第31話「燃える館」
山を駆け下りるあいだ、 煙は、 刻一刻と、 その形を変えていった。
最初は、 細い、 黒い糸だった。
それが、 山の中腹を過ぎる頃には、 太い柱になっていた。
麓の森を抜ける頃には、 柱は、 空に向かって、 巨大な黒い樹のように、 枝を広げていた。
その枝の先が、 東の朝日を、 鈍い銅色に、 濁らせていた。
焦げた匂いが、 風に乗って、 森の中まで、 届いていた。
木の焦げる匂い。
油の焦げる匂い。
そして、 その奥に、 紙の焦げる、 乾いた、 ひどく軽い匂い。
「――あと、 少しだ!」
古賀が、 息を切らせながら、 叫んだ。
尻の皮が三回剥けたという、 その足で、 古賀は、 一度も、 遅れなかった。
森が、 途切れた。
段々畑の、 一番上の畦に、 飛び出した。
オルド村が、 眼下に、 広がっていた。
丘の頂の、 代官の館が、 燃えていた。
石造りの、 二階建ての館。
その窓という窓から、 炎が、 舌を伸ばしていた。
屋根の一部は、 もう、 崩れ落ちていた。
崩れた屋根の穴から、 炎が、 渦を巻いて、 空へと、 噴き上がっていた。
炎は、 赤ではなかった。
朝の光の中で、 それは、 白に近い、 橙色だった。
熱が、 遠く離れた段々畑の上にまで、 陽炎となって、 押し寄せてきた。
景色が、 ゆらゆらと、 歪んで見えた。
そして、 館の前の、 坂道の上で。
人が、 二つに、 割れていた。
坂の上側に、 三十人ほどの、 兵が並んでいた。
揃いの、 濃い緑の外套。
その胸に、 銀の徽章。
宇佐美の襟元にあったのと、 同じ紋章。
ヴァイス男爵家の、 私兵だった。
槍を、 構えていた。
その切っ先が、 坂の下を、 向いていた。
坂の下側には、 村人たちがいた。
鍬を。
鋤を。
熊手を。
薪割りの斧を。
手に、 握りしめていた。
その数は、 五十を超えていた。
若い男たちが、 前に立っていた。
その後ろに、 女たちが、 年寄りたちが、 子どもを抱いた母親たちが、 固まっていた。
そして、 その二つの群れの、 ちょうど真ん中に。
銀色の鎧が、 立っていた。
剛、 だった。
盾を、 両手で、 地面に突き立てていた。
その盾から、 青い光が、 左右に、 薄く、 長く、 伸びていた。
私兵と、 村人の間を、 隔てるように。
どちらの側にも、 盾の面を、 向けずに。
ただ、 その真ん中に、 壁として、 立っていた。
「――剛ッ!」
叫びながら、 段々畑を、 駆け下りた。
石積みの畦を、 一枚、 また一枚と、 飛び降りていく。
足首が、 着地のたびに、 軋んだ。
構わなかった。
剛が、 振り返った。
煤で黒く汚れた顔が、 僕を見て、 一瞬だけ、 くしゃりと、 歪んだ。
「――陽翔ッ! 遅えぞッ!」
その声は、 掠れていた。
ずっと、 叫び続けていたのだろう。
「何があった!」
「難しいことは分からんッ!」
剛は、 盾を握る手に、 力を込めた。
青い光が、 揺らいで、 また、 持ち直した。
「夜明けに、 男爵の兵が、 来たんだッ!
宇佐美が、 呼んだらしいッ!
焼けた穀物倉を建て直す金を、 村から取り立てるってッ!
払えなきゃ、 家財を差し押さえるってッ!」
「それで――」
「村の若い連中が、 怒ってッ!
兵と、 揉み合いになってッ!
誰かが、 松明を、 館に投げ込んだッ!」
剛の声が、 震えた。
「誰が投げたかは、 分からんッ!
村の奴か、 兵の奴か、 それとも、 事故かッ!
でも、 館が燃えて、 両方が、 頭に血が上ってッ!
俺が、 間に入ったッ! それしか、 できなかったッ!」
坂の上の、 私兵たちの、 先頭に。
一人の男が、 立っていた。
大柄で、 赤ら顔の、 髭の濃い男。
外套の下に、 鎖帷子を着込み、 腰に、 幅広の長剣を、 吊っていた。
その男が、 槍の穂先で、 剛の青い壁を、 苛立たしげに、 突いていた。
「――どけ、 異界の騎士ッ!」
男が、 怒鳴った。
「男爵閣下の代官の館に、 火を放った暴徒どもだぞッ!
一人残らず、 引っ捕らえて、 吊るしてやるッ!
邪魔立てするなら、 貴様も、 同罪だッ!」
「――柚木さんはッ!」
「村の、 集会所だッ!
怪我人が、 何人も出てるッ!
ベンの爺さんも、 そこだッ!」
僕は、 燃え盛る館を、 見上げた。
「……剛。 宇佐美は」
剛の顔が、 強張った。
それから、 剛は、 燃える館の、 二階の、 一番端の窓を、 顎で、 示した。
炎は、 まだ、 その窓までは、 届いていなかった。
けれど、 その窓の内側が、 煙で、 黒く、 塗り潰されていた。
「……あそこだ」
剛の声が、 掠れた。
「書斎に、 立て籠もってるッ!
火が出たとき、 兵の連中が、 外に出ろって、 何度も叫んだッ!
でも、 あいつ、 出てこないんだッ!」
剛は、 歯を食いしばった。
「――『俺の研究を、 置いていけるか』ってッ!」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
考えるより先に、 足が、 動いていた。
「――白峰殿ッ!」
エレオノーラさんの声が、 背中を、 追ってきた。
「エレオノーラさんは、 剛と一緒に、 ここをッ! 誰も、 傷つけさせないでッ!」
振り返らずに、 叫んだ。
「あなたの名前なら、 兵を、 止められるッ!」
一瞬の、 沈黙。
それから。
「――アルセリア第一王女、 エレオノーラであるッ!」
凛とした声が、 坂道の上に、 響き渡った。
私兵たちの、 槍の穂先が、 一斉に、 揺らいだ。
その声を、 背中に聞きながら。
僕は、 館の、 正面の扉へと、 走った。
シロガネが、 僕の隣を、 並んで、 駆けた。
「シロガネ。 君は、 外で――」
シロガネは、 答えなかった。
ただ、 金色の瞳で、 一度だけ、 僕を見た。
その目が、 言っていた。
――独りで、 進むな。
暁の神殿の、 石版の言葉。
灯は、 独りでは、 燃えず。
「……分かった。 一緒に行こう」
館の、 正面の扉を、 蹴り開けた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
熱が、 壁になって、 押し寄せてきた。
扉を開けた瞬間。
空気そのものが、 燃えていた。
吸い込んだ息が、 喉を、 焼いた。
肺の奥が、 焼けた鉄を押し当てられたように、 痛んだ。
目が、 開けていられなかった。
涙が、 溢れて、 頬を伝い、 その涙さえも、 熱で、 一瞬で、 乾いていった。
玄関の広間は、 煙で、 満たされていた。
黒く。
重く。
天井から、 床へと、 渦を巻いて、 垂れ込めていた。
――姿勢を、 低く。
元の世界の、 小学校の避難訓練。
煙は、 上に溜まる。
床に近いほど、 空気が、 残っている。
膝をついた。
シロガネも、 腹を、 床にこすりつけるようにして、 伏せた。
床の上の空気は、 わずかに、 冷たかった。
ほんの、 わずかに。
外套の裾を、 引き裂いた。
腰の水筒の水を、 布に含ませた。
それで、 鼻と口を、 覆った。
這うようにして、 前へ。
広間の奥に、 階段が、 あった。
石造りの、 幅の広い階段。
その階段の上から、 炎が、 滝のように、 流れ落ちてきていた。
二階の、 廊下の絨毯が、 燃えていた。
燃えながら、 溶けた獣脂のように、 階段の上を、 一段、 また一段と、 這い下りてきていた。
階段は、 使えない。
「……シロガネ」
シロガネの鼻が、 広間の、 左の壁の方を、 向いた。
その壁際に、 細い扉が、 一つ、 あった。
使用人用の、 裏階段。
扉を、 開けた。
裏階段は、 狭く、 暗く、 そして、 まだ、 燃えていなかった。
石の壁が、 炎を、 防いでいた。
けれど、 その石の壁そのものが、 焼けた窯の内側のように、 熱を、 帯びていた。
触れると、 手のひらの皮が、 剥がれそうだった。
一段。
また一段。
上るほどに、 熱が、 増していった。
煙が、 濃くなっていった。
階段の上から、 炎の唸る音が、 聞こえていた。
いや、 唸るのではなかった。
炎は、 呼吸していた。
吸って。
吐いて。
そのたびに、 階段の上の闇が、 赤く、 脈打っていた。
二階に、 出た。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
廊下は、 地獄の、 喉の奥だった。
両側の壁に掛けられていた、 何枚もの絵画が、 額縁ごと、 燃えていた。
絨毯が、 燃えていた。
天井の梁が、 燃えていた。
燃える梁から、 火の粉が、 赤い雪のように、 絶え間なく、 降り注いでいた。
その廊下の、 一番奥。
炎に囲まれて。
一枚の、 樫の扉が、 見えた。
書斎の、 扉。
扉の前の床だけが、 まだ、 燃えていなかった。
けれど、 その周りを、 炎が、 囲んでいた。
扉に向かって、 じわじわと、 その輪を、 縮めていた。
廊下の真ん中を、 走るわけにはいかなかった。
炎の中を、 通ることになる。
けれど。
廊下の、 右の壁際。
壁と、 燃える絨毯の間に、 ほんの、 一足分の幅の、 石の床が、 覗いていた。
絨毯の縁が、 まだ、 そこまでは、 届いていなかった。
――行ける。
壁に、 背中をつけた。
焼けた石の熱が、 外套越しに、 背中を、 炙った。
歯を、 食いしばった。
一足分の、 石の床の上を。
横向きに。
蟹のように。
一歩。
また一歩。
すぐ隣で、 絨毯が、 燃えていた。
その熱が、 頬を、 腕を、 脚を、 容赦なく、 舐めていった。
髪の、 焦げる匂いがした。
自分の、 髪だった。
シロガネが、 僕の足元を、 同じように、 壁に体を押しつけながら、 進んでいた。
銀色の毛並みの、 先が、 ちりちりと、 焦げていた。
それでも、 シロガネは、 一度も、 鳴き声を上げなかった。
頭上で。
梁が、 軋んだ。
見上げた。
燃える梁の一本が、 その中ほどから、 ゆっくりと、 撓んでいくのが見えた。
炎に、 芯まで、 喰われていた。
撓んで。
撓んで。
――落ちる。
前へ、 跳んだ。
背後で。
轟音が、 した。
燃える梁が、 廊下の真ん中に、 叩きつけられた。
火の粉が、 爆ぜるように、 四方に、 飛び散った。
その熱風が、 僕の背中を、 突き飛ばした。
書斎の、 扉の前に、 転がり込んだ。
シロガネが、 その隣に、 転がり込んできた。
振り返った。
さっきまで僕たちが歩いていた、 壁際の一足分の床が、 落ちた梁の炎に、 呑み込まれていた。
戻る道は、 なくなった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
書斎の扉を、 叩いた。
「――宇佐美ッ! 宇佐美、 開けてくれッ!」
返事は、 なかった。
扉の取っ手を、 握った。
熱かった。
鉄の取っ手が、 焼けた火箸のように、 熱かった。
手のひらが、 じゅっと、 音を立てた。
構わずに、 回した。
鍵が、 かかっていた。
「――宇佐美ッ!」
肩から、 扉に、 体当たりした。
樫の扉は、 びくともしなかった。
二度。
三度。
扉の向こうから、 声が、 聞こえた。
「……来るな」
掠れた、 声だった。
「……来るなよ、 白峰」
「宇佐美ッ! 火が、 回ってるッ! このままじゃ、 死ぬッ!」
「……分かってるよ」
宇佐美の声は、 不思議なほど、 静かだった。
「論理的に考えて、 この館は、 あと、 四半刻も、 もたない。
二階の床は、 その前に、 抜ける。 ……分かってるんだ」
「だったら――」
「出たって、 何になる」
扉の向こうで、 紙の擦れる音が、 した。
「この書斎には、 俺の、 全部がある。
元の世界から、 頭の中に持ってきた、 全部の知識を、 この四か月で、 書き出したんだ。
農業も。 治水も。 医学も。 経済も。 建築も。 全部。
……ここに、 全部、 ある」
紙の、 擦れる音。
「でも、 何一つ、 役に立たなかった」
宇佐美の声が、 震えた。
「リバーシも、 マヨネーズも、 活版印刷も、 全部、 三百年前の勇者が、 先にやってた。
防衛策は、 お前たちが、 先にやってた。
輪栽式は、 この村の土に、 合わなかった。
……そして、 昨夜。 俺の魔法が、 穀物倉を、 焼いた」
扉の向こうで、 何かが、 床に、 落ちる音がした。
本、 だろうか。
「賢者、 なんだってさ、 俺。
……笑えるだろ。 論理的に、 何一つ、 正しくなかった賢者」
「――宇佐美」
僕は、 扉に、 額を、 押しつけた。
焼けた樫の木が、 額を、 焦がした。
「――役に立たなかったんじゃ、 ない」
扉の向こうが、 静まり返った。
「古賀が、 言ってた。 宇佐美の輪栽式と、 ベンさんの四年輪作は、 考え方が、 同じだって。
土を休ませずに、 作物を回す。 宇佐美の知識は、 間違ってなかったんだ。
ただ、 この村の土を、 知らなかっただけで」
「……」
「この村の人たちは、 何百年もかけて、 この土を、 知ってきた。
宇佐美は、 何百年分の、 人類の知識を、 知ってる。 その二つが、 合わさったら」
炎が、 背後で、 唸っていた。
天井から、 火の粉が、 降っていた。
「――きっと、 この村は、 今よりも、 ずっと、 豊かになる」
長い、 沈黙が、 あった。
炎の唸る音だけが、 廊下を、 満たしていた。
そして。
扉の向こうで、 何かが、 床に、 崩れ落ちる音がした。
重い、 鈍い、 音。
人の、 体が、 倒れる音。
「――宇佐美ッ!」
返事は、 なかった。
煙だ。
扉の隙間から、 書斎の中にも、 煙が、 入り込んでいたのだ。
宇佐美は、 煙を、 吸いすぎて。
「――シロガネッ!」
叫んだ。
シロガネが、 跳んだ。
銀色の体が、 扉の、 その蝶番の部分に、 全身で、 激突した。
樫の扉が、 呻いた。
シロガネが、 床に、 落ちた。
すぐに、 起き上がった。
もう一度、 跳んだ。
僕も、 肩から、 扉に、 ぶつかった。
シロガネと、 僕と。
交互に。
同時に。
胸のポケットの職業札が、 熱を、 帯びた。
【誓約:銀牙狼シロガネ】。
その文字が、 灯った。
シロガネの銀色の毛並みに、 金色の光が、 走った。
僕の肩に、 金色の光が、 宿った。
――同時に。
扉の蝶番が、 弾け飛んだ。
樫の扉が、 内側へと、 倒れ込んだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
書斎は、 紙の、 海だった。
床一面に、 羊皮紙が、 散らばっていた。
何百枚。
いや、 何千枚。
そのどれもに、 びっしりと、 細かな文字が、 書き込まれていた。
図があった。
数式があった。
見慣れた、 元の世界の、 化学式があった。
窓辺の机の上にも、 本棚の中にも、 壁に貼られた板の上にも。
羊皮紙が、 積み重なり、 溢れ、 床の上に、 雪崩のように、 崩れ落ちていた。
その紙の海の、 真ん中に。
宇佐美が、 倒れていた。
両腕で、 羊皮紙の束を、 胸に、 抱きかかえたまま。
眼鏡が、 外れて、 床の上に、 転がっていた。
顔が、 煤で、 黒く、 汚れていた。
唇が、 青かった。
天井の隅が、 燃え始めていた。
炎が、 本棚の最上段の羊皮紙に、 舌を伸ばしていた。
一枚の羊皮紙が、 ぱっと、 燃え上がった。
その火が、 隣の羊皮紙に、 移った。
隣の。
その隣の。
紙の海に、 火が、 走り始めていた。
宇佐美に、 駆け寄った。
抱き起こした。
重かった。
けれど、 その胸は、 かすかに、 上下していた。
「――宇佐美ッ! しっかりしろッ!」
宇佐美の、 瞼が、 震えた。
薄く、 開いた。
焦点の合わない目が、 僕を、 見上げた。
「……白、 峰……」
「出るぞッ!」
「……俺の……研究……」
宇佐美の腕が、 胸の羊皮紙の束を、 さらに、 強く、 抱きしめた。
「……置いて……いけ、 ない……」
僕は、 宇佐美の腕ごと、 その羊皮紙の束を、 抱きかかえた。
「――持っていけばいいッ!」
宇佐美の目が、 わずかに、 見開かれた。
「全部は、 無理だ。 でも、 宇佐美が、 一番大事なものなら、 それだけでも、 持っていけばいいッ! 宇佐美ごと、 僕が、 運ぶッ!」
背後で、 本棚が、 炎に、 包まれた。
宇佐美を、 背中に、 担ぎ上げた。
羊皮紙の束を、 胸に抱いたまま。
宇佐美の両腕を、 僕の首に、 回させた。
窓へ。
書斎の、 東向きの窓。
その窓の外に、 まだ、 炎は、 回っていなかった。
窓の下は、 館の裏手の、 斜面だった。
二階の高さ。
飛び降りれば、 ただでは、 済まない。
けれど。
窓に、 駆け寄った。
窓硝子を、 剣の柄で、 叩き割った。
外の、 冷たい空気が、 一気に、 流れ込んできた。
その空気に。
背後の炎が、 歓喜するように、 吠えた。
――炎は、 空気を、 喰う。
書斎の中の炎が、 窓から流れ込んだ新しい空気を、 貪るように、 一気に、 膨れ上がった。
床の、 羊皮紙の海が。
一瞬で。
炎の、 海に、 変わった。
熱が、 背中を、 叩いた。
背負った宇佐美の、 体ごと。
窓枠に、 足をかけた。
眼下に、 斜面が、 見えた。
枯れた、 蕪の畑。
柔らかく、 耕された、 黒い土。
――宇佐美が、 耕させた土。
「シロガネッ!」
シロガネが、 窓枠を、 蹴った。
先に、 宙に、 舞った。
銀色の体が、 朝の光の中に、 弧を描いた。
そして、 斜面の、 柔らかい土の上に、 着地した。
すぐに、 振り返った。
金色の瞳で、 僕を、 見上げた。
――来い。
窓枠を、 蹴った。
宙に、 浮いた。
背中の宇佐美の重さが、 一瞬、 消えた。
胸の、 羊皮紙の束の重さも、 消えた。
朝の風が、 焦げた髪を、 撫でていった。
眼下の土が、 迫ってきた。
職業札が、 燃えた。
着地の瞬間。
足の裏に、 金色の光が、 弾けた。
衝撃が、 光の中に、 吸い込まれていった。
膝を、 ついた。
柔らかい土の上に。
宇佐美を、 背負ったまま。
生きていた。
振り返った。
館の、 書斎の窓から。
炎が、 竜のように、 噴き出していた。
窓の向こうの、 何千枚の羊皮紙が。
四か月分の、 宇佐美の、 すべてが。
炎の中で、 黒く、 丸まり、 灰になって、 舞い上がっていく。
朝の空に。
黒い、 紙の灰が。
雪のように。
降りしきっていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
宇佐美を、 土の上に、 下ろした。
宇佐美は、 仰向けに、 倒れたまま。
胸の上の、 羊皮紙の束を、 まだ、 両腕で、 抱きしめていた。
その束も、 端が、 焦げていた。
けれど、 燃えては、 いなかった。
宇佐美の目が、 空を、 見上げていた。
降りしきる、 黒い、 紙の灰を。
「……全部……燃えた……」
掠れた声だった。
「……四か月……かけて……書いた……全部……」
それから、 宇佐美は、 胸の上の、 焦げた羊皮紙の束を、 ゆっくりと、 持ち上げた。
煤だらけの指で、 一枚目を、 めくった。
その手が、 止まった。
宇佐美の目が、 その羊皮紙の上の、 文字を、 見つめていた。
長い、 長い間。
「……これ、 か」
宇佐美が、 かすれた声で、 つぶやいた。
「……俺が、 最後に、 掴んだのは……これ、 だったのか」
僕は、 宇佐美の肩越しに、 その羊皮紙を、 覗き込んだ。
それは、 農業の論文でも、 治水の設計図でも、 経済の数式でもなかった。
一枚の、 地図だった。
オルド村の、 段々畑の、 地図。
一枚一枚の畑の、 形と、 広さと、 向きが、 丁寧に、 描き込まれていた。
その一枚一枚に、 細かな文字で、 何かが、 書き添えられていた。
『北向き。 日照、 一日四刻。 粘土質。 水はけ、 不良』
『南東向き。 日照、 一日七刻。 砂混じり。 水はけ、 良』
『東向き。 傾斜、 急。 石が多い』
そして、 その余白に。
走り書きのような、 小さな文字で。
一行だけ。
『村の古老いわく、 北の斜面は、 芋。 ――要検証』
「……着任して、 すぐに、 作った地図だ」
宇佐美が、 ぽつりと、 言った。
「最初は、 ちゃんと、 調べるつもりだったんだ。 この村の土を。 一枚一枚。 ……あの爺さんの話も、 一度だけ、 聞いた」
宇佐美の指が、 『要検証』の三文字を、 なぞった。
「……でも、 検証、 しなかった。 する前に、 輪栽式を、 押しつけた。 ……早く、 結果を、 出したかったんだ。 白峰たちに、 追いつきたかった。 王都で、 何一つ役に立たなかった俺が、 ここでなら、 って」
宇佐美の目から、 涙が、 一筋、 煤だらけの頬を、 伝い落ちた。
「……論理的じゃ、 ないよな。 こんなの」
僕は、 宇佐美の隣に、 腰を下ろした。
「……宇佐美。 その地図」
「……なんだよ」
「燃えなくて、 よかった」
宇佐美は、 何も、 言わなかった。
ただ、 焦げた地図を、 胸に、 抱きしめた。
その背後で。
丘の上の、 代官の館が。
轟音とともに。
最後の、 屋根を。
炎の中に、 崩れ落としていった。
坂道の方角から、 エレオノーラさんの、 凛とした声が、 まだ、 響き続けていた。
私兵たちの怒号と、 村人たちの叫びが、 その声と、 ぶつかり合っていた。
まだ、 何も、 終わっていなかった。




