第32話「坂道の剣」
宇佐美を背負って、 館の裏の斜面を回り込んだとき。
坂道の上の空気は、 張り詰めた弓の弦のように、 鳴っていた。
剛の青い壁は、 まだ、 立っていた。
けれど、 その光は、 さっきよりも、 ずっと、 薄くなっていた。
透き通るほどに。
揺らぐたびに、 ところどころが、 霞のように、 途切れかけていた。
剛の膝が、 小刻みに、 震えていた。
夜明けから、 ずっと、 一人で、 その壁を、 支え続けていたのだ。
壁の、 坂の上側。
私兵たちの先頭で、 あの赤ら顔の男が、 エレオノーラさんと、 向かい合っていた。
「――王女殿下、 ですと?」
男が、 嘲るように、 言った。
その口元が、 歪んでいた。
「ははっ。 こんな辺境の村に、 アルセリアの王女殿下が、 供も連れずに、
異界の小僧どもと、 うろついておられると?
……騙りも、 大概にしていただきたいものですな」
「わたくしの顔を、 知らぬと申すか」
「存じ上げませんな。 なにぶん、 辺境の田舎者ゆえ」
男は、 わざとらしく、 肩をすくめた。
「仮に、 本物の王女殿下であられたとしても。
このオルド村は、 ヴァイス男爵閣下の御領地。 領内の騒乱を鎮めるは、 領主の権。
王家といえども、 みだりに口を挟まれるべきではない。
……それが、 この国の、 古くからの法でございましょう」
エレオノーラさんの、 青い瞳が、 冷たく、 細められた。
「……名を、 名乗りなさい」
「ヴァイス男爵家私兵隊長、 ガスパル」
男は、 胸を張った。
「男爵閣下の代官の館に火を放った暴徒どもを、 捕らえよとの命を、 受けております。
そして、 その暴徒どもを庇い立てする者は、 何者であろうと、 同罪とせよ、 とも」
ガスパルは、 腰の幅広の長剣を、 ゆっくりと、 抜いた。
鋼が、 鞘を滑る音が。
朝の空気を、 一筋、 冷たく、 裂いた。
「――殿下を、 騙る女。 異界の騎士。 そして、 坂の下の、 暴徒ども。
……まとめて、 片付けさせていただきます」
ガスパルが、 剣を、 振り上げた。
その切っ先が、 朝日を受けて、 白く、 光った。
「――かかれッ!」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
三十の槍が、 一斉に、 動いた。
剛の青い壁に、 槍の穂先が、 雨のように、 叩きつけられた。
薄くなっていた光が、 悲鳴を上げた。
一本。
二本。
十本。
穂先が、 光の膜を、 突き破り始めた。
「――ぐ、 うおおッ……!」
剛が、 盾を、 支えた。
その腕から、 血が、 滲んでいた。
膝が、 土に、 沈んだ。
「――剛ッ!」
宇佐美を、 坂道の脇の、 石垣の陰に、 そっと、 下ろした。
「宇佐美、 ここにいて」
「……白峰……」
「すぐ、 戻る」
剣を、 抜いた。
坂を、 駆け上がった。
剛の壁の、 その綻びの一つから、 一人の私兵が、 槍を突き入れていた。
その穂先が、 壁の内側の、 坂の下の、 村人たちへと、 向かおうとしていた。
――斬っては、 いけない。
この人たちは、 魔物ではない。
命じられて、 槍を、 握っているだけの人たちだ。
槍の柄に、 剣を、 叩きつけた。
刃ではなく、 剣の腹で。
鋼と、 樫の木が、 ぶつかり合う、 重い音。
柄が、 しなった。
私兵の手から、 槍が、 弾け飛んだ。
すぐに、 次の槍。
その次の槍。
壁の綻びから、 次々と、 穂先が、 突き出されてくる。
僕は、 その一本一本を、 剣の腹で、 叩き落とし、 弾き返し、 逸らしていった。
斬らずに。
刺さずに。
ただ、 止めるためだけに。
――剣は、 守るために振れ。
それは、 斬るよりも、 ずっと、 難しかった。
斬れば、 一振りで済む。
けれど、 止めるには。
相手の力の、 その向きを読み。
その流れの、 ほんのわずかな隙に、 刃を添わせ。
命を奪わない、 ぎりぎりの場所で。
力だけを、 奪わなければならない。
一本、 弾く。
腕が、 痺れる。
一本、 逸らす。
肩が、 軋む。
一本、 叩き落とす。
息が、 上がる。
館の炎で焼けた喉が、 一呼吸ごとに、 ひりついた。
火傷を負った手のひらの皮が、 剣の柄の上で、 剥けていくのが、 分かった。
それでも。
「――陽翔……ッ!」
剛の声が、 背中から、 聞こえた。
「……お前が、 前に、 いてくれると……壁が……軽い……ッ!」
剛の青い壁が。
ほんの少しだけ。
厚みを、 取り戻した。
シロガネが、 壁の左端を、 回り込もうとする私兵たちの前に、 立ちはだかっていた。
牙を、 剥いていた。
けれど、 噛みつきは、 しなかった。
ただ、 低く、 低く、 地の底から響くような唸り声を、 上げていた。
銀牙狼の、 本物の唸り声。
私兵たちの足が、 その前で、 凍りついたように、 止まっていた。
古賀が、 坂の下の、 村人たちの前に、 立っていた。
両腕を、 大きく、 広げていた。
「――前に出ないでッ! 絶対に、 前に出ないでくださいッ!
今、 槍を振り回したら、 本当に、 暴徒にされちゃうッ! それこそ、 あいつらの思うツボだッ!」
古賀の声が、 震えていた。
けれど、 その両腕は、 一度も、 下がらなかった。
鍬を握りしめていた若者たちが、 その声に、 ためらうように、 足を止めた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
そして。
坂道の、 真ん中で。
エレオノーラさんと、 ガスパルが、 向かい合っていた。
周りの喧騒が、 二人の周りだけ、 すっと、 遠のいていくようだった。
ガスパルは、 幅広の長剣を、 両手で、 中段に構えていた。
大柄な体。
分厚い胸板。
その体重を、 すべて、 剣の一点に、 乗せている構え。
長年、 戦場で、 人を斬ってきた者の、 構えだった。
エレオノーラさんは、 細身の剣を、 右手一本で、 斜め下に、 垂らしていた。
構えている、 とさえ、 見えなかった。
ただ、 そこに、 立っていた。
朝の風が、 その金の三つ編みを、 わずかに、 揺らしていた。
「――女の細腕で、 何ができるものか」
ガスパルが、 嘲った。
「その細い剣ごと、 叩き折ってくれるわ」
エレオノーラさんは、 答えなかった。
ただ。
息を、 吐いた。
――打ち込む直前に、 一度、 息を吐きなさい。 肩の力が、 抜けます。
四か月前。
夜明けの訓練場で、 何度も、 何度も、 石畳に転がされていた僕に、 彼女が、 教えてくれた言葉。
ガスパルが、 動いた。
速かった。
大柄な体からは、 想像もつかないほど。
幅広の長剣が、 唸りを上げて、 横に、 薙がれた。
エレオノーラさんの、 胴を。
細い体を、 二つに、 断ち割るように。
鋼の、 重い、 分厚い、 弧。
その弧の中に。
エレオノーラさんは、 いなかった。
――消えた、 と思った。
違った。
エレオノーラさんは、 半歩だけ、 後ろに、 下がっていた。
本当に、 半歩だけ。
ガスパルの長剣の切っ先が、 彼女の騎士服の、 胸元の布を、 一筋だけ、 かすめていった。
布が、 裂けた。
けれど、 その下の肌には、 触れていなかった。
髪の毛一本分。
それだけの、 距離。
その距離を、 エレオノーラさんは、 最初から、 知っていた。
ガスパルの長剣が、 薙ぎ終わる。
重い剣だった。
振り切った後の、 その重さが、 ガスパルの体を、 わずかに、 前に、 泳がせた。
その、 わずかな、 泳ぎの中に。
金の髪が、 翻った。
エレオノーラさんの細身の剣が、 下から、 斜めに、 跳ね上がった。
剣が。
光った。
朝日を、 一筋の、 細い、 細い、 銀の糸に変えて。
――きん、 と。
澄んだ音が、 坂道に、 響いた。
鈴を、 一つだけ、 鳴らしたような。
ガスパルの、 右手の、 籠手。
その留め金が、 弾け飛んでいた。
籠手が、 腕から、 ずり落ちた。
その下の、 手首の、 内側。
脈の、 打つ場所に。
細い、 赤い線が、 一筋、 浮かび上がっていた。
浅かった。
皮一枚。
けれど、 その一筋が、 ガスパルの右手から、 握る力を、 奪っていた。
幅広の長剣が。
ガスパルの手から、 滑り落ちた。
土の上に、 重い音を立てて、 転がった。
ガスパルは、 呆然と、 自分の右手を、 見下ろしていた。
指が、 動かなかった。
握ろうとしても、 握れなかった。
エレオノーラさんの剣の切っ先が。
ガスパルの、 喉元に。
ぴたりと、 止まっていた。
「――わたくしの剣は」
エレオノーラさんが、 静かに、 言った。
その声は、 少しも、 息を、 乱していなかった。
「三年前に、 兄を失ってから、 毎朝、 夜明けとともに、 振り続けてきた剣です。
……兄が、 一人で背負ったものを、 二度と、 誰にも、 一人で背負わせないために」
青い瞳が、 ガスパルを、 まっすぐに、 見据えていた。
「――細腕で、 何ができるか。 答えは、 今、 あなたの手首にあります」
坂道が、 静まり返った。
三十の槍が、 止まっていた。
私兵たちが、 呆然と、 自分たちの隊長と、 その喉元に突きつけられた、 細い剣を、 見つめていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「……っ、 く……」
ガスパルの顔が、 赤から、 どす黒い紫へと、 変わっていった。
「……な、 何をしている、 貴様らッ!」
ガスパルが、 喉元の剣先も構わずに、 叫んだ。
「た、 たかが、 女一人ッ! 囲んで、 押し潰せッ! 男爵閣下の、 御命令だぞッ!」
私兵たちが、 互いに、 顔を、 見合わせた。
その目に、 迷いが、 浮かんでいた。
けれど。
主の命令。
隊長の命令。
その鎖が、 彼らの足を、 前へと、 引きずろうとしていた。
一人が、 槍を、 構え直した。
二人。
三人。
僕は、 剣を、 握り直した。
剛が、 盾を、 掲げ直した。
シロガネが、 唸り声を、 一段、 低くした。
――また、 始まる。
そう思った、 そのときだった。
坂道の、 遥か下。
村の入り口の、 街道の方角から。
角笛が、 鳴り響いた。
一つではなかった。
二つ。
三つ。
高く、 澄んだ、 長い音。
坂道の上の、 全員が、 振り返った。
街道を、 荷馬車の列が、 上ってきていた。
十台。
いや、 二十台。
麦袋を、 山のように積んだ荷馬車が、 村の入り口から、 長い、 長い列を作って、 続いていた。
その荷馬車の両脇を、 揃いの、 赤い外套を纏った騎馬の者たちが、 護衛していた。
その外套の胸に、 天秤と、 船の帆を組み合わせた紋章が、 刺繍されていた。
リンドール商人ギルドの、 紋章だった。
そして、 その列の、 先頭の荷馬車の、 御者台の上に。
恰幅のいい、 四十がらみの女性が、 立っていた。
片手を、 腰に当てて。
もう片方の手を、 高く、 天に、 掲げて。
「――リンドール商人ギルド、 マルガ隊商、 ただいま到着ッ!」
マルガさんの声が、 坂道に、 朗々と、 響き渡った。
「オルド村への、 麦の緊急輸送でございますッ!
依頼主は、 アルセリア王国第一王女、 エレオノーラ殿下ッ!
殿下の、 王家の紋章の封蝋を押した、 正式な依頼状を、 確かに、 頂戴しておりますッ!」
マルガさんは、 懐から、 一通の手紙を取り出して、 高々と、 掲げた。
昨日の朝、 僕が書いて、 エレオノーラさんが封蝋を押した、 あの手紙だった。
その封蝋の、 王家の紋章が、 朝日を受けて、 赤く、 光っていた。
私兵たちの顔から、 血の気が、 引いていった。
「それと、 もう一つ」
マルガさんの隣の御者台から、 一人の痩せた老人が、 立ち上がった。
灰色の、 地味な長衣。
その胸に、 銀の天秤の徽章。
「リンドール市参事会、 監察官の、 オルブリヒと申す」
老人の声は、 しわがれていた。
けれど、 その一言一言は、 研ぎ澄まされた刃のように、 正確だった。
「マルガ殿より、 オルド村にて、 代官による過酷な徴税と、
それに伴う騒乱の恐れありとの、 訴えを受けた。
リンドール市と、 その周辺の村々の通商の安寧を預かる者として、
事の次第を、 検めに参った」
オルブリヒと名乗った老人は、 坂道の上の、 私兵たちを、 ゆっくりと、 見渡した。
それから、 エレオノーラさんに剣を突きつけられた、 ガスパルを、 見た。
最後に、 エレオノーラさんを、 見た。
老人の目が、 わずかに、 見開かれた。
「……これは」
老人は、 御者台から、 よろめくように、 降り立った。
そして、 坂道の土の上に、 両膝をついた。
「……アルセリア第一王女、 エレオノーラ殿下。
三年前、 王都の、 王太子殿下の葬儀にて、 一度だけ、 遠くより、 お姿を拝見いたしました」
老人は、 深々と、 頭を下げた。
「……リンドール市監察官、 オルブリヒ。 殿下に、 ご挨拶申し上げます」
坂道が、 凍りついた。
ガスパルの顔から、 すべての色が、 抜け落ちていった。
私兵たちの手から、 槍が、 一本、 また一本と、 土の上に、 落ちていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――マルガさん」
荷馬車の列の、 先頭へと、 駆け寄った。
マルガさんは、 御者台の上から、 僕を見下ろして、 にっと、 笑った。
「お手紙、 確かに、 受け取りましたよ、 勇者様。
一晩で、 ギルドじゅうの麦を、 かき集めました。
荷馬車二十台分。 この村の、 一冬分には、 なりましょう」
「……ありがとうございます。 本当に」
「お礼なんて」
マルガさんは、 首を横に振った。
その目が、 わずかに、 潤んでいた。
「森で、 命を救っていただいた恩に比べたら。 麦の二十台や三十台、 何でもありません」
マルガさんの後ろの、 荷台の、 麦袋の山の上から。
小さな頭が、 ひょっこりと、 覗いた。
ニコくんだった。
「――おにいちゃん! シロガネ!」
ニコくんが、 麦袋の山の上で、 両手を、 大きく、 振っていた。
シロガネが、 坂道の上から、 銀色の風となって、 駆け下りてきた。
荷馬車の脇で、 跳ね上がって、 ニコくんの顔を、 ざらりと、 舐めた。
ニコくんが、 声を上げて、 笑った。
両親を失ってから、 初めて聞く、 ニコくんの、 心からの笑い声だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ガスパルと、 三十人の私兵たちは、 監察官オルブリヒの命で、
武器を置き、 村の外れの、 古い牛舎に、 留め置かれることになった。
ガスパルは、 連れていかれる直前に、 一度だけ、 振り返った。
赤黒い顔で、 エレオノーラさんを、 睨みつけた。
「……覚えておかれよ、 殿下」
低い、 唸るような声だった。
「ヴァイス男爵閣下は、 ドルマン侯爵閣下の、 最も忠実な寄子。
侯爵閣下は、 王都の宮廷において、 王家にさえ、 物申されるお方だ。
……今日のことは、 必ず、 侯爵閣下のお耳に、 届きましょう」
エレオノーラさんは、 表情を、 変えなかった。
「届けなさい」
静かな声だった。
「わたくしも、 父上に、 届けます。 ヴァイス男爵の代官が、
民を飢えさせ、 その私兵が、 王女に剣を向けたことを」
ガスパルは、 舌打ちをして、 背を向けた。
ドルマン侯爵。
その名前を、 どこかで、 聞いたことがあった。
――花菱さんが、 身を寄せている、 侯爵家。
胸の奥に、 冷たい、 小さな棘が、 刺さった気がした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
剛が、 坂道の真ん中で、 盾を、 地面に、 突き立てたまま、 膝をついていた。
青い光は、 もう、 消えていた。
剛は、 肩で、 大きく、 息をしていた。
銀の鎧の、 あちこちに、 槍の穂先が、 えぐった痕が、 残っていた。
「……剛」
隣に、 しゃがみ込んだ。
剛は、 煤と、 汗と、 血で汚れた顔で、 にっと、 笑った。
「……難しいことは、 分からんが」
「うん」
「……誰も、 死ななかった、 よな」
「……うん。 誰も」
「……そっか」
剛は、 盾にもたれかかるようにして、 目を閉じた。
「……なら、 いい。 ……壁は、 それで、 いいんだ」
剛の体が、 ゆっくりと、 傾いた。
僕の肩に、 その大きな頭が、 もたれかかった。
眠っていた。
夜明けから、 ずっと、 一人で、 壁であり続けた男の、 安らかな寝息だった。
「――白峰くん」
坂道の下から、 澪さんが、 駆け上がってきた。
薬草の木箱を、 肩にかけて。
白い前掛けが、 血と、 煤で、 汚れていた。
集会所で、 夜明けから、 ずっと、 怪我人の手当てを、 続けていたのだろう。
澪さんは、 眠る剛を、 見下ろした。
それから、 僕を、 見た。
僕の、 焦げた髪を。
火傷を負った手のひらを。
煤で真っ黒になった顔を。
澪さんの唇が、 震えた。
「……三日って、 言った」
「……うん」
「……まだ、 二日目」
「……うん。 早く、 帰ってきた」
「……ばか」
澪さんは、 その場に、 膝をついた。
薬草の木箱を、 開けた。
僕の、 焼けた手のひらを、 両手で、 そっと、 取った。
その指先が、 震えていた。
「……館に、 飛び込んだって。 古賀くんから、 聞いた」
「……宇佐美が、 中にいたから」
「……知ってる」
澪さんは、 火傷の軟膏を、 僕の手のひらに、 そっと、 塗り広げていった。
冷たくて、 優しくて、 少しだけ、 染みた。
「……白峰くんは、 そういう人だって、 知ってる」
澪さんの、 涙が、 一粒。
僕の手のひらの上に、 落ちた。
軟膏と、 混じり合って。
火傷の上で、 小さく、 光った。
「……おかえり」
澪さんは、 顔を上げずに、 そう言った。
坂道の脇の、 石垣の陰で。
宇佐美が、 焦げた地図を胸に抱いたまま、 膝を抱えて、 座っていた。
その目が、 坂道の上の、 僕たちを。
麦袋を積んだ、 二十台の荷馬車を。
荷馬車に駆け寄っていく、 村人たちを。
ただ、 じっと、 見つめていた。
その唇が、 声もなく、 何かを、 つぶやいていた。
――論理的に。
その先は、 聞き取れなかった。




