第43話「水晶越しの、ごめん」
第43話「水晶越しの、ごめん」
その夜、オーダさんの家の屋根裏部屋は、狭かった。
僕とエレオノーラさんと、剛と澪さんと古賀。
シロガネ。
そして、桐生。
七つの影が、小さな卓の上の水晶の欠片を囲んでいた。
桐生は、卓から一番遠い壁際に座っていた。
膝を抱えていた。
崖の上では、あれほど、晴れやかに笑ったのに。
今は、また前髪の奥に目を隠していた。
その指先が、小刻みに震えていた。
「……やっぱ、いい」
桐生が掠れた声で言った。
「……今日じゃ、なくても」
「桐生」
「……王都に着いてからでも。……会って、直接、言ったほうが」
「――それもいいと思う」
僕はうなずいた。
「でも、王都に着くまでひと月はかかる。
その間ずっと今みたいに首の、
何もなくなった場所を触り続けるの?」
桐生の指が。
ぴたりと止まった。
無意識だったのだろう。
崖の上からずっと。
桐生の指は、首の黒い蛇の紋様があった場所を。
何度も、何度もなぞり続けていた。
「……っ」
桐生は、指を膝の上で握りしめた。
「……分かったよ」
水晶の欠片に、淡い光が灯った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
『――……繋がってるかい坊や』
ヴェルダさんの声。
「はい。ヴェルダさん、今日は、二つ、お伝えしたいことがあります」
『……ああ。
昼間に王女様から、短い報せをもらったよ。
依頼状の封蝋のことだろう』
ヴェルダさんの声が、低くなった。
『……バルトロに伝えた。
あの宰相が、あんな顔をするのを、あたしは、三十年で初めて見たよ』
「……ドルマン侯爵の紋章で間違いないと」
『封蝋の跡だけじゃ、侯爵を罪には問えない。
誰かが侯爵家の封蝋を、盗んで使ったと言われれば、それまでさ。
……でも、バルトロはもう腹を括ってる。
侯爵の周りを、徹底的に洗うそうだ』
それから、ヴェルダさんの声が、少しだけ柔らかくなった。
『――で二つ目は』
僕は振り返った。
壁際の桐生が。
膝を抱えたまま。
びくりと肩を震わせた。
「……ヴェルダさん。三枝さんは、近くにいますか」
水晶の向こうが静まり返った。
それから。
『……ああ。いるよ』
ヴェルダさんの声が、優しくなった。
『昼間の王女様の報せに、書いてあったからね。
「今夜、三枝殿を塔に」って。
……嬢ちゃん、夕方からずっとここで待ってたよ。
一言も喋らずに』
壁際で。
桐生の膝を抱える腕が。
震えていた。
『――ほら、嬢ちゃん。こっちにおいで』
水晶の向こうで、椅子を引く音がした。
誰かの足音。
小さな遠慮がちな足音。
そして。
『……し、白峰、くん……?』
三枝さんの声だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「……三枝さん。久しぶり」
『……お、お久しぶり、です……。み、みんな無事でよかった……』
三枝さんの声が震えていた。
『……あ、あの……ヴェルダ様から……き、聞きました……。そ、その……』
三枝さんの声が途切れた。
僕は、水晶の欠片を両手で持ち上げた。
それから。
壁際の桐生の前に歩いていった。
桐生の前にしゃがみ込んだ。
水晶の欠片を。
桐生の膝の上に。
そっと。
置いた。
桐生は動かなかった。
膝を抱えたまま。
前髪の奥の目が。
膝の上の淡く光る水晶の欠片を。
見下ろしていた。
その唇が。
何度も、何度も震えた。
屋根裏部屋の誰もが、息を止めていた。
剛も。
エレオノーラさんも。
澪さんも。
古賀も。
シロガネさえも。
窓の外で。
潮騒が。
寄せては返していた。
長い。
長い。
沈黙。
それから。
「……三枝」
桐生の声が。
掠れて。
こぼれ落ちた。
水晶の向こうで。
三枝さんが。
息を呑む音がした。
『……き、桐生、くん……』
「……ああ」
『……い生きてた……』
三枝さんの声が。
崩れた。
『……い、生きてた……生きてたんだ……。
よ、よかった……。
よかった……』
水晶の向こうから。
嗚咽が。
聞こえてきた。
桐生の膝を抱える腕が。
ほどけた。
両手で。
膝の上の水晶の欠片を。
包み込んだ。
その手が。
震えていた。
「……三枝」
『……うん……』
「……王都の水門」
桐生の声が震えた。
「……あれ、俺だ」
水晶の向こうの嗚咽が。
止まった。
「……黒蛇の頭目に、鍵を渡されて。
……総攻撃のときに、格子を上げた。
半分だけ。
……魔物が入ってきて。
……お前が一人で結界を張ってた」
桐生の前髪の奥から。
涙が。
水晶の欠片の上に。
ぽたりと。
落ちた。
「……屋根の上から見てた。
お前が子どもたちの前で、光の壁を張って。
膝を震わせながら。
……ずっと張り続けてるのを。
……俺は、見てることしかできなかった。
……逃げた」
桐生の肩が。
激しく震えた。
「……お前俺を見ただろ。
屋根の上の俺を。
……なのに、誰にも言わなかったんだろ」
『……うん……』
「……なんでだよ」
『……だ、だって……』
三枝さんの声が。
震えながら。
けれど、はっきりと。
水晶の向こうから届いた。
『……き、桐生くんが……自分で、
言いたいんじゃないかなって……思ったから……』
桐生の息が。
止まった。
『……わ、私も……ずっと嫌だって、言えなかったから……。
し、志賀くんに……ずっと……。
……で、でも……白峰くんが……待っててくれたから……言えたの……。
じ自分で……』
三枝さんの声が。
少しずつ。
震えが収まっていった。
『……だ、だから……私も……待ってようって……。
き、桐生くんが……自分で、言えるときまで……』
桐生は。
水晶の欠片を。
胸に。
抱きしめた。
前髪の奥の目が。
固く閉じられていた。
その目から。
涙が。
止めどなく。
流れ落ちていた。
「……三枝」
『……うん』
「――ごめん」
その一言が。
屋根裏部屋の狭い空間に。
静かに。
響いた。
「……ごめん。……本当に……ごめん……」
水晶の向こうで。
三枝さんが。
泣いていた。
けれど。
その泣き声は。
さっきまでとは。
少しだけ。
違う色をしていた。
『……うん……』
『……ちゃ、ちゃんと……聞いた……よ……』
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どれくらいそうしていただろう。
水晶の向こうの嗚咽が。
少しずつ。
静まっていった。
『……き、桐生くん』
三枝さんの声が。
涙の跡を残しながらも。
はっきりとしていた。
「……ああ」
『……お、王都に来るの?』
「……自首する。
水門のことも黒蛇のことも全部、話す。
……どんな罰でも受ける」
『……そ、そっか』
少しの沈黙。
それから。
『……じゃ、じゃあ……待ってる』
桐生が。
顔を上げた。
『……つ償いが終わったら……。
い一緒に……王都を守ろう?
……わ、私の結界と……き、桐生くんの……影で』
桐生の赤く腫れた目が。
大きく。
見開かれた。
『……み、みんなが……帰ってくる場所を……』
桐生は。
しばらく。
何も言えなかった。
それから。
震える唇で。
小さく。
けれど、確かに。
「……ああ」
と。
答えた。
水晶の光が。
薄れ始めた。
『――時間だよ、嬢ちゃん』
ヴェルダさんの優しい声。
『……ま、待ってるから……! き、桐生くん……! 待ってるから……!』
光が。
消えた。
桐生は。
光の消えた水晶の欠片を。
両手で胸に抱きしめたまま。
長い間。
動かなかった。
それから。
ゆっくりと。
顔を上げた。
前髪が。
涙で額に張りついていた。
その奥の目が。
初めて。
何も隠さずに。
僕たちを。
見ていた。
「……白峰」
「うん」
「……首、軽いな」
桐生は。
泣きながら。
笑った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
翌朝。
セイレンの港の岸壁に。
一艘の大きな帆船が舫われていた。
東へ向かう交易船だった。
リンドールを経由して、王都へと向かう。
その船に桐生は乗ることになった。
セイレンの衛兵隊長と、二人の衛兵が、その護送につくことになった。
「黒蛇の追っ手が来るかもしれん。
……だが、安心しろ。
この船の船乗りは、みんな海喰らいの朝に、銛を握った連中だ」
衛兵隊長は、そう言って笑った。
岸壁に人が集まっていた。
オーダさん。
カイルさん。
漁師たち。
「……あんたが海喰らいの目に、短剣を投げた奴かい」
オーダさんが、櫂を杖にして、桐生の前に立った。
潮風に削られた深い皺の顔で。
桐生をじっと見上げた。
桐生はうつむいた。
「……はい」
「……そうかい」
オーダさんは、しばらく黙っていた。
それから、懐から小さな貝殻を取り出した。
白くて、渦を巻いた巻き貝の殻。
「……セイレンのお守りさ。海で、迷わないようにってね」
オーダさんは、その貝殻を、桐生の手に押しつけた。
「……あんたがこれからどこへ行って、
どんな罰を受けるのかは知らない。
でもね。
この町の連中は、あの朝のことを忘れないよ。
崖の上から飛んできた、黒い短剣のことを」
桐生は、貝殻を握りしめた。
その手が震えていた。
「……ありがとう、ございます」
カイルさんが、木の義足で、岸壁を踏みしめながら僕の前に来た。
「……俺は、潮読みの船頭になる」
カイルさんは、海を見つめた。
「足一本じゃ、網は引けない。
でも、舵は握れる。
潮は読める。
……この海で一番、潮を読める船頭になる。
それで若い連中に教えるんだ。
海喰らいみたいな化け物が、また来ても、誰も沈まないように」
「……うん。カイルさんなら、なれる」
「……あんたに言われると、本当になれる気がするから不思議だな」
カイルさんは、小さく笑った。
それから、右手を差し出した。
日に焼けた節くれだった漁師の手。
僕は、その手を握った。
「……また来いよ。
候補の勇者。
……今度は魚を、腹いっぱい食わせてやる」
「うん。約束」
胸のポケットが。
ふわりと温かくなった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
交易船の渡し板の前で。
桐生が立ち止まった。
振り返った。
僕を見た。
エレオノーラさんを。
剛を。
澪さんを。
古賀を。
シロガネを。
「……柚木」
桐生が澪さんを呼んだ。
「……リンドールで。
ヴィゴの刃を弾いたとき。
……本当は、もっと早く動けたんだ。
……迷ってた。
……ごめん」
澪さんは、少しだけ目を丸くした。
それから。
小さく首を横に振った。
「……弾いてくれた。それで十分」
「……古賀」
「……なに」
「……短剣の柄の文字。……読んでくれて、ありがとな」
古賀は、眼鏡を押し上げた。
「……お約束、でしょ」
古賀の目が、少しだけ赤かった。
「……大河内」
「おう」
「……崖の上で壁、張ってくれて」
「難しいことは分からんが。壁は、得意だ」
剛は、にっと笑った。
「――王都に帰ったら。
東門の守備隊に来いよ。
影と壁。
いい組み合わせだと思わんか」
桐生は、少しだけ笑った。
それから。
エレオノーラさんの前で、深く頭を下げた。
「……王女殿下。
……王都の水門で、あなたの国の民を、危険に晒しました。
……申し訳、ありませんでした」
エレオノーラさんは、静かに桐生を見下ろした。
「……顔を上げなさい、桐生殿」
桐生が顔を上げた。
「あなたの罪は、王都の法が裁きます。
わたくしは、それを曲げることはできません。
……けれど」
エレオノーラさんは、一枚の書状を、桐生の手に渡した。
王家の紋章の封蝋。
「これは、父上と宰相バルトロに宛てた書状です。
セイレンでのあなたの働きを、すべて書き記しました。
海喰らいの目を射抜いたことも。
崖の上で呪印に抗い、白峰殿を守ったことも。
……黒蛇の依頼状を、奪い取ったことも」
エレオノーラさんの青い瞳が、わずかに和らいだ。
「法は、罪を裁きます。
けれど、法は、その者が罪の後に、何をしたかも見るものです」
桐生は、書状を両手で受け取った。
その手が震えていた。
最後に。
桐生は、僕の前に立った。
「……白峰」
「うん」
「……志賀のこと」
桐生の声が、少しだけ低くなった。
「……あいつ本当は悪い奴じゃ、ないんだ。
……俺を助けてくれたのは本当だから」
「……うん。知ってる」
「……でも、今のあいつは何か、おかしい。
……『使えねえ奴はいらねえ』なんて、
高校の頃の志賀なら、絶対に言わなかった」
桐生は、僕をまっすぐに見た。
「……もし、あいつに会うことがあったら」
「……うん」
「……止めてやってくれ」
僕はうなずいた。
「……約束する」
胸のポケットが。
熱くなった。
桐生は、渡し板を渡っていった。
船の上で一度だけ振り返った。
前髪が潮風に煽られて。
その目が。
はっきりと。
見えた。
もう。
何も。
隠していなかった。
帆が風を孕んだ。
交易船が岸壁を離れていった。
入り江の口を抜けて。
東の朝日の中へと。
小さく。
小さく。
なっていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その日の午後。
僕たちも、セイレンを発った。
西へ。
四神殿の三つ目。
黄昏の神殿へ。
街道の最後の丘の上で。
振り返った。
セイレンの港が見えた。
入り江に漁船が何十艘も、帆を張って浮かんでいた。
白い漆喰の壁と、赤茶けた瓦屋根の家々が、午後の陽光の中で輝いていた。
市場の賑わいが、風に乗って、かすかに届いていた。
港の一番高い崖の上に。
人影が二つ見えた。
櫂を杖にした小柄な老婆と。
木の義足の若い男。
二人が。
大きく。
手を振っていた。
僕も。
手を振り返した。
「……振り返るのは、一度だけでしたね」
隣でエレオノーラさんが、小さく笑った。
「……はい」
「……でも、今日は、もう一度だけ許しましょう」
僕たちはもう一度だけ。
手を振った。
それから。
前を向いた。
西の空が。
少しずつ。
茜色に染まり始めていた。




