第34話「雨の夜の治療所」
リンドールに戻って、 五日が過ぎた。
マルガさんの店の、 川沿いの倉庫。
麦袋や酒樽が積まれていたその倉庫の半分が、 今は、 白い敷布を敷いた寝台で、 埋め尽くされていた。
二十台の寝台。
その一つひとつに、 人が、 横たわっていた。
若い娘。
冒険者。
荷揚げ場の男。
仕立て屋のおかみさん。
シュガー・ポーションの、 客だった人たち。
「……はい。 ゆっくり、 飲んでください。 苦いけど、 頑張って」
澪さんが、 寝台の一つの脇に、 膝をついて、 木の椀を、 若い娘の唇に、 当てていた。
娘の手は、 小刻みに、 震えていた。
額に、 冷たい汗が、 浮かんでいた。
「……苦い……。 甘いのが、 いい……。 あのお店の、 甘いの……」
「……うん。 分かる。 でも、 あの甘いのは、 あなたの体を、 少しずつ、 壊してたの」
澪さんは、 娘の額の汗を、 布で、 そっと、 拭った。
「……この苦いのが、 壊れたところを、 治してくれる。
七日、 我慢したら、 甘いのを、 欲しいと思わなくなる。 ……約束、 します」
娘は、 涙ぐみながら、 椀の中身を、 少しずつ、 飲み下していった。
魔力中毒の、 治療所。
澪さんが、 リンドールに戻ってすぐに、 マルガさんに、 頭を下げて、 頼み込んだ場所だった。
マルガさんは、 何も聞かずに、 倉庫の半分を、 空けてくれた。
「森で救われた命の、 使い道としては、 上等でございますよ」と、 笑いながら。
最初の日に、 ここに来たのは、 三人だった。
シュガー・ポーションの店で、 剣を抜いて暴れた、 あの冒険者のゴルドさん。
それから、 ゴルドさんが、 連れてきた、 仲間の冒険者が、 二人。
二日目には、 七人になった。
三日目には、 十五人。
そして、 今日、 二十台の寝台が、 すべて、 埋まった。
「……まだ、 足りない」
夕暮れ時。
倉庫の入り口で、 澪さんが、 疲れ切った顔で、 つぶやいた。
「……シュガー・ポーションの前の行列は、 まだ、 毎日、 辻を回り込むくらい、 続いてる。
中毒の人は、 たぶん、 何百人もいる。
……ここに来てくれるのは、 ほんの、 一握り」
「薬師ギルドは?」
「……動いてくれない」
澪さんは、 小さく、 首を横に振った。
「王都からの報告書は、 届いてた。 ギルド長のイルマさんも、 読んでくれた。
でも……シュガー・ポーションは、 今、 リンドールで、 一番、 税を納めてる店なんだって。
市参事会の中にも、 あの店を、 庇う人がいるって」
澪さんは、 唇を、 噛んだ。
「……証拠が、 足りないって。 浄化を省いてるだけじゃ、 罪には、 ならないって。
中毒が、 ポーションのせいだっていう、 はっきりした証拠がないと」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
倉庫の奥の、 一番端の寝台に。
ゴルドさんが、 起き上がって、 座っていた。
五日前、 シュガー・ポーションの店で、 剣を振り上げた、 あの冒険者。
その頬は、 まだ、 こけていた。
けれど、 濁っていた目には、 少しずつ、 光が、 戻り始めていた。
手の震えも、 ずいぶん、 収まっていた。
その寝台の脇に、 小さな女の子が、 腰かけていた。
十歳くらいだろうか。
栗色の髪を、 二つに結んでいる。
父親と同じ、 灰色がかった、 大きな瞳。
その女の子が、 ゴルドさんの手を、 両手で、 ぎゅっと、 握っていた。
「……リタ、 って言うんだ。 俺の、 娘」
ゴルドさんが、 照れくさそうに、 言った。
「……ようやく、 顔を、 思い出せるようになった。
……いや、 違うな。 ずっと、 ここに、 いてくれたんだ。 俺が、 見えてなかっただけで」
ゴルドさんの大きな手が、 リタちゃんの頭を、 そっと、 撫でた。
「……母親は、 三年前に、 病で死んだ。 それから、 俺一人で、 育ててきた。
……冒険者稼業で、 怪我ばっかりしてたからな。
あの店のポーションが、 よく効くって聞いて、 飲み始めて。
……気がついたら、 あれなしじゃ、 眠れなくなってた」
リタちゃんが、 ゴルドさんの手を、 さらに、 強く、 握った。
「……おとうさん、 もう、 あのお店、 行かない?」
「……ああ。 行かない。 約束する」
「……ほんと?」
「ほんとだ」
リタちゃんは、 ほっとしたように、 笑った。
それから、 僕のほうを、 向いた。
大きな、 灰色の瞳で。
「……おにいちゃんが、 おとうさんを、 止めてくれたって。 柚木おねえちゃんが、 言ってた」
「……うん」
「……ありがとう」
リタちゃんは、 ぺこりと、 頭を下げた。
二つ結びの髪が、 ぴょこんと、 揺れた。
その、 小さな頭を、 見下ろしながら。
僕は、 五日前の、 シュガー・ポーションの店で、 姫野さんに投げかけた、 あの問いを、 思い出していた。
――あの人の娘さんの顔、 思い出せなくさせたのは、 誰なのかな。
姫野さんは、 「知らない」と答えた。
「関係ない」と。
今、 その娘さんの顔は、 ここにあった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
――同じ頃。
シュガー・ポーションの、 店の奥。
店の灯りを、 半分、 落とした後の、 工房。
硝子の器具と、 薬草の束と、 色とりどりの小瓶が、 所狭しと、 並んでいる。
甘い匂いと、 金属の匂いが、 混じり合って、 澱んでいた。
その工房の、 作業台の前で。
姫野沙耶は、 一人の男と、 向かい合っていた。
痩せぎすの体。
上等だが、 着崩れた外套。
油で撫でつけた黒髪。
指に光る、 いくつもの指輪。
ザイル、 だった。
「――売り上げが、 落ちていますな、 姫野嬢」
ザイルが、 粘りつくような声で、 言った。
作業台の上の、 帳面を、 指輪の光る指で、 とんとんと、 叩いた。
「先月は、 一日、 三百本。 今週は、 二百五十本。 ……原因は、 お分かりでしょう?」
「……知らないし」
「川沿いの、 マルガ商会の倉庫。 あそこに、 王都から来た薬師の小娘が、 治療所とやらを開いたそうですな。 お客が、 少しずつ、 そちらに、 流れている」
ザイルは、 薄く、 笑った。
「困りますな。 姫野嬢には、 この店を開くときに、 わたくしどもから、 少なくない額を、 お貸ししている。 その返済が、 滞るようなことになれば……」
姫野の手が、 作業台の下で、 前掛けを、 ぎゅっと、 握りしめた。
半年前。
王都を出て、 このリンドールに、 一人で、 たどり着いたとき。
硝子張りの、 可愛い店を開くための金を、 貸してくれたのが、 この男だった。
「異界の錬金術師様なら、 必ず、 成功なさる」と、 笑いながら。
返済の期限も、 利子も、 よく確かめずに、 証文に、 名前を書いた。
あの頃は、 夢しか、 見ていなかった。
「……ちゃんと、 返すし」
「ええ、 ええ。 ですから、 ご提案に、 参ったのですよ」
ザイルは、 外套の懐から、 小さな、 黒い硝子の瓶を、 取り出した。
作業台の上に、 置いた。
瓶の中で、 黒い、 細かな粉が、 鈍く、 光っていた。
まるで、 蛇の鱗を、 粉に挽いたような。
「――黒鱗粉、 と申します」
ザイルの声が、 低くなった。
「これを、 ほんの、 ひとつまみ、 ポーションに混ぜれば。
効き目は、 今の、 さらに倍。
そして……一度飲んだお客は、 二度と、 よその薬では、 満足できなくなる」
ザイルは、 薄く、 笑った。
「治療所とやらに、 流れたお客も、 すぐに、 戻ってきますよ。 苦い薬など、 飲んでいられなくなる」
姫野は、 黒い瓶を、 見下ろした。
その手が、 震えていた。
「……これ」
掠れた声だった。
「……これ、 飲んだら、 どうなるの」
「どうにも、 なりませんよ」
ザイルは、 肩をすくめた。
「ただ、 少しばかり、 お客が、 姫野嬢の店を、 愛してくださるようになるだけです。 ……永遠に」
工房の、 窓の外で。
雨が、 降り始めていた。
ぽつり。
ぽつり。
硝子の窓に、 雨粒が、 当たって、 流れ落ちていく。
姫野は、 腰の職業札に、 そっと、 手を触れた。
前掛けの下に、 隠していた札。
この五日、 一度も、 見ていなかった札。
指先で、 その表面を、 なぞった。
【職業:錬金術】
その先の、 「師」の一文字が。
もう、 指先で、 感じ取れないほど。
灰色の霞に、 呑み込まれていた。
――錬金術師の戒律は、 『命を扱う者は、 害をなすなかれ』。
柚木澪の、 静かな声が、 頭の中で、 響いた。
――私、 手伝える。 薬師として。 浄化の工程を、 もっと短くする方法を、 一緒に、 探せる。
「……っ」
姫野は、 唇を、 噛んだ。
――いらない。 柚木さんの、 施しなんか、 いらない。
自分の声が、 頭の中で、 響いた。
あのとき、 一瞬だけ。
本当に、 一瞬だけ。
柚木澪の差し出した手を、 握りたいと、 思ったのだ。
けれど、 握れなかった。
握ったら、 負けだと思った。
城の中で、 王様にも、 王女様にも、 ちやほやされてきた連中に。
一人で、 ゼロから、 ここまで来た自分が。
「……どうなさいます、 姫野嬢」
ザイルの声が、 雨音の中で、 粘りついた。
姫野は、 長い間、 黙っていた。
それから。
震える手を、 黒い瓶に、 伸ばした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
雨は、 激しさを増していた。
リンド川の川面を、 叩きつけるような雨が、 白く、 煙らせていた。
倉庫の屋根を打つ雨音が、 絶え間なく、 太鼓のように、 鳴り響いていた。
川沿いの道は、 もう、 人影一つ、 なかった。
治療所の、 寝台の脇で。
澪さんが、 患者たちの寝息を、 一つずつ、 確かめていた。
エレオノーラさんが、 倉庫の入り口で、 雨の夜を、 見張っていた。
剛は、 寝台の間の床に、 盾を枕にして、 うたた寝をしていた。
古賀は、 灯りの下で、 薬師ギルドに提出するための、 患者たちの症状の記録を、 書き続けていた。
僕は、 倉庫の奥の、 窓辺に、 立っていた。
雨に煙る、 川の向こうの、 リンドールの街の灯りを、 見つめていた。
足元で、 シロガネが、 眠っていた。
――いや。
眠って、 いなかった。
シロガネの耳が、 ぴくりと、 動いた。
それから、 その銀色の体が、 音もなく、 起き上がった。
鼻を、 窓の外の、 雨の闇へと、 向けた。
喉の奥から、 低く、 長く、 唸り声が、 漏れた。
「……シロガネ?」
雨音の向こうで。
何かが、 動いた。
川沿いの道の、 闇の中。
雨に煙る、 その向こうに。
黒い影が、 一つ。
二つ。
五つ。
十。
倉庫を、 取り囲むように。
音もなく。
雨の中を。
近づいてきていた。
その手に。
松明が、 握られていた。
雨に打たれても、 消えない、 油を染み込ませた、 松明。
赤い炎が、 雨の闇の中に、 点々と、 灯っていた。
そして、 その影たちの、 外套の、 その袖口から。
黒い、 蛇の刺青が、 覗いていた。
「――エレオノーラさんッ! 剛ッ!」
叫んだ。
剛が、 跳ね起きた。
エレオノーラさんが、 剣を、 抜いた。
倉庫の、 入り口の扉が。
外から。
蹴破られた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
雨が、 倉庫の中に、 吹き込んできた。
冷たい、 白い、 雨の帳。
その帳を、 引き裂くようにして。
黒い外套の男たちが、 なだれ込んできた。
刃が、 光った。
短剣。
鉈。
鎖のついた分銅。
そして、 松明。
「――治療所ごと、 燃やせッ!」
先頭の男が、 叫んだ。
その声が、 雨音を、 切り裂いた。
一人の男が、 松明を、 振りかぶった。
その炎の先が、 寝台の、 白い敷布へと、 向かっていた。
寝台の上で、 中毒の娘が、 怯えて、 身を縮めていた。
「――【城壁】ッ!」
青い光が、 倉庫の中に、 爆ぜた。
剛が、 寝台の列の前に、 盾を、 突き立てていた。
青い光の壁が、 寝台と、 男たちの間に、 一瞬で、 立ち上がった。
投げつけられた松明が、 壁に当たって、 弾き返された。
火の粉が、 雨に打たれて、 じゅっと、 音を立てて、 消えた。
「――患者には、 指一本、 触れさせんッ!」
剛の声が、 倉庫の天井に、 響いた。
「――柚木殿、 患者を、 奥へッ!」
エレオノーラさんが、 叫びながら、 入り口の男たちへと、 斬り込んでいった。
「古賀殿、 柚木殿を、 手伝ってッ!」
「――わ、 分かったッ!」
僕は、 剣を抜いて、 男たちの、 真ん中へと、 飛び込んだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
雨と、 闇と、 炎の、 戦いだった。
倉庫の中の灯りは、 吹き込んだ雨と風で、 ほとんどが、 消えていた。
残っているのは、 男たちの手の、 松明の炎だけ。
その赤い光が、 揺れるたびに。
倉庫の中の、 すべての影が、 狂ったように、 踊った。
積み上げられた麦袋の影。
酒樽の影。
寝台の影。
そして、 刃を構えた男たちの影。
どれが、 本物の男で。
どれが、 ただの影なのか。
一瞬ごとに、 分からなくなった。
短剣が、 右から、 来た。
光が、 見えた。
松明の炎を映した、 刃の、 一筋の光。
その光の軌跡だけを、 頼りに。
剣の腹で、 弾いた。
鉄と、 鉄が、 ぶつかる音。
雨音の中に、 甲高く、 響いた。
返す動きで、 男の手首を、 剣の柄で、 打った。
男が、 短剣を、 取り落とした。
――斬らない。
この男たちは、 黒蛇の、 手先だ。
けれど、 魔物では、 ない。
人だ。
次の刃。
左から。
鉈だった。
重い。
受けては、 いけない。
流す。
鉈の刃が、 僕の剣の上を、 滑った。
火花が、 散った。
その一瞬の光の中に、 男の顔が、 浮かび上がった。
雨に濡れた、 若い男の顔。
目が、 怯えていた。
この人も、 たぶん。
金で、 雇われただけだ。
鉈を流しきった、 その勢いのまま。
男の、 膝の裏を、 剣の腹で、 払った。
男が、 濡れた床の上に、 崩れ落ちた。
三人目。
四人目。
床が、 雨で、 濡れていた。
踏み込むたびに、 靴底が、 滑りそうになった。
足の裏で、 床板の、 わずかな凹凸を、 探る。
滑らない場所を。
踏みしめられる場所を。
シロガネが、 僕の背後を、 守っていた。
背後から、 回り込もうとする男たちに。
低く。
地の底から響くような、 唸り声を、 浴びせかけていた。
銀色の毛並みが、 雨に濡れて、 松明の炎を映して、 赤く、 光っていた。
牙を、 剥いていた。
けれど、 噛みつきは、 しなかった。
ただ、 その唸り声だけで。
男たちの足を、 凍りつかせていた。
――噛まないで、 いてくれる。
シロガネは、 知っていた。
僕が、 斬らないことを。
だから、 シロガネも、 噛まなかった。
【誓約:銀牙狼シロガネ】。
胸のポケットが、 温かかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
そのとき。
倉庫の入り口の、 雨の帳の向こうから。
一人の男が、 ゆっくりと、 歩み入ってきた。
他の男たちとは、 違った。
痩せていた。
背が、 高かった。
黒い外套を、 雨に打たれるまま、 纏っていた。
その外套の下の、 両の腰に。
二振りの、 細い、 反りのある刃が、 吊られていた。
男が、 その二振りを、 抜いた。
音が、 しなかった。
鞘から、 刃が抜ける、 その音さえも。
雨音の中に、 溶けて、 消えていた。
「――双刃のヴィゴ」
背後で、 古賀が、 震える声で、 つぶやいた。
鑑定士の目が、 淡い光を、 帯びていた。
「黒蛇の……刺客だ。 状態欄に……『殺した人数』の欄が、 ある……。 数字が……」
古賀は、 その先を、 言わなかった。
ヴィゴが、 動いた。
――見えなかった。
ガルドさんの剣は、 岩が落ちてくるようだった。
エレオノーラさんの剣は、 光の糸のようだった。
志賀の剣は、 嵐のようだった。
ヴィゴの刃は。
何でも、 なかった。
ただ、 気がついたときには。
左頬に、 冷たいものが、 触れていた。
それから、 熱が、 来た。
頬が、 裂けていた。
浅く。
けれど、 確かに。
血が、 雨と混じり合って、 顎を伝い、 落ちていった。
ヴィゴは、 僕の、 三歩先に、 立っていた。
二振りの刃を、 だらりと、 垂らしたまま。
その片方の刃の先から。
僕の血が、 一滴。
雨の中に、 落ちていった。
「――ほう」
ヴィゴが、 初めて、 口を開いた。
低く、 乾いた、 感情のない声だった。
「首を、 狙ったのだがな。 頬で、 済ませたか。 ……噂の、 候補の勇者。 少しは、 やるようだ」
ヴィゴが、 また、 消えた。
今度は、 見えた。
いや。
見えたのでは、 なかった。
感じた。
雨が。
ヴィゴの体を、 避けて、 流れていた。
雨粒が、 その動きの軌跡に沿って、 一瞬だけ、 弾かれ、 散っていた。
その、 雨の乱れだけが。
見えない刃の、 その道筋を、 教えてくれた。
右から。
首を。
剣を、 立てた。
刃と、 刃が、 噛み合った。
鋼が、 悲鳴を、 上げた。
ヴィゴの細い刃は、 驚くほど、 重かった。
細いのに。
軽そうなのに。
その一点に、 全身の、 すべての力が、 針の先のように、 集められていた。
腕が、 痺れた。
その、 痺れの、 一瞬に。
ヴィゴの、 二振り目の刃が。
左から。
脇腹を。
――流せない。
体を、 ひねった。
刃が、 脇腹を、 かすめた。
外套が裂け、 シャツが裂け、 その下の肌が、 一筋、 裂けた。
熱い。
ヴィゴが、 三歩、 下がった。
また、 刃を、 だらりと、 垂らした。
「……斬らぬのだな」
ヴィゴが、 言った。
「俺の手下どもを、 一人も、 斬っていない。 剣の腹で、 打つだけだ。 ……甘い」
ヴィゴの目が、 細くなった。
「甘い剣は、 守れぬぞ、 候補の勇者。 守ろうとしたものごと、 斬られて、 終わる」
――守ろうと、 したものごと。
ヴィゴの視線が。
僕の、 肩越しに。
倉庫の、 奥へと、 流れた。
寝台を、 奥へと、 運んでいる、 澪さんの背中へと。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ヴィゴが、 消えた。
僕では、 なかった。
雨の乱れが。
僕の脇を。
すり抜けていった。
倉庫の、 奥へと。
澪さんの、 背中へと。
「――柚木さんッ!」
振り返った。
走った。
間に合わない。
ヴィゴの二振りの刃が、 澪さんの背中の、 すぐ後ろで。
松明の炎を映して。
赤く。
光っていた。
澪さんが、 振り返った。
その目が、 大きく、 見開かれていた。
両腕に、 中毒の娘を、 抱きかかえたまま。
逃げることも、 できずに。
――剣は、 守るために振れ。
胸のポケットが、 爆ぜた。
剛の、 信頼。
エレオノーラさんの、 信頼。
古賀の、 シロガネの、 そして、 寝台の上の、 二十人の患者たちの。
澪さんを信じて、 苦い薬を飲み続けてきた、 二十人の。
灯が。
脚に、 流れ込んだ。
床を、 蹴った。
雨で濡れた床板が、 金色の光の中で、 一瞬だけ、 乾いた。
距離が、 縮んだ。
ヴィゴの刃と、 澪さんの背中の、 その間に。
体を。
滑り込ませた。
――間に合った。
そう思った、 瞬間に。
気づいた。
ヴィゴの刃は、 二振りあった。
一振りを、 僕の剣が、 受けた。
金色の光が、 弾けた。
もう一振りが。
僕の剣の、 下を、 潜り抜けて。
澪さんの、 脇腹へと――。
その、 刃の先に。
黒いものが、 突き刺さった。
細い、 黒い、 短剣だった。
どこからか、 飛来した、 その短剣が。
ヴィゴの、 二振り目の刃の、 その腹に。
正確に。
寸分の狂いもなく。
突き刺さっていた。
ヴィゴの刃が、 弾かれた。
軌道が、 逸れた。
澪さんの脇腹の、 わずか一寸外を。
空を、 切った。
ヴィゴが、 初めて。
表情を、 変えた。
その目が、 驚愕に、 見開かれて。
倉庫の、 天井の、 梁の上を。
見上げた。
僕も、 見上げた。
倉庫の、 高い、 天井の梁の上。
雨漏りの滴る、 暗がりの中に。
一つの影が、 しゃがんでいた。
細身の体。
黒い外套。
前髪で、 目元を隠した、 横顔。
その手に。
もう一振りの、 黒い短剣が。
握られていた。
松明の炎が、 揺れた。
その赤い光が、 一瞬だけ。
前髪の奥の、 目を。
照らし出した。
――目が、 合った。
今度は、 気のせいでは、 なかった。
「……桐生」
声が、 震えた。
梁の上の影は、 何も、 答えなかった。
ただ。
ヴィゴを、 見下ろしていた。
その目は、 冷たく。
けれど、 その奥に。
何か、 ひどく、 苦しげなものが、 揺れていた。
「――貴様」
ヴィゴが、 低く、 唸った。
「黒蛇の、 新入りが……。 誰に、 刃を向けているか、 分かっているのか」
梁の上の影は、 答えなかった。
次の瞬間。
影は、 天井の、 雨漏りの穴から。
音もなく。
雨の闇の中へと。
消えていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ヴィゴは、 しばらく、 天井の穴を、 見上げていた。
それから。
ゆっくりと、 二振りの刃を、 鞘に、 収めた。
「……興が、 削がれた」
ヴィゴが、 乾いた声で、 言った。
「退くぞ」
倉庫の中の、 黒い外套の男たちが。
床に倒れていた者たちを、 引きずり起こして。
雨の帳の向こうへと、 退いていった。
ヴィゴは、 最後に、 一度だけ、 振り返った。
僕を、 見た。
「――候補の勇者。 次は、 頬では、 済まさん」
雨の闇の中に、 その姿が、 溶けていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
倉庫の中に、 雨音だけが、 残った。
僕は、 その場に、 膝をついた。
頬の傷から。
脇腹の傷から。
血が、 雨と混じり合って、 床に、 滴っていた。
「――白峰くんッ!」
澪さんが、 抱えていた娘を、 寝台の上に、 そっと、 下ろした。
それから、 僕の前に、 膝をついた。
その手が、 僕の頬に、 触れた。
震えていた。
ひどく。
「……また」
澪さんの声が、 掠れていた。
「……また、 私の、 前に」
「……柚木さんが、 無事で、 よかった」
「……っ、 ばか……!」
澪さんは、 薬草の木箱を、 乱暴に、 開けた。
けれど、 その手は、 傷薬の瓶を、 うまく、 掴めなかった。
三度目に、 ようやく、 掴んだ。
その瓶の蓋を開ける指が、 震えて、 蓋を、 床に、 落とした。
僕は、 澪さんの、 震える手を、 そっと、 握った。
「……大丈夫。 浅い傷だから」
「……浅くても、 傷は、 傷」
澪さんは、 涙を、 袖で、 乱暴に、 拭った。
それから、 深く、 息を、 吐いた。
もう一度、 瓶を、 握り直した。
今度は、 震えていなかった。
「……動かないで。 治すから」
澪さんの、 冷たい指が。
傷薬を。
僕の頬の傷に、 そっと、 塗り広げていった。
倉庫の入り口の脇で、 古賀が、 床に落ちた、 一振りの、 黒い短剣を、 拾い上げていた。
ヴィゴの刃を弾いた、 あの短剣だった。
「……白峰氏」
古賀が、 その短剣を、 灯りに、 かざした。
「この短剣……柄に、 何か、 彫ってある」
僕は、 古賀の手元を、 覗き込んだ。
黒い短剣の、 その柄の、 革を巻いた部分の、 端に。
小さな、 小さな、 文字が、 刻まれていた。
ナイフの先で。
必死に、 刻みつけたような。
この世界の、 文字では、 なかった。
『三枝さんに ごめんと』
古賀の手が、 震えた。
「……三枝さん、 に……?」
僕は、 その文字を、 見つめていた。
王都大侵攻の、 あの日。
西の水門の格子が、 上がっていた。
三枝さんが、 たった一人で、 光の壁を張って、 子どもたちを守った。
そして、 三枝さんは、 水門の小屋の屋根の上に、 一つの影を、 見たと言っていた。
細身の、 前髪で目元を隠した、 影を。
――き、 桐生、 くん……?
「……桐生」
雨が、 倉庫の屋根を、 叩き続けていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
そのとき。
倉庫の入り口の、 雨の帳の向こうから。
誰かが、 駆け込んできた。
「――たすけてッ!」
甲高い、 悲鳴のような声だった。
雨に、 ずぶ濡れになった、 若い娘。
淡い桃色の前掛けが、 雨と泥で、 汚れていた。
くるくると巻いていた明るい茶色の髪が、 雨に濡れて、 顔に、 張りついていた。
姫野さん、 だった。
その腕に。
小さな体を、 抱きかかえていた。
十歳くらいの、 女の子。
栗色の髪を、 二つに結んでいる。
その顔が、 紙のように、 白かった。
唇が、 黒ずんでいた。
小さな体が、 姫野さんの腕の中で、 激しく、 痙攣していた。
「――リタッ!」
倉庫の奥の寝台から、 ゴルドさんが、 転げ落ちるようにして、 駆け寄ってきた。
「――リタ、 リタッ! どうしたッ! 何があったッ!」
姫野さんが、 その場に、 崩れるように、 膝をついた。
腕の中のリタちゃんを、 抱きしめたまま。
その顔が、 涙と、 雨で、 ぐしゃぐしゃに、 歪んでいた。
「……お、 お店に、 来たの……。 この子……。 閉店の後に……」
姫野さんの声が、 震えて、 途切れた。
「……お、 おとうさんが、 苦い薬を、 飲んで、 苦しそうだからって……。
あ、 あたしの、 甘いポーションを、 少しだけ、 混ぜてあげたら、 楽になるかもって……。
お小遣いを、 握りしめて……」
姫野さんの手が、 震えていた。
「……売っちゃ、 駄目だって、 思ったの……。 子どもには、 売っちゃ、 駄目だって……。
でも……今日、 作ったばっかりの、 新しいやつが、 棚に、 あって……。
この子、 それを、 一本、 持っていって……。 あたし、 気づかなくて……」
姫野さんは、 顔を、 上げた。
その目が、 澪さんを、 見ていた。
すがるように。
「――店の外で、 倒れてたの……! さっき……! ……黒鱗粉、 っていうのが、 入ってて……!
あ、 あたしが、 入れたの……! ザイルに、 渡されて……! あ、 あたしが……!」
姫野さんの声が、 悲鳴に、 変わった。
「――お願い、 柚木さん……! この子を、 助けて……!
あたしじゃ、 何もできない……! あたし、 何も、 分からない……!
お願い……! お願い……!」
雨が。
倉庫の屋根を。
叩き続けていた。
澪さんが、 立ち上がった。
頬に、 僕の血を、 一筋、 つけたまま。
その顔から、 すべての表情が、 消えていた。
ただ、 薬師の顔だけが、 そこに、 あった。
「――古賀くん、 鑑定して。 リタちゃんの、 状態を、 全部」
「――わ、 分かった!」
「――白峰くん、 お湯を。 ありったけ」
「――うん!」
「――剛くん、 寝台を、 一つ、 空けて。 一番、 灯りに近いところに」
「――おうッ!」
それから、 澪さんは。
床に、 崩れ落ちたままの、 姫野さんを、 見下ろした。
「――姫野さん」
姫野さんが、 びくりと、 肩を、 震わせた。
「黒鱗粉を、 どれだけ、 入れたの。 正確に、 教えて」
澪さんの声は、 静かだった。
責めてはいなかった。
ただ、 一人の薬師が、 もう一人の錬金術師に、 命を救うために必要な、 真実を、 問うていた。
「……あなたは、 錬金術師でしょう。 この子を、 救うために。
あなたの知っていることを、 全部、 私に、 教えて」
姫野さんの目から、 涙が、 溢れ出した。
雨の音が。
遠く、 なった。




