第41話「崖の上の影」
『――……灯を持つ者しか、門を通れない、だって?』
水晶の欠片の向こうで、ヴェルダさんの声が、震えていた。
潮の神殿から戻った、その日の夜。
オーダさんの家の、屋根裏部屋。
五人で、水晶の欠片を、囲んでいた。
「はい。潮の神殿の、水の中に見えた、三百年前の記憶の中で。
暁の神殿の碑文の最後の一行に、そう書かれていたと」
『……暁の神殿の、碑文には、そんな一行は、なかったんだろう?』
「ありませんでした。……誰かが、削ったのかもしれません。三百年前に」
『……従者の手記の、破り取られたページと、同じか』
水晶の中の光が、揺れた。
長い、沈黙だった。
『……坊や。一つだけ、言っておくよ』
「はい」
『あんたは、それを、仲間に、話した。黙っていれば、誰にも、知られなかったことを』
ヴェルダさんの声が、少しだけ、柔らかく、なった。
『三百年前の勇者は、それが、できなかった。
……あんたは、できた。それだけで、三百年前とは、違う道を、歩いてる』
それから、ヴェルダさんの声が、また、低く、なった。
『――それと、王都のことだ。時間がないから、手短に言うよ』
「はい」
『ドルマン侯爵が、宮廷の貴族院で、動いてる。
「異界の者たちを、王家の手元にだけ置いておくのは、危険だ。
貴族院の管理下に置くべきだ」とね。
王都大侵攻の後、異界の者たちの力を、王家が独り占めしている、って言い分さ』
エレオノーラさんの顔が、強張った。
『陛下と、バルトロは、突っぱねてる。
だけど、東の貴族たちが、侯爵に、ずいぶん、なびいてるらしい。
宇佐美の坊やが言ってた、軍資金の話も、バルトロが、調べ始めてる。
……それから』
ヴェルダさんは、一度、言葉を切った。
『花菱の嬢ちゃんが、侯爵家の次男と、婚約したそうだよ。
来月、王都の侯爵邸で、婚約披露の夜会が、開かれる』
屋根裏部屋が、静まり返った。
「……花菱さんが」
剛が、かすれた声で、つぶやいた。
水晶の中の光が、薄れ始めた。
『……気をつけな、坊や。王都の外も、王都の中も。……今は、どこも、安全じゃない』
光が、消えた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
翌朝。
港の、一番高い崖の、その麓に、僕は、立っていた。
海喰らいの、左の目を、黒い短剣が射抜いた、あの崖。
崖の上へと続く、細い山道が、岩肌に、刻まれていた。
「……本当に、一人で行くのか」
背後で、剛が、言った。
エレオノーラさんと、澪さんと、古賀も、そこにいた。
「一人じゃないよ」
僕は、振り返った。
「シロガネも、一緒だし。それに、みんなも、ここにいる。崖の上と、ここなら、声は、届く」
「……そういう意味じゃ、ねえだろ」
「うん。分かってる」
僕は、少しだけ、笑った。
「でも、桐生は、たぶん、大勢の前には、出てこない。
……一人で、話をさせてほしいんだ。最初だけ」
剛は、しばらく、僕を、睨むように、見ていた。
それから、大きく、ため息を、ついた。
「……難しいことは、分からんが。何かあったら、すぐ、叫べ。
叫ばなくても、俺は、行くけどな」
「……うん。ありがとう」
エレオノーラさんが、何か、言いたそうに、唇を、動かした。
けれど、結局、何も言わずに、小さく、うなずいた。
澪さんは、僕の手に、薬草の布袋を、押しつけた。
「……一人分」
「……うん。誰にも、分けない」
「……ばか。分けていい。桐生くんが、怪我してたら」
僕は、布袋を、胸のポケットに、しまった。
職業札の、すぐ隣に。
シロガネと一緒に、崖の山道を、登り始めた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
崖の上は、風が、強かった。
海からの風が、崖の岩肌に、ぶつかって、吹き上げてくる。
潮の匂い。
草の匂い。
足元の、痩せた草が、風に、ちぎれそうなほど、なびいていた。
眼下に、セイレンの港が、見えた。
入り江に、漁船が、何十艘も、浮かんでいた。
帆を張って、沖へと、漕ぎ出していく船。
網を引いて、戻ってくる船。
市場の、賑わう声が、風に乗って、ここまで、かすかに、届いていた。
崖の、一番先端に。
大きな、岩が、一つ、突き出していた。
その岩の上に。
誰も、いなかった。
けれど。
シロガネが、唸らずに。
じっと、その岩の、影を、見つめていた。
「……桐生」
風が、吹いた。
「……ここに、いるんだろう」
返事は、なかった。
「……海喰らいの、左の目。あの短剣、桐生だよね。ありがとう。
あの一本がなかったら、僕は、海喰らいの口の中だった」
風だけが、吹いていた。
「……屋根裏部屋で、首の、呪印を、見た。……僕を殺さなかったから、締めつけられたんだよね」
岩の影が。
わずかに、揺らいだ。
「……桐生。僕は、桐生を、助けたい」
長い、沈黙だった。
それから。
岩の、影の中から。
声が、した。
「……なんで、だよ」
掠れた、声だった。
岩の影が、揺らいで。
その中から。
黒い外套の、細身の影が。
ゆっくりと、姿を、現した。
桐生、だった。
岩の上に、膝を抱えて、座っていた。
前髪が、風に、煽られて、その目元が、初めて、はっきりと、見えた。
ひどく、痩せていた。
頬が、こけていた。
目の下に、黒い隈が、刻まれていた。
そして、その目が。
赤く、腫れていた。
首の、外套の襟の下から。
黒い蛇の紋様が、わずかに、覗いていた。
「……なんで、俺を、助けたいなんて、言えるんだよ」
桐生の声が、震えた。
「……俺は、お前を、殺そうとしたんだぞ。屋根裏部屋で。首に、刃を当てたんだぞ。……それに」
桐生は、膝を抱える腕に、顔を、埋めた。
「……王都の、水門。……あれ、俺なんだよ」
風が、止んだ。
「……黒蛇の頭目に、鍵を、渡された。総攻撃のときに、西の水門の格子を、上げろって。
……俺は、上げた。半分だけ。……そしたら、魔物が、入ってきて。
……西区の、子どもたちの、すぐ近くまで」
桐生の肩が、震えていた。
「……子どもたちが、歌ってたんだ。避難の歌。
新井が作った、あの歌。……それを聞いて、止めようとしたけど、もう、止められなくて。
……逃げた。……三枝が、一人で、結界を張って、子どもたちを、
守ってるのを、屋根の上から、見てた。……見てることしか、できなかった」
桐生は、顔を、上げなかった。
「……三枝は、俺を、見たんだ。屋根の上の、俺を。……目が、合った。
……あいつ、俺だって、気づいてた。
……なのに、誰にも、言わなかったんだろ。……俺のこと」
「……うん」
僕は、うなずいた。
「三枝さんは、『見間違いだったかもしれない』って、言ってた」
「……っ」
桐生の、膝を抱える腕に、力が、こもった。
「……なんで、だよ。……なんで、みんな、そうなんだよ。
……三枝も。お前も。……俺なんか、庇う価値、ねえのに」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
僕は、岩の、麓に、腰を下ろした。
桐生と、同じ高さには、登らなかった。
ただ、その足元に、座った。
シロガネが、僕の隣に、伏せた。
「……桐生。一つ、聞いてもいい?」
「……」
「どうして、黒蛇に、入ったの」
桐生は、しばらく、黙っていた。
風が、また、吹き始めた。
「……高校のとき」
やがて、桐生が、ぽつりと、言った。
「……いじめられてたんだ。……理由なんか、知らない。
根暗だとか、気持ち悪いとか。……毎日、机に、落書きされて。靴を、隠されて。……殴られて」
桐生の声は、平坦だった。
感情を、押し殺しているような。
「……誰も、助けてくれなかった。先生も。クラスの連中も。みんな、見て見ぬふりだった」
桐生は、一度、言葉を切った。
「……ある日、校舎の裏で、三人に、囲まれてたとき。……志賀が、来たんだ」
僕は、黙って、聞いていた。
「……サッカー部の、エースで。クラスの中心で。
……俺なんか、一度も、話したこともなかった。
……なのに、あいつ、三人を、一睨みで、追い払って。俺に、手を、差し伸べて、言ったんだ」
桐生の声が、少しだけ、震えた。
「……『お前、根性あるな。三人相手に、一回も、泣かなかった』って」
風が、桐生の前髪を、揺らした。
「……それから、志賀の隣が、俺の居場所に、なった。
……志賀の隣にいれば、誰も、俺を、殴らなかった。
……大学も、志賀と、同じところを、選んだ。同じゼミを、選んだ」
桐生は、顔を、上げた。
海を、見つめた。
「……異世界に来て、暗殺者って、出たとき。
……嬉しかったんだ。……やっと、志賀に、恩返しが、できるって。
影から、志賀を、守れるって。
……暗殺者は、勇者より、強いんだって。
志賀が主人公なら、俺は、その影の、最強の剣になれるって」
桐生の唇が、歪んだ。
「……でも、ヴェルンで、黒蛇の男に、声をかけられて。
……強くなりたかった。志賀の役に、立ちたかった。
だから、黒蛇に、入った。呪印を、刻まれた。
……そしたら」
桐生は、首の、黒い蛇の紋様に、指先で、触れた。
「……リンドールで、お前に、灯の候補に、黒蛇の刺客を、差し向けるって、聞かされて。
……志賀に、助けてくれって、手紙を、書いた。……返事は、一行だけだった」
桐生の声が。
掠れて。
途切れた。
「――『使えねえ奴は、いらねえ』」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
海が、鳴っていた。
崖の下で。
寄せては、返す、波が。
岩に、砕けていた。
「……桐生」
僕は、立ち上がった。
岩の上の桐生を、見上げた。
「……志賀に、助けられたこと。それは、本当に、あったことだと思う。
志賀は、そういうところが、ある。……僕も、知ってる」
桐生の目が、揺れた。
「でも、志賀の隣にいるために、誰かを傷つけなきゃいけないなら。
……それは、桐生の、居場所じゃないと思う」
「……じゃあ、どこに、あるんだよ」
桐生の声が、叫ぶように、大きく、なった。
「……俺の、居場所なんか、どこにもねえよ……!
黒蛇を裏切ったら、呪印に、殺される……!
志賀には、捨てられた……!
王都の連中には、水門のことが、バレたら……! ……どこにも、ねえんだよ……!」
「――ここに、ある」
僕は、岩に、手を、かけた。
桐生と、同じ高さへ。
登った。
桐生の、隣に、立った。
「……三枝さんは、桐生のことを、誰にも、言わなかった。
……桐生が、自分で、言えるときまで、待ってるんだと思う」
桐生の目が、大きく、見開かれた。
「……リンドールで、柚木さんを、助けてくれた。
屋根裏部屋で、僕を、殺さなかった。海喰らいのとき、町の人たちを、助けてくれた。
……短剣の柄に、『白峰 逃げろ』って、刻んでくれた」
僕は、桐生に、手を、差し伸べた。
「……桐生の居場所は、志賀の影の中じゃない。
……桐生が、誰かを助けた、その場所が、桐生の居場所だよ」
桐生は、長い間。
僕の、差し伸べた手を。
見つめていた。
その手が。
膝を抱えていた、その腕が。
ゆっくりと。
ほどけて。
震えながら。
僕の手のほうへ。
伸びてきた。
指先が。
触れ――。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――感動的な、場面だな」
声が、した。
背後から。
冷たく。
静かで。
夜風よりも、なお、冷たい声。
桐生の手が。
凍りついた。
振り返った。
崖の、山道の、その出口に。
一人の男が、立っていた。
黒い外套。
目深にかぶった、フード。
その袖口から覗く、黒い蛇の刺青。
「……頭目」
桐生が、掠れた声で、つぶやいた。
黒蛇の、頭目。
その男の、背後の、山道から。
さらに、いくつもの、黒い影が。
次々と、崖の上へと、姿を現した。
十。
二十。
そして、その中に。
痩せた、背の高い影が、一つ。
両の腰に、二振りの、細い、反りのある刃を、吊っていた。
ヴィゴ。
「――言ったはずだ、小僧」
頭目の声が、崖の上に、静かに、響いた。
「しくじれば、お前の首が、飛ぶ、と」
頭目が。
片手を、ゆっくりと、掲げた。
その手のひらの上に。
黒い光が、灯った。
桐生の、首の。
黒い蛇の紋様が。
脈打った。
「――が、あ……ッ!」
桐生が、首を、押さえて、岩の上に、崩れ落ちた。
「――桐生ッ!」
駆け寄ろうとした。
その瞬間。
桐生の、体が。
跳ね起きた。
――違う。
跳ね起きたのでは、なかった。
引き起こされたのだ。
見えない糸に、吊り上げられるように。
桐生の体が、不自然な角度で、立ち上がった。
首が、だらりと、傾いていた。
前髪の奥の目が。
白く、濁っていた。
その右手に。
いつの間にか。
黒い短剣が。
握られていた。
「……ちが……う……」
桐生の唇から。
掠れた声が、漏れた。
「……体が……勝手に……」
「――呪印による、傀儡だ」
頭目が、静かに、言った。
「黒蛇の掟に背いた者は、その体を、黒蛇に、返してもらう。
……さあ、小僧。最後の、務めを、果たせ」
頭目の、黒い光が。
強く、なった。
桐生の体が。
動いた。
黒い短剣を、逆手に、構えて。
白く濁った目で。
僕に、向かって。
「――ッ、しら……みね……ッ!」
桐生の、唇だけが。
抗っていた。
「――逃げ……ろ……ッ!」
【影歩き】。
桐生の体が。
消えた。
僕の、すぐ、目の前に。
現れた。
黒い短剣が。
僕の、喉を。
――剣は、抜かなかった。
抜けば、桐生を、斬ってしまう。
代わりに。
左腕を、上げた。
黒い短剣の刃が。
僕の、左の前腕に。
深く。
突き刺さった。
熱い。
焼けた鉄を、押し込まれたような。
骨まで、届いたのが、分かった。
けれど。
喉には。
届かなかった。
桐生の、白く濁った目が。
すぐ、目の前に、あった。
その目の、奥で。
何かが。
叫んでいた。
僕は、刃の刺さったままの、左腕を、そのままに。
右手を。
桐生の、首に。
伸ばした。
黒い蛇の紋様に。
触れた。
――冷たい。
屋根裏部屋のときよりも。
ずっと。
ずっと。
冷たい。
体の中の、温かいものが。
手のひらから。
腕から。
胸から。
すべて、吸い込まれていく。
それでも。
「――桐生ッ!」
叫んだ。
「――帰ってこいッ!」
胸のポケットが。
燃え上がった。
――けれど。
足りなかった。
屋根裏部屋のときと、同じだった。
黒い蛇は、金色の光に、身をよじった。
とぐろを、わずかに、緩めた。
けれど、消えなかった。
頭目の、黒い光が。
さらに、強く、なった。
蛇が。
また。
締めつけ始めた。
桐生の首を。
そして、その首に触れている、僕の、手のひらを。
――一人分じゃ、足りない。
視界が。
暗く、なっていった。
そのとき。
「――白峰殿ッ!」
崖の、山道から。
声が、聞こえた。
「――陽翔ッ!」
「――白峰くんッ!」
「――白峰氏ッ!」
四つの声が。
崖の上に。
駆け上がってきた。
――叫ばなくても、俺は、行くけどな。
剛の、言葉どおりに。




