第27話「黒霧の森」
森は、 呼吸をしていた。
そう思えるほどに、 闇が、 濃かった。
針葉樹の梢が、 頭上で幾重にも重なり合い、 最後の残照さえも、 その網目のどこかで、 絡め取られて、 消えていた。
足元の土は、 湿って、 柔らかく、 一歩踏み出すたびに、 腐った落ち葉が、 靴の裏で、 ぬちゃりと、 鈍い音を立てた。
白い糸だけが、 見えていた。
闇の中で、 その糸だけが、 ぼうっと、 燐のような、 青白い光を帯びていた。
木の幹から、 木の幹へ。
枝から、 枝へ。
地面を這い、 宙を渡り、 森の奥へ、 奥へと、 誘うように、 伸びている。
まるで、 道しるべだった。
獲物を巣へと導く、 死の道しるべ。
「……触らないで」
澪さんが、 小さく、 けれど、 鋭く言った。
「糸に、 毒がある。 匂いで、 分かる。 触れたら、 痺れて、 動けなくなる」
僕たちは、 糸と糸の間の、 わずかな隙間を、 縫うようにして、 進んだ。
先頭を、 シロガネが歩いていた。
鼻を、 低く、 地面すれすれに這わせて。
一歩ごとに、 立ち止まり、 匂いを嗅ぎ、 また一歩、 進む。
その銀色の背中が、 闇の中で、 唯一の、 確かなものだった。
「……たすけて……」
声が、 近づいていた。
か細く、 掠れて、 もう、 泣く力さえ残っていないような、 子どもの声。
それが、 森の奥から、 途切れ途切れに、 響いてくる。
声のたびに、 胸の奥が、 冷たい手で、 握り潰されるようだった。
「……白峰氏」
すぐ後ろで、 古賀が、 押し殺した声で言った。
「一つだけ、 先に言っとく。 黒霧の大蜘蛛は、 獲物の声を、 真似る」
足が、 止まりかけた。
「ヴェルダ様の記録にあった。 巣に引きずり込んだ獲物の、 最後の声を、 覚えるんだって。
で、 それを使って、 次の獲物を、 呼び寄せる」
「……じゃあ、 この声は」
「分からない。 本物かもしれない。 真似かもしれない」
古賀の声が、 震えていた。
「……でも、 どっちにしても、 声の先に、 あいつがいる」
僕は、 剣の柄を、 握り直した。
本物かもしれない。
真似かもしれない。
けれど、 もし、 本物だったら。
もし、 あの声の主が、 まだ、 生きているのだとしたら。
「……行こう」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
最初に、 霧が来た。
前触れは、 なかった。
ただ、 気がつくと、 足元から、 黒いものが、 湧き上がっていた。
煙ではなかった。
煙よりも、 重く。
煙よりも、 冷たく。
地を這い、 膝を呑み、 腰を呑み、 胸を呑み、 そして、 視界のすべてを、 墨を流し込んだように、 塗り潰していった。
「――っ!」
何も、 見えなかった。
目を開けているのか、 閉じているのかさえ、 分からなかった。
隣にいたはずのエレオノーラさんの姿が、 消えていた。
後ろにいたはずの、 剛の、 澪さんの、 古賀の気配が、 消えていた。
燐光を帯びていた白い糸さえも、 その黒の中に、 溶けて、 見えなくなっていた。
音が、 消えた。
いや、 違う。
音は、 あった。
けれど、 その音が、 どこから来るのか、 分からなかった。
葉擦れの音が、 右から聞こえ、 次の瞬間には、 左から聞こえた。
誰かの息遣いが、 前から聞こえ、 次の瞬間には、 頭の上から聞こえた。
霧が、 音を、 攪拌していた。
「エレオノーラさん! 剛! 柚木さん! 古賀!」
叫んだ。
自分の声が、 霧の中で、 くぐもって、 吸い込まれていく。
返事は、 あった。
けれど、 それが、 誰の声なのか、 どこからの声なのか、 まったく、 分からなかった。
「――白峰殿……!」
「――陽翔……!」
「――白峰くん……!」
三つの声が、 三つの方向から、 重なって、 聞こえた。
いや。
本当に、 三つだったのか。
四つではなかったか。
五つでは。
「――白峰くん……」
すぐ、 耳元で。
澪さんの声が、 した。
振り返った。
何も、 なかった。
ただ、 黒い霧が、 渦を巻いているだけだった。
「――白峰くん……こっち……」
また、 澪さんの声。
今度は、 右の、 少し離れた場所から。
柔らかく、 優しく、 呼んでいる。
足が、 そちらへ、 一歩、 動きかけた。
その瞬間。
足首に、 熱いものが、 触れた。
濡れた、 温かい、 獣の鼻先。
シロガネだった。
霧の中で、 姿は見えなかった。
けれど、 その鼻先が、 僕の足首を、 ぐい、 と、 反対側へ、 押していた。
右ではない。
左だ、 と。
そして、 低い唸り声が、 足元から、 響いた。
右の、 澪さんの声がした方角に向かって。
牙を、 剥くように。
――黒霧の大蜘蛛は、 獲物の声を、 真似る。
背筋を、 冷たいものが、 這い上がった。
右の霧の奥で。
何かが、 動いた。
音が、 した。
かさ、 かさ、 と。
乾いた、 硬いものが、 落ち葉の上を、 擦れる音。
一つではなかった。
二つ。
四つ。
八つ。
脚の、 音だった。
「――白峰くん……どうしたの……こっちに、 来て……」
澪さんの声が、 甘く、 優しく、 囁いていた。
その声の、 すぐ下で。
八本の脚が、 落ち葉を、 掻いていた。
霧が、 わずかに、 揺らいだ。
その揺らぎの向こうに。
光るものが、 見えた。
目、 だった。
赤い、 目。
一つではなかった。
二つ。
四つ。
六つ。
八つ。
闇の中に、 熾火のように、 赤く、 鈍く、 灯っている。
それが、 僕の目の高さよりも、 ずっと、 ずっと、 高い場所に、 並んでいた。
その八つの目が、 ゆっくりと。
本当に、 ゆっくりと。
僕のほうへ、 近づいてきた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
――剣は、 守るために振れ。
その言葉が、 凍りついた頭の中で、 灯のように、 ぽつりと、 点った。
守るために。
誰を。
森の奥で、 子どもの声がしていた。
本物かもしれない、 声。
エレオノーラさんが、 剛が、 澪さんが、 古賀が、 この霧のどこかで、 僕と同じように、 迷っている。
ここで、 僕が、 呑まれるわけにはいかない。
息を、 吐いた。
肺の奥に溜まっていた、 冷たい恐怖を、 白い吐息にして、 霧の中に、 押し出す。
肩の力が、 抜けた。
指が、 剣の柄の、 いつもの場所に、 収まった。
親指は、 ここ。
小指で、 締める。
赤い八つの目が、 止まった。
――来る。
そう思った瞬間には、 もう、 来ていた。
霧が、 裂けた。
黒い霧の帳を、 内側から突き破るようにして、 それは、 現れた。
脚。
人の胴ほどもある太さの、 黒い、 節くれだった脚。
表面を、 針金のような剛毛が、 びっしりと覆っている。
その先端は、 鎌のように湾曲した、 鋭い爪になっていた。
それが、 頭上から、 振り下ろされた。
剣を、 立てた。
受けるのではない。
流す。
ガルドさんの木剣を流した、 今朝の、 あの感覚。
爪が、 刃の上を、 滑った。
硬い。
鋼を、 鋼で擦るような、 甲高い悲鳴が、 霧の中に、 弾けた。
火花が、 散った。
その一瞬の光の中で、 僕は、 見た。
脚の、 付け根の、 その向こう。
霧の中に浮かび上がる、 巨大な、 黒い影の、 輪郭を。
荷馬車ほどもある、 丸く膨れた、 腹。
その腹に、 毒々しい、 赤い紋様が、 脈打つように、 浮かんでいた。
腹から伸びる、 八本の脚。
その脚の付け根の上に、 小さな頭。
その頭に、 赤い八つの目。
そして、 その目の下で、 鋏のような、 二本の牙が、 かちかちと、 打ち鳴らされていた。
黒霧の大蜘蛛。
火花が、 消えた。
影が、 また、 霧の中に、 溶けた。
二本目の脚が、 右から、 薙ぎ払われた。
見えなかった。
ただ、 風を切る音だけが、 聞こえた。
体が、 勝手に、 沈んだ。
頭上を、 剛毛に覆われた脚が、 唸りを上げて、 通り過ぎていく。
髪が、 数本、 持っていかれた。
三本目。
四本目。
脚が、 霧の中から、 次々と、 突き出されてくる。
見えない。
どこから来るのか、 分からない。
ただ、 風の音と、 剛毛が空気を擦る、 ざらついた音だけを頼りに、 体をひねり、 剣で流し、 地面を転がる。
肩を、 爪が、 かすめた。
熱い。
外套が裂け、 その下の肌に、 一筋の、 焼けるような痛みが、 走った。
――このままじゃ、 いずれ、 捕まる。
霧の中では、 あいつのほうが、 圧倒的に、 有利だった。
あいつは、 霧の中でも、 見えている。
僕は、 見えていない。
そのとき。
「――白峰氏ッ! 腹の赤い紋だッ!」
霧の、 どこかから。
古賀の声が、 響いた。
本物の、 声だった。
震えていて、 掠れていて、 けれど、 真似ることのできない、 必死さが、 そこにあった。
「鑑定で、 見えたッ! あの赤い紋が、 霧を吐く器官だッ! あそこを潰せば、 霧が、 晴れるッ!」
腹の、 赤い紋。
さっき、 火花の光の中で、 一瞬だけ見えた、 あの、 脈打つ紋様。
けれど、 霧の中で、 どうやって、 あそこまで、 届かせればいい。
あいつの腹は、 八本の脚に守られた、 その向こうにある。
見えない脚の、 見えない隙間を、 縫って――。
足首に、 また、 温かいものが、 触れた。
シロガネ。
その鼻先が、 僕の足首を、 ぐい、 と、 前へ、 押した。
それから、 シロガネの体が、 僕の脚に、 ぴたりと、 寄り添った。
銀色の毛並みの、 温もり。
その温もりの中に、 小さな、 けれど、 確かな、 鼓動があった。
――見えなくても、 いい。
――わたしの鼻が、 見ている。
声ではなかった。
けれど、 そう言われた気がした。
胸のポケットの職業札が、 ふわりと、 熱を帯びた。
【誓約:銀牙狼シロガネ】。
その文字が、 灯った、 気がした。
シロガネが、 動いた。
僕の脚に寄り添ったまま、 右へ、 半歩。
僕も、 右へ、 半歩。
その瞬間、 さっきまで僕が立っていた場所を、 黒い脚が、 唸りを上げて、 貫いた。
土が、 弾けた。
シロガネが、 前へ。
僕も、 前へ。
頭上を、 別の脚が、 薙いでいく。
シロガネが、 沈む。
僕も、 沈む。
脇を、 爪が、 掠めていく。
見えなかった。
何一つ、 見えなかった。
けれど、 シロガネの体温が、 シロガネの鼓動が、
シロガネの一歩一歩が、 霧の中の、 見えない死の軌跡を、 僕の脚に、 直接、 伝えてくれていた。
目で見るのではなかった。
シロガネの鼻で見て、 シロガネの耳で聞いて、 シロガネの脚で、 霧を渡っていた。
一人と、 一頭。
いや。
一つの、 生き物として。
八本の脚の、 嵐の中を。
僕たちは、 踊るように、 抜けていった。
そして。
シロガネが、 止まった。
僕の脚に、 ぐい、 と、 体を押しつけた。
上だ、 と。
顔を、 上げた。
霧の中に、 赤い光が、 脈打っていた。
すぐ、 目の前に。
手を伸ばせば、 届くほどの距離に。
腹の、 赤い紋。
八本の脚の、 内側。
大蜘蛛の、 懐の、 一番、 奥。
息を、 吐く。
肩の力を、 抜く。
親指は、 ここ。
小指で、 締める。
力を入れるのは、 振り下ろす最後の、 一瞬だけ。
剣が、 下から、 斜めに、 跳ね上がった。
赤い紋を、 断った。
――音が、 なかった。
一瞬、 世界から、 すべての音が、 消えた。
それから。
叫びが、 来た。
声ではなかった。
人の耳では、 聞き取れないほど、 高く、 鋭い、 空気そのものを引き裂くような、 叫び。
鼓膜が、 内側から、 破れるかと思った。
森の木々が、 震えた。
梢から、 眠っていた鳥たちが、 一斉に、 悲鳴を上げて、 飛び立った。
そして。
霧が、 晴れていった。
裂かれた赤い紋から、 黒い霧が、 逆流するように、 噴き出した。
噴き出した霧は、 けれど、 もう、 地を這うことはなかった。
ただ、 上へ、 上へと、 立ち昇り、 梢の網目を抜けて、 夜空へと、 散っていった。
月が、 見えた。
梢の隙間から、 白い、 冷たい、 月の光が、 森の底に、 差し込んできた。
その光の中に。
大蜘蛛が、 いた。
腹の赤い紋から、 黒い体液を噴き出しながら。
八本の脚を、 狂ったように、 振り回しながら。
八つの赤い目が、 憎悪に燃えて、 僕を、 見下ろしていた。
霧を失っても、 まだ、 死んではいなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――【城壁】ッ!」
月光の中に、 青い光が、 爆ぜた。
大蜘蛛の脚が、 僕の頭上に振り下ろされた、 その瞬間。
僕と、 その脚の間に、 銀色の鎧が、 割り込んでいた。
剛だった。
盾を掲げ、 全身から、 青い光を放っていた。
王都の東門で、 自分の体を門に変えた、 あの力。
重騎士の【不動】の、 その先。
【城壁】。
黒い脚が、 剛の盾に、 叩きつけられた。
鈍い、 重い、 地の底から響くような、 衝撃音。
剛の足元の土が、 円を描いて、 陥没した。
けれど、 剛は、 一歩も、 退かなかった。
「――陽翔ッ! 霧が晴れたら、 こっちのもんだッ!」
剛が、 歯を食いしばりながら、 笑った。
「難しいことは分からんが、 見えてりゃ、 壁はできるッ!」
「――はあっ!」
月光の中を、 金の髪が、 翻った。
エレオノーラさんだった。
大蜘蛛の、 左側の脚の付け根へと、 一直線に、 駆けていく。
その剣が、 月の光を受けて、 銀色の弧を描いた。
一本目の脚の、 関節。
二本目の脚の、 関節。
三本目。
王女の剣は、 速く、 正確で、 一切の無駄がなかった。
節くれだった黒い脚が、 次々と、 関節から、 断たれていく。
大蜘蛛が、 また、 あの、 空気を引き裂くような叫びを、 上げた。
左側の脚を失って、 巨体が、 大きく、 傾いた。
「――白峰くん、 これっ!」
背後から、 何かが、 投げられた。
小さな、 硝子の小瓶。
受け止める。
澪さんが、 薬草の木箱を抱えて、 木の陰から、 身を乗り出していた。
「――牙の毒の、 解毒薬! 噛まれたら、 すぐ飲んで! それと――」
澪さんは、 もう一つの小瓶を、 握りしめていた。
「――これは、 あいつの目を、 潰す薬! 投げるから、 その隙に!」
澪さんの手から、 小瓶が、 放たれた。
月光の中を、 回転しながら、 弧を描いて、 飛んでいく。
大蜘蛛の、 頭の、 すぐ前で。
シロガネが、 跳んだ。
宙で、 小瓶に、 牙を立てた。
硝子が、 砕けた。
中の液体が、 霧となって、 大蜘蛛の、 八つの赤い目に、 降りかかった。
つんとした、 鼻を刺すような、 刺激臭。
薬草を、 何種類も、 何種類も、 煮詰めて凝縮した、 澪さんの、 薬。
大蜘蛛の、 八つの目が、 一斉に、 閉じた。
巨体が、 悶えた。
残った右側の脚を、 めちゃくちゃに振り回して、 自分の頭を、 掻き毟っていた。
――今だ。
走った。
剛の、 青い城壁の脇を、 すり抜ける。
エレオノーラさんが断った、 左側の脚の、 切り株を、 踏み台にする。
跳ぶ。
大蜘蛛の、 背中の上へ。
剛毛に覆われた、 黒い背中。
その上を、 走る。
足の下で、 巨体が、 悶え、 揺れる。
振り落とされそうになる。
それでも、 走る。
頭の、 付け根。
八つの目の、 その後ろ。
硬い甲殻と、 甲殻の継ぎ目。
わずかに、 柔らかく、 脈打っている場所。
「――白峰氏、 そこだッ!」
古賀の声が、 響いた。
「首の継ぎ目ッ! そこが、 神経の束だッ!」
胸のポケットが、 熱くなった。
剛の壁。
エレオノーラさんの剣。
澪さんの薬。
古賀の目。
シロガネの鼻。
みんなが、 ここまで、 運んでくれた。
――灯を、 分かつ。
剣が、 金色に、 灯った。
ほんの、 淡く。
王都の東門で、 十万の声を受けたときとは、 比べものにならないほど、 小さな、 小さな灯。
けれど、 それは、 確かに、 ここにいる、 五人と、 一頭の、 灯だった。
剣を、 逆手に、 持ち替えた。
両手で、 柄を、 握りしめた。
左腕の、 治ったばかりの骨が、 軋んだ。
構わなかった。
息を、 吐く。
――剣は、 守るために振れ。
金色の切っ先が、 継ぎ目に、 吸い込まれていった。
手応えは、 柔らかかった。
熟れすぎた果実に、 刃を入れるような。
大蜘蛛の、 全身が、 硬直した。
八つの目が、 一斉に、 見開かれた。
その赤い光が、 ゆっくりと。
熾火が、 灰に覆われていくように。
一つ、 また一つと、 消えていった。
巨体が、 崩れ落ちた。
僕は、 その背中から、 転げ落ちるようにして、 月光の降り注ぐ、 落ち葉の上に、 仰向けに倒れた。
森が、 静まり返った。
梢の隙間から、 月が、 見えていた。
白く、 冷たく、 美しかった。
隣に、 シロガネが、 来た。
僕の顔を、 ざらざらとした舌で、 一度だけ、 舐めた。
それから、 僕の胸の上に、 前脚を、 そっと、 乗せた。
その鼓動が、 前脚を伝って、 僕の胸に、 響いていた。
「……ありがとう、 シロガネ」
声が、 掠れた。
シロガネが、 小さく、 鼻を鳴らした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
巣は、 森の、 さらに奥にあった。
巨大な、 倒木の洞。
その入り口から、 奥の暗がりにかけて、 白い糸が、 幾重にも、 幾重にも、 張り巡らされていた。
そして、 その糸の中に。
白い、 繭が、 吊るされていた。
人の、 大きさの、 繭。
一つ。
二つ。
五つ。
八つ。
「――急いで!」
澪さんが、 叫んだ。
「糸の毒で、 痺れてるだけなら、 まだ、 間に合う!」
剣で、 糸を、 断った。
繭を、 地面に、 下ろした。
エレオノーラさんが、 細身の剣の切っ先で、 繭の表面を、 慎重に、 裂いていった。
中から、 人の顔が、 現れた。
中年の、 商人風の男。
目は、 閉じていた。
唇は、 紫色に変わっていた。
けれど。
その胸が、 かすかに、 上下していた。
「――生きてる!」
澪さんが、 男の口に、 解毒薬を、 流し込んだ。
男の喉が、 ごくりと、 動いた。
二つ目の繭。
三つ目の繭。
一つ、 また一つと、 繭を裂き、 解毒薬を飲ませていく。
八つの繭の中で、 生きていたのは、 六人だった。
二つの繭は、 もう、 冷たかった。
僕は、 その二つの繭の前に、 膝をついた。
裂いた繭の中の、 二つの顔。
若い男と、 年配の女性。
その目は、 もう、 何も映していなかった。
「……間に合わなかった」
声が、 震えた。
エレオノーラさんが、 僕の隣に、 膝をついた。
何も言わずに、 ただ、 僕の肩に、 そっと、 手を置いた。
その手も、 震えていた。
そのとき。
洞の、 一番奥。
一番小さな繭の中から。
声が、 した。
「……たすけて……」
あの、 声だった。
森の入り口で、 聞こえた、 あの、 か細い、 子どもの声。
大蜘蛛の真似では、 なかった。
駆け寄った。
小さな繭を、 糸から、 断ち切った。
両腕で、 抱きかかえた。
エレオノーラさんが、 その表面を、 そっと、 裂いた。
中から、 小さな顔が、 現れた。
七つか、 八つくらいの、 男の子だった。
栗色の、 くしゃくしゃの髪。
涙と、 泥で、 ぐしゃぐしゃになった顔。
唇は、 紫色だった。
けれど、 その目が、 薄く、 開いていた。
「……だ、 れ……」
「助けに来たよ」
僕は、 その小さな体を、 抱きしめた。
「もう、 大丈夫。 怖かったね。 よく、 頑張ったね」
澪さんが、 男の子の口に、 解毒薬を、 そっと、 含ませた。
男の子の喉が、 小さく、 動いた。
紫色だった唇に、 ほんの少しずつ、 血の色が、 戻っていった。
男の子の目から、 涙が、 あふれた。
僕の外套を、 小さな手で、 ぎゅっと、 握りしめた。
「……ずっと……よんでたの……」
しゃくりあげながら、 男の子が言った。
「……だれか……きてって……ずっと……」
「うん。 聞こえてたよ」
僕は、 その小さな頭を、 そっと、 撫でた。
「ちゃんと、 聞こえてた」
男の子は、 僕の胸に、 顔を埋めて、 声を上げて、 泣いた。
胸のポケットが、 静かに、 温かかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
夜明け前。
街道沿いの、 焼け焦げた荷馬車の脇で、 小さな焚き火が、 燃えていた。
助け出した六人と、 一人の男の子。
その中の一人が、 焚き火の向こうから、 僕に、 深々と頭を下げた。
四十がらみの、 恰幅のいい女性だった。
解毒薬が効いて、 その顔には、 ようやく、 血の気が戻り始めていた。
「……リンドール商人ギルドの、 マルガと申します。 この隊商の、 長を務めておりました」
マルガさんの声は、 まだ、 掠れていた。
「命を、 救っていただきました。 わたしと、 隊の者たちと……それから、 この子の」
マルガさんは、 焚き火の脇で、 シロガネの腹にもたれて眠っている男の子を、 見つめた。
「ニコ、 と言います。 わたしの、 甥っ子で」
「ニコくん……」
「この子の両親は……あの二人でした」
焚き火が、 ぱちりと、 爆ぜた。
僕は、 森の奥の、 二つの、 冷たい繭のことを、 思い出していた。
若い男と、 年配の女性。
いや。
年配に見えたのは、 霧と、 毒と、 恐怖のせいだったのかもしれない。
「……ごめんなさい」
声が、 掠れた。
「間に合いませんでした」
「いいえ」
マルガさんは、 首を横に振った。
その目から、 涙が、 一筋、 こぼれた。
「あなた方が来てくださらなければ、 わたしたちは、 全員、 あの繭の中でした。
ニコも。 ……兄夫婦も、 きっと、 あの子が助かったことを、 喜んでいます」
マルガさんは、 涙を拭って、 顔を上げた。
「せめてものお礼に、 リンドールまで、 ご案内させてください。
わたしの店に、 お泊めします。
リンドールで、 何かお困りのことがあれば、 商人ギルドの名にかけて、 お力になります」
「……一つ、 お聞きしてもいいですか」
エレオノーラさんが、 静かに口を開いた。
「リンドールに、 異界から来た錬金術師が、 店を開いていると聞きました」
マルガさんの表情が、 わずかに、 曇った。
「……『シュガー・ポーション』、 のことですね」
「シュガー……?」
「大通りに、 ふた月ほど前にできた、 ポーションのお店です。
硝子張りの、 可愛らしいお店で。
色とりどりのポーションを、 甘い飲み物のようにして、 売っているんです」
マルガさんは、 焚き火を見つめた。
「とても、 流行っています。
毎日、 行列ができるほど。
若い娘たちも、 冒険者たちも、 みんな、 あの店のポーションに、 夢中で」
それから、 マルガさんは、 声を、 低くした。
「……でも、 最近、 おかしな噂を、 耳にするんです。
あの店のポーションを飲み続けた人たちが、 だんだん、 ぼんやりするようになって。
仕事も手につかなくなって。 それでも、 あの店に、 毎日、 通い続けているって」
澪さんの手が、 薬草の木箱の上で、 止まった。
「それと、 もう一つ」
マルガさんは、 続けた。
「リンドールの東の、 オルド村。
ふた月前に、 新しい代官様が来られてから、 村の様子が、 おかしいんです。
商人ギルドの隊商が、 村に麦を買い付けに行っても、 売る麦がないと。 畑が、 枯れ始めていると」
マルガさんは、 ため息をついた。
「新しい代官様は、 異界から来られた、 賢者様だとか。
『論理的に正しい農法だ』と言って、 村じゅうの畑のやり方を、
すっかり、 変えてしまわれたそうで」
古賀が、 眼鏡を、 押し上げた。
その奥の目が、 ひどく、 複雑な色をしていた。
「……宇佐美と、 姫野さん、 だね」
僕は、 黙って、 焚き火を見つめていた。
炎の向こうで、 ニコくんが、 シロガネの腹にもたれて、 安らかな寝息を立てていた。
その小さな手が、 眠ったまま、 シロガネの銀色の毛並みを、 ぎゅっと、 握りしめていた。
東の空が、 白み始めていた。
リンドールまで、 あと、 一日。
第27話をお読みいただき、 ありがとうございます。
第2部、 最初の本格的な戦闘回でした。
まだまだ難産でうまく表現できているといいのですが……
次回、 第28話。
いよいよ、 交易都市リンドールに到着。




