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【最終章突入】職業「勇者」って言われたのですが、一緒に転移した同級生いわく違うらしい ~正しい職業を知りたい今日この頃~  作者: 有馬 茶
第2部 ~巡礼~

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第28話「シュガー・ポーション」

交易都市リンドールは、 川の上に築かれた街だった。


東の山脈から流れ下る大河、 リンド川。

その川が、 平野の真ん中で、 二つに分かれ、 また一つに合わさる。

その中洲の上に、 石と煉瓦の建物が、 ひしめき合うようにして、 積み重なっていた。

川面には、 帆を張った平底船が、 何十艘も行き交っている。

岸辺の荷揚げ場では、 日焼けした男たちが、 麦袋や、 酒樽や、 色とりどりの布の束を、 威勢のいい掛け声とともに、 担ぎ上げていた。


「……すごい」

馬上で、 思わず、 声が漏れた。

王都アルセリアが、 石造りの、 落ち着いた威厳の街だとすれば。

リンドールは、 煉瓦と、 木と、 布と、 人の声でできた、 騒々しく、 生き生きとした、 市場そのもののような街だった。


「大陸の東半分の物は、 たいてい、 一度は、 この街を通るのですよ」

幌馬車の御者台の隣で、 マルガさんが、 誇らしげに言った。

森で救い出してから一日が経ち、 その顔には、 すっかり、 商人らしい血色が戻っていた。

「東の山脈の鉄も、 南の海の塩も、 北の森の毛皮も。

 この街で、 値がつけられて、 また、 大陸じゅうへと、 散っていくのです」


マルガさんの膝の上で、 ニコくんが、 シロガネの頭を、 小さな手で、 撫でていた。

この一日で、 ニコくんは、 すっかり、 シロガネに懐いていた。

シロガネのほうも、 まんざらでもない様子で、 ときおり、 ニコくんの頬を、 ざらりと舐めては、 ニコくんを、 くすぐったそうに笑わせていた。


両親を失ったことを、 ニコくんは、 まだ、 誰にも、 尋ねていなかった。

尋ねないことで、 何かを、 必死に、 守っているようだった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




マルガさんの店は、 リンドールの中洲の、 北の岸辺にあった。


三階建ての、 煉瓦造りの建物。

一階が店で、 二階と三階が、 住まいと、 隊商の者たちの宿になっていた。

「どうぞ、 好きなだけ、 お泊まりください。 わたしの命の恩人方から、 宿代なんて、 一銅貨だって、 いただけませんからね」


荷物を下ろし、 一息ついた後で。

僕と、 澪さんと、 古賀の三人は、 リンドールの大通りへと、 出かけた。


シュガー・ポーション。


その店は、 すぐに、 見つかった。


大通りの、 一番賑やかな辻。

煉瓦と木の建物が並ぶ中で、 その店だけが、 異質だった。

正面の壁が、 すべて、 硝子張りになっていた。

その硝子の向こうに、 淡い桃色と、 水色と、 薄紫の、 柔らかな色合いの内装が見えた。

窓辺には、 色とりどりの硝子の小瓶が、 階段状の棚に、 宝石のように並べられていた。

入り口の上には、 丸みを帯びた、 可愛らしい書体の看板。

『シュガー・ポーション』。

その脇に、 小さく、 ハートの形の飾りが、 添えられていた。


元の世界の、 駅前にあるような。

SNSに写真を上げたくなるような、 そんな店だった。


そして、 その店の前に。

長い、 長い、 行列が、 できていた。


若い娘たち。

革鎧を着た、 冒険者たち。

荷揚げ場の男たち。

年配の女性。

年齢も、 身なりも、 ばらばらの人々が、 辻を回り込むほどの長さで、 じっと、 順番を待っていた。


けれど。


「……白峰くん」

澪さんが、 僕の袖を、 小さく引いた。

「……並んでる人たちの、 顔」


僕は、 行列を、 もう一度、 見た。


そして、 気づいた。


誰も、 話していなかった。


これだけの人が並んでいるのに。

友達同士で並んでいるらしい娘たちも、 仲間同士らしい冒険者たちも。

誰一人、 口を開いていなかった。

ただ、 ぼんやりと、 前の人の背中を、 見つめていた。

その目は、 どこか、 焦点が合っていなかった。

濁った硝子玉のように。


ときおり、 誰かが、 指先を、 小刻みに震わせていた。

誰かが、 唇を、 しきりに舐めていた。

誰かが、 落ち着きなく、 足踏みをしていた。


「……魔力中毒の、 初期症状」

澪さんの声が、 硬かった。

「……治療院で、 何人も、 見た。

 籠城のとき、 姫野さんのポーションを、 飲み続けた兵の人たち。

 最初は、 こうなる。 ぼんやりして、 落ち着かなくなって。

 ……もっと、 欲しくなる」


古賀が、 眼鏡の奥の目を、 細めた。

鑑定士のスキルが、 淡い光を帯びた。

行列の、 一人ひとりを、 見ていく。

「……状態、 魔力中毒、 軽度。 魔力中毒、 軽度。 魔力中毒、 中度。 ……中度。 中度。 軽度」

古賀の声が、 少しずつ、 掠れていった。

「……並んでる人の、 半分以上が、 中毒してる」




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




店の中は、 甘い匂いがした。


砂糖を、 焦がしたような。

果物を、 煮詰めたような。

その甘さの奥に、 ほんのわずかに、 鼻の奥を刺す、 金属のような匂いが、 混じっていた。


「いらっしゃいませー! シュガー・ポーションへようこそー!」


明るい声が、 店の奥から、 響いた。


硝子のカウンターの向こうに、 一人の娘が、 立っていた。

淡い桃色の前掛け。

くるくると巻いた、 明るい茶色の髪。

爪には、 ポーションの小瓶と同じ、 色とりどりの塗料が、 塗られていた。


姫野さん、 だった。


四か月前、 王城の鑑定の儀で、 「ポーション作って、 可愛いカフェやって、 スローライフでしょ」と、 手を叩いて笑っていた、 あの姫野さん。

その言葉を、 姫野さんは、 寸分違わず、 実現させていた。


「えー、 次のお客様はー……」

姫野さんが、 顔を上げた。

僕と、 目が合った。


一瞬。

姫野さんの笑顔が、 凍りついた。


「……は? ゼミ長?」


それから、 その視線が、 僕の隣の、 澪さんへと、 移った。

姫野さんの顔から、 すうっと、 血の気が、 引いた。


「……柚木、 さん」


「……久しぶり、 姫野さん」

澪さんは、 静かに、 頭を下げた。


店の中の空気が、 張り詰めた。

カウンターの前に並んでいた客たちが、 ぼんやりとした目で、 僕たちを、 振り返った。


「……ちょ、 ちょっと待って。 なんで、 あんたたちが、 ここに」

姫野さんは、 引きつった笑顔を、 無理やり、 顔に貼りつけた。

「あ、 もしかして、 噂聞いて、 来てくれた感じ? ウケる。

 ほら、 見てよ、 この行列。

 あたしの店、 リンドールで、 一番人気なんだから。

 ね、 映えるでしょ? 内装、 全部、 あたしが考えたんだよ」

早口だった。

手が、 カウンターの上で、 落ち着きなく、 小瓶を、 並べ替えていた。


「姫野さん」

澪さんが、 一歩、 前に出た。

「話が、 あるの」

「は、 話? 今、 忙しいんだけど。 見て分かるでしょ? お客さん、 こんなに並んでるし」

「……浄化の工程を、 省いてるよね」


姫野さんの手が、 止まった。


「王都の籠城のときに、 兵の人たちが、 姫野さんのポーションを飲んでた。

 治療院で、 私が、 調べた。 傷を塞ぐ力は、 普通のポーションの、 三倍ある。

 でも、 魔力の毒が、 抜けてない。 飲み続けたら、 魔力中毒になる」


澪さんの声は、 静かだった。

けれど、 一言一言が、 硝子の小瓶を、 爪で弾くように、 はっきりと、 店の中に、 響いた。

「……今、 外に並んでる人たちの、 半分以上が、 中毒の症状を、 出してる」


店の中が、 静まり返った。


姫野さんの、 貼りつけた笑顔が、 ゆっくりと、 剥がれていった。

その下から、 現れたのは。

怒り、 だった。


「……は? 何それ。 言いがかりじゃん」

姫野さんの声が、 低くなった。

「浄化の工程なんて、 丸一日かかるんだよ?

 そんなの、 いちいちやってたら、 一日に十本も作れないじゃん。

 あたしの店、 一日に、 三百本売れるんだよ。 三百本。 みんな、 欲しがってるんだよ?」

「……欲しがってるのは、 中毒だから」

「違うし! あたしのポーションが、 よく効くからだし!」

姫野さんが、 カウンターを、 手のひらで、 叩いた。

小瓶が、 一斉に、 震えて、 鳴った。


「傷がすぐ治って、 元気になって、 甘くて美味しくて、 見た目も可愛い。

 それの、 何が悪いの? みんな、 喜んで、 買ってくれてるんだよ?

 誰も、 文句なんか言ってないじゃん!」


「……文句を、 言えなくなるのが、 中毒なの」

澪さんは、 一歩も、 退かなかった。

「姫野さん。 錬金術師の戒律、 知ってる?」

「……は?」

「薬師と、 同じなの。 『命を扱う者は、 害をなすなかれ』」

澪さんは、 姫野さんの腰に下げられた、 職業札を、 じっと見つめた。

「……姫野さんの札。 最近、 見た?」


姫野さんの手が、 びくりと、 跳ねた。

反射的に、 腰の職業札を、 前掛けの下に、 隠そうとした。


その一瞬。

僕の目に、 札の表面が、 映った。


【職業:錬金術師】。


その文字の、 端のほうが。

うっすらと、 煤けたように、 曇っていた。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




「――おい! まだかよッ!」


店の入り口から、 怒鳴り声が、 響いた。


振り返ると、 一人の男が、 行列を押しのけるようにして、 店の中に、 踏み込んできていた。

大柄な、 冒険者風の男だった。

革鎧は、 手入れもされずに、 ひび割れていた。

無精髭に覆われた頬は、 げっそりとこけていた。

そして、 その目。

濁っていた。

焦点が、 合っていなかった。

瞳孔が、 異様なほど、 大きく開いていた。


「……昨日も、 売り切れだって言われたんだ……。 一昨日もだ……。

 なあ、 姫野ちゃん、 頼むよ……。 一本でいい……。 一本でいいから……」

男の声が、 震えていた。

両手が、 小刻みに、 痙攣していた。

「頭が……割れそうなんだよ……。 あれを飲まないと……眠れねえんだよ……」


「ちょ、 ちょっと、 ゴルドさん! 順番、 守ってって言ってるじゃん!」

姫野さんが、 カウンターの奥から、 叫んだ。

「今日の分、 もう、 予約で、 全部埋まってるの! 明日、 また来て!」


男の、 顔が、 歪んだ。


「……明日……?」

男の手が、 腰の、 剣の柄に、 伸びた。

「明日まで……待てるわけ……ねえだろうがあッ!」


剣が、 抜かれた。


店の中で、 悲鳴が、 上がった。

ぼんやりと並んでいた客たちが、 ようやく我に返ったように、 壁際へと、 逃げ惑った。


男が、 カウンターに向かって、 突進した。

その目は、 もう、 姫野さんを見てはいなかった。

カウンターの奥の、 棚に並んだ、 色とりどりの、 硝子の小瓶。

それだけを、 見ていた。


その進路の上に。

姫野さんが、 立っていた。


――時間が、 引き延ばされた。


そう感じた。


男の剣が、 振り上げられる。

錆の浮いた、 刃こぼれだらけの、 安物の剣。

けれど、 その刃は、 窓から差し込む午後の陽光を受けて、 鈍く、 白く、 光っていた。

その光が、 店の中の、 桃色と、 水色と、 薄紫の、

 柔らかな色合いの中を、 一筋の、 冷たい亀裂のように、 走っていく。


姫野さんの顔が、 見えた。

目を、 大きく、 見開いていた。

唇が、 何かを叫ぼうとして、 震えていた。

けれど、 声は、 出ていなかった。

足が、 床に、 縫いつけられたように、 動いていなかった。


カウンターの硝子に、 姫野さん自身の顔が、 映っていた。

怯えきった、 子どものような顔。

その隣に、 色とりどりの小瓶が、 並んでいた。

宝石のように。

毒のように。


――剣は、 守るために振れ。


体が、 動いていた。


カウンターと、 男の間に。

姫野さんの前に。


剣は、 抜かなかった。

抜けば、 この人を、 斬ってしまう。

この人は、 敵じゃない。

この人も、 たぶん、 被害者だ。


男の剣が、 振り下ろされた。


その腕の、 手首の内側。

脈の打つ、 柔らかい場所。

そこに、 僕の右手の、 手刀を、 添わせるように、 打ち込んだ。


男の手から、 力が、 抜けた。

剣が、 その手を、 離れた。


宙を、 回転しながら、 飛んでいく。

陽光を、 一回、 二回、 三回と、 反射して。

白い光の弧を、 店の天井に、 描いて。


からん、 と。


カウンターの脇の、 床の上に、 落ちた。


男の体が、 勢いのまま、 僕にぶつかってきた。

受け止める。

重かった。

けれど、 その重さの中に、 力は、 もう、 残っていなかった。

男は、 僕の肩に、 崩れるように、 もたれかかった。


その体が、 震えていた。

小刻みに。

止まらずに。


「……頭が……割れそうなんだ……」


男が、 僕の肩に、 顔を埋めたまま、 呻いた。

「……あれを飲まないと……眠れねえんだ……。

 ……娘の、 顔も……思い出せなくなってきてるんだ……。 なあ……助けてくれよ……」


僕は、 男の背中に、 そっと、 手を置いた。


「……柚木さん」

「……うん」

澪さんが、 もう、 そこにいた。

薬草の包みを、 開いていた。

「……魔力中毒の、 離脱症状。 落ち着かせる薬が、 ある。 眠れるようにする薬も。

 ……時間は、 かかるけど。 ちゃんと、 抜ける」

澪さんは、 男の手首を、 そっと、 取った。

「……大丈夫。 私が、 治します」


男の、 濁った目から、 涙が、 あふれた。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




姫野さんは、 カウンターの奥で、 床に、 座り込んでいた。


膝を抱えて。

震えて。

床に落ちた、 錆びた剣を、 見つめていた。


「……あたしのせいじゃ、 ないし」


か細い、 声だった。


「……あたしは、 売っただけだし。 みんなが、 欲しいって言うから。

 ……飲むか飲まないかは、 自分で決めることじゃん。 ……あたしのせいじゃ、 ないし」


僕は、 カウンターを回り込んで、 姫野さんの前に、 膝をついた。


「……姫野さん」

「……何。 説教? 優等生の、 ゼミ長サマの、 説教?」

姫野さんは、 顔を上げなかった。

「……いいよ、 しなよ。 どうせ、 あたしが悪いって、 言うんでしょ」


僕は、 少しだけ、 考えた。

それから、 静かに言った。


「……さっき、 あの人の剣が振り上げられたとき。 怖かったよね」


姫野さんの肩が、 びくりと、 揺れた。


「僕も、 怖かった。 ……でも、 あの人は、 もっと、 怖かったんだと思う。

 頭が割れそうで、 眠れなくて、 娘さんの顔も、 思い出せなくなってきて。

 ……それでも、 ここに来るしかなかった」


姫野さんは、 何も言わなかった。

「姫野さん。 あの人の娘さんの顔、 思い出せなくさせたのは、 誰なのかな」


長い、 沈黙が落ちた。


姫野さんの、 膝を抱える腕に、 力がこもった。

爪の、 色とりどりの塗料が、 自分の腕に、 食い込んでいた。


「……知らない」


姫野さんは、 そう言った。

震える声で。


「……知らないし。 ……関係ないし」


それから、 顔を上げた。

その目は、 赤く、 潤んでいた。

けれど、 その奥に、 何か、 硬いものが、 頑なに、 居座っていた。


「……帰って」

「姫野さん」

「帰ってよ! ここは、 あたしの店なんだから!

 あたしが、 一人で、 ゼロから作った、 あたしの店なんだから!」

姫野さんは、 叫んだ。


「あんたたちには、 分かんないよ!

 城の中で、 王様にも、 王女様にも、 ちやほやされて!

 あたしは、 一人で、 この街に来て、 誰にも頼らずに、 ここまで来たんだから!

 今さら、 全部、 捨てろって言うの!?」


「……誰も、 捨てろなんて、 言ってない」

澪さんが、 中毒の男に薬を飲ませ終えて、 静かに、 立ち上がった。

「浄化の工程を、 入れればいい。 それだけ」

「それだけって……! 一日に、 十本しか作れなくなるんだよ!? この店、 潰れちゃうじゃん!」

「……潰れない、 やり方も、 あると思う」

澪さんは、 姫野さんを、 まっすぐに見た。

「……私、 手伝える。 薬師として。 浄化の工程を、 もっと短くする方法を、 一緒に、 探せる」


姫野さんの目が、 大きく、 見開かれた。

一瞬だけ。

本当に、 一瞬だけ、 その目の中の、 硬いものが、 揺らいだように見えた。


けれど。


「……いらない」


姫野さんは、 顔を背けた。


「……柚木さんの、 施しなんか、 いらない。 ……あたしは、 あたしのやり方で、 やるから」


それ以上、 姫野さんは、 何も言わなかった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




店を出たとき、 夕日が、 リンド川の川面を、 茜色に染めていた。


行列は、 まだ、 続いていた。

ぼんやりとした目の人々が、 じっと、 順番を待っていた。


「……白峰くん」

澪さんが、 僕の隣で、 立ち止まった。

その手が、 小さく、 震えていた。

「……私、 間違ってたかな。 もっと、 違う言い方が、 あったのかな」

「……ううん」

僕は、 首を横に振った。

「柚木さんは、 間違ってない。 手伝えるって言ったのは、 柚木さんにしか、 言えないことだった」

「……でも、 届かなかった」

「今日は、 ね」

僕は、 硝子張りの店を、 振り返った。

カウンターの奥で、 姫野さんが、 また、 引きつった笑顔を貼りつけて、

 客の相手をしているのが見えた。


「でも、 姫野さんは、 一瞬だけ、 迷ってた。 柚木さんの言葉で。

 ……届かなかったわけじゃ、 ないと思う」


澪さんは、 しばらく、 黙っていた。

それから、 小さく、 うなずいた。

「……薬師ギルドに、 行ってくる。 王都からの報告書が、 届いてるか、 確かめる。

 それと……中毒の人たちを、 診られる場所を、 作らなきゃ」


「――白峰氏」


古賀が、 低い声で、 僕を呼んだ。

その目が、 店の、 裏手の路地を、 見つめていた。


「……今、 店の裏口から、 誰か、 出てきた」


僕は、 古賀の視線を、 追った。


夕暮れの、 薄暗い路地。

その奥へと、 一人の男が、 足早に、 歩き去っていくところだった。

痩せぎすの体。

上等だが、 どこか着崩れた外套。

油で撫でつけた、 黒髪。


そして、 一瞬だけ、 振り返った、 その横顔。


粘りつくような、 薄い笑み。


「……ザイル」


王都の、 ギルドの厩舎で、 シロガネを毛皮にしようとした、 あの闇商人。

王都の港の三番倉庫から、 姿を消した、 黒蛇の男。


ザイルは、 路地の角を曲がって、 消えた。


「……姫野さんに、 錬金術の素材を、 卸してるんだと思う」

古賀が、 眼鏡を押し上げた。

その声が、 わずかに、 震えていた。

「浄化の工程を省いたポーションに、 使う素材。

 ……たぶん、 普通の素材じゃない。 魔力の毒を、 わざと、 強めるような」


足元で、 シロガネが、 低く、 唸った。

路地の奥を、 金色の瞳で、 睨みつけていた。


そのとき。


シロガネの唸り声が、 不意に、 途切れた。


その鼻先が、 路地の奥ではなく、 上を、 向いた。

大通りの向かいの、 三階建ての建物の、 屋根の上を。


僕も、 見上げた。


夕日を背にして。

屋根の縁に。

一つの、 細い影が、 立っていた。


逆光で、 顔は、 見えなかった。

ただ、 その影が、 じっと、 こちらを、 見下ろしていることだけが、 分かった。

前髪が、 夕風に、 わずかに、 揺れていた。


目が、 合った。


――気が、 した。


次の瞬間、 影は、 屋根の向こうへと、 音もなく、 消えていた。


「……今の」

古賀が、 かすれた声で、 つぶやいた。

「……桐生、 じゃなかった?」


僕は、 答えられなかった。


屋根の上には、 もう、 何もなかった。

ただ、 茜色の空だけが、 広がっていた。


胸のポケットの職業札が、 ほんのわずかに。

冷たく、 なった気がした。

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