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【最終章突入】職業「勇者」って言われたのですが、一緒に転移した同級生いわく違うらしい ~正しい職業を知りたい今日この頃~  作者: 有馬 茶
第2部 ~巡礼~

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第36話「川の街を発つ」

リンドールを発つ朝は、 霧が、 川面を覆っていた。


リンド川の上に、 白い、 柔らかな霧が、 綿のように、 低く垂れ込めていた。

その霧の中から、 平底船の帆柱だけが、 何本も、 墨で描いた線のように、 突き出していた。

船頭たちの掛け声が、 霧の向こうから、 くぐもって、 聞こえてきた。

姿の見えない声。

見えないけれど、 確かに、 そこにある、 人々の営み。


マルガさんの倉庫の前に、 幌馬車と、 馬が、 並んでいた。


「……本当に、 行くの」


倉庫の入り口で、 姫野さんが、 白い前掛けの裾を、 両手で、 握りしめていた。

化粧は、 もう、 していなかった。

くるくると巻いていた髪は、 後ろで、 一つに、 きつく、 束ねられていた。

その顔は、 五日前の、 硝子張りの店のカウンターの向こうにいた姫野さんよりも、 ずっと、 幼く見えた。


「……うん」

澪さんが、 うなずいた。

「……南の、 潮の神殿へ」

「……あたし、 一人で、 ここを、 回せるかな」

姫野さんの声が、 震えた。

「……二十人も、 いるんだよ。 毎日、 新しい人が、 来るんだよ。

 あたし、 調合見習いだよ。 薬草の名前だって、 まだ、 半分も、 覚えてないのに」


澪さんは、 何も言わずに、 倉庫の奥へと、 歩いていった。

そして、 一冊の、 分厚い帳面を、 抱えて、 戻ってきた。


「……これ」


帳面を、 姫野さんの手に、 押しつけた。


姫野さんが、 表紙を、 開いた。

そこには、 澪さんの、 小さく、 几帳面な文字が、 びっしりと、 並んでいた。


『魔力中毒の治療の手順。 一日目。 二日目。 三日目』

『患者ごとの、 薬の量の決め方』

『離脱症状が、 ひどくなったときの、 対処』

『黒鱗粉による、 重度の中毒の場合。

   ――姫野さんと、 二人で作った、 あの雫の、 作り方』


最後のページに。

少しだけ、 大きな文字で。

こう、 書かれていた。


『分からないことがあったら、 イルマさんに聞いて。 患者さんに聞いて。

 自分の目で、 確かめて。

 ……そして、 害をなさないこと。 それさえ守れば、 大丈夫』


姫野さんの肩が、 震えた。


「……柚木さん、 これ、 いつ……」

「……三日、 かけて。 夜に」

澪さんは、 少しだけ、 目を逸らした。

「……私が、 いなくても、 大丈夫なように」


「――それと、 わたしも、 おりますよ」


背後から、 落ち着いた女性の声が、 した。

振り返ると、 灰色の長衣を纏った、 背の高い、 初老の女性が、 立っていた。

リンドール薬師ギルドの長、 イルマさんだった。

「この治療所は、 今日から、 薬師ギルドの、 正式な施療所となります。

 わたしが、 毎日、 様子を見に参りましょう。

 ……王都の柚木殿が、 これほど丁寧な手引きを、 遺していってくださったのですから。

 ギルドとして、 恥ずかしい真似は、 できません」


イルマさんは、 姫野さんを、 静かに、 見下ろした。

「姫野殿。 あなたの錬成の腕は、 まだ、 残っていると聞きました。

 調合見習いであろうと、 その腕を、 正しく使えば、 人は、 救えます。

 ……ギルドの中で、 一から、 学び直しなさい」


姫野さんは、 帳面を、 胸に、 抱きしめた。

それから、 澪さんに、 向き直った。


「……柚木さん」

「……なに」

「……三年、 頑張る。 ……それで、 三年経ったら。

 ……ちゃんと、 自分の目で、 確かめた、 本当に、

 人を救えるポーションを、 作れるように、 なってるから」


姫野さんは、 泣き笑いのような顔で、 言った。

「……そしたら、 また、 会いに来てくれる?」


澪さんは、 少しだけ、 黙った。

それから。

ほんのわずかに、 口元を、 緩めた。


「……うん。 約束」




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




倉庫の前の、 石畳の上で。

小さな影が、 シロガネの首に、 しがみついていた。


ニコくんだった。


「……いやだ」

シロガネの銀色の毛並みに、 顔を埋めたまま、 ニコくんは、 くぐもった声で、 言った。

「……シロガネと、 おにいちゃんと、 いっしょに、 いく」

「ニコ」

マルガさんが、 困ったように、 ニコくんの肩に、 手を置いた。

「勇者様たちは、 遠い、 危ない旅に出られるんだよ。 ニコは、 叔母さんと、 ここで――」

「――いやだッ!」


ニコくんが、 顔を、 上げた。

涙で、 ぐしゃぐしゃだった。


「……だって、 おとうさんも、 おかあさんも、 いなくなっちゃった……!

 シロガネも、 おにいちゃんも、 いなくなったら……! ぼく……ぼく……!」


ニコくんの声が、 嗚咽に、 変わった。


森で救い出してから、 十日余り。

ニコくんは、 一度も、 両親のことを、 口にしなかった。

尋ねないことで。

口にしないことで。

何かを、 必死に、 守っていた。


その、 小さな堤が。

今、 崩れていた。


僕は、 ニコくんの前に、 しゃがみ込んだ。


「……ニコくん」

「……っ、 う……」

「お父さんと、 お母さんのこと。 ずっと、 我慢してたんだね」

ニコくんの、 小さな肩が、 びくりと、 跳ねた。

「我慢しなくて、 いいよ。 泣いて、 いいんだ」


ニコくんは、 シロガネの首から、 手を、 離した。

そして、 僕の胸に、 飛び込んできた。

小さな拳で、 僕の外套を、 握りしめて。

声を上げて。

泣いた。


僕は、 その小さな体を、 抱きしめた。

何も言わずに。

ただ、 ニコくんが、 泣き止むまで。


シロガネが、 ニコくんの背中に、 鼻先を、 そっと、 押しつけていた。


どれくらい、 そうしていただろう。

ニコくんの嗚咽が、 少しずつ、 静まっていった。


「……ニコくん」

「……う、 ん」

「僕たちは、 旅の途中で、 必ず、 またリンドールに戻ってくる。

 だから、 そのときまで、 叔母さんと、 ここで、 待っててくれないかな」

「……ほんと?」

「ほんと。 約束する」


胸のポケットが、 ふわりと、 温かくなった。


ニコくんは、 しゃくりあげながら、 僕の顔を、 見上げた。

それから、 シロガネを、 見た。


「……シロガネも?」


シロガネが、 ニコくんの頬を、 ざらりと、 舐めた。

それから、 一度だけ、 大きく、 尾を、 振った。


ニコくんは、 涙で濡れた顔で。

ようやく。

少しだけ、 笑った。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆








リンドールを発って、 三日目の夜。


南へと続く街道の、 野営地。

焚き火を囲んで、 僕たちは、 ヴェルダさんにもらった水晶の欠片を、 覗き込んでいた。


一日に一度、 ほんの少しの間だけ、 王都のヴェルダさんに、 声が届く。

この旅で、 初めて、 それを使ったのは、 暁の神殿を出た日の夜だった。

『ごめん みんな』。

日本語の、 その碑文のことを、 伝えたとき。

水晶の向こうで、 ヴェルダさんは、 長い間、 何も、 言わなかった。


『――……繋がってるかい、 坊や』


水晶の欠片の中に、 淡い光が、 灯った。

その光の奥から、 ヴェルダさんの、 しわがれた声が、 響いてきた。


「はい、 聞こえます」

『……あれから、 三百年前の記録を、 片っ端から、 洗い直したよ。

  宇佐美の坊やも、 手伝ってくれてる』

「宇佐美が?」

『ああ。 王都に着いて、 すぐに、 あたしの塔に、 顔を出したよ。

 ひびの入った眼鏡のまんまでね。

 ……物知り、 ってのは、 大したもんさ。 書庫の古文書を、 片っ端から、 読み漁ってる。

  「論理的に」が口癖なのは、 相変わらずだけどねぇ』


ヴェルダさんの声が、 少しだけ、 笑った。

それから、 すぐに、 真剣な色に、 戻った。

『――それでね。 一つ、 妙なことが、 分かった』

「妙なこと?」

『三百年前の、 召喚の儀の、 公式の記録。

 そこには、 「勇者、 一名を召喚せり」と、 書かれてる。

 でも、 召喚の儀に使われた、 魔力の量の記録が、 別の帳簿に、 残ってた。

 宇佐美の坊やが、 計算したんだ』


水晶の中の光が、 揺れた。

『……その魔力の量は、 一人を召喚するのに必要な量の、 ちょうど、 四倍だったそうだよ』


焚き火が、 ぱちりと、 爆ぜた。


「……四倍」

古賀が、 かすれた声で、 繰り返した。

「……つまり、 三百年前に、 召喚されたのは」

『四人、 さ』

ヴェルダさんの声が、 低くなった。

『でも、 公式の記録には、 勇者一人のことしか、 書かれていない。

 残りの三人のことは、 跡形もなく、 消されてる。

 ……従者の手記の、 破り取られた最後のページと、 同じようにね』


僕は、 背中の、 布に包んだ、 錆びた鉄の剣を、 そっと、 撫でた。


暁の神殿の、 光の騎士。

色褪せた、 紺色の詰め襟。

『ごめん みんな』。


――みんな。


「……誓約を、 違えたのは、 僕か、 彼らか」


あの光の騎士の、 闇の中から聞こえた、 掠れた声。


彼ら、 とは。

三百年前に、 一緒に召喚された、 三人のことだったのか。


『……坊や。 南の潮の神殿でも、 西の黄昏の神殿でも、 きっと、 何かが、 待ってる。 気をつけるんだよ』

水晶の中の光が、 薄れ始めた。

『それと……王都で、 少し、 きな臭い話が、 出始めてる。 ドルマン侯爵が、 宮廷で、 妙な動きを――』


光が、 消えた。


一日に一度の、 ほんの少しの間が、 終わったのだ。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




焚き火の向こうで、 エレオノーラさんが、 じっと、 炎を見つめていた。


「……ドルマン侯爵」

小さく、 その名を、 つぶやいた。

「……宇佐美殿の話していた、 軍資金。 ガスパルの捨て台詞。 そして、 ヴェルダの、 今の言葉」

エレオノーラさんの、 青い瞳が、 炎を映して、 揺れていた。

「……あの方は、 昔から、 父上の政に、 ことあるごとに、 異を唱えてこられた。

 兄が亡くなってからは、 特に。 ……『王家には、 もはや、 この国を守る力はない』と」


「……エレオノーラさん」

「大丈夫です」

エレオノーラさんは、 小さく、 首を横に振った。

「今は、 神殿を巡ることが、 わたくしたちの務め。

 王都のことは、 父上と、 バルトロに、 託しましょう」


それでも、 その横顔には。

消しきれない、 影が、 落ちていた。


剛が、 焚き火に、 薪をくべた。

「……難しいことは分からんが」

「うん」

「花菱の奴、 大丈夫かな。 侯爵の屋敷に、 いるんだろ」

剛は、 炎を、 見つめた。

「あいつ、 莉愛莉愛って、 自分のことばっか言ってたけどさ。

 ……悪い奴じゃ、 なかったよな。

 少なくとも、 ゼミの飲み会で、 一番最初に、 酔い潰れた奴の介抱してたのは、 あいつだった」


誰も、 何も、 言わなかった。


焚き火の炎が、 夜の闇の中で、 揺れていた。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆








その夜。

皆が眠りについた後。


僕は、 一人、 焚き火の番をしていた。


シロガネが、 僕の膝に、 頭を乗せて、 眠っていた。

その銀色の毛並みを、 ゆっくりと、 撫でながら。

南の空の、 見知らぬ星座を、 見上げていた。


――そのとき。


シロガネの耳が、 ぴくりと、 動いた。


眠っていたはずの、 金色の瞳が、 ゆっくりと、 開いた。

頭を、 僕の膝から、 上げた。

鼻を、 闇の奥へと、 向けた。


唸らなかった。


それが、 かえって、 僕の背筋を、 冷たくした。


シロガネは、 敵には、 唸る。

けれど、 今、 シロガネは、 唸らずに。

ただ、 じっと、 闇の奥の、 一点を、 見つめていた。


知っている、 匂い。

敵とは、 言い切れない、 匂い。


僕も、 その一点を、 見つめた。


街道脇の、 林の、 闇の中。

焚き火の光が、 届かない、 その境目に。


何も、 見えなかった。


けれど。


いる。


そう、 感じた。


誰かが、 そこに、 いる。

息を殺して。

気配を消して。

じっと、 こちらを、 見ている。


「……桐生」


声に、 出していた。


闇の奥で。

何かが、 わずかに、 揺らいだ気がした。


「……いるんだろう。 桐生」


返事は、 なかった。


「……リンドールの治療所で、 柚木さんを、 助けてくれて、 ありがとう」


闇の奥は、 静まり返っていた。

虫の声さえ、 止んでいた。


「……短剣の柄の、 文字。 見たよ。 三枝さんに、 ごめんって」


闇の奥で。

今度は、 はっきりと。

何かが、 揺らいだ。


「……三枝さんに、 伝えるよ。 ちゃんと。 でも、 できれば」

僕は、 焚き火越しに、 闇の奥を、 まっすぐに、 見つめた。

「桐生が、 自分で、 伝えてほしい」


長い、 長い、 沈黙だった。


焚き火の炎が、 ぱちりと、 爆ぜた。


そして。


闇の奥から。

かすかに。

本当に、 かすかに。

声が、 聞こえた。


「……来るな」


掠れた、 低い声だった。


「……俺に、 近づくな、 白峰。 ……お前を、 殺さなきゃ、 いけなくなる」


気配が。

消えた。


林の闇は、 ただの、 闇に、 戻っていた。

虫の声が、 また、 鳴き始めた。


シロガネが、 小さく、 鼻を鳴らした。

それから、 また、 僕の膝に、 頭を、 乗せた。


僕は、 胸のポケットに、 手を当てた。

職業札が、 静かに、 温かかった。


「……殺さなきゃ、 いけなくなる、 か」


それは。

殺したい、 という言葉では、 なかった。


南の空で。

見知らぬ星が、 一つ、 流れた。

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