第39話「海喰らい」
海喰らいが、 入り江に入ってきたのは、 新月まで、 あと四日の、 明け方だった。
最初に気づいたのは、 シロガネだった。
オーダさんの家の、 庭先。
朝霧の中で、 シロガネが、 不意に、 立ち上がった。
鼻を、 海へと、 向けた。
銀色の毛並みが、 首筋から、 背中まで、 一斉に、 逆立った。
そして、 喉の奥から。
これまでに一度も聞いたことのない、 低く、 長く、 腹の底を震わせるような、 唸り声を、 上げた。
その唸り声に、 応えるように。
港の、 入り江の、 真ん中で。
海が、 盛り上がった。
鏡のように凪いでいた、 朝の海面が。
内側から、 押し上げられるように。
丸く。
大きく。
膨らんでいった。
膨らみの、 その頂から。
海水が、 滝のように、 流れ落ちた。
その下から。
黒いものが、 現れた。
――頭、 だった。
竜の、 頭。
いや、 竜よりも、 平たく、 長く、 蛇に、 近かった。
その頭だけで、 漁船一艘ほどの、 大きさがあった。
黒い鱗が、 朝霧の中で、 濡れて、 鈍く、 光っていた。
一枚一枚が、 人の手のひらほどもある、 鉄の板のような、 鱗。
頭の両脇に、 白く濁った、 二つの目。
そして、 頭の先が、 裂けるように、 開いていった。
口、 だった。
上顎と、 下顎の間に。
白い牙が、 何百本も、 びっしりと、 並んでいた。
針のように細い牙。
鉈のように太い牙。
その牙の奥に、 赤黒い喉が、 洞窟のように、 深く、 口を開けていた。
海喰らい。
その口から、 咆哮が、 迸った。
――ゴォォォォォォオオオオッ!
入り江全体が、 震えた。
舫われた漁船が、 一斉に、 揺さぶられて、 互いにぶつかり合い、 悲鳴のような、 軋みを上げた。
斜面の家々の窓硝子が、 震えた。
朝霧が、 その咆哮に、 吹き散らされた。
海喰らいの頭の後ろから。
胴体が、 海面を割って、 姿を現した。
長かった。
どこまでも、 どこまでも、 長かった。
黒い鱗に覆われた、 樽のように太い胴体が、 入り江の真ん中から、 入り江の口まで。
いや、 入り江の口の、 その外の、 外海まで。
巨大な、 黒い、 生きた鎖のように。
うねりながら。
海面の上に、 弧を描いていた。
「……あ、 あ……」
港の岸壁で、 朝の網を見に来ていた漁師たちが、 腰を抜かして、 座り込んでいた。
海喰らいの、 白く濁った目が。
ゆっくりと。
港を。
斜面の、 白い漆喰の家々を。
見回した。
それから。
その頭が、 海面すれすれに、 低く、 下がった。
岸壁に、 向かって。
――来る。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――剛ッ!」
「――おうッ!」
剛が、 オーダさんの家の庭から、 斜面を、 転がるように、 駆け下りていった。
銀の鎧が、 朝日を、 照り返した。
港の岸壁の、 その先端に。
剛は、 盾を、 突き立てた。
「――【城壁】ッ!」
青い光が、 迸った。
岸壁に沿って。
左右に。
青く透き通る、 光の壁が、 立ち上がった。
海喰らいの頭が、 その壁に、 激突した。
――音が、 爆ぜた。
鐘ではなかった。
雷でもなかった。
世界そのものが、 一枚の、 巨大な硝子の板で。
それが、 内側から、 叩き割られたような。
青い光の破片が、 朝の空に、 花火のように、 散った。
海水が、 壁にぶつかって、 白い飛沫となって、 天高く、 噴き上がった。
その飛沫が、 雨のように、 港に、 降り注いだ。
剛の足が。
岸壁の、 石畳に。
めり込んだ。
「――ぐ、 う、 おおおおおッ!」
剛の、 全身が、 軋んだ。
鉄牙猪の群れよりも。
大蜘蛛の脚よりも。
王都の、 東門の、 破城槌よりも。
重い。
けれど。
剛は、 退かなかった。
海喰らいの頭が、 弾き返された。
巨体が、 のけぞった。
樽のように太い胴体が、 うねって、 入り江の海面を、 激しく、 叩いた。
大波が、 立った。
波が、 舫われた漁船を、 次々と、 呑み込んでいった。
「――剛ッ!」
斜面を駆け下りながら、 叫んだ。
剛は、 青い壁の向こうで、 振り返った。
飛沫で、 ずぶ濡れになった顔で。
にっと、 笑った。
「――難しいことは、 分からんがッ!」
剛は、 盾を、 握り直した。
「――こいつ、 東門より、 重いぞッ!」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
港の岸壁に、 たどり着いた。
海喰らいは、 入り江の真ん中で、 体勢を、 立て直していた。
白く濁った目が、 岸壁の、 青い壁を。
その真ん中に立つ、 剛を。
憎々しげに、 睨みつけていた。
「――鑑定ッ!」
背後で、 古賀が、 叫んでいた。
岸壁の、 一番高い、 見張り台の上に、 よじ登っていた。
眼鏡の奥の目が、 淡い光を、 帯びていた。
「――鱗が、 全身を、 覆ってるッ! 刃も、 魔法も、 通らないッ!
冒険者が、 三組とも、 やられたのは、 そのせいだッ!」
古賀の声が、 震えていた。
「――でも、 一枚だけ……一枚だけ、 違う鱗があるッ!
喉の、 真下ッ! 他の鱗と、 逆向きに、 生えてる鱗ッ!」
「――逆鱗、 か!」
エレオノーラさんが、 剣を、 抜きながら、 叫んだ。
「――そうッ! その鱗の下だけ、 皮膚が、 剥き出しなんだッ! そこを、 突けばッ!」
喉の、 真下。
海喰らいの頭は、 海面から、 高く、 もたげられていた。
喉は、 その頭の、 さらに下。
海面すれすれの、 その場所。
胴体の、 付け根。
岸壁からは、 届かない。
――船が、 要る。
「――船を、 出してくださいッ!」
僕は、 港の漁師たちに、 向かって、 叫んだ。
漁師たちは、 岸壁の上で、 腰を抜かしたまま、 震えていた。
誰も、 動かなかった。
動けなかった。
ふた月前。
五艘の船が、 沈んだ。
十二人が、 帰ってこなかった。
冒険者が、 三組とも、 海喰らいの腹の中に、 消えた。
「……無理だ」
一人の漁師が、 掠れた声で、 言った。
「……あいつに、 船で、 近づいたら……沈められる……。 みんな……みんな、 そうやって……」
僕は、 その漁師の前に、 しゃがみ込んだ。
「……分かります。 怖いのは、 当然です」
漁師の目が、 揺れた。
「でも、 このままじゃ、 町が、 呑まれる。 剛の壁も、 いつまでも、 もたない。
……だから、 お願いします。 船を、 一艘だけ。
僕を、 あいつの喉の下まで、 運んでくれる船を」
漁師たちは、 互いに、 顔を、 見合わせた。
誰も。
何も。
言わなかった。
そのとき。
「――俺が、 出す」
岸壁の、 階段の上から。
声が、 した。
振り返った。
カイルさんが、 立っていた。
右の膝から下の、 木の義足で。
石の階段を、 一段、 一段、 下りてきていた。
その手に、 船の櫂を、 杖代わりに、 握っていた。
オーダさんの櫂と、 同じ。
黒く、 艶やかに光る、 使い込まれた櫂。
「……カイルさん」
「この海で、 一番、 潮を、 読めるのは、 俺だ」
カイルさんの声は、 低く、 けれど、 少しも、 震えていなかった。
「ふた月前、 俺は、 冒険者の連中の船の、 舵を、 握った。
あいつが、 船の真下から来るのを、 読めなかった。
……潮の流れが、 あいつの体に、 乱されてたのを、 見落とした」
カイルさんは、 入り江の海面を、 見下ろした。
海喰らいの巨体が、 うねるたびに、 海面に、 複雑な渦が、 生まれては、 消えていた。
「今度は、 見落とさない。
……あいつの体が、 潮を、 どう乱すか。
ふた月、 ずっと、 この窓から、 見てきた」
カイルさんは、 僕を、 まっすぐに、 見た。
「――候補の勇者。
あんたは、 一人じゃなく、 この町の人間と、 一緒に、 戦いたいって、 言ったな」
「……はい」
「なら、 俺の船に、 乗れ。 ……俺が、 あいつの喉の下まで、 連れていってやる」
胸のポケットが。
熱く、 なった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
カイルさんの船は、 小さかった。
帆柱が、 一本だけの。
漁師が、 二、 三人で、 沖に出るための。
船底に、 海藻が、 張りついていた。
ふた月、 海に、 出ていなかった船。
その船の、 船尾の、 舵の前に。
カイルさんが、 座った。
木の義足を、 船底の板に、 突っ張って。
両手で、 舵の柄を、 握った。
船首に、 僕が、 立った。
アルベルトさんの鋼の剣を、 抜いて。
僕の隣に、 エレオノーラさんが、 立った。
「――わたくしも、 参ります」
「エレオノーラさん」
「隣に、 立つと、 約束しました」
エレオノーラさんは、 細身の剣を、 構えた。
「逆鱗は、 一枚だけ。 外せば、 二度目は、 ないかもしれません。
……あなたが突くまで、 わたくしが、 あの化け物の、 気を逸らします」
シロガネが、 船の、 真ん中に、 跳び乗った。
銀色の毛並みを、 逆立てて。
海喰らいを、 睨みつけていた。
岸壁の上で、 澪さんが、 薬草の木箱を、 抱えていた。
「――怪我したら、 すぐ、 戻ってきて!」
その声が、 震えていた。
「――絶対に!」
そして、 岸壁の上の、 漁師たちが。
一人。
また一人と。
立ち上がっていた。
「……カイルの、 野郎」
最初に、 船を出せないと言った、 あの漁師が、 拳を、 握りしめていた。
「……足一本、 失くしたガキが、 海に出るってのに。
……俺たちが、 岸で、 震えてるわけに、 いくかよ」
漁師たちが、 自分たちの船へと、 走り出した。
帆を、 張った。
櫂を、 握った。
「――海喰らいの、 注意を、 引いてやるッ!」
「――カイルの船に、 あいつの目を、 向けさせるなッ!」
「――セイレンの船乗りの、 意地を、 見せてやれッ!」
五艘。
十艘。
十五艘。
帆を張った漁船が、 次々と、 入り江へと、 漕ぎ出していった。
岸壁の、 一番先端で。
オーダさんが、 櫂を、 杖にして、 立っていた。
その、 潮風に削られた、 深い皺の顔が。
朝日の中で。
泣いていた。
「――行っといで、 カイル」
オーダさんの、 嗄れた声が。
入り江に、 響いた。
「――この海は、 あたしらの、 海だよッ!」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
船が、 海を、 滑り出した。
カイルさんの舵捌きは、 魔法のようだった。
入り江の海面は、 荒れていた。
海喰らいの巨体がうねるたびに、 大波が立ち、 渦が生まれ、
潮の流れが、 狂ったように、 向きを変えた。
その、 荒れ狂う海面の、 わずかな隙間を。
カイルさんの小さな船は、 縫うように、 すり抜けていった。
大波が、 迫った。
カイルさんが、 舵を、 わずかに、 切った。
船が、 波の斜面を、 斜めに、 駆け上がった。
波の頂で、 一瞬、 宙に浮いた。
それから、 波の裏側を、 滑り落ちた。
渦が、 口を開けた。
カイルさんが、 舵を、 逆に、 切った。
船が、 渦の縁を、 円を描くように、 回り込んだ。
渦の流れに乗って、 加速した。
渦から、 弾き出されるように、 前へ、 飛び出した。
「――右から、 来るッ!」
カイルさんが、 叫んだ。
その声と、 同時に。
右の海面が、 盛り上がった。
海喰らいの、 尾、 だった。
樽のように太い、 黒い鱗の尾が、 海面を割って、 天に向かって、 跳ね上がった。
そして。
僕たちの船の、 真上から。
振り下ろされた。
――潰される。
カイルさんが、 舵を、 思い切り、 左に、 切った。
船が、 ほとんど、 横倒しに、 なった。
船べりが、 海面を、 擦った。
冷たい海水が、 船の中に、 なだれ込んできた。
その、 すぐ右側を。
黒い尾が。
轟音とともに。
海面に、 叩きつけられた。
海が、 爆ぜた。
白い水柱が、 天高く、 噴き上がった。
その水柱の、 中を。
僕たちの船は、 突き抜けていった。
全身が、 ずぶ濡れになった。
塩辛い水が、 目に、 鼻に、 口に、 入った。
けれど、 船は、 沈まなかった。
「――読めたッ!」
船尾で、 カイルさんが、 叫んでいた。
その顔が、 海水と、 涙で、 濡れていた。
「――あいつの尾が、 潮を、 どう乱すか! 読めたぞッ!」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
周りで、 漁船たちが、 戦っていた。
海喰らいの頭の、 周りを、 円を描くように、 回りながら。
銛を、 投げていた。
銛は、 黒い鱗に当たって、 甲高い音を立てて、 弾かれた。
傷一つ、 つけられなかった。
それでも、 漁師たちは、 銛を、 投げ続けた。
鍋を、 打ち鳴らし。
大声で、 叫び。
海喰らいの、 白く濁った目を、 自分たちの船へと、 引きつけるために。
海喰らいが、 苛立って、 頭を、 振った。
一艘の漁船が、 その頭に、 弾き飛ばされた。
船が、 宙を舞って、 海面に、 叩きつけられた。
乗っていた漁師たちが、 海に、 投げ出された。
「――拾えッ!」
「――仲間を、 拾えッ!」
近くの漁船が、 すぐに、 漕ぎ寄せていった。
海に落ちた漁師たちに、 櫂を、 差し伸べた。
引き上げた。
誰も、 見捨てなかった。
胸のポケットが。
燃えていた。
漁師たちの声が。
オーダさんの声が。
カイルさんの、 舵を握る手の、 その震えの中にある、 何かが。
岸壁の上で、 薬草の木箱を抱えて、 祈るように、 こちらを見つめている、 澪さんの視線が。
青い壁の前で、 膝を、 震わせながら、 それでも、 立ち続けている、 剛の背中が。
見張り台の上で、 声を、 嗄らしながら、 叫び続けている、 古賀の声が。
――灯を、 分かつ。
アルベルトさんの鋼の剣が。
金色に、 灯った。
隣で。
エレオノーラさんの細身の剣も。
金色に、 灯った。
シロガネの、 銀色の毛並みにも。
金色の光が、 走った。
「――見えたッ!」
カイルさんが、 叫んだ。
「――あいつの、 喉の、 真下ッ! 胴体の、 付け根ッ!
潮が、 あそこだけ、 逆に、 巻いてるッ!」
海喰らいの、 頭の、 下。
樽のように太い胴体が、 海面から、 立ち上がる、 その付け根。
海面が、 そこだけ、 渦を、 巻いていた。
他の場所とは、 逆の、 向きに。
逆鱗の、 真下。
「――そこまで、 連れていくッ! 一度だけだッ! 外すなよッ!」
カイルさんが、 舵を、 切った。
船が、 海喰らいの、 胴体の、 付け根へと。
一直線に。
突き進んでいった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
海喰らいが、 気づいた。
白く濁った目が。
周りの漁船ではなく。
自分の、 喉の下へと、 迫ってくる、 小さな船を。
捉えた。
頭が。
こちらを、 向いた。
口が。
開いた。
何百本もの、 白い牙。
その奥の、 赤黒い、 洞窟のような喉。
それが。
僕たちの船の、 真上から。
呑み込むように。
降りてきた。
「――させませんッ!」
エレオノーラさんが、 跳んだ。
船首から。
宙へ。
金色の光を纏った、 細身の剣を、 掲げて。
海喰らいの、 白く濁った、 右の目へと。
剣が、 閃いた。
黒い鱗は、 刃を、 通さない。
けれど、 目は。
目だけは、 鱗に、 覆われていない。
金色の刃が。
白く濁った目を。
一文字に。
斬り裂いた。
海喰らいが。
絶叫した。
――ギャアアアアアアアアアアッ!
頭が、 大きく、 のけぞった。
開いていた口が、 空に向かって、 跳ね上がった。
エレオノーラさんの体が、 その衝撃で、 宙に、 弾き飛ばされた。
金の髪が、 朝日の中で、 翻った。
海面へと、 落ちていく。
「――エレオノーラさんッ!」
シロガネが、 跳んだ。
船の上から。
宙へ。
落ちていくエレオノーラさんの、 その下へ。
銀色の体が、 エレオノーラさんの体を、 背中で、 受け止めた。
そのまま、 一緒に、 海面へと、 落ちていった。
白い飛沫が、 上がった。
――一瞬の後。
海面に、 銀色の頭が、 浮かび上がった。
その背中に、 エレオノーラさんが、 しがみついていた。
咳き込みながら。
けれど、 生きていた。
近くの漁船が、 すぐに、 漕ぎ寄せていった。
「――行けッ!」
エレオノーラさんが、 海面から、 叫んだ。
「――今ですッ!」
海喰らいの頭は、 まだ、 空に向かって、 のけぞっていた。
右目を斬られた痛みに、 悶えていた。
その、 のけぞった頭の、 下。
喉が。
剥き出しに、 なっていた。
黒い鱗に覆われた、 太い喉。
その、 真ん中に。
一枚だけ。
逆向きに生えた、 鱗が。
朝日を受けて。
他の鱗とは、 違う角度で。
銀色に、 光っていた。
「――カイルさんッ!」
「――分かってるッ!」
カイルさんが、 舵を、 最後に、 一度だけ、 切った。
船首が、 海喰らいの、 胴体の、 付け根に。
ぶつかった。
僕は、 船首を、 蹴った。
跳んだ。
海喰らいの、 黒い鱗の、 胴体を。
蹴った。
鱗は、 濡れて、 滑った。
けれど、 足の裏に、 金色の光が、 宿っていた。
滑らなかった。
もう一度、 蹴った。
胴体を、 駆け上がった。
喉へ。
逆鱗へ。
海喰らいが、 気づいた。
のけぞっていた頭が。
こちらへと。
振り下ろされてきた。
残った、 左の目が。
僕を、 捉えた。
口が、 開いた。
間に合わない。
あの口が、 閉じる前に。
逆鱗まで、 届かない。
――そのとき。
黒いものが。
空を、 裂いた。
港の、 一番高い崖の、 その上から。
細い。
黒い。
短剣、 だった。
それが。
朝日の中を、 一筋の、 黒い線となって。
海喰らいの。
残った、 左の目に。
突き刺さった。
海喰らいが。
二度目の、 絶叫を、 上げた。
両目を失って。
頭が、 狂ったように、 振り回された。
開いていた口が、 空を噛んだ。
僕の、 頭上の、 何もない空間を。
その、 一瞬。
――剣は、 守るために振れ。
息を、 吐く。
肩の力を、 抜く。
親指は、 ここ。
小指で、 締める。
力を入れるのは、 振り下ろす最後の、 一瞬だけ。
逆鱗が。
目の前に、 あった。
金色の剣を。
逆手に、 持ち替えた。
その鱗の、 下の。
剥き出しの、 柔らかな、 皮膚に。
突き立てた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
海が。
止まった。
そう、 感じた。
うねり狂っていた、 海喰らいの巨体が。
一瞬で。
凍りついたように。
動きを、 止めた。
入り江の、 荒れ狂っていた海面が。
渦が。
波が。
すべて。
ぴたりと。
静まり返った。
それから。
海喰らいの、 巨大な体が。
ゆっくりと。
本当に、 ゆっくりと。
傾き始めた。
樽のように太い胴体が。
入り江の口まで続く、 黒い、 生きた鎖が。
その全長にわたって。
力を、 失っていった。
僕は、 逆鱗に突き立てた剣を、 握りしめたまま。
傾いていく巨体から、 振り落とされないように、 しがみついていた。
海面が、 迫ってきた。
――落ちる。
剣を、 引き抜いた。
巨体を、 蹴った。
宙に、 舞った。
その、 落ちていく先に。
小さな船が、 待っていた。
カイルさんの船。
カイルさんが、 船尾から、 身を乗り出して。
両腕を、 大きく、 広げていた。
僕は、 その腕の中に。
落ちていった。
船が、 大きく、 揺れた。
カイルさんと、 僕と、 二人で、 船底に、 転がった。
海水が、 跳ねた。
背後で。
海喰らいの巨体が。
入り江の海に。
沈んでいった。
轟音。
白い、 巨大な水柱。
その水柱が、 朝日を受けて。
七色の、 虹を。
入り江の空に。
描いた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
静寂が、 あった。
それから。
港の、 岸壁から。
入り江の、 漁船たちの上から。
斜面の、 白い漆喰の家々の、 窓という窓から。
歓声が。
爆発した。
「――やったぞおおおおッ!」
「――海喰らいが、 沈んだああああッ!」
「――カイルだッ! カイルが、 やったぞッ!」
「――候補の勇者様だッ!」
「――セイレンの、 海が、 戻ってきたぞおおおおッ!」
漁船の上で、 漁師たちが、 抱き合っていた。
銛を、 天に、 突き上げていた。
泣いていた。
笑っていた。
岸壁の、 一番先端で。
オーダさんが、 櫂を、 握りしめたまま。
その場に、 膝をついていた。
両手で、 顔を、 覆っていた。
その肩が、 激しく、 震えていた。
青い光が、 消えた。
剛が、 岸壁の上に、 仰向けに、 倒れていた。
大きな胸が、 激しく、 上下していた。
その顔が、 空を見上げて、 笑っていた。
見張り台の上で、 古賀が、 両手を、 天に、 突き上げていた。
何かを、 叫んでいた。
声が、 嗄れて、 もう、 聞き取れなかった。
近くの漁船の上で、 エレオノーラさんが、 ずぶ濡れの体で、 シロガネを、 抱きしめていた。
シロガネが、 エレオノーラさんの頬を、 ざらりと、 舐めていた。
エレオノーラさんが、 声を上げて、 笑った。
王女の、 あんな笑い声を聞いたのは、 初めてだった。
そして。
カイルさんの船の、 船底で。
カイルさんが、 仰向けに、 倒れたまま。
空を、 見上げていた。
虹が、 消えかけていた。
「……読めた」
カイルさんが、 掠れた声で、 つぶやいた。
「……今度は……ちゃんと……読めた……」
カイルさんの目から。
涙が。
こめかみを伝って。
船底の、 海水の中に。
落ちていった。
「……ありがとう、 カイルさん」
僕は、 カイルさんの隣に、 仰向けに、 倒れたまま、 言った。
「カイルさんが、 いなかったら。 届かなかった」
カイルさんは、 何も、 言わなかった。
ただ、 震える手を、 僕のほうに、 伸ばしてきた。
その手を、 握った。
日に焼けた、 節くれだった、 漁師の手。
網を繕い、 舵を握り、 この海と、 ずっと、 生きてきた手。
「……あんた」
カイルさんが、 言った。
「……本当に、 候補なのか」
「……はい。 たぶん」
「……そっか」
カイルさんは、 小さく、 笑った。
「……なら、 候補の勇者で、 いいや。 ……俺の中では」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
港の、 一番高い崖の、 その上を。
僕は、 船底に仰向けに倒れたまま。
ずっと、 見上げていた。
あの、 黒い短剣が、 飛んできた場所。
崖の上には。
もう、 誰の姿も、 なかった。
ただ、 朝の潮風が。
崖の縁の、 草を。
静かに、 揺らしていた。
けれど。
胸のポケットの職業札の、 金色の灯の中に。
ほんのわずかに。
本当に、 ほんのわずかに。
どこか、 遠くから届いた、 灯が。
一つ。
混じっている気がした。
細くて。
震えていて。
今にも、 消えてしまいそうな。
けれど。
確かに。
灯って、 いた。




