第42話「呪印を断つ」
第42話「呪印を断つ」
最初に届いたのは、剛の手だった。
背中に。
肩甲骨のちょうど、真ん中に。
大きくて、分厚くて、温かい手のひらが、押し当てられた。
「――壁はここにいるぞ、陽翔ッ!」
その手のひらから。
何かが流れ込んできた。
灯、だった。
剛の灯。
王都の東門で、自分の体を門に変えた男の。
オルド村の坂道で、夜明けから、ずっと壁であり続けた男の。
セイレンの岸壁で、海喰らいの頭を、正面から受け止めた男の。
重くて、揺るがなくて、どこまでもまっすぐな灯。
次に。
右の肩に。
細くて、剣だこのある指先が触れた。
「――隣に立っています」
エレオノーラさんの灯。
三年間、夜明けとともに、剣を振り続けてきた王女の。
兄が一人で背負ったものを、二度と誰にも、
一人で背負わせないと誓った娘の。
凛として、鋭くて、けれど、その芯に震えるような、温かさを抱いた灯。
左の腕に。
刃が刺さったままの、その腕の肘のあたりに。
小さな冷たい、けれど、優しい手が添えられた。
「――治すから。何度でも」
澪さんの灯。
言葉より先に、手が動く薬師の。
傷ついた誰かの前に、いつも、黙って膝をついてきた娘の。
静かで柔らかくて、若葉のような灯。
そして、背中の剛の手のその隣に。
震える細い手が、押し当てられた。
「――お約束、だろッ!」
古賀の灯。
誰よりも早く、テンプレと現実のズレに気づいて。
それでも、目を逸らし続けて。
最後に、「くそくらえだ」と叫んだ男の。
不器用で臆病でけれど、一度灯ったら、決して消えない灯。
最後に。
足元に。
銀色の温かい体が、ぴたりと寄り添った。
シロガネ。
――独りで進むな。
誓約の灯。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
胸のポケットが。
爆ぜた。
ハルン村のときのように。
灰色峡谷のときのように。
いや。
それよりも、ずっと近くて。
ずっと濃くて。
ずっと確かな。
五人と一頭の灯が。
僕の胸の中で。
一つになった。
右手が。
燃えた。
桐生の首の、黒い蛇の紋様に、触れていたその右手から。
金色の光が。
迸った。
光はもう、滲み出すのではなかった。
溢れ出していた。
奔流となって。
桐生の首の黒い蛇へと。
蛇が。
悶えた。
身をよじり。
とぐろをほどき。
金色の光から逃れようと。
桐生の首の上を、狂ったように、這い回った。
けれど。
逃げ場は、なかった。
金色の光は、桐生の首のすべてを、包み込んでいた。
「――桐生ッ!」
叫んだ。
「――帰ってこいッ!」
桐生の白く濁った目が。
揺れた。
その奥で。
何かが。
もがいていた。
黒い冷たい、底なしの水の中から。
光の差す水面へと。
必死に。
手を伸ばしていた。
「――桐生、お前の手で掴めッ!」
剛が叫んだ。
「――あなたの意思で選びなさいッ!」
エレオノーラさんが、叫んだ。
「――桐生くん、戻ってきてッ!」
澪さんが叫んだ。
「――桐生ッ! 三枝さんに、ごめんって、自分で言うんだろッ!」
古賀が叫んだ。
その最後の一言が。
桐生の白く濁った目のその奥の。
もがいていた何かに。
届いた。
桐生の唇が。
動いた。
「……み……え……」
白く濁った目に。
光が戻った。
黒い瞳。
前髪の奥の。
赤く腫れた。
けれど、確かに桐生自身の。
その目が。
僕を見た。
そして。
桐生の左手が。
動いた。
見えない糸に、吊り上げられていたその体の中で。
ただ一つ。
桐生自身の意思で。
左手が。
僕の右手の上に。
重ねられた。
自分の首の。
黒い蛇の紋様を、押さえつけるように。
「――俺、は……ッ!」
桐生が叫んだ。
掠れた声で。
けれど、崖の上のすべての風を、突き抜けるように。
「――俺は黒蛇じゃないッ!」
「――俺は桐生翔だッ!」
――ぱきん、と。
澄んだ音が。
崖の上に。
響いた。
硝子の器を一つ、床に落としたような。
鈴を一つだけ鳴らしたような。
桐生の首の黒い蛇の紋様が。
砕けた。
黒い破片が。
金色の光の中に。
灰のように。
舞い上がって。
崖の上の海からの風に、吹き散らされて。
消えていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
桐生の体が。
糸を断たれた操り人形のように。
崩れ落ちた。
その体を両腕で受け止めた。
左腕の刺さったままの短剣が、傷口を抉って、激痛が走った。
構わなかった。
桐生の首に。
もう、何もなかった。
白い肌が。
朝の光の中に。
ただ、白くあった。
「……桐生」
桐生の目が。
薄く開いた。
「……白……峰……」
掠れた声。
「……首……軽い……」
桐生の目から。
涙が。
一筋。
こぼれた。
「……ずっと……重かったんだ……。……首の……ここが……ずっと……」
「……うん」
僕は、桐生を抱きしめた。
「……もう、大丈夫」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――ほう」
冷たい声が、崖の上に響いた。
頭目、だった。
崖の山道の出口に立ったまま。
掲げていた片手を、ゆっくりと下ろしていた。
その手のひらの黒い光は、消えていた。
「……呪印を外から砕いたか。
……三十年、黒蛇を率いてきたが、初めて見た」
フードの奥の見えない目が。
僕を見ていた。
「――灯の候補。なるほど。依頼主が、お前を恐れるわけだ」
頭目は、背後の黒い外套の男たちに、顎で合図した。
「――殺せ。全員だ」
二十の影が。
動いた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――【城壁】ッ!」
青い光が崖の上に爆ぜた。
剛が僕と桐生の前に、盾を突き立てていた。
青い光の壁が、崖の先端の、岩を囲むように、半円を描いて、立ち上がった。
黒い外套の男たちの最初の刃が。
壁に叩きつけられた。
火花ではなく。
青い光の破片が。
飛び散った。
「――澪ッ! 陽翔の腕をッ!」
「――分かってるッ!」
澪さんが僕の左腕の前に膝をついた。
刺さったままの、黒い短剣の柄を見つめた。
「……抜くよ。痛いけど、我慢して」
「……うん」
澪さんの手が、柄を握った。
一息に。
引き抜いた。
――視界が白く弾けた。
声は、出さなかった。
歯を食いしばった。
奥歯が軋んだ。
澪さんの手が、すぐに傷口に布を押し当てた。
薬草の冷たい感触。
その上から、包帯がきつく巻かれていった。
「……骨には、届いてない。でも、深い。……左腕で、剣は握らないで」
「……右手だけで十分」
「……ばか」
澪さんは、包帯の端をきゅっと結んだ。
その間にも。
青い壁の向こうで、刃が叩きつけられ続けていた。
「――エレオノーラ殿ッ! 左ッ!」
古賀が叫んだ。
「――三人、回り込んでくるッ!」
「――承知ッ!」
エレオノーラさんが、青い壁の左端から躍り出た。
細身の剣が、朝日の中で、光の糸を描いた。
一人目の鉈を流した。
返す刃で手首を打った。
鉈が宙を舞った。
二人目の短剣を、半歩でかわした。
その膝の裏を、剣の腹で払った。
男が崖の上の草に崩れ落ちた。
三人目が背後から。
銀色の影が跳んだ。
シロガネが、三人目の男の腕に、牙を立てた。
骨までは、噛まなかった。
けれど、その牙は、男の手から刃を、落とさせるには十分だった。
僕は、立ち上がった。
右手でアルベルトさんの鋼の剣を、抜いた。
左腕は、包帯の下で、脈打つように痛んでいた。
けれど。
胸のポケットの五人と一頭の灯は。
まだ燃えていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
そのとき。
雨の乱れが見えた。
――いや。
雨は、降っていなかった。
朝の晴れた空。
けれど。
崖の上の草が。
風とは、違う向きに。
一筋。
なびいた。
そのなびいた草の軌跡に沿って。
見えない何かが。
青い壁を回り込んで。
――澪さんへ。
「――柚木さんッ!」
叫ぶより先に。
体が動いていた。
澪さんの前に。
金属が噛み合う音。
ヴィゴの細い刃が。
僕の剣と。
交わっていた。
リンドールの雨の夜と同じだった。
針の先のように、全身の力が、一点に集められた重い刃。
けれど。
あの夜とは、違った。
右手だけで受けた。
それなのに。
腕が痺れなかった。
胸の中の五人と一頭の灯が。
右腕を支えていた。
「――ほう」
ヴィゴの乾いた声が、すぐ目の前で響いた。
「……片腕で受けたか。……リンドールの夜とは、別人だな候補の勇者」
ヴィゴの二振り目の刃が。
左から。
僕の傷ついた左腕を狙って。
――流せない。
左腕は、上がらない。
刃が迫った。
その刃の前に。
黒い影が。
滑り込んだ。
桐生、だった。
【影歩き】。
僕の左腕のその影から。
音もなく。
現れて。
その手の黒い短剣が。
ヴィゴの二振り目の刃を。
受け止めていた。
「――ッ!」
ヴィゴの目が。
初めて。
大きく見開かれた。
「……貴様……」
「……白峰の左は」
桐生が低く言った。
その声はもう、掠れていなかった。
震えても、いなかった。
「――俺が守る」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
それは、一瞬の連携だった。
言葉は、交わさなかった。
交わす必要もなかった。
僕の右の剣が。
ヴィゴの一振り目の刃を、押し返した。
桐生の黒い短剣が。
ヴィゴの二振り目の刃を、弾き上げた。
ヴィゴの両腕が。
左右に開いた。
その開いた胸の真ん中に。
隙が生まれた。
――剣は、守るために振れ。
僕は、剣を振るわなかった。
代わりに。
右肩から。
ヴィゴの胸に。
体ごと。
ぶつかった。
ヴィゴの体が。
後ろへ。
よろめいた。
その背後に。
崖の縁があった。
ヴィゴの踵が。
崖の縁の岩を踏み外した。
一瞬。
ヴィゴの体が。
宙に浮いた。
その目が。
僕を見ていた。
驚愕と。
そして。
ほんのわずかな。
笑み、だった。
「……甘い剣だ」
ヴィゴの唇が動いた。
「……だが。……その甘さに、負けたか」
ヴィゴの体が。
崖の下へと。
落ちていった。
二振りの細い刃が。
朝日を二度、照り返して。
その下の白く泡立つ海の中へ。
消えていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
崖の上が静まり返った。
黒い外套の男たちが。
刃を構えたまま。
凍りついていた。
黒蛇の最強の刺客が。
崖の下へと消えたのだ。
「……っ」
頭目が舌打ちをした。
それから。
フードの奥で、何かをつぶやいた。
頭目の体が。
影に。
溶け始めた。
【影歩き】。
桐生と同じ。
いや、桐生よりもずっと深く。
ずっと濃く。
「――逃がすかッ!」
桐生が。
黒い短剣を。
投げた。
一筋の黒い線が。
朝日の中を走った。
頭目の体が、完全に影に溶けるその直前。
短剣が。
頭目の外套の腰の。
革の小物入れを。
切り裂いた。
小物入れから。
何かがこぼれ落ちた。
崖の上の草の上に。
頭目の体は。
影の中に。
完全に消えた。
残された黒い外套の男たちが。
互いに顔を見合わせた。
それから。
一人、また一人と。
刃を捨てて。
崖の山道を、転がるように、逃げ出していった。
その山道の下から。
角笛が鳴り響いた。
「――セイレンの船乗りを、なめんなああッ!」
カイルさんの声、だった。
木の義足で。
銛を杖にして。
山道を駆け上がってきていた。
その後ろに漁師たちが。
銛を。
櫂を。
網を。
手に握りしめて。
何十人も。
逃げ出してきた黒い外套の男たちが。
漁師たちの網に、次々と絡め取られていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
崖の上の草の上に。
頭目の小物入れから、こぼれ落ちたものが、散らばっていた。
銀貨が数枚。
黒い蛇の紋章が刻まれた、指輪が一つ。
そして。
一枚の折り畳まれた羊皮紙。
エレオノーラさんが、それを拾い上げた。
広げた。
その手が。
止まった。
「……これは」
羊皮紙は、依頼状だった。
流麗なけれど、冷たい筆跡で。
こう書かれていた。
『灯の候補、白峰陽翔の抹殺を依頼する。
報酬は、前金として金貨五百枚。
成功の暁には、さらに千枚を』
署名は、なかった。
けれど。
羊皮紙の一番下に。
赤い、封蝋の跡が残っていた。
封蝋を剥がした跡。
その赤い蝋の、わずかに残った部分に。
紋章の一部が。
浮かび上がっていた。
鷲の翼。
そして、その翼の隣に。
もう一つの鷲の頭。
「……双頭の鷲」
エレオノーラさんの声が。
震えていた。
「……ドルマン侯爵家の紋章です」
崖の上の風が。
止んだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
崖の先端の岩の上に。
桐生が座っていた。
膝を抱えていなかった。
ただ、足を投げ出して。
海を見つめていた。
首に何度も、何度も指先で触れていた。
黒い蛇の紋様があった場所。
今は、ただの白い肌。
「……白峰」
桐生が言った。
振り返らずに。
「……俺、自首するよ」
僕は、桐生の隣に腰を下ろした。
「……水門のこと。全部、話す。黒蛇のことも。知ってること、全部」
桐生の声は、静かだった。
「……どんな罰でも、受ける。……それで、いつか」
桐生は、少しだけ黙った。
「……いつか、三枝に会えたら。自分で、言う。……ごめんって」
「……うん」
僕は、うなずいた。
「……今夜、ヴェルダさんの水晶で、王都と話せる。
……三枝さんも、呼んでもらえるかもしれない」
桐生の肩が。
びくりと震えた。
「……今夜、か」
「うん」
「……心の準備が」
「……一生、できないかもしれないよ」
桐生は、しばらく黙っていた。
それから。
小さく。
本当に小さく。
笑った。
初めて見る、桐生の笑顔だった。
「……お前ほんと変な奴だな」
「……最近、よく言われる」
海の上を。
カモメが一羽。
鳴きながら。
飛んでいった。




