第33話「あんたの本には」
三日目の朝。
オルド村の広場に、 村じゅうの人々が、 集まっていた。
広場の真ん中の、 古い楡の木の下に、 粗末な木の卓が、 一つ、 置かれていた。
その卓の向こうに、 リンドール市の監察官、 オルブリヒさんが、 座っていた。
その隣に、 エレオノーラさん。
王女としての、 濃紺の騎士服に、 胸の裂け目を、 澪さんが、 一晩で、 丁寧に、 繕ってくれていた。
卓の、 こちら側に。
宇佐美が、 立っていた。
煤で汚れた、 濃い緑の上着は、 もう、 着ていなかった。
村人から借りた、 粗い麻のシャツ。
その襟元に、 ヴァイス男爵家の銀の徽章は、 もう、 なかった。
館と一緒に、 燃えてしまったのだという。
眼鏡の、 片方のレンズに、 ひびが入っていた。
館の書斎の床に、 転がっていたときに、 割れたのだろう。
宇佐美の腰の職業札だけが、 朝日を受けて、 鈍く、 光っていた。
【職業:賢者】。
その文字は、 もう、 半分以上が、 灰色の霞に、 呑まれていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「……オルド村代官、 宇佐美玲央」
オルブリヒさんが、 しわがれた声で、 言った。
「これより、 リンドール市監察官の権において、 そなたの代官としての務めについて、 検めを行う。
アルセリア第一王女、 エレオノーラ殿下の、 立ち会いのもとに」
広場が、 静まり返った。
村人たちの視線が、 一斉に、 宇佐美に、 注がれていた。
怒り。
恨み。
疲れ。
そして、 その奥に、 もう、 何を期待していいのかも分からない、 擦り切れたような、 諦め。
僕は、 広場の端の、 石垣の上に、 腰かけていた。
両手の手のひらに、 澪さんの巻いてくれた、 白い包帯。
隣に、 古賀。
足元に、 シロガネ。
剛は、 まだ、 集会所の寝台で、 眠り続けていた。
澪さんは、 その傍らで、 剛の傷の手当てを、 続けていた。
「一つ、 問う」
オルブリヒさんが、 卓の上で、 指を組んだ。
「そなたは、 着任より二か月の間に、 村の税を、 三割、 引き上げた。 その理由は」
「……土壌改良のための、 費用です」
宇佐美の声は、 掠れていた。
「排水路を掘り、 石灰を撒き、 堆肥を入れる。 輪栽式農法を、
この土地に根づかせるための、 必要な投資でした」
「二つ、 問う。 その輪栽式とやらは、 この村の土に、 合っていたか」
「……論理的には」
宇佐美は、 そこで、 言葉を切った。
広場の村人たちの間から、 低い、 ざわめきが、 上がった。
宇佐美の手が、 腰の脇で、 小刻みに、 震えていた。
「……論理的には、 輪栽式は、 人類の歴史が、 その有効性を、 証明しています。
従来の三圃式に比べて、 収穫量は、 一・五倍から、 二倍。
この村の土に合わなかったのは、 一時的な、 適応の遅れであって――」
「――のう、 代官様」
広場の、 人垣の中から。
しわがれた声が、 宇佐美の言葉を、 遮った。
人垣が、 割れた。
杖をついた、 腰の曲がった、 小柄な老人が。
一歩、 また一歩と。
ゆっくりと、 卓の前へと、 歩み出てきた。
ベンさんだった。
日に焼けて、 革のように硬くなった肌。
段々畑の畦のように、 幾重にも刻まれた、 深い皺。
節くれだった指の、 その爪の奥まで、 染み込んだ、 土の色。
ベンさんは、 宇佐美の前で、 立ち止まった。
見上げた。
宇佐美よりも、 頭一つ分、 低い場所から。
「……わしは、 学がない」
ベンさんが、 静かに、 言った。
「字も、 ろくに読めん。
あんたの言う、 輪なんとかも、 論理なんとかも、 何のことやら、 さっぱり分からん」
ベンさんは、 杖を、 卓の脇に、 立てかけた。
それから、 しゃがみ込んだ。
広場の、 踏み固められた土に、 その節くれだった手のひらを、 そっと、 押し当てた。
「じゃがな。 この土のことなら、 分かる」
ベンさんの手が、 土を、 一掴み、 すくい上げた。
黒く、 重く、 湿った、 粘土質の土。
指の間から、 ぽろぽろと、 こぼれ落ちていく。
「この土はな、 雨が降ると、 水を、 抱え込む。
なかなか、 離さん。 じゃから、 根の浅い野菜は、 腐る。
わしの爺さんの、 そのまた爺さんの代から、 みんな、 そう言うてきた。
蕪を植えた家も、 昔は、 あったそうじゃ。 みんな、 腐らせた」
ベンさんは、 手のひらの土を、 宇佐美の目の前に、 差し出した。
「芋はな、 この土でも、 根を張る。
水を抱え込んだ土の中でも、 しぶとく、 育つ。 豆はな、 この土を、 肥やしてくれる。
羊はな、 休ませた畑の草を食んで、 糞で、 また、 土を、 肥やしてくれる」
ベンさんは、 宇佐美の目を、 まっすぐに、 見上げた。
そして。
「――あんたの本には、 この村の土のことは、 書いてなかったろう」
広場が。
しんと。
静まり返った。
宇佐美の顔が。
凍りついた。
眼鏡の、 ひびの入ったレンズの奥で。
その目が、 大きく、 見開かれていた。
ベンさんは、 手のひらの土を、 宇佐美の手に、 そっと、 握らせた。
「……責めとるんじゃ、 ない」
ベンさんの声は、 静かだった。
怒りでも、 恨みでもなかった。
「あんたは、 遠い国から来たんじゃろう。
この村の土を、 知らんのは、 当たり前じゃ。
……じゃがな、 知らんのなら、 聞いてほしかった。 わしらに。 この土に」
宇佐美の手の中で。
黒い土が、 ぽろりと、 こぼれ落ちた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
長い、 長い、 沈黙だった。
宇佐美は、 手の中の、 わずかに残った土を、 見下ろしていた。
その手が。
震えていた。
小刻みに。
止まらずに。
「……論理的に」
宇佐美が、 かすれた声で、 言った。
「……論理的に、 言えば」
その声が、 途切れた。
宇佐美の唇が、 何度も、 何度も、 動いた。
何かを、 言おうとして。
言えずに。
また、 動いて。
僕は、 石垣の上から、 その姿を、 見つめていた。
――賢者の戒律は、 『知を問われたら、 真実を答えよ』。
今、 宇佐美は、 問われていた。
ベンさんに。
この村の土に。
そして、 宇佐美自身に。
宇佐美の腰の、 職業札が。
朝日の中で。
灰色の霞が、 じわりと、 また、 文字を、 呑み込もうとしていた。
【職業:賢】の、 その最後の一画が。
今にも、 消えてしまいそうだった。
小田切の、 あの瞬間が、 頭をよぎった。
シロガネを見捨てて、 背を向けた瞬間。
ぴしり、 と、 札に亀裂が走って。
【職業:なし】。
――宇佐美。
声には、 出さなかった。
出しては、 いけないと思った。
これは、 宇佐美が、 宇佐美自身で、 答えなければならないことだった。
宇佐美の唇が、 もう一度、 動いた。
「……俺、 は」
広場の、 誰もが、 息を、 止めていた。
「……俺は……」
宇佐美の目から。
涙が。
ひびの入ったレンズの、 その内側を、 伝い落ちていった。
「――俺が、 間違って、 いました」
その声は、 小さかった。
掠れていた。
けれど、 静まり返った広場の、 端から端まで。
確かに、 届いた。
「……この村の土を、 知らなかった。 知ろうとも、 しなかった。
早く、 結果を、 出したかった。
誰かに、 認めてほしかった。 だから、 聞かなかった。
聞いたら、 自分の知識が、 間違ってるって、 分かってしまう気がして。
……怖かった、 んです」
宇佐美の膝が、 崩れた。
広場の土の上に、 両膝を、 ついた。
「……税を、 上げて。 畑を、 枯らして。
穀物倉を、 焼いて。 男爵の兵を、 呼んで。 ……全部、 俺の、 せいです」
宇佐美は、 ベンさんの前で。
村人たちの前で。
額を、 土に、 擦りつけた。
「――申し訳、 ありませんでした」
広場が。
静まり返ったまま。
誰も。
何も。
言わなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
そのとき。
宇佐美の腰の、 職業札から。
小さな音が、 した。
――ぱき、 と。
小田切のときと、 同じ音だった。
薄い氷が、 割れるような。
宇佐美の体が、 びくりと、 跳ねた。
職業札の表面に、 亀裂が、 走っていた。
一筋。
【職業:賢者】の、 その文字を、 横切るように。
亀裂の上の、 灰色の霞が。
渦を巻いた。
文字を、 呑み込んでいく。
賢。
者。
その二文字が、 霞の中に、 溶けていく。
――間に合わなかったのか。
石垣の上で、 僕は、 拳を、 握りしめていた。
霞が、 晴れた。
亀裂の入った職業札の上に、 新しい文字が、 浮かび上がっていた。
【職業:物知り】
宇佐美が、 呆然と、 その文字を、 見つめていた。
「……もの、 しり」
「……劣化、 だね」
隣で、 古賀が、 かすれた声で、 つぶやいた。
鑑定士の目が、 淡い光を帯びていた。
「賢者から、 物知りへ。 ……でも」
古賀の声が、 震えた。
「……『なし』じゃ、 ない」
古賀は、 眼鏡を、 押し上げた。
「小田切は、 最後の最後に、 シロガネを見捨てた。
戒律の核を、 自分から、 断ち切った。
だから、 剥奪された。
……宇佐美は、 最後の最後に、 真実を、 答えた。
遅すぎたけど。 劣化は、 止められなかったけど。
……それでも、 最後の一線だけは、 越えなかったんだ」
僕は、 黙って、 うなずいた。
宇佐美は、 地面に両膝をついたまま、 職業札を、 見つめ続けていた。
【物知り】。
賢者の、 その成れの果て。
けれど、 まだ、 何かでは、 ある。
何者でもなくなっては、 いない。
宇佐美の肩が、 震え始めた。
声を、 殺して。
それでも、 殺しきれずに。
宇佐美は、 泣いていた。
ベンさんが、 杖を、 手に取った。
それから、 宇佐美の前に、 ゆっくりと、 しゃがみ込んだ。
節くれだった、 土の色の手で。
宇佐美の、 震える肩を、 ぽん、 と、 一度だけ、 叩いた。
「……ようやく、 聞いてくれたな」
ベンさんは、 それだけ言った。
宇佐美は、 顔を、 上げなかった。
ただ、 ベンさんの、 土の色の手の下で。
子どものように、 泣き続けていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――裁きを、 申し渡す」
オルブリヒさんの声が、 広場に、 響いた。
「オルド村代官、 宇佐美玲央。 その職を、 本日をもって、 解く。
引き上げられた税は、 元に戻す。
また、 焼失した穀物倉の再建は、 ヴァイス男爵家の負担とする。
……これについては、 わしが、 リンドール市参事会の名において、 男爵家に、 掛け合う」
それから、 オルブリヒさんは、 隣のエレオノーラさんに、 目を向けた。
エレオノーラさんが、 静かに、 立ち上がった。
「宇佐美殿」
宇佐美が、 ゆっくりと、 顔を上げた。
「あなたの身柄は、 王都へ、 送ります。 王立学院の、 書記見習いとして」
宇佐美の目が、 見開かれた。
「……書記、 見習い?」
「宮廷魔術師長ヴェルダに、 宛てて、 わたくしが、 書状を書きます。
あなたの知識を、 一から、 この世界の土と、 水と、 人と、 照らし合わせて、 学び直していただきたい」
エレオノーラさんの声は、 静かだった。
けれど、 その奥に、 確かな、 何かがあった。
「あなたの知識は、 間違っていなかった。 ただ、 足りなかった。
足りないものは、 学べばいい。
……物知り、 という職業は、 そのためにあるのでしょう」
宇佐美は、 長い間、 何も、 言わなかった。
それから。
両手を、 土についたまま。
エレオノーラさんに。
ベンさんに。
村人たちに。
もう一度、 深く、 頭を下げた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その日の午後。
村の集会所の、 古い卓の上に。
一枚の、 焦げた羊皮紙が、 広げられていた。
宇佐美が、 燃える館から、 最後に掴んで持ち出した、 オルド村の段々畑の地図。
その地図を、 三人の男が、 囲んでいた。
宇佐美と。
古賀と。
ベンさんと。
「――北の斜面は、 芋」
ベンさんが、 節くれだった指で、 地図の、 北向きの畑を、 一枚ずつ、 叩いていった。
「その次の年は、 豆。 その次は、 麦。 その次は、 休ませて、 羊じゃ」
「……北の斜面の、 この三枚」
宇佐美が、 地図の上の、 三枚の畑を、 指さした。
その指は、 まだ、 少しだけ、 震えていた。
「水はけが、 特に、 悪い。 雨が降ると、 下の畑にまで、 水が溜まる。
……ここに、 斜面に沿って、 細い排水溝を、 一本だけ、 掘れば。 芋の根が、 水に浸かる日が、 減る。 収穫が、 少しは、 増えるはずです」
「……排水溝、 か」
ベンさんが、 顎の白い髭を、 撫でた。
「爺さんの代に、 似たようなことを、 試した者がおったと、 聞いたことがある。
じゃが、 どこに掘ればええのか、 誰にも分からなんで、 結局、 やめてしもうた」
「水の流れは、 計算で、 出せます」
宇佐美は、 羊皮紙の余白に、 細かな数式を、 書き込み始めた。
「斜面の傾きと、 土の粘りと、 雨の量から。 どこに、 どれくらいの深さで、 掘れば、 一番、 効率よく、 水が抜けるか」
「……鑑定で、 補足するよ」
古賀が、 眼鏡を、 押し上げた。
「この斜面の、 土の下。 三尺くらい掘ったところに、 砂利の層がある。
そこまで溝を掘れば、 水は、 勝手に、 砂利の層を伝って、 抜けていくはずだ」
三人の頭が、 一枚の、 焦げた地図の上で、 寄せ合わされていた。
宇佐美の、 何百年分の、 人類の知識。
ベンさんの、 何百年分の、 この村の知恵。
古賀の、 見たままを、 見通す目。
僕は、 集会所の入り口の柱にもたれて、 その光景を、 黙って、 見つめていた。
――その二つが、 合わさったら。
――きっと、 この村は、 今よりも、 ずっと、 豊かになる。
燃える館の、 書斎の扉の前で。
僕が、 宇佐美に、 言った言葉。
それが、 今。
目の前で。
小さな、 小さな、 形に、 なろうとしていた。
「……白峰くん」
隣に、 澪さんが、 来ていた。
剛の手当てを、 ようやく、 終えたのだろう。
目の下に、 濃い隈ができていた。
けれど、 その口元は、 ほんの少しだけ、 緩んでいた。
「……宇佐美くん、 いい顔、 してる」
「……うん」
「……最初の日に、 館で見たときより、 ずっと」
澪さんは、 地図を囲む三人を、 見つめていた。
「……薬師もね、 同じなの。 薬草の知識が、 どれだけあっても。
目の前の患者さんの体のことを、 ちゃんと、 聞かないと。 本当に効く薬は、 作れない」
僕は、 澪さんの横顔を、 見た。
澪さんは、 その視線に気づいて、 ふいっと、 顔を、 背けた。
その耳が、 少しだけ、 赤かった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
翌朝。
リンドールへと戻る、 マルガさんの隊商の荷馬車の、 最後尾に。
宇佐美が、 乗り込んでいた。
リンドールから、 王都へ向かう、 別の隊商に、 乗り継ぐのだという。
村の入り口に、 村人たちが、 集まっていた。
見送りのためでは、 なかった。
少なくとも、 最初は。
ただ、 村を去っていく、 元代官の姿を、 遠巻きに、 黙って、 見つめていた。
その中から、 ベンさんが、 杖をついて、 荷馬車の脇まで、 歩いてきた。
懐から、 小さな布の包みを、 取り出した。
開くと、 干した芋が、 二切れ、 入っていた。
三日前の夜に、 僕が、 ベンさんの手に、 返した、 あの二切れ。
「……道中、 腹が減ったら、 食え」
ベンさんは、 その包みを、 宇佐美の手に、 押しつけた。
「この村の、 北の斜面の、 芋じゃ。
……あんたが、 次に、 どこかの土に、 何かを植えるときに。 この味を、 思い出せ」
宇佐美は、 包みを、 両手で、 受け取った。
その手が、 震えていた。
「……ベン、 さん」
「なんじゃ」
「……春に、 なったら。 北の斜面の、 排水溝が、 ちゃんと、 機能してるか。
……手紙で、 教えて、 いただけませんか」
ベンさんの、 皺だらけの顔が、 くしゃりと、 歪んだ。
「……わしは、 字が、 ろくに書けんと、 言うたろう」
「……あ」
「……孫に、 書かせる」
ベンさんは、 宇佐美に、 背を向けた。
杖をついて、 村の中へと、 戻っていく。
その背中が、 一度だけ、 立ち止まった。
「……達者でな、 物知りの、 先生」
宇佐美は、 その背中に向かって、 深く、 深く、 頭を下げた。
荷馬車が、 動き出すまで。
動き出してからも。
ずっと。
荷馬車が、 村の入り口を出る直前。
宇佐美が、 荷台の上から、 僕を、 呼んだ。
「――白峰」
「うん」
荷馬車の脇を、 並んで、 歩いた。
宇佐美は、 ひびの入った眼鏡の奥から、 僕を、 じっと、 見下ろした。
「……一つだけ、 伝えておかなきゃいけないことが、 ある」
宇佐美は、 声を、 落とした。
「税を、 三割、 上げたのは。 土壌改良のため、 だけじゃなかった」
「……え?」
「ヴァイス男爵から、 命じられたんだ。
上げた税の、 半分は、 『軍資金』として、 男爵家に送れって。
……男爵家から、 さらに、 ドルマン侯爵家へ、 送られるらしい」
足が、 止まりかけた。
「軍資金……? 何のための」
「分からない。 聞いても、 教えてもらえなかった。
……でも、 オルド村だけじゃないらしい。
侯爵家の寄子の、 東の貴族の領地のあちこちで、 同じように、 税が、 上がってるって。
代官同士の、 噂で、 聞いた」
宇佐美は、 眼鏡を、 押し上げた。
「……論理的に、 考えて。 魔王軍との戦のための金なら、 王家に、 送るはずだ。
侯爵家が、 独自に、 金を集める理由は」
宇佐美は、 その先を、 言わなかった。
荷馬車が、 速度を、 上げた。
僕は、 その脇から、 離れた。
宇佐美が、 荷台の上から、 最後に、 一度だけ、 振り返った。
「――白峰。 ……ありがとう。 書斎の扉の前で、 言ってくれたこと」
宇佐美は、 少しだけ、 笑った。
煤の跡が、 まだ、 頬に、 うっすらと、 残っていた。
「論理的じゃ、 なかったけど。 ……正しかったよ」
荷馬車が、 街道の、 曲がり角の向こうに、 消えていった。
僕は、 しばらく、 その場に、 立ち尽くしていた。
ドルマン侯爵。
軍資金。
東の貴族の領地。
そして、 侯爵家に身を寄せている、 花菱さん。
胸の奥の、 冷たい棘が。
少しだけ、 深く。
刺さった気がした。




