第44話「灰の荒野」
第44話「灰の荒野」
西へ進むほどに、世界から色が抜けていった。
セイレンを発って、五日目。
緑の丘陵は、いつの間にか、なだらかな、黄土色の起伏に変わっていた。
草は背が低く硬く乾いて、風に吹かれるたびに、
からからと、骨が鳴るような、乾いた音を立てた。
七日目には、その草さえも、まばらになった。
地面はひび割れた、灰色の土になった。
空は晴れていた。
けれど、その青さはどこか、薄く白っぽく、
埃を被ったように、くすんでいた。
「……ルーメリア荒野」
馬上で古賀が羊皮紙の地図を広げながら言った。
「十年前までは、この辺りは、一面、麦畑だったんだって。
ルーメリア王国。
大陸で一番豊かな穀倉の国」
古賀は、地図の上のある一点を指でなぞった。
「……魔王が最初に滅ぼした国だよ」
街道の脇に。
黒いものが転がっていた。
最初は、岩かと思った。
近づいて分かった。
石臼、だった。
麦を挽く大きな石の臼。
それが半分に割れて。
黒く焼け焦げて。
灰色の土の上に、打ち捨てられていた。
その向こうに。
石垣の跡があった。
家の土台の跡。
井戸の跡。
崩れた石の柱が、何本も、灰色の土から、墓標のように、突き出していた。
村、だった。
十年前までは。
「……ここに人が住んでたのか」
剛が御者台の上で低くつぶやいた。
風が吹いた。
灰色の土が舞い上がった。
いや。
土ではなかった。
灰、だった。
十年前にこの村を焼いた炎のその灰が。
十年経ってもまだ。
この荒野の土の中に混じっていた。
風が吹くたびに。
舞い上がって。
僕たちの外套に。
髪に。
睫毛に。
降り積もった。
シロガネが、くしゃみをした。
それから、鼻を低く地面に近づけて。
長い間、何かの匂いを嗅いでいた。
金色の瞳が。
悲しそうに。
揺れていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
八日目の昼。
荒野のなだらかな丘を越えたとき。
丘の向こうの窪地に。
動くものが見えた。
荷車、だった。
五台。
いや、六台。
粗末な木の荷車が一列に並んで、
灰色の窪地を、ゆっくりと進んでいた。
荷車を引いているのは、痩せたロバと人。
荷台の上に、布の包みと、壺とそして、子どもたちが乗っていた。
その周りを、二十人ほどの大人たちが歩いていた。
痩せていた。
誰もが。
頬がこけ。
服は擦り切れ。
足には、布を巻きつけただけの。
「……難民、だ」
エレオノーラさんが、眉をひそめた。
「……ルーメリアの生き残りでしょうか」
そのとき。
シロガネが唸った。
鼻を地面ではなく。
空へと向けて。
銀色の毛並みが、首筋から背中まで一斉に逆立った。
僕は、空を見上げた。
薄く白っぽくくすんだ青空。
その西の空の果てに。
黒い点が。
いくつも。
浮かんでいた。
鳥、ではなかった。
鳥にしては、大きすぎた。
鳥にしては速すぎた。
黒い点が。
みるみるうちに。
大きくなっていった。
翼が見えた。
蝙蝠のような。
皮膜の翼。
長い首。
長い尾。
――飛竜、だった。
ワイバーン。
一頭。
三頭。
五頭。
十頭。
そして、その背中に。
何かが乗っていた。
小さな灰色の影。
ゴブリン、だった。
槍を持っていた。
弓を持っていた。
その十頭の飛竜の群れの先頭に。
一頭だけ。
ひときわ、巨大な飛竜がいた。
他の飛竜の倍はある。
その皮膜の翼は、黒く夜の闇をそのまま、
切り取って、広げたようだった。
その背中に。
人の形をした、何かが乗っていた。
黒い甲冑。
その背中から。
もう一対の。
翼が。
生えていた。
人の背中から。
黒い、鴉のような羽毛の翼が。
飛竜の群れが。
窪地の難民たちの真上へと。
急降下を。
始めた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――剛ッ!」
「――分かってるッ!」
剛が幌馬車の御者台から飛び降りた。
丘の斜面を、窪地へと駆け下りていった。
銀の鎧が灰色の土を蹴散らした。
僕も、馬から飛び降りた。
アルベルトさんの鋼の剣を、抜いた。
左腕はまだ、包帯の下で疼いていた。
けれど、もう、握れないほどではなかった。
エレオノーラさんが、馬上のまま、剣を抜いて、丘を駆け下りていった。
窪地の難民たちが。
空を見上げて。
悲鳴を上げていた。
子どもたちが、荷台の上で、泣き叫んでいた。
大人たちが、荷車を捨てて、逃げ惑っていた。
けれど、窪地には逃げ場がなかった。
四方をなだらかな丘に、囲まれた灰色の窪地。
その真ん中で。
二十人あまりの難民たちが。
空から降ってくる黒い影を。
ただ、見上げていた。
最初の飛竜が。
窪地の真上に到達した。
その背中のゴブリンが。
槍を投げ下ろした。
一本の槍が。
荷台の上の子どもの真上へと。
「――【城壁】ッ!」
青い光が。
窪地に。
爆ぜた。
剛が荷車の列の真ん中に、盾を突き立てていた。
けれど。
今度の壁は、横に伸びなかった。
上へ。
青い光の膜が。
剛の盾から。
天に向かって。
傘のように。
広がっていった。
荷車の列を。
難民たちを。
丸ごと。
覆い尽くす。
青い光の天蓋。
ゴブリンの槍が。
天蓋に当たった。
弾かれた。
青い光の破片が散った。
「――上もッ! 守れるッ!」
剛が叫んだ。
額に汗が浮かんでいた。
盾を握る腕が震えていた。
「――難しいことは分からんがッ!
壁は、横にしか、張れないなんて誰が決めたッ!」
二頭目の飛竜が。
天蓋の上に降り立った。
鉤爪が青い光の膜を掻いた。
膜が軋んだ。
三頭目。
四頭目。
飛竜たちが。
青い天蓋の上に。
次々と降り立った。
その重さで。
天蓋が。
たわんだ。
剛の膝が。
灰色の土に。
沈んだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――白峰殿ッ! 天蓋の上をッ!」
エレオノーラさんが叫んだ。
天蓋の上に降り立った四頭の飛竜。
その鉤爪が、青い膜を掻き毟っていた。
背中のゴブリンたちが、槍で膜を突いていた。
――剛一人ではもたない。
天蓋の縁へと走った。
青い光の膜は、剛の盾から、傘のように、広がっていた。
その縁は、地面すれすれまで、垂れ下がっていた。
その縁を。
蹴った。
青い光の膜は、硝子のように硬かった。
けれど、足の裏に。
金色の光が宿っていた。
天蓋を。
駆け上がった。
青い、透き通った光の斜面の上を。
足元の光の膜のその下に。
怯えて、身を寄せ合う、難民たちの姿が見えた。
子どもたちの見上げる目が見えた。
天蓋の頂へ。
一頭目の飛竜が。
僕に気づいた。
長い首をこちらへ振り向けた。
裂けた口が開いた。
鋸のような牙。
その奥から。
腐った肉の生臭い息。
背中のゴブリンが。
槍を構えた。
――来る。
飛竜の首が、鞭のようにしなった。
牙が僕の頭を噛み砕こうと。
体を沈めた。
牙が頭上の空気を噛んだ。
そのしなった首の付け根。
皮膜の翼と、胴体が繋がる場所。
息を吐く。
肩の力を抜く。
親指はここ。
小指で締める。
アルベルトさんの鋼の剣が。
くすんだ空の光を、一筋の銀の糸に変えて。
翼の付け根を。
断った。
飛竜が。
絶叫した。
――ギィィィィィィアアアアッ!
片方の翼を失った飛竜の巨体が。
天蓋の上で。
大きく傾いた。
背中のゴブリンが、振り落とされた。
飛竜の体が、天蓋の斜面を、滑り落ちていった。
縁から灰色の土の上に転がり落ちた。
二頭目。
「――白峰氏ッ! 左ッ!」
古賀の声が、丘の上から響いた。
左から。
二頭目の飛竜の尾が。
鞭のように。
唸りを上げて。
――間に合わない。
その尾の前に。
銀色の影が。
跳んだ。
シロガネ。
天蓋の縁を蹴って。
宙を舞って。
飛竜の尾に。
牙を立てた。
尾の軌道が逸れた。
僕の脇腹のわずか一寸外を。
通り過ぎていった。
シロガネが、尾に牙を立てたまま。
振り回された。
銀色の体が、宙で弧を描いた。
「――シロガネッ!」
シロガネが、牙を離した。
宙に投げ出された。
その落ちていく先に。
栗毛の馬が、駆け込んでいた。
エレオノーラさんが、馬上から片腕を伸ばして。
落ちてくるシロガネの体を。
抱き止めた。
「――無茶をしますね、あなたもッ!」
エレオノーラさんが叫んだ。
その声が笑っていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
三頭目。
四頭目。
天蓋の上で。
僕は、剣を振るい続けた。
飛竜の牙をかわした。
鉤爪を流した。
翼の付け根を断った。
一頭、また一頭と。
飛竜が天蓋の上から、転がり落ちていった。
天蓋の下で、剛が叫び続けていた。
「――まだだッ! まだ持つぞッ!」
丘の上で古賀が叫び続けていた。
「――右から二頭! 高度を、下げてる! 次の急降下、来るッ!」
窪地の荷車の陰で。
澪さんが逃げ遅れて、槍に脚を裂かれた難民の男の、手当てをしていた。
「――大丈夫。助かります。動かないで」
難民たちが。
青い天蓋の下で。
空を見上げていた。
天蓋の上で、飛竜と戦う僕の姿を。
一人の小さな女の子が。
荷台の上で。
両手を胸の前で握りしめていた。
その唇が。
何かをつぶやいていた。
――がんばって。
胸のポケットが。
熱くなった。
――灯を分かつ。
剣が。
金色に灯った。
その光が。
天蓋の上から。
青い光の膜を通して。
下の剛の盾へと。
流れ込んでいった。
剛の青い天蓋が。
金色の光を帯びた。
たわんでいた膜が。
押し戻された。
天蓋が。
もう一度。
大きく丸く。
膨らんだ。
「――おおッ! 軽くなったぞッ!」
剛が叫んだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
そのとき。
空が。
暗くなった。
雲ではなかった。
影、だった。
巨大な黒い影が。
天蓋の真上を。
覆っていた。
見上げた。
あの、ひときわ巨大な飛竜だった。
他の飛竜の倍はある。
夜の闇を切り取ったような、黒い皮膜の翼が。
天を覆い尽くすように広がっていた。
その背中に。
人の形をした、何かが立っていた。
黒い甲冑。
その背中から生えた、鴉のような黒い羽毛の翼。
頭には兜。
その兜の面頬の奥から。
赤い目が二つ。
僕を見下ろしていた。
「――ほう」
声が降ってきた。
低く。
乾いていて。
けれど、どこか、愉しげな。
「――鉄角を屠ったのは貴様か」
人の言葉、だった。
グラズと同じ。
「――灯の候補」
黒い翼の甲冑の男が。
飛竜の背中から。
ゆっくりと。
宙に浮かび上がった。
自分の背中の黒い翼で。
飛竜の背中を離れて。
宙に浮かんだまま。
天蓋の上の僕を。
見下ろしていた。
「――魔王軍、第二の魔将。影翼のザハル」
男が名乗った。
「鉄角グラズとは、三百年、同じ主に仕えてきた。
……奴は、粗暴で愚かで、口の利き方も知らぬ男だった」
ザハルの赤い目が。
細くなった。
「――だが、私の友だった」
ザハルの腰から。
一振りの剣が抜かれた。
黒い剣。
刃のその表面に。
鴉の羽根のような、細かな紋様が刻まれていた。
「――今日は挨拶だけだ」
ザハルが言った。
「我が主の御命令でな。灯の候補の顔を、見てこいと」
ザハルの剣が。
天蓋の上の僕に向かって。
すっと。
振り下ろされた。
――遠い。
宙に浮かぶザハルと、天蓋の上の僕との間には。
十歩以上の距離があった。
剣が届くはずがなかった。
けれど。
剣の軌跡から。
黒いものが。
放たれた。
羽根、だった。
黒い鴉の羽根。
何百枚もの。
ザハルの剣の一振りから。
雨のように。
嵐のように。
天蓋の上の僕へと。
降り注いできた。
――刃、だ。
一枚一枚が。
鋼の刃。
剣を掲げた。
金色の光が。
剣から。
広がった。
羽根の刃が。
金色の光に。
叩きつけられた。
一枚。
十枚。
百枚。
鋼が鋼を叩く甲高い音が。
雨音のように。
絶え間なく。
降り注いだ。
金色の光が。
削られていった。
羽根の刃が。
光を一枚ずつ剥ぎ取るように。
腕が。
痺れた。
膝が。
天蓋の上に落ちた。
「――白峰殿ッ!」
羽根の刃の嵐が。
止んだ。
天蓋の上に。
黒い羽根が。
何百枚も。
散らばっていた。
僕の外套が。
袖が。
裾が。
無数の細かな切り傷で。
ずたずたに裂けていた。
けれど。
体には。
届いていなかった。
金色の光が。
最後の一枚まで。
守り切っていた。
宙で。
ザハルが。
剣を下ろしていた。
その赤い目が。
わずかに。
見開かれていた。
「――……ほう」
ザハルの声が。
低くなった。
「……我が羽根を、すべて防いだか」
ザハルはしばらく。
宙に浮かんだまま。
僕を見下ろしていた。
それから。
剣を鞘に収めた。
「――よかろう」
ザハルの黒い翼が。
大きく羽ばたいた。
「挨拶は済んだ。
……灯の候補。
貴様は、黄昏の神殿へ、向かっているのだろう」
僕は答えなかった。
「――ならばそこで待っている」
ザハルの体が。
宙を舞い上がった。
巨大な飛竜の背中へと。
戻っていった。
「――三百年前のあの男と、同じ灯を持つ者よ。
……我が主がなぜ、貴様を待っておられるのか。
黄昏の神殿で知るがいい」
巨大な飛竜が。
翼を羽ばたかせた。
残っていた飛竜たちが。
その後に続いた。
黒い影の群れが。
西の空へと。
遠ざかっていった。
くすんだ、白っぽい空のその果てに。
黒い点となって。
消えていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
天蓋の上から滑り降りた。
剛が盾を地面に突き立てたまま、膝をついていた。
青い光が消えた。
剛は、灰色の土の上に仰向けに倒れた。
「……上も守れたな」
剛が空を見上げて笑った。
「……難しいことは、分からんが。壁は、横だけじゃ、ないんだな」
荷車の陰から。
難民たちが。
一人、また一人と。
這い出してきた。
誰も、何も言わなかった。
ただ。
灰色の窪地の真ん中に立つ僕たちを。
信じられないものを、見るように。
見つめていた。
荷台の上の小さな女の子が。
荷台から飛び降りて。
僕のほうへ。
走ってきた。
痩せた小さな女の子。
擦り切れた服。
足に巻いた布。
灰で汚れた顔。
その女の子が。
僕のずたずたに裂けた外套の裾を。
両手で。
ぎゅっと。
握りしめた。
それから。
顔を上げた。
「……ほんもののゆうしゃさま?」
僕は、その女の子の前に、しゃがみ込んだ。
「……候補、なんだ。本物かどうかは、まだ分からない」
女の子は、きょとんと首をかしげた。
それから。
灰で汚れた顔で。
にっと。
笑った。
「……じゃあ、こうほのゆうしゃさま」
背後で。
難民たちの中から。
一人の老人が。
杖をついて。
歩み出てきた。
白い髭を胸まで垂らした痩せた老人。
擦り切れた、けれど、かつては上等だったと分かる、深い紺色の長衣。
その胸に色褪せた銀の徽章。
本と羽根ペンを組み合わせた紋章。
「……灯の候補、と魔将は申しましたな」
老人の声は、しわがれていた。
けれど、その目は鋭く澄んでいた。
「……わしはディートリヒ。
かつて、ルーメリア王国の王立書庫の書庫番を、務めておった者です」
老人は杖を、灰色の土に突き立てた。
「――三百年前の灯の勇者のことを、知りたいのでしたら。
……ルーメリアの都の王立書庫のその地下に。
誰にも、読まれることなく、眠っている記録がございます」
風が吹いた。
灰が舞い上がった。
老人の澄んだ目が。
西の空を。
魔将ザハルが、消えていったその空を。
じっと見つめていた。
「……ルーメリアが、滅ぼされたのは。
魔王があの記録を、消し去るためだったのではないかと。
……わしは十年間、ずっとそう、疑っておるのです」




