第4話「王女の剣と、 灯らない火」
「ほれ、これがあんたたちの職業札だよ」
宮廷魔術師長ヴェルダさんの研究室は、王城の西の塔のてっぺんにあった。
螺旋階段を百段以上のぼった先の丸い部屋。
壁という壁が本棚で埋め尽くされ、天井からは乾いた薬草の束や、
正体の分からない骨の飾りが、いくつもぶら下がっていた。
ヴェルダさんが机の上に並べたのは、
手のひらほどの大きさの薄い金属の札だった。
銀色の表面に、細かな紋様が刻まれている。
「鑑定板の写しみたいなもんさ。
持ち主の職業と、使える技――あたしらはスキルと呼んでるがね、
それが刻まれる。
鍛えればスキルが増えるし、戒律に背けば、文字が曇っていく。
自分の今を知るための鏡だと思えばいい」
城に残った五人が、一枚ずつ札を受け取った。
指先が触れた瞬間、札の表面に、じわりと文字が浮かび上がる。
「おお、出た出た」
剛が札を目の高さに掲げた。
「重騎士。スキル、【不動】。……動かないってことか?」
「踏ん張りが利くってことさ。重騎士の基本だよ」
「なるほどな。難しいことは分からんが、ラグビーのスクラムと同じだな」
「……薬師。【薬草知識】と【調合】」
澪さんは、札をじっと見つめていた。
「料理人。
【味覚】と【火加減】ですって。
ふふ、なんだか家庭科の成績表みたいね」
美咲さんが楽しそうに笑う。
「吟遊詩人。【旋律】。いいね、それ。歌になる」
奏さんは、札を胸に抱いて、くるりと一回転した。
最後に僕の札。
【職業:勇者(候補)】
【スキル:誓約の灯 ーちかいのともしびー】
その文字の隣に、小さな炎の紋様が刻まれていた。
けれど、炎の紋様は灰色のままだった。
他の皆の札の紋様が、淡く光を帯びているのに、
僕の札の炎だけが、冷えた灰のように、色を失っている。
「ヴェルダさん。この誓約の灯というのは」
「……さあねぇ」
ヴェルダさんは、皺だらけの指で、僕の札の炎をなぞった。
「三百年前の勇者のスキルは、【聖剣術】と【勇者の加護】だった。
その前の勇者もそうさ。
誓約の灯なんてスキルは、どの記録にもありゃしない」
「火が灯っていないですよね」
「ああ。灯っていない」
ヴェルダさんは、しばらく黙って炎の紋様を見つめていた。
それから、ふっと息を吐いて、札を僕の手に戻した。
「灯っていないってことは、いつか灯るってことさ。……たぶんね」
「たぶん、ですか」
「あたしにも分からないことは、分からないって言うよ。
年寄りの知ったかぶりほど、たちの悪いもんはないからねぇ」
僕は灰色の炎を、しばらく見つめていた。
何が火を灯すのか。
誰との誓いなのか。
何一つ分からなかった。
「……まあ、いいか」
僕は、札を胸のポケットにしまった。
「分からないことが一つ増えただけです。
探すものが一つ増えたと思えば」
ヴェルダさんが、ふぇっふぇっと喉の奥で笑った。
「あんた、本当に変な坊やだねぇ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
城に残った五人は、それぞれの居場所を見つけ始めていた。
澪さんは、王城の東にある治療院に通うことになった。
国境から運ばれてくる負傷兵が、毎日のように運び込まれる場所だ。
治療院を取り仕切っているのは、マルタさんという、
背筋のしゃんと伸びた初老の修道女だった。
「薬師様が来てくださるなんて、ありがたいことです。
けれど、ここでは肩書きは関係ありません。
包帯を巻くところから、覚えていただきますよ」
「……はい。お願いします」
澪さんは、その日のうちに、百本の包帯を巻いた。
美咲さんは、王城の厨房に入り浸るようになった。
料理長のボルグさんは、熊のような大男で、
最初は「異界の娘っこに、鍋は触らせん」と腕を組んでいた。
けれど、美咲さんが、
余った野菜くずだけで作ったスープを一口すすった途端、黙り込んだ。
「……明日から朝の仕込みに来い」
それがボルグさんなりの最大の褒め言葉らしかった。
奏さんは、夕方になると、城下の酒場に出かけていく。
城の楽師から借りた小さな竪琴を抱えて。
「この国の歌を覚えたいの。
歌を覚えれば、この国の人の心が分かる気がするから。
いいね、それ。
歌になる」
自分で言って、自分で納得していた。
剛は、騎士団の守備隊に加わった。
重騎士の【不動】は盾役として、
すでに騎士たちから一目置かれ始めていた。
「陽翔、聞いてくれ。
今日、俺、隊長に『壁』って呼ばれた。
褒め言葉らしい」
「すごいね、剛」
「難しいことは分からんが壁は得意だ」
そして、僕は。
「――遅い」
木剣の切っ先が僕の喉元で、ぴたりと止まっていた。
今日、もう何度目かも分からない。
「構えが崩れています。
打ち込むたびに、右肩が上がる癖がある。
それでは、次の一撃が読まれます」
エレオノーラさんは、木剣を引き、一歩下がった。
息一つ乱れていない。
「もう一度」
「……はい」
訓練場の片隅。
朝の冷たい空気の中で、僕とエレオノーラさんの稽古は、
毎朝、夜明けと同時に始まった。
見習い騎士程度、と彼女は言った。
とんでもない。
エレオノーラさんの剣は、速く正確でそして、一切の無駄がなかった。
僕の木剣は、一度として、彼女の体に触れることすらできなかった。
「はあっ……!」
打ち込む。
弾かれる。
打ち込む。
いなされる。
足を払われ、石畳に転がる。
見上げた空は、まだ朝焼けの色をしていた。
「……立てますか」
「はい……立ちます」
膝に手をついて体を起こす。
腕も脚も鉛のように重かった。
それでも、木剣を握り直す。
親指はここ。
小指で締める。
ガルドさんに教わったとおりに。
エレオノーラさんは、そんな僕を黙って見ていた。
「……一つお聞きしても」
「はい」
「なぜ、勇者の力を使わないのです。
誓約の灯、というスキルがあると聞きました」
「使い方が分からないんです。札の火も、灯っていなくて」
僕は、胸のポケットから職業札を取り出して、彼女に見せた。
灰色の炎の紋様。
エレオノーラさんは、それを見て、わずかに眉をひそめた。
「……灯っていない」
「はい。だから今の僕は、剣を握ったばかりのただの素人です」
僕は札をしまって、木剣を構え直した。
「だったら、素人なりに、できることをやるしかないので」
エレオノーラさんは、しばらく何も言わなかった。
それから、小さく息を吐いて木剣を構えた。
「……右肩」
「え?」
「右肩が上がる癖。
打ち込む直前に一度、息を吐きなさい。
肩の力が抜けます」
「……はい!」
その日、僕は、やっぱり一度も彼女に触れられなかった。
けれど、最後の一本だけ。
ほんの一瞬だけ、エレオノーラさんが半歩、下がった。
「……今日は、ここまでにしましょう」
エレオノーラさんは、そう言って、木剣を下ろした。
朝日が訓練場の石畳を、金色に染め始めていた。
「エレオノーラさんは、どうして剣を習ったんですか」
汗を拭きながら、僕は何気なく尋ねた。
王女様がこれほどの剣を身につけるには、
きっと並大抵ではない理由があったはずだ。
エレオノーラさんの手が、一瞬だけ止まった。
「……それは、勇者様には関係のないことです」
静かな声だった。
けれど、そこには、それ以上踏み込むことを許さない硬い壁があった。
「明日も夜明けに」
それだけ言って、エレオノーラさんは、訓練場を去っていった。
僕はその背中を見送りながら、
余計なことを聞いてしまったかな、と少しだけ反省した。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「ハルト様!」
訓練場を出たところで、弾むような声に呼び止められた。
振り返ると、メイド服姿のリゼさんが、盆を抱えて駆けてくるところだった。
盆の上には、水差しと畳まれた白い布が載っている。
「リゼさん。おはよう」
「おはようございます!
あのお稽古、お疲れ様でございました。
よろしければこちらを」
差し出された布は、ほんのりと温かかった。
湯で絞ってくれたのだろう。
「ありがとう。わざわざ、毎朝」
「とんでもございません! わたしが、勝手にしていることですから」
あの日以来、リゼさんは毎朝こうして、
訓練場の出口で待っていてくれるようになった。
最初は「勇者様」と呼ばれていたけれど、
何度もお願いして、ようやく「ハルト様」に落ち着いた。
本当は、様もいらないのだけれど。
「指の傷はもう大丈夫?」
「はい! 治療院の柚木様が、お薬をくださって。跡も残らないって」
リゼさんは、嬉しそうに、もう傷のない指を見せてくれた。
「それに……ハルト様のハンカチ、洗って、アイロンをかけて、
お返ししようと思っていたのですけれど……」
「うん」
「……そのもう少しだけ、お借りしていても、よろしいでしょうか」
リゼさんは、頬を赤らめてうつむいた。
「お守りみたいなものなんです」
「もちろん。よかったら、そのまま使って」
「ありがとうございます!」
リゼさんと話していると、回廊の向こうから、二人のメイドが歩いてきた。
すれ違いざま、二人は僕に向かって、小さく会釈をした。
「おはようございます、勇者様」
「あ、おはようございます」
僕が頭を下げると、二人は顔を見合わせて、くすりと笑い合った。
嘲るような笑いではなかった。
どこか、温かい笑いだった。
「……最近、城の人に、よく挨拶をされる気がするんだけど」
「それは……」
リゼさんは、少しだけ得意げに胸を張った。
「わたしが言いふらしているからです」
「え」
「割れたカップを、一緒に拾ってくださった勇者様がいるって。
メイド仲間に全員に」
リゼさんはにっこりと笑った。
「みんな、最初は信じてくれませんでした。
でも、毎朝ハルト様が、誰よりも早く訓練場にいらっしゃって、
誰よりも遅くまで素振りをしていらっしゃるのを見て。
今ではみんな信じています」
僕は、なんと返していいか分からず、ただ、頭をかいた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
夕方。
日課の素振り千回を終えた僕は、いつものように、
訓練場の隅で防具の手入れをしていた。
「勇者様、その留め金は、外してから磨いたほうが早いです」
隣でそばかすの少年が、控えめに教えてくれた。
トマスくん。
騎士見習いの中で一番年下の十四歳。
初めて防具磨きを手伝った日に、布切れを貸してくれた子だ。
「本当だ。ありがとう、トマスくん」
「い、いえ……」
トマスくんは、しばらく黙って、革の籠手に油を塗っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……勇者様は、どうして、こんなことをなさるんですか」
「こんなこと?」
「防具磨きなんて、見習いの仕事です。
勇者様がなさることじゃありません。
それに毎日、王女殿下にあんなに打ち負かされて……。
ほかの異界の方たちは、みんな、城を出ていかれたのに」
僕は、磨いていた胸当てを膝の上に置いた。
「トマスくんは、どうして騎士になろうと思ったの?」
「え……」
トマスくんは、少し驚いたように目を瞬かせた。
それから、籠手を握りしめた。
「……ぼくの村、北のほうにあったんです。
三年前魔物に襲われて。
父さんと母さんはそのとき」
「……そうか」
「騎士様たちが、助けに来てくれました。
ぼくと妹だけ助かりました。
だから、ぼくも、誰かを助けられる騎士になりたいんです」
トマスくんは、そう言って、照れくさそうにうつむいた。
「……すみません。勇者様にこんな話」
「ううん。話してくれてありがとう」
僕は、胸当ての留め金を、一つずつ丁寧に磨いた。
「僕も同じだよ」
「え?」
「誰かを助けられるようになりたい。
でも、今の僕は剣もろくに振れない。
勇者の力も使い方が分からない。
だったら、せめて、誰かを助けようとしている人たちの、
手伝いくらいはしたいなって」
磨き終えた胸当てを夕日にかざす。
鈍く光る鉄の表面に、オレンジ色の光が映っていた。
「この胸当ては明日、誰かが着るんだよね。
その人が誰かを守るために。
そう思うと、ちゃんと磨かなきゃって思うんだ」
トマスくんは、しばらくぽかんと僕を見ていた。
それから、くしゃりと顔を歪めて笑った。
「……勇者様って変な人ですね」
「最近、よく言われる」
「でも」
トマスくんは、磨きかけの籠手を、大切そうに膝の上に置いた。
「ぼく勇者様みたいな人が、勇者様でよかったです」
そのときだった。
胸のポケットの中で、何かがほんのりと温かくなった。
「……?」
職業札を取り出す。
灰色だった炎の紋様のその芯のところに。
針の先ほどの小さな、小さな光が灯っていた。
橙色の頼りない光。
吹けば消えてしまいそうな種火のような光。
「勇者様? どうかされましたか?」
「……ううん。なんでもない」
僕は札を握りしめた。
手のひらの中で、その小さな光は、確かに温かかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
西の塔のてっぺんで、ヴェルダは、一冊の古文書を広げていた。
擦り切れた羊皮紙。
滲んだ文字。
三百年前、最後に召喚された勇者に仕えた、名もなき従者の手記だという。
長い間、誰にも顧みられることなく、書庫の奥で埃をかぶっていたものだ。
「……誓約の灯」
ヴェルダは、指先で一行の文字をなぞった。
そこに書かれていたのは、「誓約の灯」という言葉ではない。
けれど、よく似た言葉があった。
――勇者を選ぶは天にあらず。
――灯を分かつ者たちのその手にあり。
「灯を分かつ者たち、ねぇ……」
窓の外を見下ろすと、訓練場の隅に、まだ小さな人影が一つ残っていた。
月明かりの下で黙々と木剣を振っている。
その傍らには、そばかすの見習い騎士が、膝を抱えて座っていた。
帰れと言われても、帰らなかったのだろう。
「……今日、何かあったね、あの坊や」
ヴェルダは古文書を閉じた。
皺だらけの顔に、ほんのわずか、楽しげな笑みが浮かんでいた。




