第37話「潮騒の港」
潮の匂いは、 風よりも先に、 やってきた。
南へと続く街道の、 最後の丘を越える、 少し手前。
乾いた草の匂いに混じって、 湿った、 塩辛い、 どこか生臭い匂いが、 鼻の奥を、 くすぐった。
シロガネが、 くしゃみを、 一つした。
それから、 鼻を、 南の空へと、 向けて、 何度も、 何度も、 匂いを嗅いだ。
丘の頂に、 立った。
海が、 あった。
視界の端から、 端まで。
空と、 同じくらい、 広く。
空よりも、 深く、 青く。
午後の陽光を、 無数の銀の鱗のように、 照り返しながら。
どこまでも、 どこまでも、 続いていた。
「……海、 だ」
剛が、 御者台の上で、 呆然と、 つぶやいた。
元の世界では、 何度も、 見たことがあるはずの、 海。
けれど、 この世界に来てから、 初めて見る海は。
なぜか、 胸の奥を、 締めつけるほどに、 青かった。
丘の麓に、 港町が、 広がっていた。
白い漆喰の壁に、 赤茶けた瓦屋根の家々が、
入り江を囲むように、 斜面に、 段々に、 積み重なっていた。
入り江の中には、 小さな漁船が、 何十艘も、 舫われていた。
その向こう、 入り江の口の、 さらに沖合いに。
小さな、 岩の島が、 一つ、 浮かんでいた。
島の頂に、 白い、 何かが、 見えた。
柱のような。
屋根のような。
「……あれが、 潮の神殿」
古賀が、 羊皮紙の地図と、 島を、 見比べながら、 言った。
「潮見島。 大陸の南の端の、 神殿だよ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
港町セイレンは、 静かだった。
静かすぎた。
港町というのは、 もっと、 騒がしいものだと思っていた。
リンドールの荷揚げ場のように。
魚を売る声。
網を繕う女たちの笑い声。
船を出す男たちの掛け声。
けれど、 セイレンの港には、 そのどれも、 なかった。
舫われた漁船は、 どれも、 帆を、 畳んだままだった。
船底に、 海藻が、 びっしりと、 張りついていた。
もう、 何十日も、 海に、 出ていないのだろう。
岸壁の上には、 網が、 干されたまま、 放置されていた。
潮風に晒されて、 白く、 色褪せていた。
魚の市場の、 石の台の上には、 魚一匹、 載っていなかった。
その市場の、 隅の日陰に。
漁師らしい男たちが、 何人も、 膝を抱えて、 座り込んでいた。
日に焼けた、 逞しい腕。
けれど、 その目は、 どこか、 虚ろだった。
ただ、 ぼんやりと、 海を、 見つめていた。
「……何か、 あったんでしょうか」
エレオノーラさんが、 眉をひそめた。
「――海喰らい、 さ」
背後から、 嗄れた声が、 した。
振り返ると、 一人の老婆が、 立っていた。
小柄で、 腰は、 曲がっていなかった。
むしろ、 しゃんと、 背筋を伸ばしていた。
日に焼けて、 潮風に削られた、 深い皺の顔。
白髪を、 頭の後ろで、 きつく、 束ねていた。
その手に、 船の櫂を、 杖代わりに、 握っていた。
櫂の柄は、 何十年も握られ続けて、 黒く、 艶やかに、 光っていた。
「セイレンの網元、 オーダだよ」
老婆は、 櫂の先で、 石畳を、 こつんと叩いた。
「あんたたちが、 王都から来たっていう、 候補の勇者様ご一行かね。
リンドールのマルガから、 早馬で、 知らせが来てたよ。
『命の恩人が、 南へ向かった。 よしなに』ってね」
オーダさんは、 沖合いの、 潮見島を、 櫂の先で、 示した。
「ふた月前さ。 あの島の、 向こうの、 深い海から。 化け物が、 一匹、 上がってきた」
オーダさんの声が、 低くなった。
「船よりも、 長い。 鱗は、 黒くて、 鉄みたいに、 硬い。
頭は、 竜みたいで、 口は、 船を、 丸ごと、 呑み込めるくらい、 でかい。
……あたしらは、 海喰らい、 と呼んでる」
オーダさんは、 市場の隅で、 膝を抱える漁師たちを、 ちらりと見た。
「最初の、 七日で。 船が、 五艘、 沈んだ。
乗ってた漁師が、 十二人、 帰ってこなかった。
……それから、 誰も、 海に出られなくなった」
オーダさんの、 櫂を握る手に、 力がこもった。
黒く光る櫂の柄が、 ぎしりと、 軋んだ。
「この町はね、 海で、 食ってる町なんだ。 海に出られなけりゃ、 何もない。
ふた月で、 蓄えは、 底をついた。 若い連中は、 北の町へ、 出稼ぎに出ていった。
残ってるのは、 年寄りと、 女と、 子どもと。
……それから、 あそこで、 海を見てるだけの、 船乗りたちさ」
「領主様や、 騎士団には」
エレオノーラさんが、 尋ねた。
オーダさんは、 鼻で、 笑った。
「とっくに、 頼んださ。 領主様は、 冒険者を、 三組、 雇ってくれた。
三組とも、 船ごと、 海喰らいの腹の中さ。
それからは、 もう、 誰も、 来やしない。
……王都の騎士団は、 北の魔王軍の相手で、 手一杯だって話だしね」
オーダさんは、 僕を、 じっと、 見上げた。
潮風に削られた、 深い皺の奥の、 鋭い目で。
「――で、 候補の勇者様。 潮の神殿に、 行きたいんだって?」
「はい」
「あの島へは、 船じゃ、 行けないよ。
島の周りは、 岩礁だらけで、 船を寄せられない。
……でもね」
オーダさんは、 沖合いを、 櫂で、 示した。
「月に一度。 新月の夜明けに、 大干潮が来る。
そのときだけ、 潮が、 ずうっと、 沖まで、 引いてね。
浜から、 島まで、 砂の道が、 現れるんだ。 歩いて、 渡れる道がね」
「次の新月は」
「七日後さ」
オーダさんは、 そこで、 言葉を切った。
それから、 声を、 低くした。
「――ただね。 その砂の道は、 海喰らいの、 縄張りの、 ど真ん中を、 通ってる」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
オーダさんの家は、 港を見下ろす、 斜面の中ほどに、 あった。
白い漆喰の壁に、 赤茶けた瓦屋根。
狭い庭に、 網と、 浮きと、 錆びた錨が、 積み上げられていた。
「網元の家ってのは、 こんなもんさ。 狭いけど、 雨風くらいは、 しのげるよ」
家の中に、 一人の若者が、 いた。
日に焼けた、 浅黒い肌。
潮風で、 色の抜けた、 茶色の髪。
年は、 たぶん、 僕たちと、 同じくらい。
その若者が、 部屋の隅で、 網を、 繕っていた。
大きな、 節くれだった手が、 太い糸を、 器用に、 網の目に、 通していた。
けれど、 その右足は。
膝から下が、 なかった。
木の義足が、 床の上に、 投げ出されていた。
「孫の、 カイルだよ」
オーダさんが、 言った。
カイルさんは、 網から、 顔を上げた。
僕たちを、 見た。
その目が、 一瞬だけ、 鋭く、 細められた。
「……勇者様、 ねえ」
カイルさんの声は、 低く、 冷たかった。
「ふた月前にも、 来たよ。 勇者様みたいな連中が。 王
都で名の知れた冒険者だって、 威張り散らして。
海喰らいなんて、 一撃だって、 豪語して」
カイルさんの手が、 網を、 握りしめた。
「……俺が、 その連中の船の、 舵を、 握った。 この海で、 一番、 潮を読めるのは、 俺だったから」
カイルさんは、 自分の右膝を、 見下ろした。
「……海喰らいが、 船の真下から、 来た。 船が、 真っ二つに、 割れた。
冒険者は、 三人とも、 海喰らいの口の中に、 消えた。
俺は、 割れた船の板に、 しがみついて。 ……右足を、 海喰らいの牙に、 持っていかれた」
部屋の中が、 静まり返った。
「……だから、 悪いけど」
カイルさんは、 また、 網に、 視線を、 落とした。
「勇者様って言葉は、 もう、 信じてないんだ」
オーダさんが、 何か、 言いかけた。
僕は、 それを、 手で、 そっと、 制した。
それから、 カイルさんの前に、 しゃがみ込んだ。
「……僕は、 勇者じゃ、 ありません」
カイルさんの手が、 止まった。
「候補、 です。 神様に、 そう書かれました。 勇者かどうかは、 まだ、 誰にも、 分からない」
僕は、 カイルさんの、 繕いかけの網を、 見つめた。
「だから、 海喰らいを、 一撃で倒せるなんて、 言えません。 ……でも」
顔を、 上げた。
「カイルさんの、 足のこと。 冒険者の人たちのこと。
沈んだ五艘の船の、 十二人の漁師さんたちのこと。
ちゃんと、 覚えておきます。
そして、 もし、 僕たちが、 海喰らいと戦うことになったら。
……一人じゃなく、 この町の人たちと、 一緒に、 戦いたいと思っています」
カイルさんは、 長い間、 黙っていた。
それから、 網を、 膝の上に、 置いた。
僕を、 じっと、 見た。
「……変な奴だな、 あんた」
「最近、 よく、 言われます」
カイルさんの口元が、 ほんのわずかに。
本当に、 ほんのわずかに。
動いた気がした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
オーダさんの家の、 二階の、 小さな屋根裏部屋。
僕は、 窓辺に、 腰かけていた。
窓の外に、 夜の海が、 広がっていた。
月は、 半月がさらに欠けていた。
七日後の新月に向かって、 少しずつ、 少しずつ、 痩せていく、 銀の鎌のような月。
その頼りない光が、 黒い海面に、 一筋の、 震える道を、 描いていた。
潮騒が、 聞こえていた。
寄せては、 返す。
寄せては、 返す。
岩に砕けて、 白く泡立ち、 また、 黒い海へと、 引いていく。
その音が、 一定の間隔で、 夜の静けさを、 刻んでいた。
まるで、 海そのものが、 呼吸をしているように。
沖合いの、 潮見島が、 月光の中に、 黒い影となって、 浮かんでいた。
その頂の、 白い神殿だけが、 ぼんやりと、 淡く、 光っていた。
シロガネは、 屋根裏部屋の、 床の上で、 丸くなって、 眠っていた。
剛と、 古賀は、 隣の部屋で、 鼾をかいていた。
エレオノーラさんと、 澪さんは、 一階の、 オーダさんの部屋の隣に、 寝床を、 借りていた。
僕だけが、 眠れなかった。
――お前を、 殺さなきゃ、 いけなくなる。
三日前の夜、 林の闇の中から、 聞こえた声。
桐生は、 リンドールから、 ずっと、 ついてきている。
姿は、 見えない。
気配も、 ほとんど、 感じない。
けれど、 シロガネが、 ときおり、 唸らずに、 じっと、 闇の一点を見つめることがあった。
そのたびに、 僕は、 そこに、 桐生がいるのだと、 思った。
黒蛇の頭目に、 何かを、 命じられたのだろう。
僕を、 殺せ、 と。
それでも、 桐生は、 まだ、 何もしていない。
リンドールの治療所では、 澪さんを、 救ってくれた。
三日前の夜は、 「近づくな」と、 警告してくれた。
殺したい、 のではない。
殺さなければ、 ならない。
その違いが、 胸の奥に、 ずっと、 棘のように、 刺さっていた。
窓の外で。
潮騒が、 一瞬、 途切れた。
――いや。
途切れたのでは、 なかった。
潮騒は、 続いていた。
寄せては、 返していた。
けれど、 その音の、 ほんのわずかな、 隙間に。
別の音が、 紛れ込んでいた。
瓦を、 踏む音。
かすかに。
本当に、 かすかに。
猫が、 屋根の上を歩くよりも、 なお、 静かに。
屋根の上を。
誰かが。
こちらへ、 近づいてきていた。
シロガネが、 目を、 開けた。
唸らなかった。
床の上で、 音もなく、 体を、 起こした。
金色の瞳が、 屋根裏部屋の、 天井を、 見上げていた。
天井の、 その一点を。
足音が、 止まった。
僕の、 真上で。
僕は、 窓辺から、 ゆっくりと、 立ち上がった。
寝台の脇に立てかけてあった、 アルベルトさんの鋼の剣に、 手を、 伸ばした。
指先が、 柄に、 触れた。
その瞬間。
天井の、 瓦が。
音もなく。
一枚、 外れた。
その隙間から。
月光が、 一筋。
屋根裏部屋の、 床に。
差し込んできた。
そして、 その月光を、 遮るように。
黒い影が。
落ちてきた。




