↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【最終章突入】職業「勇者」って言われたのですが、一緒に転移した同級生いわく違うらしい ~正しい職業を知りたい今日この頃~  作者: 有馬 茶
第2部 ~巡礼~

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

39/88

第39話「海喰らい」

海喰らいが、 入り江に入ってきたのは、 新月まで、 あと四日の、 明け方だった。


最初に気づいたのは、 シロガネだった。


オーダさんの家の、 庭先。

朝霧の中で、 シロガネが、 不意に、 立ち上がった。

鼻を、 海へと、 向けた。

銀色の毛並みが、 首筋から、 背中まで、 一斉に、 逆立った。

そして、 喉の奥から。

これまでに一度も聞いたことのない、 低く、 長く、 腹の底を震わせるような、 唸り声を、 上げた。


その唸り声に、 応えるように。


港の、 入り江の、 真ん中で。


海が、 盛り上がった。


鏡のように凪いでいた、 朝の海面が。

内側から、 押し上げられるように。

丸く。

大きく。

膨らんでいった。


膨らみの、 その頂から。

海水が、 滝のように、 流れ落ちた。


その下から。

黒いものが、 現れた。


――頭、 だった。


竜の、 頭。


いや、 竜よりも、 平たく、 長く、 蛇に、 近かった。

その頭だけで、 漁船一艘ほどの、 大きさがあった。

黒い鱗が、 朝霧の中で、 濡れて、 鈍く、 光っていた。

一枚一枚が、 人の手のひらほどもある、 鉄の板のような、 鱗。

頭の両脇に、 白く濁った、 二つの目。

そして、 頭の先が、 裂けるように、 開いていった。


口、 だった。


上顎と、 下顎の間に。

白い牙が、 何百本も、 びっしりと、 並んでいた。

針のように細い牙。

鉈のように太い牙。

その牙の奥に、 赤黒い喉が、 洞窟のように、 深く、 口を開けていた。


海喰らい。


その口から、 咆哮が、 迸った。


――ゴォォォォォォオオオオッ!


入り江全体が、 震えた。

舫われた漁船が、 一斉に、 揺さぶられて、 互いにぶつかり合い、 悲鳴のような、 軋みを上げた。

斜面の家々の窓硝子が、 震えた。

朝霧が、 その咆哮に、 吹き散らされた。


海喰らいの頭の後ろから。

胴体が、 海面を割って、 姿を現した。


長かった。


どこまでも、 どこまでも、 長かった。

黒い鱗に覆われた、 樽のように太い胴体が、 入り江の真ん中から、 入り江の口まで。

いや、 入り江の口の、 その外の、 外海まで。

巨大な、 黒い、 生きた鎖のように。

うねりながら。

海面の上に、 弧を描いていた。


「……あ、 あ……」


港の岸壁で、 朝の網を見に来ていた漁師たちが、 腰を抜かして、 座り込んでいた。


海喰らいの、 白く濁った目が。

ゆっくりと。

港を。

斜面の、 白い漆喰の家々を。

見回した。


それから。

その頭が、 海面すれすれに、 低く、 下がった。


岸壁に、 向かって。


――来る。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




「――剛ッ!」

「――おうッ!」


剛が、 オーダさんの家の庭から、 斜面を、 転がるように、 駆け下りていった。

銀の鎧が、 朝日を、 照り返した。


港の岸壁の、 その先端に。

剛は、 盾を、 突き立てた。


「――【城壁】ッ!」


青い光が、 迸った。


岸壁に沿って。

左右に。

青く透き通る、 光の壁が、 立ち上がった。


海喰らいの頭が、 その壁に、 激突した。


――音が、 爆ぜた。


鐘ではなかった。

雷でもなかった。

世界そのものが、 一枚の、 巨大な硝子の板で。

それが、 内側から、 叩き割られたような。


青い光の破片が、 朝の空に、 花火のように、 散った。

海水が、 壁にぶつかって、 白い飛沫となって、 天高く、 噴き上がった。

その飛沫が、 雨のように、 港に、 降り注いだ。


剛の足が。

岸壁の、 石畳に。

めり込んだ。


「――ぐ、 う、 おおおおおッ!」


剛の、 全身が、 軋んだ。

鉄牙猪の群れよりも。

大蜘蛛の脚よりも。

王都の、 東門の、 破城槌よりも。

重い。


けれど。


剛は、 退かなかった。


海喰らいの頭が、 弾き返された。

巨体が、 のけぞった。

樽のように太い胴体が、 うねって、 入り江の海面を、 激しく、 叩いた。

大波が、 立った。

波が、 舫われた漁船を、 次々と、 呑み込んでいった。


「――剛ッ!」


斜面を駆け下りながら、 叫んだ。


剛は、 青い壁の向こうで、 振り返った。

飛沫で、 ずぶ濡れになった顔で。

にっと、 笑った。


「――難しいことは、 分からんがッ!」

剛は、 盾を、 握り直した。

「――こいつ、 東門より、 重いぞッ!」




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




港の岸壁に、 たどり着いた。


海喰らいは、 入り江の真ん中で、 体勢を、 立て直していた。

白く濁った目が、 岸壁の、 青い壁を。

その真ん中に立つ、 剛を。

憎々しげに、 睨みつけていた。


「――鑑定ッ!」


背後で、 古賀が、 叫んでいた。

岸壁の、 一番高い、 見張り台の上に、 よじ登っていた。

眼鏡の奥の目が、 淡い光を、 帯びていた。


「――鱗が、 全身を、 覆ってるッ! 刃も、 魔法も、 通らないッ!

 冒険者が、 三組とも、 やられたのは、 そのせいだッ!」

古賀の声が、 震えていた。


「――でも、 一枚だけ……一枚だけ、 違う鱗があるッ!

 喉の、 真下ッ! 他の鱗と、 逆向きに、 生えてる鱗ッ!」


「――逆鱗、 か!」

エレオノーラさんが、 剣を、 抜きながら、 叫んだ。

「――そうッ! その鱗の下だけ、 皮膚が、 剥き出しなんだッ! そこを、 突けばッ!」


喉の、 真下。


海喰らいの頭は、 海面から、 高く、 もたげられていた。

喉は、 その頭の、 さらに下。

海面すれすれの、 その場所。

胴体の、 付け根。


岸壁からは、 届かない。


――船が、 要る。


「――船を、 出してくださいッ!」


僕は、 港の漁師たちに、 向かって、 叫んだ。


漁師たちは、 岸壁の上で、 腰を抜かしたまま、 震えていた。

誰も、 動かなかった。

動けなかった。


ふた月前。

五艘の船が、 沈んだ。

十二人が、 帰ってこなかった。

冒険者が、 三組とも、 海喰らいの腹の中に、 消えた。


「……無理だ」

一人の漁師が、 掠れた声で、 言った。

「……あいつに、 船で、 近づいたら……沈められる……。 みんな……みんな、 そうやって……」


僕は、 その漁師の前に、 しゃがみ込んだ。


「……分かります。 怖いのは、 当然です」

漁師の目が、 揺れた。

「でも、 このままじゃ、 町が、 呑まれる。 剛の壁も、 いつまでも、 もたない。

 ……だから、 お願いします。 船を、 一艘だけ。

 僕を、 あいつの喉の下まで、 運んでくれる船を」


漁師たちは、 互いに、 顔を、 見合わせた。


誰も。

何も。

言わなかった。


そのとき。


「――俺が、 出す」


岸壁の、 階段の上から。

声が、 した。


振り返った。


カイルさんが、 立っていた。


右の膝から下の、 木の義足で。

石の階段を、 一段、 一段、 下りてきていた。

その手に、 船の櫂を、 杖代わりに、 握っていた。

オーダさんの櫂と、 同じ。

黒く、 艶やかに光る、 使い込まれた櫂。


「……カイルさん」

「この海で、 一番、 潮を、 読めるのは、 俺だ」


カイルさんの声は、 低く、 けれど、 少しも、 震えていなかった。


「ふた月前、 俺は、 冒険者の連中の船の、 舵を、 握った。

 あいつが、 船の真下から来るのを、 読めなかった。

 ……潮の流れが、 あいつの体に、 乱されてたのを、 見落とした」


カイルさんは、 入り江の海面を、 見下ろした。

海喰らいの巨体が、 うねるたびに、 海面に、 複雑な渦が、 生まれては、 消えていた。

「今度は、 見落とさない。

 ……あいつの体が、 潮を、 どう乱すか。

 ふた月、 ずっと、 この窓から、 見てきた」


カイルさんは、 僕を、 まっすぐに、 見た。


「――候補の勇者。

 あんたは、 一人じゃなく、 この町の人間と、 一緒に、 戦いたいって、 言ったな」

「……はい」

「なら、 俺の船に、 乗れ。 ……俺が、 あいつの喉の下まで、 連れていってやる」


胸のポケットが。

熱く、 なった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




カイルさんの船は、 小さかった。


帆柱が、 一本だけの。

漁師が、 二、 三人で、 沖に出るための。

船底に、 海藻が、 張りついていた。

ふた月、 海に、 出ていなかった船。


その船の、 船尾の、 舵の前に。

カイルさんが、 座った。

木の義足を、 船底の板に、 突っ張って。

両手で、 舵の柄を、 握った。


船首に、 僕が、 立った。

アルベルトさんの鋼の剣を、 抜いて。


僕の隣に、 エレオノーラさんが、 立った。


「――わたくしも、 参ります」

「エレオノーラさん」

「隣に、 立つと、 約束しました」

エレオノーラさんは、 細身の剣を、 構えた。

「逆鱗は、 一枚だけ。 外せば、 二度目は、 ないかもしれません。

 ……あなたが突くまで、 わたくしが、 あの化け物の、 気を逸らします」


シロガネが、 船の、 真ん中に、 跳び乗った。

銀色の毛並みを、 逆立てて。

海喰らいを、 睨みつけていた。


岸壁の上で、 澪さんが、 薬草の木箱を、 抱えていた。

「――怪我したら、 すぐ、 戻ってきて!」

その声が、 震えていた。

「――絶対に!」


そして、 岸壁の上の、 漁師たちが。

一人。

また一人と。

立ち上がっていた。


「……カイルの、 野郎」

最初に、 船を出せないと言った、 あの漁師が、 拳を、 握りしめていた。

「……足一本、 失くしたガキが、 海に出るってのに。

 ……俺たちが、 岸で、 震えてるわけに、 いくかよ」


漁師たちが、 自分たちの船へと、 走り出した。

帆を、 張った。

櫂を、 握った。


「――海喰らいの、 注意を、 引いてやるッ!」

「――カイルの船に、 あいつの目を、 向けさせるなッ!」

「――セイレンの船乗りの、 意地を、 見せてやれッ!」


五艘。

十艘。

十五艘。


帆を張った漁船が、 次々と、 入り江へと、 漕ぎ出していった。


岸壁の、 一番先端で。

オーダさんが、 櫂を、 杖にして、 立っていた。

その、 潮風に削られた、 深い皺の顔が。

朝日の中で。

泣いていた。


「――行っといで、 カイル」


オーダさんの、 嗄れた声が。

入り江に、 響いた。


「――この海は、 あたしらの、 海だよッ!」




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




船が、 海を、 滑り出した。


カイルさんの舵捌きは、 魔法のようだった。


入り江の海面は、 荒れていた。

海喰らいの巨体がうねるたびに、 大波が立ち、 渦が生まれ、

 潮の流れが、 狂ったように、 向きを変えた。

その、 荒れ狂う海面の、 わずかな隙間を。

カイルさんの小さな船は、 縫うように、 すり抜けていった。


大波が、 迫った。

カイルさんが、 舵を、 わずかに、 切った。

船が、 波の斜面を、 斜めに、 駆け上がった。

波の頂で、 一瞬、 宙に浮いた。

それから、 波の裏側を、 滑り落ちた。


渦が、 口を開けた。

カイルさんが、 舵を、 逆に、 切った。

船が、 渦の縁を、 円を描くように、 回り込んだ。

渦の流れに乗って、 加速した。

渦から、 弾き出されるように、 前へ、 飛び出した。


「――右から、 来るッ!」


カイルさんが、 叫んだ。


その声と、 同時に。

右の海面が、 盛り上がった。


海喰らいの、 尾、 だった。

樽のように太い、 黒い鱗の尾が、 海面を割って、 天に向かって、 跳ね上がった。

そして。

僕たちの船の、 真上から。

振り下ろされた。


――潰される。


カイルさんが、 舵を、 思い切り、 左に、 切った。


船が、 ほとんど、 横倒しに、 なった。

船べりが、 海面を、 擦った。

冷たい海水が、 船の中に、 なだれ込んできた。


その、 すぐ右側を。

黒い尾が。

轟音とともに。

海面に、 叩きつけられた。


海が、 爆ぜた。


白い水柱が、 天高く、 噴き上がった。

その水柱の、 中を。

僕たちの船は、 突き抜けていった。


全身が、 ずぶ濡れになった。

塩辛い水が、 目に、 鼻に、 口に、 入った。

けれど、 船は、 沈まなかった。


「――読めたッ!」


船尾で、 カイルさんが、 叫んでいた。

その顔が、 海水と、 涙で、 濡れていた。


「――あいつの尾が、 潮を、 どう乱すか! 読めたぞッ!」




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




周りで、 漁船たちが、 戦っていた。


海喰らいの頭の、 周りを、 円を描くように、 回りながら。

銛を、 投げていた。

銛は、 黒い鱗に当たって、 甲高い音を立てて、 弾かれた。

傷一つ、 つけられなかった。

それでも、 漁師たちは、 銛を、 投げ続けた。

鍋を、 打ち鳴らし。

大声で、 叫び。

海喰らいの、 白く濁った目を、 自分たちの船へと、 引きつけるために。


海喰らいが、 苛立って、 頭を、 振った。

一艘の漁船が、 その頭に、 弾き飛ばされた。

船が、 宙を舞って、 海面に、 叩きつけられた。

乗っていた漁師たちが、 海に、 投げ出された。


「――拾えッ!」

「――仲間を、 拾えッ!」


近くの漁船が、 すぐに、 漕ぎ寄せていった。

海に落ちた漁師たちに、 櫂を、 差し伸べた。

引き上げた。


誰も、 見捨てなかった。


胸のポケットが。

燃えていた。


漁師たちの声が。

オーダさんの声が。

カイルさんの、 舵を握る手の、 その震えの中にある、 何かが。

岸壁の上で、 薬草の木箱を抱えて、 祈るように、 こちらを見つめている、 澪さんの視線が。

青い壁の前で、 膝を、 震わせながら、 それでも、 立ち続けている、 剛の背中が。

見張り台の上で、 声を、 嗄らしながら、 叫び続けている、 古賀の声が。


――灯を、 分かつ。


アルベルトさんの鋼の剣が。

金色に、 灯った。


隣で。

エレオノーラさんの細身の剣も。

金色に、 灯った。


シロガネの、 銀色の毛並みにも。

金色の光が、 走った。


「――見えたッ!」


カイルさんが、 叫んだ。


「――あいつの、 喉の、 真下ッ! 胴体の、 付け根ッ!

 潮が、 あそこだけ、 逆に、 巻いてるッ!」


海喰らいの、 頭の、 下。

樽のように太い胴体が、 海面から、 立ち上がる、 その付け根。

海面が、 そこだけ、 渦を、 巻いていた。

他の場所とは、 逆の、 向きに。


逆鱗の、 真下。


「――そこまで、 連れていくッ! 一度だけだッ! 外すなよッ!」


カイルさんが、 舵を、 切った。


船が、 海喰らいの、 胴体の、 付け根へと。

一直線に。

突き進んでいった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




海喰らいが、 気づいた。


白く濁った目が。

周りの漁船ではなく。

自分の、 喉の下へと、 迫ってくる、 小さな船を。

捉えた。


頭が。

こちらを、 向いた。


口が。

開いた。


何百本もの、 白い牙。

その奥の、 赤黒い、 洞窟のような喉。


それが。

僕たちの船の、 真上から。

呑み込むように。

降りてきた。


「――させませんッ!」


エレオノーラさんが、 跳んだ。


船首から。

宙へ。

金色の光を纏った、 細身の剣を、 掲げて。


海喰らいの、 白く濁った、 右の目へと。


剣が、 閃いた。


黒い鱗は、 刃を、 通さない。

けれど、 目は。

目だけは、 鱗に、 覆われていない。


金色の刃が。

白く濁った目を。

一文字に。

斬り裂いた。


海喰らいが。

絶叫した。


――ギャアアアアアアアアアアッ!


頭が、 大きく、 のけぞった。

開いていた口が、 空に向かって、 跳ね上がった。


エレオノーラさんの体が、 その衝撃で、 宙に、 弾き飛ばされた。

金の髪が、 朝日の中で、 翻った。

海面へと、 落ちていく。


「――エレオノーラさんッ!」


シロガネが、 跳んだ。


船の上から。

宙へ。

落ちていくエレオノーラさんの、 その下へ。


銀色の体が、 エレオノーラさんの体を、 背中で、 受け止めた。

そのまま、 一緒に、 海面へと、 落ちていった。

白い飛沫が、 上がった。


――一瞬の後。


海面に、 銀色の頭が、 浮かび上がった。

その背中に、 エレオノーラさんが、 しがみついていた。

咳き込みながら。

けれど、 生きていた。


近くの漁船が、 すぐに、 漕ぎ寄せていった。


「――行けッ!」


エレオノーラさんが、 海面から、 叫んだ。


「――今ですッ!」


海喰らいの頭は、 まだ、 空に向かって、 のけぞっていた。

右目を斬られた痛みに、 悶えていた。


その、 のけぞった頭の、 下。


喉が。

剥き出しに、 なっていた。


黒い鱗に覆われた、 太い喉。

その、 真ん中に。


一枚だけ。


逆向きに生えた、 鱗が。


朝日を受けて。

他の鱗とは、 違う角度で。

銀色に、 光っていた。


「――カイルさんッ!」

「――分かってるッ!」


カイルさんが、 舵を、 最後に、 一度だけ、 切った。


船首が、 海喰らいの、 胴体の、 付け根に。

ぶつかった。


僕は、 船首を、 蹴った。


跳んだ。


海喰らいの、 黒い鱗の、 胴体を。

蹴った。

鱗は、 濡れて、 滑った。

けれど、 足の裏に、 金色の光が、 宿っていた。

滑らなかった。


もう一度、 蹴った。

胴体を、 駆け上がった。


喉へ。

逆鱗へ。


海喰らいが、 気づいた。

のけぞっていた頭が。

こちらへと。

振り下ろされてきた。


残った、 左の目が。

僕を、 捉えた。


口が、 開いた。


間に合わない。


あの口が、 閉じる前に。

逆鱗まで、 届かない。


――そのとき。


黒いものが。

空を、 裂いた。


港の、 一番高い崖の、 その上から。


細い。

黒い。

短剣、 だった。


それが。

朝日の中を、 一筋の、 黒い線となって。

海喰らいの。

残った、 左の目に。


突き刺さった。


海喰らいが。

二度目の、 絶叫を、 上げた。


両目を失って。

頭が、 狂ったように、 振り回された。

開いていた口が、 空を噛んだ。

僕の、 頭上の、 何もない空間を。


その、 一瞬。


――剣は、 守るために振れ。


息を、 吐く。

肩の力を、 抜く。

親指は、 ここ。

小指で、 締める。

力を入れるのは、 振り下ろす最後の、 一瞬だけ。


逆鱗が。

目の前に、 あった。


金色の剣を。

逆手に、 持ち替えた。


その鱗の、 下の。

剥き出しの、 柔らかな、 皮膚に。


突き立てた。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




海が。

止まった。


そう、 感じた。


うねり狂っていた、 海喰らいの巨体が。

一瞬で。

凍りついたように。

動きを、 止めた。


入り江の、 荒れ狂っていた海面が。

渦が。

波が。

すべて。

ぴたりと。

静まり返った。


それから。


海喰らいの、 巨大な体が。

ゆっくりと。

本当に、 ゆっくりと。

傾き始めた。


樽のように太い胴体が。

入り江の口まで続く、 黒い、 生きた鎖が。

その全長にわたって。

力を、 失っていった。


僕は、 逆鱗に突き立てた剣を、 握りしめたまま。

傾いていく巨体から、 振り落とされないように、 しがみついていた。


海面が、 迫ってきた。


――落ちる。


剣を、 引き抜いた。

巨体を、 蹴った。


宙に、 舞った。


その、 落ちていく先に。


小さな船が、 待っていた。


カイルさんの船。


カイルさんが、 船尾から、 身を乗り出して。

両腕を、 大きく、 広げていた。


僕は、 その腕の中に。

落ちていった。


船が、 大きく、 揺れた。

カイルさんと、 僕と、 二人で、 船底に、 転がった。

海水が、 跳ねた。


背後で。


海喰らいの巨体が。

入り江の海に。

沈んでいった。


轟音。

白い、 巨大な水柱。

その水柱が、 朝日を受けて。

七色の、 虹を。

入り江の空に。

描いた。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




静寂が、 あった。


それから。


港の、 岸壁から。

入り江の、 漁船たちの上から。

斜面の、 白い漆喰の家々の、 窓という窓から。


歓声が。

爆発した。


「――やったぞおおおおッ!」

「――海喰らいが、 沈んだああああッ!」

「――カイルだッ! カイルが、 やったぞッ!」

「――候補の勇者様だッ!」

「――セイレンの、 海が、 戻ってきたぞおおおおッ!」


漁船の上で、 漁師たちが、 抱き合っていた。

銛を、 天に、 突き上げていた。

泣いていた。

笑っていた。


岸壁の、 一番先端で。

オーダさんが、 櫂を、 握りしめたまま。

その場に、 膝をついていた。

両手で、 顔を、 覆っていた。

その肩が、 激しく、 震えていた。


青い光が、 消えた。

剛が、 岸壁の上に、 仰向けに、 倒れていた。

大きな胸が、 激しく、 上下していた。

その顔が、 空を見上げて、 笑っていた。


見張り台の上で、 古賀が、 両手を、 天に、 突き上げていた。

何かを、 叫んでいた。

声が、 嗄れて、 もう、 聞き取れなかった。


近くの漁船の上で、 エレオノーラさんが、 ずぶ濡れの体で、 シロガネを、 抱きしめていた。

シロガネが、 エレオノーラさんの頬を、 ざらりと、 舐めていた。

エレオノーラさんが、 声を上げて、 笑った。

王女の、 あんな笑い声を聞いたのは、 初めてだった。


そして。


カイルさんの船の、 船底で。

カイルさんが、 仰向けに、 倒れたまま。

空を、 見上げていた。


虹が、 消えかけていた。


「……読めた」


カイルさんが、 掠れた声で、 つぶやいた。


「……今度は……ちゃんと……読めた……」


カイルさんの目から。

涙が。

こめかみを伝って。

船底の、 海水の中に。

落ちていった。


「……ありがとう、 カイルさん」

僕は、 カイルさんの隣に、 仰向けに、 倒れたまま、 言った。

「カイルさんが、 いなかったら。 届かなかった」


カイルさんは、 何も、 言わなかった。

ただ、 震える手を、 僕のほうに、 伸ばしてきた。

その手を、 握った。

日に焼けた、 節くれだった、 漁師の手。

網を繕い、 舵を握り、 この海と、 ずっと、 生きてきた手。


「……あんた」

カイルさんが、 言った。

「……本当に、 候補なのか」

「……はい。 たぶん」

「……そっか」


カイルさんは、 小さく、 笑った。


「……なら、 候補の勇者で、 いいや。 ……俺の中では」




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




港の、 一番高い崖の、 その上を。


僕は、 船底に仰向けに倒れたまま。

ずっと、 見上げていた。


あの、 黒い短剣が、 飛んできた場所。


崖の上には。

もう、 誰の姿も、 なかった。


ただ、 朝の潮風が。

崖の縁の、 草を。

静かに、 揺らしていた。


けれど。


胸のポケットの職業札の、 金色の灯の中に。

ほんのわずかに。

本当に、 ほんのわずかに。

どこか、 遠くから届いた、 灯が。

一つ。

混じっている気がした。


細くて。

震えていて。

今にも、 消えてしまいそうな。


けれど。

確かに。


灯って、 いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。