間違いを、しないように」と』
『――四人は、帰ってこられなかった』
『――黄昏の神殿で、何があったのか。わたしには、分からない』
『――ただ、十年の後。
北の山脈の向こうから、新たな魔が現れた。
古き魔とは違う。
魔物の群れを、恐ろしいほどの統率で、率いる何者か』
『――人々は、それを魔王と呼んだ』
『――魔王のその姿を、遠くから見た者は、こう語った』
『――「黒い髪の若い男だった」と』
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
地下書庫が静まり返った。
ランプの炎が。
小さく。
揺れていた。
誰も。
何も。
言えなかった。
僕は、黒い革表紙の本を、膝の上に開いたまま。
最後の一行を。
何度も、何度も。
読み返していた。
――黒い髪の若い男だった。
暁の神殿の光の騎士。
その甲冑の内側に、立っていた半ば透き通った青年。
色褪せた紺色の詰め襟。
黒い髪。
黒い瞳。
――灯を独りで抱えるな。
その言葉を残して。
光の中に溶けていった。
「……でも」
古賀が掠れた声で言った。
「……でも、暁の神殿で、遥さんは消えたんだよね。
光の中に。
……あれは遥さんの魂、じゃなかったの?」
「……残響、だったのかもしれない」
僕は、本を閉じた。
「暁の神殿に、遥さんが残していった想いの欠片。
……『ごめん みんな』って、石版に刻んだときの。
まだみんなを信じたかった頃の」
背中の布に包んだ錆びた鉄の剣が。
重かった。
「……黄昏の神殿で何かがあって。
遥さんは、変わってしまったのかもしれない。
……あるいは誠さんか、詩織さんか、蒼さんか。
誰かが」
「――我が主がなぜ、貴様を待っておられるのか」
影翼のザハルの声が。
頭の中で響いた。
「――黄昏の神殿で知るがいい」
エレオノーラさんが、僕の隣に膝をついた。
「……白峰殿」
「……はい」
「……行きますか。黄昏の神殿へ」
僕は、エレオノーラさんを見た。
それから、剛を。
澪さんを。
古賀を。
シロガネを。
誰の目にも。
怯えがあった。
当然だった。
魔王が、三百年前の日本人の誰かかもしれない。
その真実が。
黄昏の神殿で。
待っているかもしれない。
そして、その誰かは。
もしかしたら。
僕たちの未来の姿かもしれない。
「……潮の神殿で約束したよね」
僕は言った。
「……分からないことは、分からないまま、みんなに言うって。
一人で抱え込まないって」
胸のポケットに、手を当てた。
「……怖いよ。
正直に言うと、すごく怖い。
黄昏の神殿で、何を知ることになるのか。
……でも、蒼さんは、『同じ間違いを、
しないように』って、この記録を残してくれた。
……三百年、誰かが来るのを待ってたんだ」
剛が大きく息を吐いた。
「……難しいことは分からんが」
「うん」
「……蒼って奴、古賀に似てるな」
古賀がびくりと肩を震わせた。
「……戦えないから、知ることで、みんなの役に立ちたいか」
剛は、古賀の背中を、大きな手でばんと叩いた。
「……三百年前の古賀のお願いだ。聞いてやらなきゃ、な」
古賀は、眼鏡を外した。
袖で目元を乱暴に拭った。
「……お約束、でしょ」
澪さんが小さくうなずいた。
エレオノーラさんが立ち上がった。
シロガネが、僕の膝に鼻先を押しつけた。
――独りで進むな。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
地下書庫を出ると夕暮れだった。
焼け落ちた屋根の穴から。
西の空が見えた。
茜色、だった。
くすんでいた空が。
夕日に染められて。
燃えるような茜色に。
その茜色の西の空の果てに。
山が見えた。
ルーメリアの都のさらに西。
灰の荒野のその向こうに。
黒い切り立った山の影。
その頂に。
何かが光っていた。
夕日を受けて。
茜色に。
燃えるように。
「……黄昏の神殿」
ディートリヒさんが、杖をついて、僕の隣に立った。
「……ルーメリアの民は、あの山をこう呼んでおりました。
『終わりの山』と」
ディートリヒさんの澄んだ目が。
茜色の神殿を見つめていた。
「……日が沈む場所。
一日が終わる場所。
……そして、三百年前、四人の若者の旅が終わった場所」
風が吹いた。
灰が舞い上がった。
茜色の夕日の中で。
灰が。
金色に輝いて。
雪のように。
降りしきっていた。
その金色の灰の向こうで。
黄昏の神殿が。
燃えていた。




