第38話「屋根の上の刃」
影は、 落ちてきたのではなかった。
降りてきた、 のだった。
天井の、 瓦一枚分の隙間から。
月光の、 その細い一筋を、 まるで、 糸のように伝って。
音もなく。
羽毛が、 風のない夜に、 舞い降りるように。
屋根裏部屋の床に、 足が、 触れた。
その瞬間にも、 音は、 しなかった。
床板の、 古い、 乾いた木。
僕が歩けば、 必ず、 ぎしりと、 軋む板。
その上に、 影は、 立っていた。
板は、 鳴らなかった。
まるで、 影には、 重さというものが、 ないかのように。
黒い外套。
細身の体。
前髪で、 目元を、 隠した顔。
月光が、 その横顔の、 輪郭だけを、 白く、 縁取っていた。
桐生。
その右手に。
黒い短剣が、 逆手に、 握られていた。
「……桐生」
声が、 掠れた。
桐生は、 答えなかった。
ただ。
動いた。
――消えた。
そうとしか、 見えなかった。
月光の中に立っていた影が、 次の瞬間には、 もう、 そこに、 いなかった。
屋根裏部屋の、 闇の中に。
溶けて。
消えた。
【影歩き】。
暗殺者の、 スキル。
古賀が、 旅の途中で、 ヴェルダさんの記録を読み上げながら、 教えてくれた。
影から、 影へ。
光の届かない場所を、 渡り歩く。
姿を消すのではない。
影そのものに、 なる。
屋根裏部屋は、 狭かった。
天井は、 低く、 斜めに傾いていた。
窓は、 一つだけ。
その窓から差し込む月光は、 細く、 頼りなく、 部屋の、 ほんの一角しか、 照らしていなかった。
残りは、 すべて、 影だった。
部屋の、 ほとんどが。
桐生の、 領域だった。
――どこから、 来る。
剣を、 抜いた。
アルベルトさんの鋼の剣が、 鞘を滑る音が。
静まり返った屋根裏部屋に、 やけに、 大きく、 響いた。
構えた。
親指は、 ここ。
小指で、 締める。
耳を、 澄ませた。
何も、 聞こえなかった。
潮騒だけが。
窓の外から。
寄せては、 返していた。
――いや。
潮騒の、 その、 寄せて、 返す、 合間に。
かすかな。
本当に、 かすかな。
息の、 音。
右だ。
体が、 動いた。
右へ、 剣を、 振るった。
刃が、 闇を、 裂いた。
手応えは、 なかった。
代わりに。
左の首筋に。
冷たいものが、 触れた。
鋼の、 冷たさ。
黒い短剣の、 刃が。
僕の、 首筋の、 脈の打つ場所に。
ぴたりと。
当てられていた。
背後から。
桐生の、 息が、 聞こえた。
すぐ、 耳元で。
浅く。
速く。
震えていた。
「……動くな」
掠れた、 声だった。
僕は、 動かなかった。
首筋の刃が、 わずかに、 皮膚に、 食い込んだ。
熱いものが、 一筋、 首を、 伝い落ちていった。
「……右に、 振ったな」
桐生が、 耳元で、 言った。
「……俺の、 息の音を、 聞いたんだろ。 ……わざと、 聞かせたんだよ」
――罠、 だった。
「……お前の剣は、 素直すぎる。 志賀が、 決闘のとき、 そう言ってた。 ……その通りだ」
首筋の刃が。
小刻みに、 震えていた。
桐生の手が。
震えていた。
「……桐生」
僕は、 動かずに、 言った。
「黒蛇に、 命じられたんだね。 僕を、 殺せって」
「……」
「……殺さないと、 桐生が、 殺されるんだね」
首筋の刃が。
びくりと、 跳ねた。
「……なんで、 知ってる」
「三日前の夜に、 言ってた。 『殺さなきゃ、 いけなくなる』って。 ……殺したい、 じゃなくて」
背後で。
桐生の、 息が、 止まった。
「……桐生。 僕は、 桐生と、 戦う理由が、 ない」
僕は、 剣を、 下ろした。
床に、 そっと、 置いた。
アルベルトさんの鋼の剣が、 古い床板の上に、 横たわった。
「……っ」
首筋の刃が、 激しく、 震えた。
「……なんで、 剣を、 置く」
桐生の声が、 震えた。
「……俺は、 お前の、 首に、 刃を当ててるんだぞ。 ……あと、 ほんの少し、 力を入れたら、 お前は、 死ぬんだぞ」
「……うん」
「……怖く、 ないのかよ」
「怖いよ」
僕は、 正直に、 言った。
「すごく、 怖い。 心臓が、 破裂しそうなくらい」
「……なら、 なんで」
「でも、 剣を持ったまま、 桐生と話したくなかった」
背後で。
桐生の、 掠れた息が。
嗚咽のように、 乱れた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
そのとき。
僕の首筋に当てられた刃の、 その向こうで。
桐生の首筋に。
黒い光が、 灯った。
目の端で、 それが、 見えた。
桐生の、 外套の襟の、 その下。
首の、 左側。
白い肌の上に。
黒い、 紋様が、 浮かび上がっていた。
蛇、 だった。
とぐろを巻き、 鎌首をもたげた、 小さな、 黒い蛇の紋様。
王都の港の三番倉庫の壁に。
リンドールの、 黒蛇の拠点の壁に。
描かれていたのと、 同じ。
その蛇の紋様が。
脈打つように。
黒く。
鈍く。
光っていた。
「――ぐ、 あ……ッ!」
桐生が、 呻いた。
首筋の刃が、 大きく、 揺れた。
皮膚が、 また、 少しだけ、 裂けた。
「……っ、 う、 ああ……ッ!」
蛇の紋様が。
蠢いていた。
本当に、 生きた蛇のように。
桐生の、 首の、 白い肌の上を。
ゆっくりと。
這うように。
とぐろを、 締めつけるように。
桐生の、 首を。
「……桐生ッ!」
僕は、 振り返ろうとした。
その瞬間。
首筋の刃に。
力が、 込められた。
――違う。
桐生の、 意思では、 なかった。
刃を握る、 桐生の手が。
桐生の意思とは、 関係なく。
まるで、 見えない糸に、 引かれるように。
僕の首を。
掻き切ろうと。
「――や、 め……ッ!」
桐生が、 叫んだ。
自分自身の、 手に、 向かって。
「――やめろ……ッ! 動くなッ! 俺の手だろッ! 止まれッ!」
刃が。
震えながら。
僕の首筋を、 なぞろうとしていた。
桐生の、 左手が。
自分の、 右手首を、 握りしめていた。
必死に。
引き戻そうとしていた。
右手は、 進もうとし。
左手は、 止めようとし。
その、 せめぎ合いの中で。
黒い短剣の刃が。
僕の首筋の、 皮膚の上で。
細かく、 細かく、 震えていた。
――呪印、 だ。
旅の途中で、 澪さんが、 話してくれた。
命を、 縛る、 呪い。
術者の命令に、 背こうとすれば。
呪われた者の体は、 その意思に反して、 命令に、 従わされる。
それでも、 背き続ければ。
呪印は、 首を、 締めつけて――。
「――シロガネッ!」
叫んだ。
銀色の影が、 跳んだ。
床の上から。
音もなく。
けれど、 稲妻のように、 速く。
シロガネの牙が。
桐生の、 右手首の、 黒い短剣の、 その柄を。
咥えて。
引いた。
刃が。
僕の首筋から。
離れた。
僕は、 床に、 転がった。
床に置いた、 アルベルトさんの剣を、 掴んだ。
立ち上がった。
振り返った。
桐生が。
屋根裏部屋の、 月光の、 その真ん中に。
膝を、 ついていた。
黒い短剣は、 もう、 その手に、 なかった。
シロガネが、 それを、 咥えたまま、 部屋の隅に、 立っていた。
桐生は、 両手で、 自分の首を、 押さえていた。
指の間から。
黒い、 蛇の紋様が。
蠢いていた。
締めつけていた。
「――が、 は……ッ!」
桐生の顔が、 赤黒く、 変わっていった。
唇が、 紫色に、 なっていった。
息が、 できていなかった。
――命令に背いた。
僕を、 殺さなかった。
だから、 呪印が。
「――桐生ッ!」
駆け寄った。
桐生の首に、 手を、 伸ばした。
その手が、 桐生の首の、 黒い蛇の紋様に、 触れた。
――冷たい。
氷よりも、 冷たかった。
いや、 冷たいのではなかった。
熱を、 奪われていく感覚。
指先から。
手のひらから。
腕から。
体の中の、 温かいものが、 すべて、 黒い蛇の中へと、 吸い込まれていくような。
けれど。
手を、 離さなかった。
胸のポケットが。
熱く、 なった。
職業札が。
灯った。
――灯を、 分かつ。
僕の手のひらから。
金色の光が。
滲み出した。
その光が。
桐生の首の、 黒い蛇の紋様に。
触れた。
蛇が。
身を、 よじった。
金色の光を、 嫌がるように。
とぐろを、 わずかに。
緩めた。
桐生の喉から。
ひゅう、 と。
細い息が、 漏れた。
「――桐生ッ! 息をしてッ!」
桐生が、 喘いだ。
一度。
二度。
赤黒かった顔に、 少しだけ、 血の色が、 戻った。
けれど。
蛇の紋様は、 消えなかった。
緩めただけだった。
まだ、 そこに、 いた。
金色の光の下で。
じっと。
とぐろを、 巻いていた。
まるで、 次の機会を、 待つように。
――足りない。
僕一人の灯では。
足りない。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――白峰殿ッ!」
屋根裏部屋の、 階段の下から。
エレオノーラさんの声が、 響いた。
続いて、 剛の、 重い足音。
古賀の、 慌ただしい足音。
そして。
「――白峰くんッ!」
澪さんの、 声。
その声を、 聞いた瞬間。
桐生が。
弾かれたように、 顔を、 上げた。
前髪の奥の、 目が。
大きく、 見開かれていた。
それから。
その目が、 僕を、 見た。
ほんの、 一瞬。
何かを、 言おうとして。
唇が、 震えて。
「……三枝、 さんに」
掠れた、 声だった。
「……ごめん、 って」
桐生は。
窓へと、 跳んだ。
【影歩き】。
月光の届かない、 窓枠の影へ。
その影から。
屋根の、 瓦の影へ。
「――桐生ッ!」
窓に、 駆け寄った。
窓の外の、 屋根の上を。
黒い影が。
瓦から、 瓦へ。
屋根から、 屋根へ。
月光を、 避けるように。
影から、 影へと。
渡っていくのが、 見えた。
港町の、 白い漆喰の壁と、 赤茶けた瓦屋根の、 その連なりの上を。
細い、 銀の鎌のような月の、 頼りない光の下を。
一度だけ。
影が、 立ち止まった。
遠くの、 屋根の、 一番高いところで。
振り返った。
――気が、 した。
それから。
影は、 港町の、 闇の中へと。
完全に。
消えていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――白峰くん、 首……!」
澪さんが、 屋根裏部屋に、 飛び込んできた。
僕の首筋の、 二筋の、 浅い傷を見て。
その顔から、 血の気が、 引いた。
「……大丈夫。 浅いから」
「……浅くても、 傷は、 傷」
澪さんは、 震える手で、 薬草の包みを、 開いた。
いつもの言葉。
いつもの、 震える手。
部屋の隅で、 シロガネが、 咥えていた黒い短剣を、 床に、 そっと、 置いた。
古賀が、 それを、 拾い上げた。
月光に、 かざした。
「……リンドールの、 治療所の、 あの短剣と、 同じだ」
古賀が、 低く、 言った。
「柄の、 革の下に……また、 何か、 彫ってある」
古賀の指が、 柄の革を、 そっと、 めくった。
そこに。
小さな、 小さな、 日本語の文字が。
ナイフの先で。
刻みつけられていた。
『白峰 逃げろ』
古賀の手が、 震えた。
「……桐生、 あいつ」
エレオノーラさんが、 窓辺に、 歩み寄った。
桐生が消えていった、 港町の闇を、 見つめた。
「……白峰殿。 今の者が、 例の」
「……はい。 桐生です。 僕の、 ゼミの仲間です」
「……首に、 何か、 ありましたね」
僕は、 うなずいた。
「……呪印、 だと思います。 黒い、 蛇の形の。
桐生が、 僕を殺そうとしなかったから、 その呪印が、 桐生の首を、 締めつけた」
澪さんの、 薬草を塗る手が。
止まった。
「……呪印」
澪さんの声が、 硬く、 なった。
「……命を、 縛る、 呪い。
……マルガさんの倉庫で、 治療所を開いてたとき、 イルマさんから、 聞いたの。
黒蛇の、 手下になる者は、 みんな、 首に、 その印を、 刻まれるって。
……裏切ったり、 命令に、 背いたりしたら」
澪さんは、 その先を、 言わなかった。
「……僕の灯で、 少しだけ、 緩められた」
僕は、 自分の、 手のひらを、 見下ろした。
まだ、 黒い蛇の、 あの、 熱を奪われていくような冷たさが、 残っていた。
「でも、 消せなかった。 僕一人の灯じゃ、 足りなかった」
――灯は、 独りでは、 燃えず。
暁の神殿の、 石版の言葉が。
頭の中で、 静かに、 響いた。
「……桐生は、 また、 来ると思う」
僕は、 窓の外の、 闇を、 見つめた。
「黒蛇の頭目に、 命じられてる限り。 僕を殺すまで。
……あるいは、 呪印が、 桐生を、 殺すまで」
剛が、 窓辺に立つ僕の、 隣に、 並んだ。
「……難しいことは、 分からんが」
「うん」
「次に、 あいつが来たときは。 お前、 一人で、 相手するなよ」
剛は、 大きな手で、 僕の肩を、 掴んだ。
「お前の灯が、 一人分じゃ足りないなら。 俺たちの分も、 使え。
……壁は、 いつでも、 お前の隣にいる」
エレオノーラさんが、 小さく、 うなずいた。
古賀が、 黒い短剣を、 握りしめたまま、 うなずいた。
澪さんが、 僕の首筋に、 最後の包帯を、 巻き終えて。
何も言わずに。
その手を、 僕の肩に、 そっと、 置いた。
シロガネが、 僕の足元に、 来た。
銀色の頭を、 僕の膝に、 押しつけた。
胸のポケットが。
温かかった。
「……ありがとう、 みんな」
窓の外で。
潮騒が。
寄せては、 返していた。
新月まで。
あと、 六日。




