第29話「オルド村の土」
オルド村は、 リンドールから、 馬で半日の距離にあった。
東の山脈の、 その裾野。
なだらかな丘が、 幾重にも重なり合いながら、 山へと続いていく。
その丘の斜面に、 段々畑が、 刻まれていた。
石を積み上げて作った、 古い畦。
何代も、 何代もかけて、 山の斜面を、 少しずつ、 少しずつ、 畑へと変えてきた、 人の手の痕跡。
けれど。
「……枯れてる」
馬上で、 剛が、 低くつぶやいた。
段々畑の、 その一枚一枚が。
茶色く、 萎れていた。
麦ではなかった。
見たことのない作物だった。
丸く膨らんだ根を持つ、 蕪のような野菜。
その葉が、 黄色く変色し、 縁から、 黒く、 腐り始めていた。
隣の畑には、 背の低い、 白い花をつけた草が、 一面に植えられていた。
その花も、 ほとんどが、 茶色く、 しおれていた。
畑と畑の間の畦道に、 村人たちが、 立っていた。
鍬を手にしたまま。
何もせずに。
ただ、 枯れていく畑を、 見下ろしていた。
その頬は、 一様に、 げっそりとこけていた。
「……輪栽式農法だ」
古賀が、 馬上で、 眼鏡を押し上げた。
その声が、 苦かった。
「蕪と、 クローバーと、 麦と、 大麦を、 四年で回す。
元の世界の、 十八世紀のイギリスで広まった農法。
土地を休ませずに、 収穫量を、 劇的に増やせる。
……教科書に載ってる、 農業革命の、 代名詞みたいなやり方だよ」
「……それが、 どうして、 こんなことに」
「教科書には、 載ってないことが、 あるんだよ」
古賀は、 畑の、 黒っぽい土を、 じっと見つめた。
鑑定士のスキルが、 淡い光を帯びた。
「……この土。 重い粘土質だ。 水はけが、 ひどく悪い。
しかも、 この斜面は、 北向きで、 日当たりも悪い。
蕪は、 根が、 水に浸かって、 腐る。 クローバーは、 日が足りなくて、 育たない」
古賀は、 小さく、 首を横に振った。
「輪栽式は、 イギリスの、 水はけのいい、 平らな土地で、 生まれた農法なんだ。
……この村の土には、 恐らく合っていない」
段々畑の、 一番上。
丘の頂に、 石造りの、 小さな館が、 建っていた。
代官の、 館だった。
その館の窓から、 誰かが、 こちらを、 見下ろしていた。
窓硝子の向こうで、 眼鏡のレンズが、 夕日を受けて、 一瞬だけ、 白く、 光った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――君たちの来訪は、 予想外だったよ」
代官の館の、 応接の間。
宇佐美は、 窓辺に立ったまま、 僕たちに、 背を向けていた。
上等な仕立ての、 濃い緑の上着。
その襟元に、 銀の徽章が、 光っていた。
ヴァイス男爵家の、 紋章だという。
オルド村を含む、 この一帯の領主。
そして、 宇佐美を代官に任じた、 張本人。
「白峰。 古賀。 大河内。 柚木。 ……それに、 王女殿下まで」
宇佐美は、 ゆっくりと、 振り返った。
眼鏡の奥の目が、 一人ひとりの顔を、 冷たく、 撫でていった。
四か月前よりも、 頬が、 こけていた。
目の下に、 濃い隈ができていた。
「何の用かな。 四神殿の巡礼とやらの、 ついでに、 古い同級生の様子でも、 見に来てくれたのかい」
「宇佐美。 村の畑のことで、 話がしたくて」
「畑?」
宇佐美の眉が、 ぴくりと、 動いた。
「ああ。 少々、 成果が出るのが、 遅れているだけだよ。
農法の転換には、 時間がかかる。 論理的に考えれば、 当然のことだ」
「でも、 枯れてる。 蕪の根が、 腐ってる」
「一時的なものだ」
宇佐美は、 窓の外の、 段々畑を、 見下ろした。
「輪栽式農法は、 人類の歴史が、 その有効性を証明している。
収穫量は、 従来の三圃式の、 一・五倍から、 二倍。
この村の連中は、 何百年も、 同じ、 非効率なやり方を、 漫然と続けてきた。
それを、 俺が、 正してやったんだ」
「――この村の土は、 重い粘土質だよ、 宇佐美」
古賀が、 静かに、 口を開いた。
宇佐美の顔が、 古賀のほうを、 向いた。
「水はけが悪くて、 斜面は北向き。 鑑定で、 見た。 蕪の根は、 水に浸かって、 腐ってる。
クローバーは、 日照不足で、 育ってない。
……輪栽式は、 この土地には、 合わない」
応接の間が、 静まり返った。
宇佐美の、 眼鏡の奥の目が、 細くなった。
「……古賀。 君は、 いつから、 農学者になったんだい」
「鑑定士だよ。 見たまんまを、 言ってるだけ」
「見たまんま、 ね」
宇佐美は、 鼻で笑った。
「では、 論理的に、 反論させてもらおう。
土壌の問題は、 改良で解決できる。
排水路を掘り、 石灰を撒き、 堆肥を入れる。
そのための労働力を、 俺は、 村の連中に、 課している。
それを、 連中が、 怠けているから、 成果が出ない。 それだけのことだ」
「……税を、 三割、 上げたって、 聞いた」
僕が言うと、 宇佐美は、 肩をすくめた。
「土壌改良には、 金がかかる。
石灰も、 堆肥も、 ただじゃない。
未来への投資だよ。
今、 少しばかり苦しくても、 三年後には、 収穫が二倍になる。
そうすれば、 税を上げた分など、 すぐに取り返せる」
「でも、 三年後まで、 村の人たちが、 もつかどうか」
「もたせるのが、 連中の仕事だ」
宇佐美の声が、 冷たく、 硬く、 応接の間に、 響いた。
「白峰。 君は、 相変わらず、 甘いね。
感情で、 物事を判断する。
だから、 王都でも、 城下の連中に、 ちやほやされて、 いい気になっていられたんだ」
宇佐美は、 窓辺から、 一歩、 こちらへ踏み出した。
「でも、 ここは、 王都じゃない。 俺の、 領地だ。
俺のやり方が、 論理的に、 正しいんだ。
……君に、 口を出される筋合いは、 ない」
僕は、 宇佐美の目を、 まっすぐに見た。
その目の奥に、 何かが、 揺れていた。
自信、 ではなかった。
傲慢、 でもなかった。
もっと、 脆くて。
もっと、 追い詰められた、 何か。
王都の宰相府で、 徹夜で書いた防衛策の提案書を、
「すでに、 白峰様たちが」と、 押し返されたときの。
三枝さんが話してくれた、 あのときの、 宇佐美の顔。
「なんで、 俺の知識が、 何一つ、 役に立たないんだよ」と、 両手で顔を覆った、 あのときの。
「……宇佐美」
「なんだ」
「一つだけ、 聞いてもいい?」
宇佐美は、 黙って、 僕を見た。
「村の人たちに、 この土地のことを、 聞いた?」
宇佐美の顔が、 凍りついた。
「何百年も、 この土地で、 畑を作ってきた人たちに。
この土が、 どんな土なのか。 どんな作物が、 よく育つのか。
雨が降ったら、 水は、 どっちへ流れるのか。
……聞いた?」
長い、 沈黙が落ちた。
それから、 宇佐美は、 背を向けた。
窓の外を、 見下ろした。
「……聞く必要が、 ない」
かすれた声だった。
「論理的に、 正しいことは、 正しいと決まってるんだ。
……無知な連中の、 迷信めいた経験則なんかに、 耳を貸す必要は、 ない」
宇佐美の腰に下げられた、 職業札が、 窓から差し込む夕日を受けて、 一瞬だけ、 光った。
【職業:賢者】。
その文字の縁が。
うっすらと、 灰色に、 霞んでいた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
僕たちは、 村の外れの、 古い納屋を、 宿として借りていた。
代官の館には、 泊まらなかった。
宇佐美は、 引き止めもしなかった。
納屋の前で、 焚き火を熾していると。
暗がりの中から、 一人の老人が、 杖をついて、 現れた。
腰の曲がった、 小柄な老人だった。
日に焼けて、 革のように硬くなった肌。
その肌に、 深い皺が、 段々畑の畦のように、 幾重にも、 刻まれていた。
両手の指は、 節くれだって、 土の色が、 爪の奥まで、 染み込んでいた。
「……あんたらが、 王都から来たっていう、 勇者様たちかね」
しわがれた、 けれど、 よく通る声だった。
「わしは、 ベンという。 この村で、 七十年、 畑をやっとる」
ベンさんは、 焚き火の向かいに、 よっこらしょと、 腰を下ろした。
それから、 懐から、 小さな布の包みを取り出した。
開くと、 中に、 干した芋が、 三切れ、 入っていた。
「……こんなもんしか、 なくてな。 去年の秋に、 掘った芋の、 最後の残りじゃ」
「そんな……。 いただけません」
「いいんじゃ。 客人に、 何も出さんのは、 この村の恥じゃからな」
ベンさんは、 干し芋を、 僕の手に、 押しつけた。
僕は、 その干し芋を、 一切れだけ、 受け取った。
残りの二切れを、 ベンさんの手に、 そっと、 返した。
「一切れで、 十分です。 ありがとうございます」
ベンさんは、 少しだけ、 目を丸くした。
それから、 皺だらけの顔を、 くしゃりと、 歪めた。
「……変わった勇者様じゃな」
干し芋を、 かじった。
硬くて、 素朴で、 けれど、 噛めば噛むほど、 土の甘さが、 口の中に、 広がっていった。
「……この芋は、 どこで、 育てたんですか」
「村の、 北の斜面じゃ。 今は、 代官様の言いつけで、 白い花の草を、 植えさせられとるがな」
ベンさんは、 焚き火を、 見つめた。
「あの斜面はな、 日当たりが悪くて、 土が重い。 麦は、 よう育たん。
じゃが、 芋なら、 育つ。 芋は、 重い土でも、 根を張る。
日が少なくても、 文句を言わん。
わしの爺さんの、 そのまた爺さんの代から、 あの斜面には、 芋を植えてきたんじゃ」
「芋の、 次の年は?」
「次の年は、 豆を植える。 豆は、 土を肥やすでな。 その次の年は、 麦じゃ。
豆が肥やした土なら、 あの斜面でも、 麦が、 そこそこ育つ。
その次の年は、 休ませる。 羊を放して、 草を食ませて、 糞で、 また、 土を肥やす」
ベンさんは、 節くれだった指で、 宙に、 四つの円を描いた。
「芋、 豆、 麦、 休み。 四年で、 一回りじゃ。 ……これが、 この村の、 やり方じゃった」
古賀が、 息を呑むのが、 聞こえた。
「……四年輪作」
古賀が、 かすれた声で、 つぶやいた。
「この土地の土と、 日当たりに、 合わせた。
……宇佐美の輪栽式と、 考え方は、 同じなんだ。
土を休ませずに、 作物を回す。
でも、 この村の人たちは、 何百年もかけて、 この土地に合う、 回し方を、 見つけてたんだ」
ベンさんは、 古賀を、 不思議そうに見た。
「難しいことは、 わしには分からん。 ただ、 爺さんの爺さんの代から、 そうしてきたというだけじゃ」
それから、 焚き火の向こうの、 丘の上を、 見上げた。
代官の館の窓に、 まだ、 灯りが、 ともっていた。
「……代官様にも、 何度も、 申し上げたんじゃ。
この土には、 蕪は合いません、 とな。 じゃが、 代官様は、 聞く耳を持たれなんだ。
『無知な者の、 迷信だ』と」
ベンさんの声が、 わずかに、 震えた。
「……若い者の中には、 もう、 我慢がならんという者も、 おる。
税は上がる。 畑は枯れる。
食うものは、 なくなる。
……このままじゃ、 冬を越せん。 冬を越せんのなら、 いっそ、 と」
ベンさんは、 最後まで、 言わなかった。
けれど、 その先の言葉は、 焚き火の爆ぜる音の中に、 はっきりと、 聞こえた気がした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
そのとき、 だった。
シロガネが、 跳ね起きた。
焚き火の脇で、 丸くなっていた銀色の体が、 一瞬で、 弓のように、 しなった。
耳が、 立った。
鼻が、 闇の奥へと、 向いた。
喉の奥から、 低く、 地を這うような唸り声が、 漏れた。
そして。
遠くで、 鐘が、 鳴った。
村の、 見張り櫓の、 鐘だった。
激しく、 乱打されていた。
狂ったように。
悲鳴のように。
「――鉄牙猪だあッ!」
闇の向こうから、 叫び声が、 響いた。
「――北の斜面から、 群れで来たぞおッ!」
ベンさんの顔から、 血の気が、 引いた。
「……鉄牙猪……! 山の、 魔獣じゃ……!
冬が近うなると、 腹を空かせて、 山から、 下りてくる……!」
ベンさんは、 杖にすがって、 立ち上がろうとした。
その膝が、 がくがくと、 震えていた。
「い、 いつもは、 北の斜面の芋畑の、 端っこを、 少し荒らして、 帰っていくんじゃ……。
芋の葉の、 匂いが、 嫌いでな……。 じゃが、 今年は……今年は、 芋が、 ない……!」
芋が、 ない。
代わりに、 植えられているのは、 宇佐美の、 蕪。
丸く膨らんだ、 甘い根を持つ、 蕪。
「……蕪の匂いに、 釣られて、 来たんだ」
古賀が、 震える声で、 言った。
「芋の葉が、 防壁になってたんだよ……。
この村の人たちは、 知らないうちに、 何百年も、 芋で、 魔獣を遠ざけてたんだ……!」
僕は、 剣を、 抜いた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
闇の中を、 地鳴りが、 転がってきた。
北の斜面の、 段々畑。
その、 一番上の畦を、 何かが、 越えた。
黒い、 塊だった。
月明かりの下で、 それは、 最初、 岩が、 斜面を転がり落ちてくるように見えた。
けれど、 岩は、 吠えない。
岩は、 土を蹴らない。
岩は、 白く光る、 二本の牙を、 持っていない。
鉄牙猪。
牛ほどもある、 巨大な猪。
全身を覆う剛毛は、 夜の闇よりも、 さらに黒く、 針のように、 逆立っていた。
その口元から、 下顎を突き破るようにして、 二本の牙が、 天を衝いていた。
牙は、 月光を受けて、 鈍く、 鉄の色に、 光っていた。
いや。
本当に、 鉄だった。
魔獣の、 牙。
岩を砕き、 木の幹を、 薙ぎ倒す、 鉄の牙。
一頭では、 なかった。
一頭目の、 背後から。
二頭目が、 畦を越えた。
三頭目。
五頭目。
十頭目。
黒い塊が、 次々と、 段々畑の斜面を、 雪崩のように、 駆け下りてきた。
その蹄が、 石積みの畦を、 蹴り崩していく。
何代もかけて、 積み上げられてきた、 石の畦。
それが、 黒い奔流の前に、 砂の城のように、 崩れていく。
枯れかけた蕪の畑に、 黒い群れが、 なだれ込んだ。
牙が、 土を、 抉った。
蕪の根が、 掘り起こされ、 噛み砕かれ、 白い果肉が、 月光の中に、 飛び散った。
甘く、 青臭い匂いが、 夜気の中に、 むっと、 立ち込めた。
その匂いに、 群れは、 さらに、 猛り狂った。
そして。
蕪の畑の、 その下に。
村の、 家々が、 あった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――剛ッ!」
「おうッ!」
剛が、 走った。
段々畑の、 一番下の畦。
その畦と、 村の家々の、 わずかな隙間に、 剛は、 盾を、 突き立てた。
「――【城壁】ッ!」
青い光が、 闇を、 裂いた。
剛の盾から、 青い光の膜が、 左右に、 広がっていく。
王都の東門で、 自分の体を門に変えた、 あの力。
大蜘蛛の脚を、 受け止めた、 あの力。
それが、 今、 畦に沿って、 一枚の、 青く透き通る、 長い壁となって、 村と、 畑の間に、 立ち上がった。
一頭目の鉄牙猪が、 その壁に、 激突した。
音が、 割れた。
鐘を、 内側から、 鉄の槌で叩き割ったような。
空気そのものが、 砕け散るような。
鉄の牙と、 青い光が、 ぶつかり合った場所から、
火花ではなく、 光の破片が、 雨のように、 飛び散った。
剛の足が、 土の中に、 めり込んだ。
くるぶしまで。
脛まで。
それでも、 剛は、 一歩も、 退かなかった。
「――ぐ、 う、 おおおおッ!」
二頭目が、 激突した。
三頭目。
四頭目。
黒い奔流が、 青い壁に、 次々と、 叩きつけられる。
そのたびに、 剛の全身が、 軋んだ。
青い光が、 揺らいだ。
けれど、 消えなかった。
「――陽翔ッ! 長くは、 もたんッ!」
剛が、 歯を食いしばりながら、 叫んだ。
「難しいことは分からんが……! 十頭は、 さすがに、 重いッ!」
「――わたくしが、 左を!」
エレオノーラさんが、 剣を抜いて、 壁の左端へと、 駆けていった。
「――シロガネ、 右を頼む!」
シロガネが、 銀色の弾丸のように、 壁の右端へと、 駆け出した。
そして、 僕は。
壁の、 真ん中。
剛の、 すぐ隣へ。
青い壁の向こうで、 黒い塊が、 渦を巻いていた。
十頭の、 鉄牙猪。
壁に阻まれて、 前へ進めず、 互いに、 押し合い、 へし合い、 牙を、 打ち鳴らしていた。
その赤い目が、 壁の、 こちら側の、 村の家々を、 睨んでいた。
――剣は、 守るために振れ。
「剛。 壁を、 一瞬だけ、 開けて」
「……は?」
「一頭ずつ、 入れて。 一頭ずつなら、 斬れる」
剛は、 一瞬だけ、 僕の顔を見た。
それから、 にっと、 笑った。
「……難しいことは分からんが。 お前を、 信じる」
胸のポケットが、 熱くなった。
剛の、 信頼。
青い壁の、 真ん中が。
ほんの、 人一人が通れるほどの幅だけ。
すうっと、 開いた。
その隙間に、 一頭の鉄牙猪が、 鼻先を、 突っ込んだ。
開いた瞬間に。
閉じる。
壁の、 こちら側に、 一頭だけが、 取り残された。
鉄牙猪が、 吠えた。
仲間から切り離されたことに、 気づいたのだろう。
その赤い目が、 目の前の、 僕を、 捉えた。
前脚が、 土を、 掻いた。
一度。
二度。
頭が、 低く、 下がった。
二本の鉄の牙が、 月光を受けて、 白く、 光った。
――来る。
突進。
それは、 もはや、 獣の動きではなかった。
黒い、 鉄の、 砲弾。
空気を、 引き裂いて。
地面を、 抉って。
一直線に、 僕の胸へと、 向かってくる。
受ければ、 死ぬ。
流しても、 あの質量は、 流しきれない。
だから。
僕は、 跳んだ。
前へ。
突進してくる、 黒い砲弾の、 その真上へ。
鉄の牙が、 僕の足の裏の、 わずか一寸下を、 唸りを上げて、 通り過ぎていった。
剛毛が、 靴底を、 擦った。
熱い。
獣の体温が、 風となって、 吹き上げてきた。
空中で、 体を、 ひねる。
眼下に、 鉄牙猪の、 背中が見えた。
黒い剛毛に覆われた、 隆々とした背中。
その、 首の付け根。
剛毛が、 わずかに、 薄くなっている場所。
息を、 吐く。
肩の力を、 抜く。
親指は、 ここ。
小指で、 締める。
アルベルトさんの鋼の剣が、 月光を、 一筋の、 銀の糸に変えて。
首の付け根に、 落ちていった。
――手応えは、 重かった。
大蜘蛛の、 熟れた果実のような柔らかさとは、 まるで違った。
硬い。
筋肉の束が、 鋼の綱のように、 張り詰めている。
その一本一本を、 刃が、 断ち切っていく感触が、
剣の柄を通して、 手のひらに、 骨に、 胸の奥に、 響いてきた。
着地する。
振り返る。
鉄牙猪は、 突進の勢いのまま、 数歩、 走った。
それから。
膝から、 崩れ落ちた。
黒い巨体が、 土の上を、 滑って、 止まった。
動かなかった。
僕は、 剣を、 握り直した。
手が、 震えていた。
ガルドさんの言葉が、 頭の中で、 静かに、 響いた。
――震えていい。 怖がっていい。
「……剛。 次」
「――おうッ!」
青い壁が、 また、 開いた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
二頭目。
三頭目。
四頭目。
一頭ずつ。
壁が開き、 一頭が入り、 壁が閉じる。
そのたびに、 僕は、 跳び、 斬り、 着地した。
左端では、 エレオノーラさんが、 壁を回り込もうとする鉄牙猪の、 脚を、 次々と、 斬り払っていた。
王女の剣は、 牙を受けなかった。
すべて、 避けた。
すべて、 流した。
そして、 突進の勢いが、 わずかに、 緩んだ、 その一瞬に。
脚の腱を、 正確に、 断ち切った。
脚を失った鉄牙猪が、 その場に、 崩れ落ちていく。
右端では、 シロガネが、 銀色の閃光となって、 闇の中を、 跳び回っていた。
鉄牙猪の突進を、 紙一重で、 かわす。
その脇腹に、 牙を立てる。
離れる。
また、 かわす。
また、 牙を立てる。
猪たちは、 銀色の影を、 捉えることができずに、 ただ、 混乱し、 互いにぶつかり合い、 牙を、 空に、 突き立てていた。
そして、 壁の後ろでは。
澪さんが、 傷ついた村人たちを、 次々と、 手当てしていた。
古賀が、 鑑定士の目で、 闇の中の鉄牙猪の動きを、 一頭ずつ、 見極めて、 叫んでいた。
「――左から二頭目、 次に来るよ! 右後脚を、 怪我してる! 右に、 回り込むはずだ!」
五頭目。
六頭目。
腕が、 重くなってきた。
左腕の、 治ったばかりの骨が、 じんじんと、 疼き始めていた。
そのとき。
「――下がれ、 下等な獣どもがッ!」
背後から、 声が、 響いた。
振り返った。
段々畑の、 斜面の上。
代官の館へと続く、 坂道の途中に。
宇佐美が、 立っていた。
濃い緑の上着の裾を、 夜風に、 はためかせて。
右手を、 高く、 天に、 掲げていた。
その手のひらに、 赤い光が、 灯っていた。
賢者のスキル。
火の魔法。
王都の籠城で、 遊撃隊の一員として、 魔物の群れの中に、 次々と炸裂させていた、 あの火の玉。
「――論理的に言って、 獣ごとき、 俺の魔法で、 一掃できるッ!」
宇佐美の手のひらの上で、 赤い光が、 膨れ上がった。
人の頭ほど。
樽ほど。
小さな太陽のように、 闇を、 赤く、 照らし出した。
その光の中で。
宇佐美の顔が、 見えた。
必死、 だった。
眼鏡の奥の目が、 血走っていた。
唇が、 震えていた。
自分の村を。
自分の畑を。
自分の、 論理的に正しいはずの、 改革を。
黒い獣の群れが、 踏みにじっていく。
それを、 自分の知識で、 自分の力で、 何とかしなければ。
そうでなければ、 自分は。
「――消えろッ!」
宇佐美の手から、 火の玉が、 放たれた。
――いや。
放たれる、 はずだった。
火の玉が、 宇佐美の手のひらを、 離れた、 その瞬間。
光が、 歪んだ。
赤い光の、 その表面に。
黒い、 煤のような染みが、 ぽつり、 と、 浮かんだ。
染みは、 一瞬で、 広がった。
赤い光を、 内側から、 蝕むように。
火の玉が、 揺らいだ。
まっすぐに、 鉄牙猪の群れへ向かうはずだった軌道が、 大きく、 逸れた。
右へ。
右へ。
その先に。
村の、 穀物倉が、 あった。
最後の。
この冬を越すための、 わずかな麦を、 蓄えた。
「――ッ!」
叫んだのは、 誰だったか。
ベンさんだったか。
古賀だったか。
それとも、 僕自身だったか。
火の玉が、 穀物倉の、 藁葺きの屋根に、 吸い込まれていった。
一瞬の、 静寂。
そして。
炎が、 夜空を、 舐めた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――水を! 井戸から、 水を運んで!」
エレオノーラさんが、 叫んだ。
村人たちが、 桶を抱えて、 井戸へと、 走った。
炎の明かりに、 鉄牙猪の群れが、 怯んだ。
獣は、 火を恐れる。
残った四頭が、 一斉に、 踵を返した。
段々畑の斜面を、 駆け上がっていく。
崩れた畦を越えて、 北の山の闇の中へと、 消えていった。
剛の青い壁が、 ふっと、 消えた。
剛が、 その場に、 膝をついた。
肩で、 大きく、 息をしていた。
穀物倉の炎は、 村人たちが、 総出で、 桶の水を浴びせ続け、 半刻の後に、 ようやく、 消し止められた。
焼け跡には、 黒く焦げた、 麦の粒が、 散らばっていた。
その半分以上が、 もう、 食べられなかった。
村人たちが、 焼け跡を、 囲んで、 立ち尽くしていた。
誰も、 何も、 言わなかった。
ただ、 黒く焦げた麦の粒を、 見下ろしていた。
そして、 その視線が。
一人、 また一人と。
坂道の途中に立ち尽くす、 濃い緑の上着の男へと、 向けられていった。
宇佐美は、 動かなかった。
右手を、 まだ、 宙に、 掲げたまま。
その手のひらを、 呆然と、 見つめていた。
「……なんで、 だ」
かすれた声が、 夜風に乗って、 聞こえてきた。
「……なんで……。
論理的に……おかしい……。
狙いは……正確だった……。
魔力の量も……詠唱も……全部……正しかった……はずなのに……」
宇佐美の、 腰の職業札。
炎の残り火の、 赤い明かりの中で。
その文字が、 見えた。
【職業:賢者】。
縁だけだった灰色の霞が。
文字の、 半ばまで。
じわりと、 滲むように、 広がっていた。
――賢者の戒律は、 『知を問われたら、 真実を答えよ』。
旅立つ前に、 ヴェルダさんが、 教えてくれた。
各職業の、 戒律の一覧。
その中に、 確か、 そう、 書かれていた。
この土には、 蕪は合わない。
ベンさんが、 何度、 そう言っても。
宇佐美は、 「迷信だ」と、 答え続けた。
古賀が、 「鑑定で、 見た」と言っても。
宇佐美は、 「論理的に、 正しいことは、 決まっている」と、 答え続けた。
問われた知に。
宇佐美は、 真実を、 答えなかった。
自分自身にさえ。
「……宇佐美」
僕は、 坂道を、 一歩、 上った。
宇佐美が、 びくりと、 肩を震わせた。
それから、 掲げていた右手を、 ゆっくりと、 下ろした。
その手が、 小刻みに、 震えていた。
「……来るな」
宇佐美は、 僕を見なかった。
焼け跡を囲む、 村人たちの視線からも、 目を逸らしていた。
「……来るなよ、 白峰。 ……論理的に……俺は……間違って……ない……」
その声は、 もう、 自分自身にさえ、 届いていないようだった。
宇佐美は、 背を向けた。
坂道を、 よろめくようにして、 上っていった。
丘の上の、 代官の館へと。
窓に、 灯りのともる、 あの館へと。
その背中を、 僕は、 追わなかった。
追えなかった。
焼け跡の前で、 ベンさんが、 杖にすがって、 立っていた。
黒く焦げた麦の粒を、 一粒、 拾い上げた。
皺だらけの、 節くれだった、 土の色が爪の奥まで染み込んだ指で。
その一粒を、 じっと、 見つめていた。
「……冬を、 越せんな」
誰に言うでもなく。
ベンさんは、 そう、 つぶやいた。




