第35話「錬金術師の夜明け」
リタちゃんの小さな体は、 寝台の上で、 燃えていた。
熱が、 あった。
額に手を当てると、 火傷しそうなほど、 熱かった。
それなのに、 指先は、 氷のように、 冷たかった。
唇は、 黒ずみ、 その隙間から、 浅く、 速く、 途切れ途切れの息が、 漏れていた。
ときおり、 小さな体が、 弓のように、 反り返った。
細い腕が、 敷布を、 掻き毟った。
そのたびに、 寝台の脇で、 ゴルドさんが、 娘の名前を、 呻くように、 呼んだ。
「――状態、 魔力中毒、 重度」
寝台の脇で、 古賀が、 震える声で、 読み上げていた。
鑑定士の目が、 淡い光を帯びて、 リタちゃんの体の上を、 なぞっていた。
「……黒鱗粉、 混入。 魔力の流れが……体の中で、 渦を巻いてる。
心臓の周りに、 集まって……締めつけてる。 このままだと……」
古賀は、 唇を、 噛んだ。
「……夜明けまで、 もたない」
ゴルドさんが、 寝台の縁を、 握りしめた。
その大きな手が、 白くなるほど。
「……柚木さん」
僕は、 湯の入った桶を、 寝台の脇に、 置いた。
「何を、 すればいい」
澪さんは、 答えなかった。
リタちゃんの手首を、 指先で、 押さえていた。
脈を、 診ていた。
その顔に、 表情は、 なかった。
ただ、 薬師の、 研ぎ澄まされた、 静けさだけが、 あった。
「……普通の解毒薬じゃ、 間に合わない」
澪さんが、 低く、 言った。
「魔力中毒の薬は、 体の中の魔力の毒を、 少しずつ、 外に出していく。
七日、 かけて。 ……でも、 この子には、 七日もない。 一晩も、 ない」
澪さんは、 顔を、 上げた。
床に、 膝をついたままの、 姫野さんを、 見た。
「――黒鱗粉を、 どれだけ、 入れたの」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
姫野さんは、 震えていた。
雨に濡れた、 淡い桃色の前掛け。
顔に張りついた、 茶色の髪。
涙と、 雨で、 化粧が、 黒く、 頬に、 流れ落ちていた。
「……ひ、 ひとつまみ……」
姫野さんの声が、 掠れていた。
「……ザイルに、 そう言われて……。 ポーション、 一本に……ひとつまみ、 って……」
「何本分、 作ったの」
「……三十、 本……」
「この子が飲んだのは、 その一本?」
「……う、 うん……」
「黒鱗粉の、 成分は」
姫野さんは、 首を、 激しく、 横に振った。
「わ、 分かんない……! 知らない……! ザイルが、 持ってきたの……!
あたし、 調べもしないで……! ただ、 言われたとおりに、 混ぜただけで……!」
「――姫野さん」
澪さんの声が、 静かに、 姫野さんの叫びを、 遮った。
「あなたは、 錬金術師でしょう」
姫野さんが、 顔を、 上げた。
「錬金術師のスキルには、 【鑑別】が、 あるはず。
素材の成分を、 見分ける力。 ……私の【薬草知識】と、 同じような」
澪さんは、 寝台の脇の、 小さな卓の上を、 指さした。
そこに、 姫野さんが持ってきた、 リタちゃんの飲んだポーションの、 空の小瓶が、 置かれていた。
小瓶の底に、 ほんのわずかに、 黒い澱が、 残っていた。
「――見て。 あなたの目で。 それが、 何なのか」
姫野さんは、 小瓶を、 見つめた。
その手が、 震えながら、 腰の職業札に、 伸びた。
前掛けの下から、 札を、 取り出した。
【職業:錬金術】
「師」の一文字は、 もう、 見えなかった。
灰色の霞の中に、 溶けていた。
「錬金術」の三文字さえも、 その縁が、 霞みかけていた。
「……無理だよ」
姫野さんの声が、 震えた。
「……あたしの札、 もう、 ほとんど、 消えかけてる……。 スキルなんて……もう……」
「――消えかけてるだけ」
澪さんが、 姫野さんの前に、 膝をついた。
その、 震える手を、 両手で、 包み込んだ。
「まだ、 消えてない。 ……戒律は、 『命を扱う者は、 害をなすなかれ』。
あなたは、 たくさんの人に、 害をなした。 それは、 消せない」
澪さんの目が、 まっすぐに、 姫野さんを、 見つめていた。
「でも、 今、 この瞬間に。 この子の命を、 救うために、 その力を使うなら。
それは、 害じゃない。 ……錬金術師としての、 本当の、 仕事」
姫野さんの、 涙で濡れた目が。
大きく、 見開かれた。
「……一緒に、 やろう」
澪さんが、 言った。
五日前。
シュガー・ポーションの、 硝子張りの店の中で。
姫野さんが、 「いらない」と、 突き放した、 あの言葉と。
同じ、 言葉だった。
「――私が、 手伝う。 薬師として」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
それは、 戦い、 だった。
剣も、 盾も、 牙も、 使わない。
けれど、 それは、 確かに、 戦いだった。
寝台の上で、 小さな命が、 燃えていた。
その命を、 内側から喰らおうとする、 黒い毒と。
二人の娘が、 夜通し、 戦い続けた。
「――【鑑別】」
姫野さんの、 震える声が、 倉庫の中に、 響いた。
小瓶の底の、 黒い澱に、 姫野さんの指先が、 触れていた。
その指先に、 淡い、 橙色の光が、 灯った。
弱々しかった。
今にも、 消えてしまいそうなほど。
霞みかけた職業札の、 最後の灯のように。
「……見え、 る」
姫野さんが、 掠れた声で、 言った。
「……見える……。 これ……蛇の、 鱗……。 黒蛇っていう、 魔獣の……。
それを、 焼いて、 粉にして……。
そこに……月光茸の、 胞子と……血眠り草の、 根が……混ぜてある……」
姫野さんの目から、 涙が、 溢れた。
「……血眠り草……。 魔力を、 心臓に、 集める草……。
心臓に集めて……そこで、 渦を巻かせて……。 抜けなく、 させるの……。
……だから……一度飲んだら……二度と……」
姫野さんの肩が、 激しく、 震えた。
「……あたし……こんなものを……三十本も……」
「――姫野さん」
澪さんの声が、 姫野さんを、 引き戻した。
「血眠り草の、 根。 それが、 心臓に、 魔力を、 集めてる。
なら、 その逆。 心臓から、 魔力を、 散らす草が、 要る」
澪さんの目が、 淡い光を、 帯びていた。
【薬草知識】
頭の中に、 何百もの薬草の名前と、 その効き目が、 光の文字となって、 流れているのだろう。
「……風散らし草。 ……鳴き鈴の、 花弁。 ……それと、 白樫の、 樹皮」
澪さんは、 薬草の木箱を、 開けた。
その中から、 三つの包みを、 取り出した。
「……でも、 このままじゃ、 効き目が、 遅すぎる。
煎じて、 冷まして、 飲ませて、 体に回るまで、 一刻はかかる。 その間に、 心臓が」
「――錬成、 すれば」
姫野さんが、 顔を、 上げていた。
「……錬金術師の、 スキル。 【錬成】。
素材の、 効き目を、 一つに、 凝縮する。
……三つの草を、 煎じるんじゃなくて、 錬成して、 一滴の、 雫にすれば。 すぐに、 体に、 回る」
姫野さんの声は、 まだ、 震えていた。
けれど、 その目に。
初めて。
何かが、 灯っていた。
「……あたし、 ずっと、 それで、 ポーションを、 作ってきたの。
……効き目を、 凝縮して。 甘くして。 可愛くして。 ……浄化の工程だけ、 飛ばして」
姫野さんは、 澪さんの手から、 三つの包みを、 受け取った。
「――今度は、 飛ばさない」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
寝台の脇の卓の上に、 硝子の器が、 並べられた。
姫野さんが、 シュガー・ポーションの店から、 持ってきた、 錬金術の道具。
宝石のように輝く、 小さな硝子の器たち。
可愛らしい店の、 可愛らしい道具。
それが今、 雨の夜の、 薄暗い倉庫の中で。
小さな命を救うための、 武器に、 なろうとしていた。
姫野さんの手が、 風散らし草を、 器に、 入れた。
鳴き鈴の花弁を、 入れた。
白樫の樹皮を、 入れた。
「――【錬成】」
姫野さんの両手が、 器を、 包み込んだ。
橙色の光が、 灯った。
弱かった。
ひどく、 弱かった。
霞みかけた職業札から、 最後の力を、 搾り出すように。
光が、 瞬いては、 消えかけ、 また、 瞬いた。
「……っ、 う……」
姫野さんの額に、 汗が、 浮かんだ。
唇が、 白く、 なった。
両手が、 震えていた。
器の中の、 三つの草が。
ゆっくりと。
本当に、 ゆっくりと。
溶け合い、 混ざり合い、 一つの、 淡い緑色の、 液体に、 なろうとしていた。
けれど。
光が、 途切れた。
器の中の液体が、 濁った。
緑色が、 茶色く、 くすんでいった。
「――だ、 駄目……! 力が……足りない……!」
姫野さんの声が、 悲鳴に、 変わった。
「……あたしの、 札……もう……!」
寝台の上で、 リタちゃんの体が、 また、 弓のように、 反り返った。
黒ずんだ唇から、 掠れた呻き声が、 漏れた。
ゴルドさんが、 娘の名前を、 叫んだ。
古賀の、 鑑定士の目が、 震えていた。
「……心臓の、 魔力の渦が……速く、 なってる……! あと……あと、 半刻、 もたない……!」
――間に合わない。
姫野さんの手が、 器から、 離れかけた。
その手を。
澪さんの手が。
上から、 包み込んだ。
「――続けて」
澪さんの、 静かな声。
「――私の力も、 使って」
澪さんの手から。
淡い、 若葉色の光が、 灯った。
薬師の、 光。
その若葉色の光が。
姫野さんの、 弱々しい橙色の光に、 寄り添うように。
重なった。
錬金術師と、 薬師。
命を扱う、 二つの職業。
同じ戒律を、 持つ者同士の。
二つの光が。
器の上で。
溶け合った。
濁っていた液体が。
澄んでいった。
茶色から。
緑へ。
淡い緑から。
透き通るような、 若葉の色へ。
そして。
器の底に。
一滴の、 雫が、 残った。
朝露のように、 透明で。
その芯に、 淡い、 若葉色の光を、 宿した。
たった、 一滴の、 雫。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
澪さんが、 その一滴を、 細い硝子の匙で、 すくい上げた。
リタちゃんの、 黒ずんだ唇に。
そっと。
落とした。
雫が。
唇の隙間から。
小さな体の中に。
吸い込まれていった。
――何も、 起こらなかった。
一呼吸。
二呼吸。
倉庫の中の、 誰もが、 息を、 止めていた。
ゴルドさんも。
古賀も。
剛も。
エレオノーラさんも。
僕も。
シロガネさえも。
そして、 姫野さんも。
三呼吸。
リタちゃんの、 弓のように反り返っていた体が。
ゆっくりと。
寝台の上に。
沈んでいった。
浅く、 速く、 途切れ途切れだった息が。
少しずつ。
少しずつ。
深く、 なっていった。
長く、 なっていった。
黒ずんでいた唇に。
ほんのわずかに。
血の色が。
戻り始めていた。
「……心臓の、 魔力の渦が」
古賀が、 掠れた声で、 言った。
その目から、 涙が、 溢れていた。
「……散って、 いく……。 ほどけて……いく……」
ゴルドさんが、 寝台の縁に、 額を、 押しつけた。
その大きな肩が、 激しく、 震えていた。
声を上げて、 泣いていた。
リタちゃんの瞼が。
薄く。
開いた。
灰色の、 大きな瞳が。
ぼんやりと。
倉庫の、 薄暗い天井を。
見上げていた。
「……おとう、 さん……?」
か細い声だった。
「――リタ……! リタ……!」
ゴルドさんが、 娘の小さな体を、 両腕で、 抱きしめた。
倉庫の、 高い窓の外で。
雨が、 止んでいた。
東の空が。
白み始めていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
姫野さんは、 卓の前の床に、 座り込んでいた。
空になった硝子の器を、 両手で、 抱きしめたまま。
ゴルドさんの腕の中の、 リタちゃんを。
ただ、 じっと、 見つめていた。
その腰の、 職業札が。
夜明けの、 薄い光の中で。
音を、 立てた。
――ぱき、 と。
亀裂が、 走った。
姫野さんは、 動かなかった。
ただ、 その音を、 聞いていた。
目を、 閉じて。
亀裂の上の、 灰色の霞が、 渦を巻いた。
消えかけていた「錬金術」の三文字を、 呑み込んでいく。
霞が、 晴れた。
【職業:調合見習い】
姫野さんは、 ゆっくりと、 目を開けた。
その文字を、 見下ろした。
長い、 沈黙が、 あった。
「……そっか」
姫野さんは、 小さく、 笑った。
泣き腫らした目で。
化粧が、 黒く、 流れ落ちた頬で。
「……そりゃ、 そうだよね」
「――姫野さん」
澪さんが、 姫野さんの隣に、 膝をついた。
その手が、 そっと、 姫野さんの肩に、 置かれた。
「……『なし』じゃ、 ない」
「……うん」
「……最後に、 リタちゃんを、 救ったから」
「……うん」
姫野さんの目から。
また、 涙が、 溢れた。
「……柚木さん」
「……なに」
「……五日前。 『いらない』って、 言って……ごめん」
姫野さんの声が、 震えた。
「……ほんとはね。 あのとき、 柚木さんの手、 握りたかったの。
……でも、 握ったら、 負けだって、 思った。
あたしは、 一人で、 ゼロから、 ここまで来たんだって。
誰にも、 頼らずに。 ……そう思わないと、 立っていられなかったの」
姫野さんは、 両手で、 顔を、 覆った。
「……でも、 ほんとは、 一人じゃなかった。 ザイルに、 お金を借りて。
ザイルに、 素材をもらって。 ザイルに、 言われたとおりに、 作って。
……一人で立ってるつもりで、 ずっと、 あいつの、 操り人形だった」
それから、 姫野さんは、 顔を、 上げた。
寝台の上の、 リタちゃんを、 見た。
倉庫じゅうの、 二十台の寝台に横たわる、 中毒の患者たちを、 見た。
「……ねえ、 ゼミ長」
姫野さんが、 僕を、 呼んだ。
「……五日前に、 聞いたよね。 あの人の娘さんの顔、 思い出せなくさせたのは、 誰なのかって」
僕は、 黙って、 うなずいた。
「……あたしだよ」
姫野さんは、 はっきりと、 言った。
「……あたしが、 やったの。 全部。 この倉庫の、 二十人も。
外に並んでた、 何百人も。 ……リタちゃんも」
夜明けの光が、 倉庫の高い窓から、 差し込んできた。
その光が、 姫野さんの、 泣き腫らした顔を、 白く、 照らしていた。
「……ちゃんと、 償う」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その日の昼。
リンドール市参事会の、 石造りの大広間に。
姫野さんが、 一人で、 立っていた。
その前の卓に、 監察官のオルブリヒさんと、 薬師ギルド長のイルマさんが、 座っていた。
卓の上に、 姫野さんが、 三つのものを、 並べた。
一つ目は、 黒鱗粉の入った、 黒い硝子の瓶。
二つ目は、 シュガー・ポーションの、 この半年分の、 帳簿。
何を、 どれだけ作り、 どれだけ売ったか。
どの素材を、 誰から、 いくらで仕入れたか。
すべてが、 姫野さん自身の、 丸みを帯びた文字で、 書き込まれていた。
そして、 三つ目は。
一枚の、 証文。
店を開くための金を、 借りたときの。
貸し主の欄に、 ザイルの署名と。
その下に、 小さく、 黒い蛇の紋章が、 押されていた。
「――全部、 あたしが、 やりました」
姫野さんは、 そう言って、 深く、 頭を下げた。
大広間が、 ざわめいた。
「浄化の工程を、 省いて、 ポーションを、 売りました。
中毒になるって、 薄々、 分かってて、 売り続けました。
……昨日は、 黒鱗粉を、 混ぜました。
ザイルに、 言われて。 何が入ってるか、 調べもせずに。
そのせいで、 十歳の女の子が、 死にかけました」
姫野さんの声は、 震えていた。
けれど、 一度も、 途切れなかった。
「……どんな罰でも、 受けます。 その代わり、 一つだけ、 お願いが、 あります」
姫野さんは、 顔を、 上げた。
「……昨日、 作った、 黒鱗粉入りのポーション。
三十本のうち、 二十九本が、 まだ、 店の棚に、 あります。
……でも、 もしかしたら、 今朝、 店を開ける前に、 誰かが、 持っていったかもしれない。
……お願いです。 回収、 させてください。 一本残らず。 誰かが、 飲む前に」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
裁きは、 その日の夕方に、 下された。
シュガー・ポーションは、 閉店。
店の、 すべての財産は、 差し押さえられ、 中毒になった客たちへの、 賠償に、 充てられる。
そして、 姫野沙耶は。
三年間、 マルガ商会の倉庫の、 魔力中毒の治療所において、
薬師・柚木澪の監督のもと、 奉仕労働に、 従事すること。
「――自分が、 害をなした者たちの、 看病をせよ」
オルブリヒさんは、 そう、 言い渡した。
「それが、 調合見習いとなったそなたに、 できる、 唯一の、 償いであろう」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
シュガー・ポーションの、 硝子張りの店の前に。
人だかりが、 できていた。
衛兵たちが、 店の扉に、 閉鎖を告げる、 市参事会の布告を、 打ちつけていた。
その脇で、 姫野さんが、 一本一本、 棚から、 硝子の小瓶を、 木箱に、 詰めていた。
黒鱗粉入りの、 二十九本。
いや。
数えてみると、 二十八本しか、 なかった。
一本、 足りなかった。
「……一本、 ない」
姫野さんの顔から、 血の気が、 引いた。
「……誰かが、 持っていった……!」
人だかりの中から、 怒号が、 飛んだ。
「――ふざけんなよッ!」
「――俺の女房は、 あんたの店のポーションのせいで、 もう、 三日も、 起き上がれねえんだぞッ!」
「――返せッ! 俺の金を、 返せッ!」
石が、 一つ。
人垣の中から、 飛んできた。
姫野さんの、 額の脇を、 かすめた。
硝子の窓に、 当たった。
窓に、 蜘蛛の巣のような、 ひびが、 走った。
姫野さんは、 動かなかった。
避けもしなかった。
ただ、 木箱を、 両腕で、 抱きしめて。
その場に、 立ち尽くしていた。
二つ目の石が、 飛んできた。
その石を。
銀色の影が。
宙で。
咥えて、 止めた。
シロガネ、 だった。
人だかりと、 姫野さんの間に、 立っていた。
石を、 口から、 ぽとりと、 地面に、 落とした。
それから、 人だかりを、 金色の瞳で、 静かに、 見渡した。
唸りも、 しなかった。
牙も、 剥かなかった。
ただ、 そこに、 立っていた。
人だかりが、 静まり返った。
僕は、 シロガネの隣に、 歩み出た。
「――皆さんの、 怒りは、 当然だと思います」
人々の顔を、 一人ずつ、 見た。
怒り。
悲しみ。
疲れ。
その奥の、 どうしようもない、 やり場のなさ。
「姫野さんは、 皆さんに、 ひどいことを、 しました。
それは、 消えません。 許してほしいとも、 僕は、 言いません」
僕は、 胸に、 手を当てた。
「でも、 姫野さんは、 今日、 自分から、 全部を、 話しました。
そして、 三年間、 川沿いの治療所で、 中毒になった人たちの看病を、 することになりました。
……皆さんの、 ご家族の、 看病を」
人だかりの中で。
誰かが、 小さく、 息を呑んだ。
「――それと、 もう一つ」
僕は、 姫野さんの抱える、 木箱を、 振り返った。
「黒鱗粉という、 とても危険な毒が入ったポーションが、 一本だけ、 まだ、 見つかっていません。
薄い桃色の、 小さな硝子の瓶です。
もし、 皆さんの周りで、 それを持っている人がいたら。
絶対に、 飲まないように、 伝えてください。 お願いします」
僕は、 深く、 頭を下げた。
長い、 沈黙が、 あった。
それから。
人だかりの、 後ろのほうで。
一人の、 年配の女性が、 おずおずと、 手を、 挙げた。
「……あ、 あの……」
その手に。
薄い桃色の、 小さな硝子の瓶が、 握られていた。
「……今朝、 店の裏口に、 落ちてたのを、 拾って……。 ……娘に、 飲ませて、 やろうかと……」
女性は、 震える手で、 その瓶を、 差し出した。
姫野さんが、 人垣を、 かき分けて、 走った。
女性の前で、 膝をついた。
両手で、 その瓶を、 受け取った。
そして。
その場で。
地面に、 額を、 擦りつけた。
「……ありがとう、 ございます……」
掠れた声だった。
「……ごめんなさい……。 本当に……ごめんなさい……」
人だかりは、 もう、 誰も、 石を、 投げなかった。
怒りが、 消えたわけでは、 なかった。
許したわけでも、 なかった。
ただ。
地面に額を擦りつけて、 泣き続ける、 一人の娘を。
黙って。
見下ろしていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
リンドールの、 港の外れの、 倉庫街。
衛兵の一隊が、 姫野さんの差し出した証文を手がかりに、
黒蛇の拠点と思われる、 古い倉庫に、 踏み込んだ。
倉庫は、 またしても、 もぬけの殻だった。
ザイルの姿は、 なかった。
黒鱗粉も、 禁制の魔道具も、 何一つ、 残されていなかった。
ただ、 倉庫の奥の、 石の壁に。
王都の港の三番倉庫で見つかったのと、 同じ。
とぐろを巻き、 鎌首をもたげた、 黒い蛇の絵が、 描かれていた。
そして、 その蛇の絵の、 下に。
一枚の羊皮紙が、 短剣で、 壁に、 縫いとめられていた。
衛兵の隊長が、 その羊皮紙を、 剥がした。
灯りに、 かざした。
そこには、 一行だけ。
流麗な、 けれど、 ひどく冷たい筆跡で。
こう、 書かれていた。
『灯の候補へ。 黒蛇は、 依頼を、 違えない』
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
同じ頃。
リンドールの、 中洲の、 一番高い、 鐘楼の上。
夜風の中に。
一つの影が、 膝を抱えて、 座っていた。
細身の体。
黒い外套。
前髪で、 目元を隠した、 横顔。
桐生翔は、 眼下の、 川沿いの倉庫を、 見下ろしていた。
マルガ商会の、 倉庫。
その窓に、 灯りが、 ともっていた。
窓の向こうで、 人影が、 動いていた。
寝台の間を、 行き来する、 小柄な二つの影。
一つは、 薬師の、 柚木澪。
そして、 もう一つは。
淡い桃色の前掛けを、 白い前掛けに替えた、 姫野沙耶。
その少し離れた窓辺に。
もう一つの影が、 立っていた。
銀色の狼を、 足元に連れた。
夜空を、 見上げている。
白峰陽翔。
桐生は、 その影を、 長い間、 見つめていた。
「――見惚れているのか、 小僧」
背後から、 声が、 した。
桐生の体が、 強張った。
振り返らなかった。
振り返らなくても、 分かった。
黒い外套の、 フードを目深にかぶった、 男。
その手首の、 黒い蛇の刺青。
王都の、 打ち捨てられた礼拝堂の地下で、 西の水門の鍵を、 桐生に握らせた、 男。
黒蛇の、 頭目。
「……ヴィゴの刃を、 弾いたそうだな」
男の声は、 静かだった。
静かすぎて、 かえって、 夜風よりも、 冷たかった。
「黒蛇の刃に、 黒蛇の刃を向けた。
……掟に照らせば、 その場で、 首を刎ねられても、 文句は言えん」
「……」
「だが、 お前は、 まだ、 使える。
王都の水門では、 半分とはいえ、 格子を上げた。 その腕は、 惜しい」
男が、 桐生の隣に、 しゃがみ込んだ。
フードの奥の、 見えない目が。
眼下の、 倉庫の窓辺の、 銀色の狼を連れた影を、 見下ろした。
「――次の依頼だ」
男の声が、 夜風の中に、 低く、 響いた。
「依頼主は、 明かせん。 だが、 金払いのいい、 高貴な御方だ。 ……標的は、 あれだ」
男の、 蛇の刺青の手が。
倉庫の窓辺の影を、 指さした。
「灯の、 候補。 白峰陽翔」
桐生の、 前髪の奥の目が。
大きく、 見開かれた。
「お前の、 同郷の者だそうだな。 ……ちょうどいい。 黒蛇への忠義を、 証明する、 いい機会だ」
男は、 立ち上がった。
「しくじれば、 今度こそ、 お前の首が、 飛ぶ。 ……それを、 忘れるな」
男の気配が、 夜風の中に、 溶けていった。
桐生は、 一人、 鐘楼の上に、 残された。
膝を抱えた腕に、 力が、 こもった。
その手の中に。
一振りの、 黒い短剣が、 握られていた。
柄の革を、 新しく巻き直したばかりの。
眼下の、 倉庫の窓辺で。
白峰陽翔が、 夜空を、 見上げていた。
その夜空に。
雨上がりの、 澄んだ星が、 瞬いていた。
――影から、 全部を、 操る。
――それが、 最強なんだ。
そう言ったのは、 自分だった。
鑑定の儀の日に。
十五人の、 ゼミの仲間の前で。
桐生は、 黒い短剣を、 握りしめた。
その手が。
小刻みに。
震えていた。




